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イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ:第40話『燃ゆる太陽に照らされて』感想

混乱と閉塞が支配する鋼鉄の人生絵巻、今週はタービンズ始末。
功を焦ったイオク様の外道働きにより、名瀬さんと姉さんと沢山の女たちが死んで、さてどう始末をつけようかって話ですが。
正直ここ最近、オルフェンズという作品がどこに進んでいくのか掴み損ねているところがあって、何を軸に感想を書けば良いのか混乱していますが、それは書きながら掴んでいくとしましょう。

パッと見の構図としては、ギャラルホルンの腐敗の対象であり最悪の敵になってしまったイオク様が、これまでさんざん世話になったタービンズを無残に轢き潰し、沢山犠牲が出た、という構図。
これまでは無能さでヘイトを稼いできたイオク様ですが、今回は意識して弱者を踏みつけにし、他人の痛みを無視する人非人っぷりをさんざん見せてくれて、『抜けてるけど、どっか良いところもあるバカ』から『外道』にクラスチェンジを果たしていました。
プラントの人たちは『自分の意志でやったわけではない。結果としてMAがそう動いてしまった』という言い訳も出来たけども、逃げ出すタービンズの女たちを背中から撃つ指示、降伏通信を無視する行動はイオク様が意識してやっていることであり、今回の死骸の山はイオク様の殺意の結果です。

ブリッジに守られたイオク様は、確実にタービンズを同じ人間とはみなしていないし、彼女たちの死に対し、部下たちが自分を逃がすために死んだときのような涙は流さない。
人間誰しも、身内の死は一大事、他人の死はどうでも良いという都合の良い鈍感さをもって入るものだけども、イオク様の共感能力のなさ、『ギャラルホルンに冠たる、クジャン家の後継』という物語への酔っ払い方は常軌を逸していて、それが人非人的な虐殺につながっている。
共感能力が欠如しているので、己がやっていることが人道に対する罪だとは認識しないし、出来もしない。

それは厄災戦以来、歪な形で権力を積み上げてきたギャラルホルンの突端であり、踏みつけにされる連中の痛みが一切わからないからこそ、例えばコロニーでの反乱でそうであったように、どれだけ死体が積み重なってもギャラルホルン側の心も体も痛まない。
イオク様が代表する無神経さと残忍さが覆いかぶさる形で、あの世界は成立している。
だから、非常に悪趣味で極端な形で死の道化に祭り上げられているとしても、イオク・クジャンは世界から隔絶されたエイリアンではなく、あの世界の歪みを人間の形にまとめ上げた、ありえるべきキャラクターではあると思う。

ジュリエッタは踏みつけにされるカーストにいたはずの女で、冷たい無関心、階級のギャップを乗り越えられる立場にいるのだが、過去は顧みず弱者の立場から引っ張り上げてくれたラフタルに報いることだけを望んでいる。
素敵な王子様が、ごみ溜から自分を引っ張り上げてくれたシンデレラ・ストーリー。
イオクが貴族主義の残忍に浸っているように、ジュリエッタもまた世界を物語化し、分離された階層への共感を麻痺させることで、シビアな現実をなんとか生き抜き、自分の立場を確立せんとあがいている。
彼女のガラスの靴は人殺しの馬車でしかないが、(他のキャラクターが殺人を当然視するように)そのことを嘆く様子もなく、強くあろう、沢山殺せる自分であろうと呟きながら、イオクの隣でシケ面しつつ批判を言葉にはしない。
そんな彼女の有用性が、今回の敗北でどう傷つき、その痛みから逃避するために彼女が何を選ぶのかは気になるところだ……阿頼耶識なのかね。


さて。
イオクとジュリエッタに特徴的である共感性の欠如と、特定の物語の過剰な信奉というのは、集団として鉄華団が兼ね備える特徴でもある。
『殺して良い奴』と『家族』を明確に区別し、実際に『家族以外』の血を数えることで鉄華団は出世してきたし、その道が犠牲を必要(ビスケット)とする帰らじの路であり、ついていけない奴(タカキ)が当然出てくる上に、引っ張ってるはずのオルガすらその苛烈さに納得していないということは、これまでさんざん描写されてきた。
階級差が固定され、搾取するものと搾取されるものの間に道が閉ざされ、どこにも逃げ場所がない世界。
鉄華団の家族主義とはそこで生き抜きサクセスするための生存戦略だったわけだが、最下層民のみならず、イオクという階層のトップもまた、共感性と想像力を麻痺させることで己の信じる物語を実現するという方策を取った。
世界のどん底とてっぺんで、奇妙な相似形が完成したわけだ。

今回イオクがやった虐殺は、鉄華団もやる可能性がある。
というか、カメラが犠牲者側に入り込んでいないだけで、これまでの鉄華団が果たしてきたサクセスの、餌になった側から見れば、同じように無情で冷たいものなのだろう。(ここで『鉄華団は主人公で特別だから』という保護をかける程には、僕は彼らに入れ込んでいないし、そうなるようにこのアニメも己を運んできたように思える。『家族』のグロテスクな臨界点をわざわざ何度も写す視座は、主人公を主人公故に特権化する意識の薄さ、冷静で理性的な筆運びを証明していると思う)
降伏信号を無視したように、対話のチャンネルを自ずから閉じ、『殺して良い奴』の言葉は最初から聞かないというスタンス(これは三日月に顕著だが、組織として鉄華団アイデンティティを確立した二期以降は、構成員に共通するものだろう)の先に待っているのは、利益調整と妥協が一切ない潰し合いだ。
そういう危うさの間に、新しい『家族』を向かい入れたタービンズがあり、断絶した世界に一条の光を探すクーデリアがいるのだが、前者は滅び後者は目立たない。
今回イオクが意識しない踏み込んだ、人間として取り返しが付かない道に、鉄華団は半分足を踏みれているし、そうさせているのはこれまたイオクと同じように仲間大事、自分大事の愛情故だ。

腐敗した世界のてっぺんと完全に同じ理屈で動く以上、鉄華団はこの腐った世界をひっくり返し得ないし、最初からそんな大きなことは誰も望んではいない。
己の存在証明を果たし、内部化された物語にふさわしい活躍を手に入れ、アイデンティティを完成させる。
メンツや誇りのために生きたり死んだり、死ななくても良いはずの人たちを銃弾で黙らせているという意味で、鉄華団とイオクは多分同じだ。
タービンズの死に涙を流す人々が切り取られ、名瀬の特攻はムード満点にライトアップされるが、僕はどうにも、そういう部分が気にかかる。

タービンズの死、名瀬の死への報復として、鉄華団はイオク達アリアンロッドとの闘いを『自分のもの』として受け止めていくだろう。
それは腐敗したギャラルホルン上層部に、暴力革命によって風穴を開け、己が信奉する英雄物語の再誕を求めるマクギリスと、立場を同じくしていくということだ。
利益共同体だったはずの『火星の王』は、名瀬を生贄にして共感共同体へと変質し、一期でたっぷり示されたように非の打ち所のない人非人であるマクギリスと、オルガ率いる鉄華団は次々同質化していく。
それもまた、一つの引き返せない道なのだろう。

バリストン親分がテイワズを動かさなかったのは、己の利益を確保したい欲得と同時に、タービンズというできの悪い『家族』を切り捨て、より多くの『家族』を守ろうという家長としての判断の結果でもある。
『家族』を模した犯罪組織という、大きな『身内』の中にも軽重があり、極限状態に追い込まれてしまえば、簡単に重い軽いがつく。
なんだか"91DAYS"めいてきたが、タービンズテイワズの冷徹な関係が示しているのは、『家族』すらも絶対ではないという当然の、しかしシビアな判断であり、それはオルガ自身が名瀬の救援に迎えず、組織として言い訳の立つ手助けしかできなかった鉄華団と共通するものだ。


『家族』以外を殺すことでしか生存できないほど厳しい世界なのに、『家族』すらも相食み、生きる価値を勝手に値札付けして、共感を切り捨てながら殺す。
今回見えたものを並べてみると、作品世界のそういうシビアさというか、現実にも存在するどうにもならない部分へのニヒリズムみたいなものが、浮かび上がって見える。
夢は見てはいけないし、人に救いはないし、共感も理解もありえないという諦め。
世界をひっくり返すのは畢竟暴力であり、思いの強さや清らかさ、真実はパワー足り得ないという現状認識。
そういうものだ。

鉄華団の子供たちが、ニヒリズムを制度化し固定化してしまう政治・経済システム、ギャラルホルンをひっくり返す大望を抱いていないことは、これまで何度も描写されてきた。
名瀬が正しく共感し理解したように、彼らは素っ裸で戦場に立たされ、己が何者かを証明することなく死んでいくのに耐えられないだけであり、彼らに成り上がりの物語を与えたオルガも、生き急ぎつつ本音は『早く楽になりたい。アガリを迎えたい』のだ。

世界の倒壊を目指す同盟者たるマクギリスも、別にギャラルホルンが『正しくない』からぶち壊したいわけではないだろう。
己が背負う英雄の理想からあまりにかけ離れてしまったから、『美しくない』から、友を生贄にしても、クソみたいな世界をぶっ壊したくてたまらないのだろう。
それは、何度も言うが、目の前で死んでいく女たちの悲鳴も、助けてという声にも耳を貸さず、己の脳内で鳴り響くクジャン家の物語で脳みそを一杯にしたイオクと、多分同じ生き方だ。
今このアニメで生き残って、舞台で踊っている人たちの殆どが、己の(もしくは『家族』の)頭のなかでしか響かない音楽で世界を小さく切り取って、動物のように殺すか生かすかしかない世界をぶつけ合っている。
世界は確かに、そんなもんなのかもしれない。

『正しさ』には一切興味がない、クソの海で溺死しそうな状況でちょっとでも顔を上げたい男たちは、『正しさ』ゆえに女たちを守ろうと頑張ってきた男の死体を通じて、関係を深めていくだろう。
鉄華団は引き返せない道に、名瀬との思い出故に突き進んでいくだろう。
人間は所詮動物で、己の生存のみを追い求め、文化も物語も言葉も共感も、己一人の存在を慰める生存のための兵器に過ぎない。
今ある材料で話の先行きを占うと、こういうニヒリズムを肯定して終わってしまいかねないのだが、僕はそういうのは嫌だ。

眉目秀麗な男の子たちを裸に剥いたり、バカをぶっ殺しまくったり、死に瀕して生きたいと呻く無様な姿を見せつけられたり、このアニメをたっぷり彩ってきた悪趣味が、現状のどうにもならない部分を確認しつつ、それををひっくり返すためのテコであると信じたい。
あくまで、泥に埋め尽くされた世界ではなく、その中でひっそりと咲く一輪の可能性を描くために、製作者は作品世界をどうしようもない泥で埋め尽くしてきたのだと考えたい。
己が生み出した世界と物語の暴力性の過激をちゃんと制御し、人間の業として切り取った想像力の欠如に風穴を開け、なんかちょっとこー、犠牲はたくさんあっても前向きな結論を出してくると思いたい。

そういう希望があるからこそこのアニメを見てきて、しかし鉄華団の関与できない状況で運命が動きまくった今回、それがかなり揺らいだのかもなと、ここまで書いてきて思った。
思っていたより全然、僕はナイーブで普通の視聴者だったらしい。(無論、上に書き連ねたような露骨で下世話な部分『だけ』を楽しんでいるわけではない、僕は『マトモ』な視聴者なんだ、と叫んでおく自己防衛の意味合いも、この文章には多数あるけども)
死亡フラグが云々と茶化すことで名瀬の死を軽くすることも出来るけども、虐げられる女に心を寄せ、自分に出来る範囲で女たちに生きる道を用意し守ってあげた名瀬という男が、その偉大さに何の目も向けられないまま死んでいってしまったことが、とても悲しいのだ。
それは名瀬個人の死であると同時に、人間個人が、もしくは人間集団が抱え込んだ物語が対話可能であり、共感可能であるかもしれないという希望が、大きく損なわれた気がするからだろう。

『女を守る』というクエストを見つけ、世界の仕組みを変えずとも自分の領地を広げて、自分に出来ること、他人のためになることを積み重ねていった名瀬は、成り上がりの果てにオルガが成り得たかもしれない、一つの可能性だったはずだ。
その営みすべてが無駄だったわけではないが、沢山人は死んでしまったし、イオクの凶行は止られなかった。
バランスが取れて、マトモで、少しは人間らしく自分(もしくはその延長線上としての『家族』)のことばっか考えないような生き方が、今回一つ閉じられたわけだ。
名瀬はオルガに『家族のことだけ考えろ』と言っていたけども、そういう彼が敵だったオルガを身内に引っ張り込み、死に瀕してもなお沢山の人のことを考えていたのは、事実と言っていいだろう。

別に文句なしのハッピーエンドにしろというわけではないし、それを可能にするにはこのアニメ、殺しすぎて殺されすぎている。
ただ、ニヒリズムに納得して言葉を失い、物語の意味が消失した物語を肯定したまま、お話を終えてほしくはないと思う。
どのような結果にたどり着くにしても、作品世界の中で生きて死んでいった人たちの命にほんの少し報いるような終わり方が良いなと、僕は思う。
現実の揺るがなさに膝を屈するコトが創作のリアルを保証するわけではないし、残酷さを弄べば真実に近づいていくわけでもなかろう。

おそらくかなりの部分、視聴者をショックで殴りつけウケを取るべく選び取った露骨さをどう使いこなし、『家族』の檻の中で共感を殺している獣たちを、どこに導いていくのか。
筋が見えた気もするし、その筋を付ける為に名瀬が死んだ気持ちも強くあるが、今回幻視したどん詰まりがすなわち作品のエンドマークではないと、軟弱にもまだ信じていたい気持ちがある。
それを証明するためには、引き起こされた虐殺にどう向かい合うか、今回掘り起こされた死と不毛の荒野からどんな果実を実らせるかが大事な気がする。
さて、どうなることか。
不安でもあり、楽しみでもあるのだろう、多分、僕は。