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イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ:第42話『落とし前』感想

血が血を呼び、愛が血を呼ぶ修羅の巷、憎悪が可能性を塗りつぶしていくオルフェンズ、第42話です。
ロボット大暴れな復讐戦も淡々と終わり、鉄華団も、その敵対者も同盟者も皆共感のチャンネルを閉じ、言葉を失っていくお話でした。
もともと逃げ道のないアニメなんですが、それでも目の前で多様性と可能性を自発的に捨て去る状況を見させられるのは、とてもしんどい。
対話可能性も、共感も、想像力も、人間の証明足り得る全てを捨て去って、その先に何があるのか。
輪郭が見えるような気もするし、さっぱりわからない気もします。


今回の戦いは血湧き肉躍るバトルという感じがない、ひどく冷たい戦闘でした。
それは少年たちが言葉を発せず、感情を内側にこもらせたまま戦い続けるからだと思います。
ラフタの仇とか、兄貴の無念とか、感情を高ぶらせ戦いに赴かせる過去を声高に叫ぶことも、自分の暴力の正当性をわざわざ主張したりはしない。
そういうう風に言葉と意味を交流させ、相手に自分のことをわかってもらう、相手のことをわかろうとする段階を、鉄華団はこの洗浄に赴くにあたり、置いてきてしまったのでしょう。

『まともなやつから死んでいく』戦場の中で、ザックは戦場に適応してしまった仲間達の割り切に納得できず、昭宏はかつて救おうとした(そしてたしかに一部はすくい上げた)ヒューマンデブリを、無言で殺す。
ザックのまともな疑念を『でも、敵だろ』と切り替えしたハッシュは、『殺して良い奴』を最初から切り分けていた憧れの三日月と、ようやく同じ場所に立つ。
三日月が象徴していた『お前のことなど、かけらすらも理解してやるものか』という燃え上がるような冷たい悪意は、チャドやダンテに感染し、彼らは感情を揺さぶることなく、『スジを通す』ために殺す。
そうして自分たちなりの正義を取り返しても、正しさを再獲得した喜びも、復讐の快楽すらも見せないまま、彼らは自分たちの袋小路を確認する。

今回の戦いは、MA戦でイオクと対立する形になった鉄華団が、嫉心に押しつぶされる形で名瀬の庇護を失い、ラフタが代表した『人として当然の』生き方を喪失した果てにあります。
だから、筋を通しても居場所はなくなるし、感情的に満たされることもない。
戦えば状況を切り開けた(ように思い込めた)一期とは全く異なる、殺戮が未来に続かない、ある意味誠実でリアルな描写がどっしりとのしかかる今回は、重たい読後感と不穏な予感に満ちています。


敵への共感性のなさは、実は『家族』への共感性のなさにも繋がっています。
この戦いの果てにあるマクギリスとの同盟、革命への参加をオルガは『生き抜き』『火星の王になり』『こいつらと同じ場所を目指す』ために必要な行為だと口にしますが、それを彼自身信じていないのはその表情と、後の三日月との対話からも明らかです。
『生き抜く』こと、『火星の王になる』こと、『こいつらと同じ場所を目指す』ことは全く別の目標であり、それぞれ別のやり方で達成するべき個別の事柄なのに、ねじれた状況はこの3つを結びつけ、癒着させてしまった。

もう切り離せない矛盾した現実を肯定し、『俺達は今、人間になる途中なんだ』という物語を再話するかのようにオルガは頷くけども、内心求めているのは『大声で笑い合う』ことであり、『とっとと上がって楽になる』ことなのです。
それには、マクギリス『とかいう』遠い存在の理想に体を張ることではなく、もっと身近で生臭い、共感できる喜びを求め、その為に何が必要か考える必要があった。
しかしそれは、三日月の呪いによって上昇志向のレールに乗るしか無いオルガにとって、そしてそんな彼の判断を絶対化してしまった鉄華団にとって、人を殺したり自分が死んだりすることより、遥かに難しいことだったわけです。

鉄華団が引き返せない袋小路に入ってしまったのは、あくまで一人間であり続けながら『俺達だって、人間として当然の喜びを再獲得できる』という希望そのもの、巨大な物語になってしまったオルガの軋みが大きな原因でしょう。
阿頼耶識によって一体化した、悪魔の尻尾にこれまでにない親和性を感じる三日月が、幼少期の殺人の債務履行をオルガに求め続け、追い込んだことも。
しかしそれと同じくらい、『頼れる団長』に決定的な判断を預け続け、悩まず苦しまず考えない戦争の機械として己を規定してしまった、オルガ以外の人間に責があることは、見えにくい事実だと思います。


無論、彼らを取り巻く厳しい世界は、良心を麻痺させ共感を機能不全に追い込むことでしか、生存を認めてくれない。
それ以外の生き方を教えてくれる『いい大人』などおらずも、教育の機会も略奪された状況は、これまで幾度も描写されてきました。
ブレーキ役になるビスケットやタカキ、クーデリアは巧妙に物語の真ん中から外されて来たので、オルガの弱い部分を共有し、一緒に悩んでやれるキャラクターがいないのは、必然でもあるでしょう。

しかしその上で、弟や自分と同じ境遇のデブリに共感を移し、ラフタの『まとも』な生き方に敬意を示した昭宏が、他者を理解しようとするチャンネルを自分から閉ざし、人間であることをやめてしまったのは、どうにも哀しい。
敵は味方になるかもしれないし、味方とも分かり合えないかもしれない不安定で可能性に満ちた世界が昭宏達の前には広がっていたし、実は今も広がっているわけですが、その不安定さの中で揺れ動き傷つき失うことに、もう彼は耐えられないのでしょう。
そこでチャンネルを閉じることは、『敵』の悪意から自分を守ると同時に、『家族』の真意を受け取る窓をも閉ざしてしまうことに繋がります。
今にして思うと、殺戮の指令を先週オルガから引き出した時点で、昭宏は人間失格の生き方を決意しちゃってたのかなぁ。

『人としてそれが正しいんだから、もっと頑張れよ』と、少年たちにいうことは僕は出来ません。
そういう安全圏からの意見が通らない状況と環境だというのは、名瀬が死ぬ以前、物語が始まる以前から作品に埋め込まれている前提です。
その状況で、『それでも』と頑張ることが出来ないのは、怠惰な弱さというよりはある種の必然なのでしょう。
敵も味方も、敵にも味方にも共感を摩耗させ、『人間じゃない』存在に変化していく倫理の荒野の中で、やっぱ今回、かすかな光が消えたなぁ、という寂しい感覚があります。
もしかしたら、潤いのかけらすら残してくれない厳しい砂漠の中で、とても難しい道を巧く選び取って進んでくれるんじゃないかという甘い希望が、やっぱダメだったかな、というため息混じりの承認に押しつぶされる感覚。
それを認めざるをえないから、今回の話は全くもってスカっとしない、カタルシスのない話に思えるのでしょう。

そしてそれはおそらく、製作者が狙って起こしている感情でもある。
オルガ(つまりは、彼が背負う『身の丈以上のものを背負ってしまった人間』の悲劇)のブレーキは1つずつ壊されていたし、鉄華団の共感能力の欠如は常に描写されていたし、彼らの異質性は抜け目なく演出された。
今回の結末は、やっぱまぁ、寂しくても一つの必然なんだと思います。


『家族』の持っている凶暴な同化能力、それに巻き込まれなかった女の賢さと寂しさを、ステープルトンさんとクーデリアが演じていました。
かつて『いい大人』として、死地に赴く子供に何も出来ない無力さに戦いていたステープルトンさんは、おやっさんと男女の関係になり、鉄華団の『家族』になります。
それは死んでいく彼らと一緒に死んでやるという、ひどく後ろ向きな在り方ですが、鉄華団という集団はそういう価値観を共有しない存在を、『家族』とは認められない。

あるいは暴力によって、あるいは自発的な決意によって、立ち止まったり殺さなかったりという『まともな判断』をする『家族』は『元・家族』になったわけで、クーデリアが火星においていかれるのは、『まとも』だからでしょう。
『俺と一緒に死ねるか。破滅する時時、止めないで一緒に来てくれるか』という問いかけに頷かなければ、命の価値の軽視と死への狂乱を共有しなければ『家族』と認めないというのはどうにも異様ですが、それを問えば『それが俺たち鉄華団だ』と返されるでしょう。
厳しすぎる世界のルールの中で、生存の手段として選び取られた、崇高なる『家族』の死と、無価値な『敵』の死。
生きて、学んで、変えていくことを選んだクーデリアにとって、それはどうしても頷けない生き様であり、それでもなお隣に立って同じ場所に行こうという彼女の願いは、今回無下にされます。
許されるのは、同じ制服を来て、過去に三行半(遺書かもしれませんが)を突きつけれる、ステープルトンさんのような女だけです。

男たちに認められ、母として妻として集団に居続けることを認められたステープルトンさん。
『私も大事な人があそこにいるのに』、社会的・感情的な繋がりを断ち切られ、『家族』の範疇から切り捨てられたクーデリア。
今回の二人の対峙には、男性集団に受容される『女の喜び』みたいなものがべっとりと滲んでいて、なかなか不快でよかったです。
男に受け入れられたステープルトンさんが『勝って』、置き去りにされたクーデリアが『負け』ているという構図を切り取りつつも、鉄華団が切り捨ててしまったものの重さを無視せず視聴者に背負わせることで、おそらく人としてはクーデリアの正道が『勝って』いると受け取らせるとこまで含めて、頭が良くて性格が悪かった。
かつて夢見ていた『まともな人間としての生き方』を捨て去り、鉄華団のロジックに完全に過去を捧げたという意味では、ステープルトンさんと昭宏は同質の存在……『家族』なんだろうなぁ。


人間やめるのは鉄華団の特権ではなく、この世界に生きている(正確にいうと、尺を使って会話や行動を描写されるキャラクターの)ほとんどが自閉しています。
ジャスレイは鉄華団を『宇宙ネズミ』と見下していたからこそちょっかいを出し、ジュリエッタは『人間やめて強くなる』ことで敗北の屈辱をすすぐ可能性を見つめ、マクギリスの配下達はセブンスターズを他人事のように指弾する。
『家族』にすら想像力が及んでいないのは、バリストンに切り捨てられる可能性を考えていないジャスレイも、身近に人間やめているヴィダールがいるのに気づかないジュリエッタも、また同じです。
革命の矢面に自分が立たず、安全圏を確保しているマクギリスは言わずもがなでしょう。

他人のことなんて気に賭ける人情がある『まとも』な奴らから死んでいくこの世界では、自閉は最も簡単な自衛でしょう。
思い返せば、鉄華団がまだCGS三番組だった頃、大人たちは彼らを人間扱いしないことで、自分の心地よい生活を保護していた。
今回サックリとジャスレイを殺したのも、自分を踏みつけ殺そうとする大人を撃ち殺したあの戦いと、同じことなんでしょう。
幾度も幾度も、同じことが繰り返される。
人間扱いしないあいつらを殺して、せめて人間らしい生き方を掴むために、あいつらを人間扱いしない。

そういう生き方以外が高望みである世界において愛せるのは、顔も知らない誰か(それこそ、マクギリス『とかいう』男)ではなく、他人の傷が自分の痛みに変わるような近い存在、『家族』だけなのでしょう。
その愛が更に視野を曇らせ、共感性を奪い、自閉を加速していく。
人間はそういうもので、世界はそういう場所だ、ということを、このアニメは言いたいのかもしれません。
それは相当に巧く行っているな、と思います。

その上で、絵空事の世界を労力かけて創造し、実在しない他人の人生を起伏を付けて語る『物語』は、このアニメは、その想像力によってのみ実像をなし、存在している。
想像力を足がかりに見守るしか無いメディアの中で、想像力の欠如が幾度も描かれ、渦を巻く軋みが、このアニメを見るときの違和感なのかもしれません。
想像力全てを否定してしまえば、想像力を前提にしたフィクションという語り口自体が内破してしまう以上、どこかで、どれだけ小さいとしてもすれ違いではない交流というものを描く必要はあると思います。

しかし状況が加速する中、鉄華団は『家族』という団結の題目を高く掲げつつも、その内部ですら想像力を失いつつある。
オルガが唯一弱い部分を見せられる三日月は、殺戮を押し付けられた過去の復讐をするかのように、強いオルガを求め続け、オルガもまた贖罪のようにそれを背負う。
誰も信じていない空疎な『火星の王』だけを救いにして、鉄華団達は誰も望まない革命に身を投じ、バンバン死んでいくでしょう。
荒野で許される想像力と共感とは、こういうものでしかないんだ、ということなのかもしれません。
『人として当然の』生き方を臨んだラフタやクーデリアが鉄華団からはじき出されるのも、彼女たちの祈りが届かないのも、シビアな現実ってやつなのかもしれません。
過酷な世界の中で積み上げられてきた小さな笑い、喜び、繋がりあった感覚というのは、吹けば翔ぶような弱々しい虚飾なのかもしれません。

お話は最後まで見ることでしか、それが何を描いたかを判断はできません。
今見えているものが作品の全てではないし、それは一瞬の描写、一つの言葉でひっくり返ることもあるのが、物語の面白さです。
僕がこの作品から、身勝手に感じ取ってしまっている一種の『諦め』みたいなものにどっかでヒビが入り、圧力が高い展開と作品世界について嘘をつかないまま、なんかこう、泥中の蓮を咲かせる展開を、僕はずっと待っている。
現実のシビアさを細やかに捉え、創作の言語に置き換えて語る手際を持ちつつ、そのシビアさに食われてしまった『情けなさ』みたいなものを、跳ね返してくれる瞬間を待っている。
狂った状況の中で心が壊れた怪物たちが、人間に憧れて無様に死んでった道化芝居だと、このお話を嘲笑したくない気持ちがある。
身勝手なことですが、心を底までさらえばそういう言葉が出てくるのだから、ここに書き残しておきましょう。
つくづく軟弱だなぁ、僕は、と、自分でも思いますね、オルフェンズを読んでいると。


来週はどうやら、状況をここまで加速させ、鉄華団を不帰の道に追い込んだマクギリスの起源が明らかになるようです。
そこに英雄を夢見る残酷なるロマンチシズムがあるのか、はたまた幼少期の復讐を望む矮小なるエゴイズムがあるのか。
どっちにしても、お話をここまで引っ張ってくれたマッキーの根本ですから、いい具合のものを用意してあげて欲しいなと思います。
それが鮮烈であっても、人間の心や祈りなど跳ね返して加速する現実とやらが変わりはしないことは、さんざん知らされているわけですが。
さてはて、どっちに転んでも地獄ですが、どうなるんでしょうね。