イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

昭和元禄落語心中 -助六再び編-:第8話感想

三途から戻り過去を見て、それでも続く現世の縁、情は楔か女の腕か、絡めて離さぬ野暮天の縄、落語心中八話であります。
迫りくる老いへの恐怖、業と苦労を詰め込んで身につけた落語が逃げていく絶望を前に、どうにも行末がわからない八雲。
老いさらばえて生き延びるも、愛おしさを置き去りにして死んじまうことも出来ない師匠を引き戻すべく仕掛けた座敷で、八雲がかけたのは過去を呼び覚ます、二代目生き写しの"芝浜"。
人情のカタマリを胸に叩きつけられて、ようやく八雲が高座に上がったところで、官憲の手が薄暗い商売の精算を迫り、無情にも復活の舞台は立ち消えに。
老いるも死ぬも四苦八苦、愛する人と別れ、野暮助に水を入れられながら続いていく人生の物語でございます。

今週も八雲は老いていく身体に苦しんでいましたが、『オメェらには解らねぇ』とうそぶく彼の苦しみは、結構な重たさで視聴者に届いていると感じます。
それはこのアニメが落語を描く時、ただ声の芸というわけではなく、細やかな仕草や表情、羽織を脱ぎ落とす衣擦れや立ち居振る舞いが客席にどういう影響を及ぼしているのか、丁寧に描いてきたからでしょう。
落語は言語芸術ではなく、身体芸術であると実際の映像で幾度も示してきたからこそ、それを失いつつある八雲の恐怖は、視聴者にとって身近なものとなりえます。
これまで蓄積してきたものが、アニメで表現するには難しい身体性の喪失に文字通り血肉を与えている形ですね。
これにはもちろん、八雲を通して何者でもない少年が名人となり、死と老いに接近してやつれていく様子を見事に演じきっている、石田彰の図抜けた演技が支えているものでもあるでしょう。

ふてくされちまった爺を前に、与太郎はひょいと敷居を乗り越えて、言うべきことを言う。
あまりにもハードでシリアスな人生の問題を前に、足を止めずに懐に入っちゃうのは与太ちゃんの天性であり、小夏を筆頭に色んな人が救われてきた部分でもあります。
地べたに座り込んで、健康で若々しい身体という特権を持った与太郎との間に距離を作ろうとする八雲の防御は、やるべきことをしっかり見据え続けている与太郎の前には通用しない。
ひょいと膝を曲げて同じ視線に立って、どうにか一緒に苦しみ、生きようとする与太郎の強さは、一期で捏ね繰り回した人間の業の泥から咲いた、蓮の花のようにも見えます。

それと同時に、『老いたなら老いから始めれば、死んだら死から始めればそれでいいじゃねぇか。震えて足を止めちまうのは、どうにももったいねぇ』とノータイムで言えてしまう与太郎は、やっぱり特権的で高い位置にいる。
それは持って生まれた生き様の話で、与太郎が八雲の苦しみを無視しているとか、爺の気持ちになれねぇ薄情な男だって話ではないわけですが、人間にはそれぞれ持ち前の業というものがあり、それが絡み合って地獄に引きずり込み、現世に足を止めさせる楔にもなる。
そして、違う生まれ方、違う生き方をしてきたからと言って、必ずしも分かり合えずすれ違うばかりでもないってこともまた、このアニメが描いてきたことです。


そういうカルマの万華鏡の中で、小夏の姿は当然八雲とも与太郎とも別の色をしている。
与太郎のように風通しの良い決断が出来るわけではなく、むしろ八雲が腰まで浸かってしまっている業を共有する立場にいるんだけども、あくまで『憎たらしいクソジジイ』という鎧を外そうとはしない。
その上で、父を失った子供として、もうひとりの父に『死なないでくれ』とすがりつつ、それ以上の関係を視線の中に匂わせてくる。
橋の上で抱擁する二人には、ほぼ確実に男女の色香が被せられている気がしますが、自分を現世に引き止める最大の業たる小夏の温もりに溺れれば、与太郎の善性も信乃助の無垢も、全てが吹っ飛びます。
だから、八雲は小夏を引き剥がす。

あそこの仕草は旅館で落っこちた二代目助六そっくりで、地獄に落語と心中するつもりの八雲でも、あのときの助六と同じように現世に残さなきゃいけない相手がいる。
助六と一緒に死ねなかったことで八雲は現世という地獄に取り残されたわけだけど、そこは人のぬくもりを教えてくれる極楽でもあって、その名残が八雲を死という開放と絶望から遠ざけ、縫い付ける。
前に進むも、後ろに下がるも出来ないまま、それでも幾ばくかの情が残っている八雲の姿は、どうにも人間らしいと思います。

続く座敷の罠の中でも、八雲と小夏の親子はいきいきと弾んでいて、企みを指摘された時にぺろりと出た小夏の舌はとても可愛らしいものでした。
実の親を殺された憎悪を捏造することで守られた小夏と、そうすることでしか少女を守りきれなかった八雲は、憎んだり愛したりしながらどうにかあの座敷までたどり着き、ああいう評定をするようになった。
それはお互い、あの旅館で死んじまわなかったから、重たすぎる死の影を前にそれでも自分を保って、心を活かしてきたからこそ行き着いた、一つの救いな気がしました。


持ち前の白紙の落語を使って、二代目助六最後の高座を蘇らせる与太郎の奇策。
まさに"反魂香"を地で行く名人芸ですが、自分がない与太郎だからこそ出来た奇跡だと思います。
『高座を通じて落語が蘇る』というのは冒頭で復帰を果たしていた萬月兄さんにも被ってきますし、八雲が地獄に引っ張ろうとしている落語をメディアの力でつなぎとめようとする樋口にも、かかる部分だと思います。
八雲が正しく認識しているように、色んな人が名人・八雲と落語の生存を望んでいて、勝手に死んでしまうには世界は愛おしすぎるわけです。

しかし同時に、どうにも無情であり無常なのが世のもう一つの顔でして、与太郎の魔法で夢を取り戻したと思った矢先、親分を追いかけてきた警察が座敷に上がり込み、全てがおじゃんになってしまいます。
20話以上かけてたっぷりと落語に浸り、少しは粋と野暮の違いも判るようになってきた(気がする)視聴者としては、女将さんのようにデカたちを詰ってやりたいところですが、この始末もまた、ヤクザという生き方を選んだ親分の必然でもあります。
"芝浜"が捉えるような男と女、人と人の情では渡りきれない、綺麗な夢に水ぶっかけるようなシビアな現実もまた、座敷とは違う形の人生の顔色なわけです。

『自分のことばっかりで、後の連中を育ててこなかった』親分が娑婆からおさらばする姿は、同じように後進を育てず、映像記録も残さず、一代の芸を極めて落語と心中する腹づもりの八雲と、見事に重なっています。
しかし八雲の芸と業は沢山の人をひきつけ、だからこそ今回の座敷も沢山の人で埋まり、和やかな空気が漂っていた。
どれだけ地獄からみよ吉と信さんが呼んでいても、そうそう簡単に八雲は死ねないし、助六やみよ吉や色んな人が『生きろ。生きて落語をやり続けろ』と囃し立ててくる。
それを疎ましく思いつつも、同時にあまりにも暖かく、愛おしいと感じてしまう八雲の矛盾が、今回のお話にはたっぷり詰まっていたと思います。
そして、あまりにも野暮でスッキリしない幕引きが、矛盾に満ちたままならない世の中を引き立てていたな、とも。


"芝浜"のサゲとは真逆に、人間の情が詰まった座敷、そこで行われるはずだった八雲の再起は、野暮天の横やりで霞と消えてしまいました。
それでも、人生は続く。
老いと死への恐怖、情への疎ましさと愛着の間で引き裂かれつつ、まだ物語は終わりません。

次回予告を見るだに、八雲と助六は来週刑務所に向かい、慰安落語をかけるようです。
それはまだ何者でもなかった与太郎が落語に、八雲に出会い、物語が始まったのと同じシチュエーションです。
現在と過去、二つの軛につながれ六道辻を迷いながら進んできた物語が、始まりの場所に戻ってきて何を描くのか。
来週も楽しみですね。