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イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ:第41話『人として当たり前の』感想

こどもの行く道、獣道、灯りのない道、あぜ道荒れ地、袋小路のどん詰まり。
鉄血のオルフェンズ、第41話です。
沢山人が死んで、それでも悲しみを乗り越えて新しい道に進もうと思ったところで、希望をたくさん持ってた女の子がぶっ殺されて、男の子たちが引き返せない道に真っ逆さまに落ちていく。
もともとどうにもやりきれないお話で、色んな人が沢山無残に死んでく話なんですが、それにしたってとにかくシンドい展開でした。

今回のお話は先週の惨劇のダメージと、そこから立ち直ろうとする人たちの強さをラフタが背負い、彼女がへし折られることで世界の無情さ、『敵』であるジャスレイの人非人っぷりが強調される展開です。
ラフタの殺し方は非常に丁寧に積み上げられたもので、一期最終戦で切らなかった札を、最適の他イミングであっさり(だと思えるように)切った感じがあります。
彼女の死がひどくあっけなく、残酷で、痛ましいからこそ、親に噛み付いて社会的基盤を自分から破壊し、マクギリス以外に寄る辺を一切失う鉄華団の選択が、必然に見えてくる。
あれだけのことをされて、黙って因果を飲み込んで強い奴らに巻かれるような生き方を、彼らにして欲しくないと思える。
引き返せない道に歩んでいく主人公たちに、視聴者の感情をシンクロさせる手際はまさに見事の一言です。

ラフタは今回、先週死んだ名瀬が守ろうとした『人として当たり前の』価値を背負い直す強さを、幾度も見せてくれます。
それは読み書きを覚え、まともな食事を取り、素敵なパートナーと恋をして、搾取されない労働によって社会的承認を手に入れていく、まともな生活。
弾除けとして扱われてきた鉄華団が大人をぶっ殺し立ち上がったのも、そんな生活を夢見たからだし、今回惨劇の舞台となった他ならぬ歳星で、そういう充実感を楽しんだ話も、一気にはありました。

タービンズ鉄華団、兄弟盃を交わした『家族』が同じように夢見た『人として当たり前の』生活は、ジャスレイの嫉心とそれに動かされたイオクの暴力によって、無残に座礁しました。
名瀬の遺体と尊厳は帰ってこず、陰謀の尻尾を掴み正義を明らかに出来ないまま、名瀬の子どもたちは良いように侮辱され、踏みにじられ、殺される。
ギャラルホルンによる支配体制が重くのしかかり、『人として当たり前の』生き方を万人が手に入れられない世界の中で、それでも人である以上望み続けた、『普通』に幸せな生き方。
今週のラフタは、それがあまりにも高望みなのだと視聴者に教える、太陽に近づきすぎたイカルスのような存在なのかもしれません。


今回の殺しの見事さは、感情の鮮度を幾度も揺さぶり、安心と衝撃の間で視聴者を振り回す手腕にあります。
全開何も出来ないまま無残に踏みにじられた、名瀬や女たちの死は、僕ら(というか僕)にとって大きな衝撃です。
死人が帰ってこないなら、せめて彼らが夢見た『普通』をなんとか取り戻し、死者の願いが無にはならないと思いたい。
葬式という儀礼はそういう思いを受け止め、共有し、喪失の痛みを治癒していく機能を持っていると思うわけですが、そういう大切な場面をジャスレイたちは汚してくる。
そこで愚弄されているのは、死者の尊厳であると同時に、それを受け継いだ生者の意思、彼らを応援したい、少しは『まとも』な暮らしがあるのだと信じたい視聴者の気持ちでもあります。
見事なヘイトアーツですね。

ジャスレイの嫌がらせにもめげず、タービンズの生き残りたちは新しい生活の手段をなんとか掴み、殺すの殺されるのの支配する荒野から、巧くドロップ・アウトする道筋を作ります。
その中核にはひどく公正な福祉への意思があったとしても、外見上は名瀬のハーレムにしか見えないタービンズの鎖から、ラフタを解き放ってやろうという思いやりも、そこにはある。
それは『人として当たり前の』感情であり、『家族』の最も善き側面の一つといえます。

この上昇気流に押し出されるように、ラフタは明宏と向かい合い、酒という嗜好品を口にし、いい雰囲気の店でじっくり時間を使う贅沢を許される。
死と蹂躙に満ちた世界にも、安らぎと灯火があるのだと見せるかのような衣食住の描写は、やはり一期九話で少年たちが初めて、まともなメシと帰るべき場所を手に入れた時の喜びと響き合っているように、僕には思える。

ヒューマンデブリやジャスレイのように、厳しい世界の理不尽さを受け入れ、他人の命も自分の命も一切価値がない、『人として当たり前の』喜びを求めてはいけないと思うことで自分を守る生存術は、この世界だと多分普通なんだと思います。
物語が始まる前の鉄華団もまた、そう思わなければ生き延びられない荒野に放り出されていたわけですが、銃を取って反逆し、『人として当たり前の』喜びを諦めずに、前に進んできた。
犠牲もあったし、命を踏みにじりもしたし、間違えもしたし何も掴めてはいない。
それでも、人間であることを諦めなかった少年たちが何かを掴んだ時、僕はとても嬉しかったし、ラフタが名瀬の死(に象徴される、ヒューマニティが無条件に成立しない極限化した世界)を踏まえてなお、明宏への恋にときめく姿に、安心したりもした。


死者の思い出を抱え、絶望に落ちずに生きていこうとするラフタを抱きしめなかった明宏は、果たして間違っているのか。
僕は放送以来ずっとそれを考えているのですが、「自分、不器用ですから」を絵に描いたような明宏が、恋という形でラフタと繋がることは、なかなか難しかったとは思います。
責任感と優しさを巨躯に押し込めつつ、戦闘機会として生き延びる以外に道がなかった彼にとって、子を育むことに繋がる女性との恋愛は、よくわからない……というか、夢のまた夢のようなあやふやなものだったのだと思います。
そういう良く分からない形よりも、戦友として人間としての『敬意』を言葉にし、『人として当たり前の』喜びを諦めない同志として、ラフタを見定めた彼の真面目さは、やっぱ良いな、と思います。

もしなんとか二人の恋が成就したとしても、それで世界の根本的な厳しさが解消されるわけでもなし、それにすり潰される形で死んだラフタは、やっぱ死んでいた気もします。
考えても考えても詮無いことだし、結局彼女の恋が成就しない徒花になってしまった事実は変わらないわけですが、この世界は多分、恋の奇跡で揺らぐほど優しくはない。
だから、ありえもしない奇跡に思いを馳せるよりは、あの時自分に差し出せるいちばん大切なものを、愚直に無骨に差し出した明宏のことを、僕は褒めたいと思う。
やっぱり、君は間違っていない。

ここで『間違っているのは世界の方だ』といえるのは、この作品の中でマクギリスだけであり、皆少しずつの間違いと業を背負いながら、ある意味人間らしく生きているのが鉄血世界です。
ジャスレイは己の野望のために、他人の小さくて大切な願いを思い切り踏みにじりますが、それが彼なりの『人として当たり前の』生き方なのでしょう。
鉄華団だって、『人』の想像力が及ぶ範囲は相当に狭く、自分たちが『普通』に暮らすために踏みにじってきた命の量は相当なものです。
どっちもどっちで最悪だ、ってことが言いたいわけではなく、このアニメの作品世界は、視聴者であり現在日本で人権を擁護されつつ生きているぼくらの『普通』だとか『当たり前』だとかがありえないほど高価で、そういうものへの切なる願いを諦めなければ生存できない、それを獲得したければ他人の喉笛を噛みちぎる以外に手段がない(としか思えない)世界なのだ、ということだと思います。

ラフタが『生きる理由』はじっくり時間を使って丁寧に描かれますが、それが略奪される瞬間は非常にあっさりと、ともすれば雑に映るほどあっさりしています。
それは"仁義なき戦い"に代表される実録ヤクザものの基本文法を踏襲した演出であり、キャラクターたちが倫理の荒野にいて、隣人はいつでも銃を抜いて殺しにかかるという厳しさを際だたせるための対比です。
あんなに大事なものをたくさん持っていたのに、苦しくて悲しいことが沢山あって、それでも前を向いて生き延びようとしていたのに、人としてあるべき姿を体現して明宏に尊敬されていたのに、ラフタは死ぬ。
生き延びるべき理由、物語をどれだけ背負っていようが、そういうものには目もくれず、モノのように人は死ぬ。
生と死、希望と絶望のアンバランスな対比は、獣の世界の基本的なルールを、非常に効率的に教えてくれます。


ラフタが噛みちぎられた獣のルールから逃れるために、大人を殺し、名瀬の盃を受け、長い地球への旅を歩き終え、沢山仲間が死んだ鉄華団
そんな彼らが『理屈なんてどうでも良い。目の前に立つやつはみんな敵で、みんな殺す』という獣のルールに立ち返ってしまう決定打がラフタの死だというのは、ある意味必然だし、だからこそ悲しくて悲しくて、やりきれない。
ヒトではなくモノとして、何も生み出さないまま死んでいく存在であることに抗うために立ち上がった彼らは、名瀬に導かれて手に入れたテイワズという社会集団に牙を向き、『家族』であることを止める。
『家族』以外を排斥してきた彼らを、テイワズという『家族』とは認めないジャスレイが排除し、圧力をかけた結果この結末にたどり着いているのも、なかなかの地獄ではありますね。

オルガが冷静に理解しているように、ジャスレイを殺したからといって、求めていた『人として当たり前の』暮らしや正義が達成されるわけではありません。
次に来る戦闘が、色々摩擦はありつつも守ってくれていたタービンズという『家』との繋がりを完全に壊してしまう以上、これまでの物語が無に帰したかのように、鉄華団は素裸の野良犬に逆戻りする。
それを分かってなお、オルガは殺しを命じ、もはや己の判断で降りたり死んだりする意志が残っていない団員(『家族』)たちは、『頭』であるオルガの命令を待つ。
猟犬の集団のように、もしくは社会性昆虫のように、巣の内部だけで通用する価値観に魂を縛り付け、己の言葉と神経を失った『家族』。
言葉ではないもので繋がった(という確信/狂信を共有する)鉄華団は、ラフタが背負っていた、そして自分たちがかつて夢見た『人としての当たり前』を捨て去って、殺したり殺されたりする場所に飛び出していく。


それは多分、鉄華団にとっては不帰の道であり、マクギリスにとっては僥倖です。
鉄華団が自分以外に寄る辺がなくなり、社会変革への理想を共有していなくとも、運命を共有してくれる戦力になってくれることは、マクギリスにとっては願ったり叶ったりでしょう。
今回、おそらく改革の意志を共有するだろう数少ない同志が顔を見せていましたが、マクギリスは彼らもまた目的のための道具だとしか考えていない。
冷静に冷徹に、カルタやガエリオに見せたような『普通』の情の無さを発揮して、彼らの、そして鉄華団の命を使い潰しながら、ラスタルが代表する既存の秩序に反旗を翻すでしょう。
彼に『家族』はいないのです。(アルミリアがそうなれるかは、今後の描写次第かな)

オルガだって、そういうマクギリスの底は分かっている。
何しろ一期では敵の親玉だったわけで、彼が『とっとと上がって楽になりてぇ、せめて人間らしい暮らしがしてぇ』というコンパクトな(そして実現するのがとてつもなく難しい)願いを共有していないことは、ちゃんと把握しているのでしょう。
しかし集団の長として、成り上がりの一青年として、厳しい世界の中で取れる少しはマシな判断を積み重ねた結果、『アガリ』は大きく遠のき、帰るべき家はなくなってしまった。
一緒に死んだり生きたり出来る『家族』としての信頼(狂信)はなくとも、利害だけで繋がることが出来るというのもまた、厳しい世界を生き延びるための方法論の一つなのです。

既存秩序の倒壊と浄化を望むマクギリスは、非情な理想主義者ともいうべき存在であり、鉄華団の苛烈さ、純粋さにある種の夢を見ているようにも見えます。
自分の手の届く範囲ではなく、世界全てを『人として当たり前の』形(とマクギリスが狂信するもの)に戻すためには、尊敬するアグニカ・カイエルが示したような混じり気のない精神性は、捨て去らなければいけません。
友人も自分に惚れた女も、部下も同志も家族も全て利用し、使えるものは全て使って状況を作る賢しさというのは、マクギリスが望んで手に入れたものではないのかもしれません。
可能であれば鉄華団のように、三日月のように、目の前の獣道だけを歩いて行くシンプルな(ように見えて、嫌というほど葛藤と痛みが詰まった)人生に、叶わない憧れがあるのだと思います。

しかしその愚かさに溺れてしまえば、マクギリスの望みは敵わない。
オルガが過去と話しながら確認した望みとは違い、マクギリスは人間的な温もりや感情の充足といった『普通』の喜びではなく、自分から離れた社会全体を変革し、世界を塗り替えたいという望みを持っています。
それがマクギリス個人のエゴにどれだけ結びついているかは、未だ描写がないところですが、ともかく『楽になってアガリ』とは違う場所を持つ彼は、鉄華団には、オルガの『家族』にはなれない。
それでも、少なくともマクギリスの側からは、利害を超えた異常な熱が関係の内部に篭っているように、今回は思えました。


恋とその先にある生殖から、ラフタと明宏が離れていったのに対し、葬式という死の場所で赤ん坊の生気に触れた三日月は、思い出したようにアトラと語り合います。
あれは緊張感の抜きどころ、緩急の『緩』として用意された笑いどころだとは思うですが、そこにもやっぱアトラと三日月の動物的な異質性というか、『人として当たり前』ではない性≒生意識が反映されているように、僕は思う。
血まみれの鉄華団を見て判るように、『家族』であることは暴力性と差別を内包した危ういもの(少なくともこの作品においては)だし、子供が生まれれば無条件に幸せな『家族』が生まれるわけではないということも、二人の悲惨な幼少期が如実に示している。
死期を悟った獣のように、性と生について初めてアプローチを見せた三日月は、そのままオルガのもとに漂流して行って、『どこくらい殺すのか』と聞く。
それは、恋と死が無残に癒着し、簡単には剥離させてくれない世界を示したラフタの姿の、もう一つの影でしょう。

三日月は食事に触れ、酒に触れ、アトラという女に触れ、クーデリアを通じて読み書きに触れ、殺し合いの中で人と人の対話に触れてきました。
これはラフタが語り、明宏が敬意を示した『人としての当たり前』なわけですが、そういうものに親しみを感じつつ、全てに背中を向けた結果として、今の三日月がいます。
オルガのための殺す装置として己を任じ、そのためなら半身の自由を失っても、(少なくとも表面上は)気にしない三日月が、アトラの恋(もしくは妄想)で足を止めず、オルガに殺戮の程度を聞きに行くのは、なんというかな、鉄華団とは別の意味で不帰点を超えた印象を受けた。
明宏が恋を掴み損ねてラフタを取り逃した(と見える演出がされている)ように、三日月も性と継承について接近しつつ、それを取り逃して獣道を逆さまに落ちていくような、そんな気がしたんです。

三日月は第1話からしてそういう危うさを撒き散らしていたし、もともとそういう動物的人間なのでしょうけども、同時に非常にかすかですが、そうではない可能性というのもちらほら見せていた。
文字を学習し、植物を育てること、殺して奪うこと以外に興味を向けるシーンが、確かにあった。
それは結局何かを生み出すわけではなく、火星の農場でなったのは病葉でしたが、それでも『普通』の人間らしさに接合していた部分が、どうしようもなく次の戦いで切れてしまうような予感を、僕は感じています。
もともと三日月はそういうキャラで、この世界はそういう世界で、なるべくして流れ着いたんだよ。
そういう風に納得している自分もいるんですが、今回のラフタの死の効果と必然性に頷きつつ、スゲェしんどかったのと同じように、まだ三日月が殺戮の装置として死ぬ道以外の未来を、なまっちょろくも期待したくなるわけです。


とまぁ、こんな風に今週描かれたものを見つめ直してみたわけですが、そうすればそうするほど、見つけたものをどこに配置すれば良いのか、解らななくなる。
もともとこのアニメは全体像が見えにくいというか、落とし所がわかりにくいアニメではあって、何しろ主人公たちが非常に狭く厳しい場所にいて、未来への見通しが見えないからこそ足掻く物語ではあるのだから、ある程度は必然でもある。
しかし、厳しい世界を描きつつ(もしくは、描くからこそ)、終わった後に何を残したいのかというヴィジョンは物語の中に埋め込まれるものだし、そういうガイダンスがないと見終わって『ああ、このお話はこういうことだったんだ』『こういうことが言いたかったんだ』という納得は生まれにくいでしょう。

そういう物語的な因果関係が破綻してしまった世界にこそ、鉄華団は生きているのであって、剥き出しの生を追体験させるべく、個別の物語要素を繋げる連関はあえて作っていない。
もしくは、ハードな制作体制に追い立てられるように、行き当たりばったりで作っている。
もしくは、見せたいのは厳しい世界のルールを悪趣味な角度から楽しむ一瞬の娯楽であり、ただ通り過ぎていく非日常、映像化されたテーマパークというべき娯楽でしかない。
各エピソードが全体の中でどう機能するか、イマイチ納得できない疑問には、色んな説明がつくでしょう。

個人的には、見取り図が存在しないというよりは、それを隠して最後まで引っ張る力に変えている、と思いたいところではあります。
イオクとオルガの対比、ラフタの死というカードの効果的な切り方、交錯する性と死あたりは、冷静な計算がないと埋め込めない機能的演出だし、それを見て取れている以上、落とし所はあるのではないか、と思いたい。
こればっかりは最後まで見なければ分からないし、作品全体の方向性に疑念が生まれてしまっている以上、何を詰まれても『なにかあるんじゃないか?』と安心できないのは、ある程度しょうがない気もします。

この作品が切り取るものがあまりに苛烈、かつ鉄華団(とその隣接者)以外の描写が薄く単機能になりがちなので、鉄華団を包み込む非人間的な世界に対し、彼らが結局何も出来ないまま終わってしまうのではないかな、みたいな予測が、どうしても消せない。
そうなると、彼らが求める歪な『人としての当たり前』が最終的にどういう形で表現されるのか、薄っすらとぼやけてくるし、そうなると種々のエピソード(神話の戦いめいたMA戦とか、無力さだけが目立った地球の戦いとか、鉄華団のサクセスとか、それを横合いから殴りつける非情な失敗とか)が結論をどう構成するのかも、いまいち推測できなくなる。
そういう混乱自体を楽しめという意見もあるんでしょうが、僕はまぁ、そこまで強靭なエンタメ精神を持っておらず、物語からは『俺はだいたい、こういう感じだから』というメッセージを送ってほしいな、と思ってしまうタチなわけです。

今回、鉄華団を取り巻く世界の非情さ、やるせなさ、どうにもなさは、ラフタを殺すことでよく伝わりました。
その表現は非常に上手かったし、計算されたショックを活かし、視聴者の感情を『殺す』方向へとドライブさせているのは、よくわかります。
ではこの作品は、世界が変わらないニヒリズムを是認し、鉄華団がいやいや選び取っている『殺し』という方法論を肯定していくのか。
見えないのはそこです。
優れた手際で的確に掻き立てた感情(それは怒りだったり、萌えだったり、カッケー!だったり、エロだったり、色々形はありますが)が、何のために励起され、そのうねりは物語と視聴者をどこに連れていきたいのか。
それが見えない(正確に言えば、自分が見た『こういう感じかなぁ』という願望混じりのヴィジョンを信じきれない)ことが、今回のみならず、過去のエピソードすべてをどこに置いたものか、僕をずっと悩ませています。

わからないまま、僕はこのアニメを最後まで見ると思います。
終わってみた時、ここに描いた文章が的外れのトンチンカンな寝言になっているのか、真実の一部に噛み付いた言葉になっているのか。
それを確認するためには、見続けねばならんのでしょう。
来週が楽しみですね。