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イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

昭和元禄落語心中 -助六再び編-:第5話

親子舞台は明暗の四辻、生死が入り交じる黒白の鯨幕、ドロの音に誘われて見事助六再び舞い降りて、さて三代目、師匠の躯を前に、進むか引くか。
落語心中二期、第5話でございます。
朗らかに真っ直ぐに、自分を横において他人を愛する助六の『我』のない落語と、一度も落語を楽しまず、苦界で生き延びるための方策として極めきった八雲の『我』を貫通しきった落語。
エロスとアガペが交錯する親子会を前に死臭と生の輝きが交錯し、そして演じられる"反魂香"。
生き死にの際を紛らわす妖しい煙に誘われ、蘇った過去が八雲を死地に引きずり込む中で、見え隠れする過去と現在、そして未来。
生きる人も死ぬ人も、皆崖っぷちに立つ緊迫の第5話でした。


もともと『敷居をまたぐ』表現がビジュアル面でも多用され、人生の様々な場所にある境界線、それを越境しつつ混じり合う業の不可思議について語ってきたこのお話らしく、今回のお話には様々な境界が引かれています。
客席と高座の境界線、高座と楽屋の境界線、現世と彼岸の境界線、『あなた』と『わたし』の境界線。
"反魂香"というお話自体が、男の生者と女の死者の間の線引、ハイコンテクストな教養と文化を背負う重三郎とマヌケな町衆たる八っつぁんとの対比で成立している話であり、長屋の巷で二つの文化が混じり合い、混じりきらないことで生まれる妙味を楽しむ落語でもある。
対立し混じり合わないようにみえる二つの要素は、しかし人生という舞台の中でどうしても交錯し影響しあい、哀しみや喜びを様々に生み出しながら、浮世をかき回していきます。
その結果として生があり、死があり、それがまた一つの原因にもなる。
死人が蘇り生者の足を引っ張る今回は、時系列や因果もまた逆しまに入れ替わり、様々な境界線が越境されていきます。

今回の山場はやはり、"反魂香"の筋を追いかけるようにみよ吉の幻影がふわりと蘇り、八雲の生死が際にかかるシーンなわけですが、それを盛り上げるように、そして生き死にの際を常に追いかけてきたこのお話を再確認するように、様々な明暗が盛り込まれています。
八雲が枕に使った『何事にも陰陽というものがございます』という言葉は、三味線と鐘、色気と死臭を対比させ"反魂香"へも道筋を立てる近景としての使い方だけではなく、生者と死者の混ざり合う浮世を常に見つめ、その極限を何度も描いてきたこのアニメそれ自体を、全体的に照射する言葉でもあります。
与太郎が主役を背負う二期は、彼の光のオーラが照射されて明るさが話しの基調になっていますが、一期を思い返してみるとどうにも暗くて、生きたいと願いつつどうしても死や破滅に引っ張り込まれてしまうタナトスが、お話全体を覆っていました。
一気に置き去りにしたはずの死人共がムクリと蘇り、生者である八雲の足を引っ張る今回は、一期のテイストが蘇り、挑戦してくるお話ということも出来るでしょう。

境界線は混じり合う場所に、そして越えてしまえば帰ってこれない場所に引かれるものです。
最も分かりやすい一線というのは生き死にの線でして、死んだ人間は人としては帰ってこない。
ただ、死んだ人間への未練を抱え込み、秘密と嘘で身を固めた半分亡者は、発酵したエゴに導かれるように死人を見ることもあります。
テープという形で残る二代目助六達、過去の名人たちの話もまた、時代や生き死を超えて残る越境物といえます。
しかしどっちにしろ、三途を越えててしまえば肉体は滅び、己の意志で前に進んで人生を変えていける存在としての歩みは止まってしまう。
それは厳密に引かれた線であり、時間が持つマイナスの力たる『老い』や『衰え』に支配された結果弱った八雲はそれを越えて、助六の顔をした死神を見たわけです。
そっから引き戻ってくるかは分かりませんが、まぁメタ的なこといえばまだ五話ですし、自分の未練の始末も落語の行く末も定まってないこのタイミングでは、線を超えきることは無いと思います。


今回のお話は様々な意味で『生死の境を彷徨う話』なんですが、死の中にも生があり、モノクロームの中にも色が宿っているという複雑な捉え方が、これまでのお話と同じように基調にあります。
心臓を抑え死を眼前にしながら、八雲はかつてひどい別れ方をした女の色香に惑う。
"反魂香"が死の気配が濃い物語でありつつ、同時に高尾と重三郎、八っつぁんと女房という男女の恋物語でもあることを背景として見事に活用しつつ、八雲の終わっていない未練、消えない色香が顔を出します。
舞台に倒れ伏した時八雲が見たのは、娘としての小夏なのか、妻になり得たかもしれない人としてのみよ吉なのか、はたまた妻としての小夏なのか。
その際もまた、風にたなびく煙のように曖昧にぼやかされ、死の淵へと沈んでいってしまいます。

考えてみりゃ"反魂香"自体がもともとは上方のもので、江戸落語(つまりこれまでこのアニメの中で描写された落語)の中ではめったに使われなかったハメモノを効果的に使う、越境的な題目です。
和歌や能といった古典的教養を前提とした重三郎のクドキと、その意味がさっぱりわからない(なりに、消えた女房への恋心という芯はしっかり掴まえている)八っつぁんが出会い、玄妙な鳴り物と煙の中で、不可思議な出会いを果たす。
これは『教養も何もない犯罪者と、当代随一の名人との出会い』という、このアニメ自体の始まりも照射する構図であります。
死の裂け目が作品全体を折り曲げにかかる今回の見せ場に、この演目を選ぶ目の確かさは、まさに凄まじいの一言です。

境界線は虚実の間にも引かれ、越境されます。
死と恋を語る物語を語っている最中に、語り部の恋が心臓を突き刺して、物語さながらに死人が蘇る。
果たして八雲は、高い教養で未練の故意に決着を付けた重三郎なのか、はたまた愚鈍な恋心で笑いものになる八っつぁんなのか、それは八雲自身にもわからないことです。
おそらくは、両方が真実で、だからこそみよ吉の幻影/亡霊をあの瞬間見たのでしょう。
確かにあんな別れ方したら、未練を思い切るもクソもないわな。


今回のお話は確実に八雲が主役ですが、その闇が子である助六の表情をより際立たせます。
お話の出だし、先週若い連中がガッツガツとかっこんで『生きる』ことの根底を見せた『卵焼き』を八雲が突っ返すところからして、強い『生』の輝きゆえに色濃く臭う『死』の影を、巧く絵に落とし込んでいるわけです。
モノクロームの入れ墨に色を入れ、過去を背負う覚悟を見せて高座に挑んだ助六は、先週信乃助との無邪気な喜びでエピソードを埋めることで、『生』の輝きを確認させてくれました。
血は繋がらなくても情は繋がった女房子供がいて、充実した仕事をして、色んな人を笑顔にしながら自分の好きな落語をやる。
先週見せた輝きに背中を押されて、助六はようやく『自分なりの佐平次』を見つけ、八雲に叩きつけます。

それはエゴイズムを極限まで突き詰め様式化することで、人の心の芯に届く落語を目指してきた八雲の落語とは、正反対の結論です。
闇が濃いからこそ光の色が目立ち、光が輝けばこそ闇の深さが判る。
それと同時に、闇と光はお互い入り混じり、打ち消しあい、求め合うものでもあります。
積み上げてきたものを否定する弟子の決断にショックを受けつつも、八雲は『好きにおやんなさい』と許可を出す。
それは死を前に落語と心中する覚悟ゆえの諦観でもありましょうが、同時に自分の見えなかった世界を背負って、身勝手に乗り込んできた与太郎への期待でもあると思います。
ガサツで無教養でバカな与太郎は、疎ましい存在であると同時に可愛い可愛い弟子で、みよ吉にも助六にも置いていかれてしまった八雲を支えてくれる、大事な存在でもある。
先代八雲が子である二代目助六に抱いていたような複雑な感情が、時間を飛び越えてあの楽屋で渦を巻いたわけです。

それは八雲の落語・助六の落語を追いかけ模倣し続けた与太郎が、ようやく自分の落語を手に入れ、師匠≒親とは別の生き方を見つけた瞬間でもあります。
この瞬間をレイアウトが見事に切り分けていて、畳の縁と床柱が師匠と弟子をしっかり左右に分けています。
それは決別であると同時に、師匠のへその緒を切り飛ばしておぎゃあと噺家・三代目助六が生まれいづる寿ぎでもある。
八雲ではない与太郎、素裸の自分自体を見つけることで、八雲がぶっ倒れても共倒れにはならない足腰を手に入れることに、彼はギリギリ間に合ったわけです。
だから、この後の"居残り佐平次"はやりきれると思います。
とんでもない名演になるでしょう。

この時与太郎が見つけた『自分』というのが、何か顔を持って主張するエゴではなく、エゴの不在なのはとても面白いところです。
ヤクザものだからか、不幸な生い立ち故か、与太郎は自己評価が低い空っぽな部分があって、だからこそ人生の喜びを教えてくれた落語を心底から愛し、受け入れる姿勢に嘘がない。
樋口が指摘するように、それこそが与太郎の強みなのであり、有と無の境界線を飛び越えて『無いものが有る』という、一種禅的な認識を己のものにした助六の覚醒は、頼もしくも面白かった。
菊さんが鹿芝居を足場にして『自分』を見つけたように、助六もまた長いくねり道を抜けて『自分』を見つけたわけですが、その結果見つけたものは真逆の落語。
しかし多分、その真逆を見つめることでしか『自分』にはたどり着けないという裏腹な真実引っくるめて、非常に面白い運びでした。

時間という境界線を超えるのは三代目助六も同じで、二期第2話で大滑した"錦の袈裟"をやりきって、『温めすぎてやりにくい』という最高の褒め言葉を八雲から貰ってもいる。
前座の時はさっぱり分からなかった高座の怖さに震えつつも、真打ちとしてそれを背負って客前に立ち、しっかり沸かせて楽しませる。
背中の鯉金は伊達ではないというところを見せて、八雲の出番に繋げる助六は頼もしい限りなわけです。

そしてどっと湧いた客席の熱が、落とした羽織と一緒に吸っと吸い込まれるような八雲の"反魂香"。
情熱と冷静は対立するように見えて、客が『楽しみ』にしているという根本の部分では共通しているし、演じる場所も同じ口座です。
そういう風に様々なものが線を引かれ、惹かれ合い、越境し、同居し、混じり合い、傷つけ合う場所こそがこのアニメの舞台であり、キャラクターが生きる業多き人生なのだ、ということは、これまで幾度も明瞭に切り取られてきたことですし、今回さらなる鮮明さで描かれたことでもあります。


そこには対比物を切り捨てて孤高に生きていく停止への欲求と、開けた場所を望み混じり合う喜びを寿ぐ活動の欲求、両方が存在している。
それは両方とも人生の諸相であり、真実であり、お互いがお互いを食い合いながら生まれ直す、一つの活動体なのだと、このお話は何度も語ってきました。
生きること、死ぬこと、喜ぶべきこと、悲しむべきこと。
明闇入り交じる人生全体を睨めつけつつ、八雲や与太郎の人生を味わいたっぷりに描くことで、このお話はそういう人生の猥雑な表情すべてを見つめ、肯定しようとしているのではないか。

様々な境界線と越境が描かれ、与太郎新生の気配と八雲に忍び寄る死の影が並走する今回のエピソードを見て、そういう思いを強くしました。
相当に難しいだろうそういう取り組みに、このアニメは確かな表現力で成功しかけているし、その色彩は物語が加速するにつれ、更に絢爛に、端正になってきている。
そういう確信を抱ける、見事なエピソードでした。

名人のテープを気前よく貸し出すさばけた態度の奥で、落語への捨てきれない執念を滲ませる樋口。
先週高座への未練を夫の善行で綺麗に成仏させられ、下座としての仕事に緊張しつつ真剣に挑む小夏。
二期1話で見せた葛藤を飲み込んで、楽しそうな表情で晴れ舞台を見守りに来てくれた萬月の兄さん。
メイン以外の表情もコンパクトに切れ味良く挿入され、人生元禄の色合いを見事に際立たせてくれていました。


思えば一期第1話、物語が始まった時は与太郎のいびきを拾ったマイクが、今回は八雲の断末魔を拾いました。
あの時座を乱す横槍すら演出に変えて、見事にやりきった当時の八雲を三代目助六が今、超えられるか、否か。
あの時楽屋で叩きつけた噺家としての産声が、本物か、否か。
その証明が、たっぷり時間をかけて準備し期待高まる"居残り佐平次"でなされます。

生き死にの際、虚実の境目。
全て飲みこんで板にかけちまえるような、大名人になれるかどうか。
八雲の背中を追いかけてきた与太郎が、鯉で終わるか龍と昇るか。
親子回後編、非常に楽しみです。