イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

昭和元禄落語心中 -助六再び編-:第7話感想

銀杏の敷布は黄金の夢か、寝ても覚めても定かならぬ、消えては浮かぶ浮世の苦楽、見えつ隠れつ時逆の、運命の地四国で明らかになるどんでん返し、落語心中七話でございます。
三途から戻ってきた八雲師匠は『落語に満足してしまう恐怖』を小夏に漏らし、時を巻き戻す二代目助六の"芝浜"を探す旅の途中で、樋口はみよ吉との因縁を口にする。
『全ては、八雲師匠がぶち壊しにしてしまった』という樋口の誘い口に乗っかる形で、耐えきれず松田さんが口にした、心中の真相。
生き残るもの、死んでしまったもの、水一つ隔てて行き来する過去と現在が、未だ影響を失っていないことを強く感じさせる、大きな潮が来る前の静かなお話でした。

もともとサスペンス色の強いアニメですし、形式的にも与太郎の弟子入り(現在)→八雲の語り(過去)→助六襲名(未来)→真打ち昇進(さらなる未来)……と、時間を行ったり来たりする話でもあります。
時と因果を巡る物語の中で、様々な伏せ札が明らかになることがお話を前進させ、また波紋を引き起こす。
今回明らかになった心中の真相もまた、そういうお話の構造に則った暴露だと思います。

一気の尺をほぼ使った八雲の『語り』に『騙り』が入っていたことは、一応1期12話

昭和元禄落語心中:第12話感想 - イマワノキワ)でも懸念していた『信頼できない語り手』が具体化したということで、そこまで意外ではありませんでした。

むしろ樋口とみよ吉の関係という、もう一枚の札が明らかになったほうが衝撃的で、これまで個人的な欲望を見せなかった樋口の笑顔の底に何があるのか、少し見えてきた気がします。
みよ吉ってのもまた因業な女で、信さんにしても菊比古にしてもこの女に出会って人生変わっちまったわけですが、樋口もまた、ファム・ファタールと出会うことで落語に目を見開き、人生を変えられた男であった。
落語心中を止めようと迫ってくる樋口の心に、初恋を略奪された恨み、あのときの綺麗な女を殺した八雲への復讐心があるとしたら、意図的に演出されてきた不自然な親切にも、色々納得は行きます。

とは言うものの、愛と憎悪は背中合わせ、何もかにもが白黒付けられないことばかりというのは、これまでのお話を貫通する一つの真実です。
みよ吉の転落を巡る色々に暗い炎を燻らせつつ、菊比古の才覚に(それこそ与太郎と同じように)貫かれたというのは事実だろうし、周囲を巡っておせっかいするのも、ただ突き落とすための準備ってだけではないでしょう。
愛が道を間違えて腹を刺してしまうことだって、地獄に突き落としてしまうことだってある浮世のなかで、樋口が抱え込んだ呪いは、落語や八雲にとっての祝福になることも、またあると思います。
と言うか、関さんの名演もあって僕は樋口が好きなので、滅びそうな花を踏み荒らすために育てているような、先のない破滅主義者だとはあんま思いたくないのだな。

信さんと菊比古の青春が終わった日の思い出を、狙いすまして取り出して、松田さんから真相まで引っ張り出した樋口が、一体何を狙っているのか。
一つのサスペンスが終わったと思ったら、新しい謎と期待が頭をもたげてくるのは、作品から活力が失われない、見事な運びだと思います。
願わくば、樋口の初恋と恨みが上手いところに着地してほしいもんだと思いますが、そういうのを激しく横合いから殴りつけて、人生の荒波を容赦なく描写するのもこのアニメ。
八雲の行く末にも深く関わってくるでしょうし、気になる部分がまた一つ増えたな、という印象ですね。


そんな樋口が持ってきてくれたフィルムは一種のタイムマシンでして、泡沫の夢と消えた『八雲と助六と小夏の、マトモな人生』の名残でもあります。
夢と現がひっくり返りつつ、いちばん大事なものを思い出し、捕まえるハッピーエンドの"芝浜"は、後に待ち構える残酷な運命を強調しつつ、助六が願い、掴みかけていた幸せの形を巧く投影してくれます。
しみじみと情を語り、幸せを歌う二代目助六の姿に、残酷な時が食い尽くしてしまったかつての夢の城の『今』がかぶさる所は、巧すぎるし残酷すぎる演出でした。

八雲と二代目助六が『生きて』いた過去を蘇らせる反魂香の魔術は同時に、今を生き、落語を蘇らせようともがく三代目助六の姿も見事に照らします。
映像も録音も荒い古臭いフィルムという『虚構』から始まった物語は、落語に思い入れ、人に思い入れる与太郎の人情で魔法を掛けられて、総天然色の『現実』に移り変わってしまう。
慰問落語で"死神"と出会ったときから、『虚構』の中に『現実』を映し、『現実』を『虚構』通り混ぜることで色鮮やかに理解していく与太郎の発想力は、彼の特質であり長所でもあった。
その思いの強さが、因縁の渦に首までつかった八雲や小夏を、少しでも息がつける岸に引っ張り上げてきた過程を、僕らも見守ってきたわけです。
与太郎のイマジネーションに相乗りする形で、八雲の芸、助六の芸を生々しく感じ取り、その息吹を身近に受け取る一体感が生まれる意味も含めて、非常に良い演出だったと思います。

樋口が『与太郎たった一人の強み』と言っていた、落語世界をそのまま現出させる語り口。
助六とみよ吉を失い、人殺しの汚名を背負うことになる直前の八雲は、"明烏"の郭を視聴者の目の前に現出させてみせます。
sれおは与太郎の圧倒的なイマジネーションが生み出した幻ではあるんですが、同時に在り得たかもしれない、もう一つの八代目八雲の高座でもあります。
己を強く押し出すのではなく、四国の田舎町で手に入れた小さな幸せを支えに、自分の体を通して落語を溢れさせる方法論。
現実には、背負った業の重さに耐えるために、『一世一代の名人』という看板を支えに、落語の首根っこを技術で押さえ込んで従わせるような芸風になりましたが、あの時あり得たかもしれないもう一つの八雲は、実は三代目助六に良く似ているわけです。

時間を巻き戻し、因業を書き換えて幸せを掴みたいという、人の弱く儚い願い。
それがかなわないことは、それこそあの旅館で起こった心中の顛末が鮮明に教えてくれることではあるのですが、人間がどうしてもそれを願ってしまう生き物だということも、二代目助六の"芝浜"から滲む業です。
ひどく残酷に、幸せになりたいという願いは現実に衝突し、破綻してしまうわけだけども、たとえ死んだとしても思い(もしくは妄執)は引き継がれ、演者を変えて再演される。
その結末が過去と同じにはならないこともまた、三代目助六が八雲や小夏の因縁に飛び込み、散々暴れ倒した物語の中で、僕らが見てきたものでしょう。

巧くはいかなかった儚い願いも、時を越えて報われるかもしれないという、小さな希望。
それを背負える無垢さを持っていればこそ、与太郎はこのお話の主人公なのであり、彼が話しの真ん中にいるのなら、色々あっても哀しいばっかには終わらないんじゃないか。
そう信じられるよう、お話が積み上げてきた重みが機能しているのは、なかなか幸せなことだと思います。
同時に、因果をひっくり返す聖人の馬鹿さ、愚かさ、身勝手さもちゃんと描き、それが落語という『業の話芸』にとっては弱さにもなるというところに踏み込んでもいるのが、このお話のすごいところでしょう。


弟子の輝きが闇の中で光る中で、師匠の八雲はしょぼくれていました。
あれだけの業を詰め込んで納めた『落語』が、死と衰えに穴を開けられ、体から逃げていく恐怖。
なかなか伝わりにくい『それ』がぐっと胸に迫るのは、銀杏の落葉が世界を埋め尽くす美術の迫力もありますが、これまで八雲の人生に付き合い、落語に付き合い、彼がそこに込めた重さを体感できるような物語を積み上げてきたことが、一番大きい気がします。

弟子や見舞客には口すらきかないのに、娘同然の小夏にはもらいタバコをせがみ、己の苦しい胸の内を明らかにする。
落語と人間関係の重たさにすり潰されそうになって、女の胸にすがる姿は二代目助六を思い出させますが、小夏はそこで一緒に落ちていくのではなく、『シンドくても生きろ。落語を続けろ』と蹴り飛ばします。
親の仇と思い込んでいる(思い込まされている)からキツく当たるんでしょうが、同時にそこには名人・有楽亭八雲への尊敬と、クソジジイへの愛情が宿っていて、なかなか不思議なシーンでした。

小夏が母・みよ吉の血を引いていることは、明らかになった過去の真実からも強く見えます。
敷居を乗り越え、激情のままに母(みよ吉からすれば『あの女』)を追い詰め、殺す仕草に重なるように、みよ吉もまた敷居を乗り越え、血まみれで『そんなこと言っちゃいけない!』とつぶやく。
真っ当な親子なら乗り越えなかった一線を越えて、夫を刺し母を突き落とす因業の地獄が生まれてしまったわけですが、殺したいほど憎んでおきながら、愛情故に男を傷つけてしまうところも、燃え上がるような感情が破滅を引っ張ってくるところも、二人はそっくりです。

そんな小夏だからこそ、むっつりと意地張っていた八雲も背中を丸め、胸の中に巣食っていた闇を吐き出す気になったのかもしれません。
このアニメにおいて『煙草』は強烈なフェティッシュで、信さんと菊さんの(同性愛的とすら言える)親密な関係とか、死の予感としての紫煙とか、みよ吉の婀娜な因業の小道具とか、いろんな意味合いをノセて描写されてきました。
小夏と八雲の間で交わされる回し煙草は、憎しみを縁にして繋がった親子には許されることのない口づけであり、八雲と助六が接近しつつ飛び込むことはなかった(飛び込んでいたら、また別の結論にたどり着いていただろう)共犯的同性愛の、延長線上にあると思います。
そういう形でしか、そういう相手にしか甘え、自分の弱さをさらけ出せない、八雲の業。
それが巧く切り取られたシーンだなと思いました。

体の中から落語が逃げていってしまう恐怖、落語に満足してしまうことへの慄き、衰えへの震え。
生き死にの土壇場で小夏を選び、心中し損なった八雲は、助六とみよ吉が待つ地獄を待ち焦がれていました。
しかしいざ、死が目の前に迫ってみると怖い。
一世一代の"死神"を演じても、『アタシと落語は心中します』とカッコつけてみても、震えるほどに死ぬのは怖いわけです。
それは人間として当然の姿で、そういう『マトモ』を良くも悪くも受け止められないからこそ、八雲は大名人まで上り詰めたんだと思いますが、どっちにしても八雲は生きるか死ぬかを迷いつつ、崖の前で立ちすくんでいる。

銀杏の敷布に浮かんだベンチを、上から切り取るカメラは、反発しつつ寄り添い合う小夏と八雲の前に、水たまりを配置します。
みよ吉と助六が手に手を取り合い、夫婦として堕ちていった三途の川に引き寄せられつつも、落語と身内が必死に手を引っ張って、飛び込んではいけない二人。
彼らが配置されている画面の上半分には、水たまり、三途の川、『死』はまだありません。
何がどうあろうと生きてしまっている八雲が、空虚さと衰退に怯えつつ、これからどう死んでいくのか。
三代目助六が落語を、八雲をどう活かすかと同じくらい、八代目八雲と落語がどう死んでいくかは
、物語の大きな焦点であり続けています。


孤独を嘆きつつも、八雲の側にはふてくされ、悪態をつきながら隣り合ってくれる小夏がいます。
あの時、生きる側に八雲を繋ぎ止めた少女は母になり、妻になり、殺したいほど憎んだ母に似た、そして似ていない女に育った。
それは八雲が死に取り憑かれつつも、名人の名前を揺るがないものに仕上げ、与太郎を育て上げ、衰えていったのと同じ、時間の産物です。

時が流れても変わらないもの。
時が奪い、育むもの。
時経たことで明らかになるもの。
時間の流れの中で人間の業を追いかけるこのお話にふさわしい、色んな顔を埋め込んだエピソードだったと思います。

色んな顔と言えば、一応旦那になる与太郎もまた、師匠の真似をするように小夏にすがり、涙を流してました。
師匠がもらいタバコと愚痴でしか情を表現できないのに対し、素直に抱きつき素直に甘える与太郎の可愛げが目立つシーンでしたが、どっちにしても甘える女はおんなじってところに、血よりも濃い芸事の親子を感じます。
八雲相手には接近させた煙草を、与太郎には遠ざけ、守ろうとする小夏の仕草にも、一筋縄ではいかない男と女の関係の複雑さが見えて、なかなか面白かった。

小夏は『あんなズルい女にはならない、あの女とは違う』と自分に呪いを掛け、その結果として記憶まで封じてしまったわけですが、結果として親の分からない子供を身ごもり、『女』の業から逃げられない道を歩いています。
ここらへんのままならなさは、みよ吉に呪われて落語に縛り付けられた樋口とか、死に損なった傷を癒せないままここまで来てしまった八雲と共通であり、お話全体を貫くルールに従順な振る舞いです。
自分を守ってくれた八雲を『人殺し』と断じ続けている事含めて、意識していない『女のずるさ』を小夏が背負っているのだと、夫への対応で見えるシーンでもありますね。
娶った与太郎自身が『これは同情だよ。同情から始まる夫婦があってもいいじゃないか!』と言ってんだから、外野が口出すことじゃあないんだけども、小夏はどーも与太郎に男を感じていない部分があって、なんとも報われねぇなぁって時々思っちゃうね。

秘められていた過去を掘り返し、死人が墓から蘇りつつも、人は浮世で生き続ける。
その先に何があって、苦楽も明暗も引っくるめて転がる人間の生き様に、落語はどう食い込むことが出来るのか。
真摯に捉え続けてきたテーマは加速しつつ、物語はまだまだ続きます。
本当に面白いアニメで、ありがたい限りでございます。