Twitterで呟いたものなんですが、うっかりツリーをつなげて書いてしまって、引用すると妙に重たい見た目になってしまうので、テクストを抜粋して記しておきます。
以下、本文。
ひっそりけものフレンズを見ていて、想像以上に動物の生態に真摯な描写が多く、楽しい気持ちになる。
もともとそういうジャンルが好きで、興味があるネタなので、『動物の要素を取り込んだ女の子』ではなく『女の子の形に強化された動物』として描いているのは、なんかしっくり来る。
『フレンズ』という価値観は生殖と食料確保という動物の根本原理を巧く排除し、禽獣相争わぬ楽園として廃墟を成立させる、大事な足場になっている。
女しかいない、新しい命は砂が生み出す、食料は掘れば出てくる世界は、過去人類が夢見たユートピアの要諦を丁寧に押さえている。
そういう文脈を用意したことで、かばんちゃんは特権的な霊長ではなく、様々な特質を兼ね備えた一人類種として、その強さを認められる。
長距離移動、運搬、投擲といった、ホモ・サピエンスの動物としての身体的特徴は、さり気なく描写の中に埋め込まれている。人間は動物であり、獣であり、フレンズだ
第1話では『狩り』があくまで『ごっこ』であり、かばんちゃんだけが『食べないで!』という想像を張り巡らせる。
殺生によって糧を得るカルマはそこには存在しない。
それを想起するのは人間だけであり、暴力を伴うアクションは二話以降一気に鳴りを潜める。
セルリアンどこ行ったん?
二話以降は『敵』と『暴力』の代わりに、滅んだ世界そのものが困難として立ちふさがり、フレンズの長所を組み合わせ、問題を解決し先に進んでいくクラフトストーリーが軸になっていく。
それは欠点や摩擦を捨て去った愚者の楽園であり、同時に小さな、確かな、大切な成長でもある。
そんな世界でも獣は獣であり、道具と道具を組み合わせたら、フレンズとフレンズを組み合わせたら何が起こるのかという想像力は、人類種の特権であり強みだ。
カバンちゃんは常に、非常口の看板が何を意味するか、蔦と木を組み合わせたら何が起こるか想像している。
山の先を見通している。
それは人類が文化の積み重ねの結果手に入れた概念であると同時に、発達した脳という器官が与えた基質でもある。
ヒトの姿を取っていても獲得できない、かばんちゃんだけの『すごい』は、それを褒めてくれるサーバルちゃんがいて初めて機能する。
ジャパリパークは思いの外、愚者の楽園ではないのだろう
お話としての精度が話数ごとにグングン増しているのも面白いところで、バトル要素は一話で切り捨て、キャラをたくさんノルマ的に出すのも二話でやめ、相反するキャラクターの『すごい』部が支え合って何かを作る、柔らかく優しい、でもちょっとだけ手応えのある話に舵を向けなおして進んでいる。
最新五話は、ビーバーとプレーリードッグの正反対な特徴をしっかり描き、それを補い合うことで生まれる力、その組み合わせに気づくかばんちゃん(つまりは人類種)の『凄さ』が巧く描かれていた。
考えすぎて足を止めるものと、考えなしすぎて何も生み出せないもの。
一人なら無残、二人なら最強である。
サーバルちゃんは一見何もしていないようにみえるが、フレンズの『すごい』部を見つけ、選んで言葉にし、伝えてあげるモチベーターとしての強さが見えたと思う。
それはサーバルキャットの種としての強さではなく、サーバルちゃん個人の強さであり、優しさであり、彼女だけのとても大事なものだ。
僕は結構物語の嗜好が幼い部があって、良いものだけが肯定され穏やかに進んでいく世界というものが、すごく好きだ。
それはガキっぽい嘘っぱちの楽園かもしれないが、思わず『そうだったらとてもいいなぁ』と思える穏やかな世界でもあり、ずっと浸っていたくなる。仲良きことは美しき哉。
ソシャゲのサービス停止という大嵐を世界設定に大胆に取り込んだことで、楽園には退廃と滅びの影が伸びている。
フレンズがどれだけ幼く優しい世界に生きていても、朽ちて滅んだ世界は自動的に切り取られ、奇妙な苦さと危うさを無言で主張してくる。すごい方法で、夢想と現実のバランスを取ったと思う
五話はオークロックスという、既に滅んだ種族が暴力でバスを止めたところで次回に続いた。
ただフレンズの『すごいね』を見つけて組み合わせれば問題を乗り越えられた時代は、終わるかもしれないし、終わらないかもしれない。どっちに回っても面白いと思う。
ただ僕は、これまでのお話で積み上げられてきた、善意だけで構成された砂の城がとてもキレイに見える。
優しくて、良いものだと思う。
今は影になっている滅びが表に出てきて、彼女たちの幼さに冷水をぶっかけるにしても、これまで描いてきたことを信じて大事にして欲しいな、とは思う。
綺麗事と心中するのは実は相当にパワーのいることで、ペシミズムに支配されて『リアル』な方向に擦れていったほうが、めっぽう楽なことも多々ある。
とんでもなく幸せな楽園を作り上げてしまった以上、それを蔑する方向ではなく、守り称える方向に走りきってほしいものだと、切に願っている。
結論として、僕の好きなもので仕上げられたお話で、すごく好みだった。
非常に盛り上がっているので後乗りとしては色々気後れしてしまうが、ひっそりと愛でていたいと思う。
児童文学の文脈としても、文字通りの美少女動物園の極限としても、マン・アフターマンSFとしても、色々面白い。
よりにもよってオルフェンズと並列して見たので、かばんちゃんの想像力が人類種のかけがえのない『すごい』として描かれるたび、自発的に自閉している少年たちの無残さが心によぎり、ヘンテコな化学反応が涙腺を押した。
鉄華団にも、サーバルちゃんが『すごいね』って言ってあげれたら良かったのにね。
以下、追記。
けものフレンズ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年2月8日
知性化された動物と動物化された霊長のまたたびモノであるこのお話、当面の目標が『図書館』であるのはあまりに寓話的だと思う。
己の起源という大切なものを取り戻すためには、知恵の集積場に行く必要が有ることを、知恵を付与されたものが示唆してくれるのだ。
しかも、ジャパリパークは滅び知恵は失われている。滅んだ知恵の集積体という意味で、フレンズと図書館は同質な存在だ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年2月8日
それと出会い、それを目指すことで物語が進む。獣による反・反知性主義の物語は、楽園でまどろむのではなく、己の意志で知恵の木の実をかじることをキャラクターに要求する。
そのくせ、冒険の緒を作るのは丁寧に描写される動物種の生態であり、特徴である。知と相反するように思われている身体性、種族の大きな特徴が、知を獲得するための道を切り開く。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年2月8日
かばんちゃんの持つ知という種族特性もまた、身体的なものであり、個人より大きなものに帰属している描写が強い。
おそらく7話あたりで図書館にたどり着き、話の潮目が大きく変わると思うのだが、そこで何を描くかが凄く気になるし、大事だと思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年2月8日
それは無邪気な冒険の目的を果たすだけではなく、フレンズを生み出した知、かばんちゃんの『すごい』である知、フレンズの知の意味を問う、結節点になるだろう。