イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

昭和元禄落語心中 -助六再び編-:第10話感想

冬来たりなば春遠からじ、家族を望んだ男のもとに新しい命が訪れ、亡霊に取り憑かれていた男の元から花が散っていく、現し世はゆめゆめこそ真、親子の誠師弟の契は、眠るような死の床にぎりぎり間に会いましたとさ、な、落語心中十話でございます。
八雲の代わりに寄席は燃えちまって、何にもなくなったかと思いきや、春が来た。
与太郎と小春が『家族』である証がもう一つ増えて、長年のわだかまりを弾き飛ばす暖かい風が吹いて、穏やかに笑いながら、桜が散って菊さんが死んでいく。
紅顔の美少年も老いぼれ、ヨボヨボの爺さんになってしまう老いと死の無常。
死に損なって死にたいほどきつい余生を頑張ったからこそ、ようやくたどり着いた親子の肖像。
このお話は、生きるために落語にしがみつくしかなかった一人の男が、未練を引剥してようやく死ねるようになるまでの物語だったのかなとしみじみ感じ入る、いいお話でした。


というわけで、幽冥の境があやふやだった寄席の出火は、この世のものではない不思議な火として誰も傷つけないまま終わりました。
寄席全部から出火しておいて、左右隣の建物には一切ダメージ無しってところが、八雲の未練を焼き尽くすための浄火だったのかな、という気がします。
散々『落語と心中する』と脅してきた八雲が『死にたくない』という答えにたどり着いたように、八雲が老いても死んでも、寄席が燃えても落語は死なない。
席亭さんの広い度量と、人こそが落語なんだという強い信念が、とんでもなくありがたい雪の情景でした。

心臓発作起こしたときもそうでしたが、与太郎は死にかけている八雲には付き添いません。
『落語をどうにかして活かすんだ!』という強い信念が、彼を現場に貼り付けにしているわけですが、それは同時に憧れた師匠が決定的に死んでしまうかもしれない場所に、居合わせたくないからかもしれません。
刑務所で足止め食らっている間に実の親が死んじまった与太郎にとって、八雲は憧れの師匠であると同時に、老後まで孝行するもう一人の親父。
生きること、生きつづけることを徹底的に肯定できる『陽』のキャラクターであるが故に、八雲の死だけは身近で受けれない業を背負っている気も、ちょっとしてきました。
これが本当かどうかは、今回の引きからどう転がしていくか次第なんで、ちょっと読めませんけども。

樋口との地下鉄での会話も、喫茶"佐平次"前での小夏との会話も、与太郎がたどり着いた(というか、最初からそうであった)八雲への健気で健全な情熱を、正面から肯定する内容でした。
師匠は超えるもんじゃない、愛し見守り、背中をついていくものだ。
与太郎らしく真っ直ぐでまっとうな結論であり、師匠を才能の豪腕で殴り殺して歪めてしまった八雲や二代目助六には、どうやってもたどり着けない正論です。
ともすれば捻れた黒い答えが『リアル』ってことにしちゃうのが、物語としては色々楽なんですが、これまで与太郎の真っ直ぐさ、『陽』のキャラクター性が成し遂げたものを見てきて、そのために必死の努力とあがきを見てきた視聴者からすると、凄く素直に与太郎のまともさを受け止めることが出来ます。

与太郎はこういう気持ちのいいやつで、捻くれていない男で、だからこそたどり着けた場所、幸せにできた人がたくさんいた。
子供のようにバカで真っ直ぐで、歪みなく無限の愛情を持って落語に飛び込んだ男だからこそ、見つけた答えがあった。
かつては吊り輪越しに、強めの歪みをかけて関係を切り取られていた樋口と与太郎は今回、お互い違う場所から落語を見つめ、でも愛している同士として真っ直ぐ描かれています。
その姿が、八雲と三代目助六に通じるリスペクトに満ちていたと見るのは、二人が好きな僕の欲目ではない気がします。

樋口の内側には、みよ吉への未練や八雲への恨みと愛情、色んな感情が渦を巻いていて、今も渦を巻いているのだと思います。
そういうものを全部ひっくるめて、火事場で泣いてる人に色々聞いちまう無神経もひっくるめて、落語と八代目八雲を生き残らせようと決死に動き回った。
与太郎のようにど真ん中をスコーンとヌケていくような生き方ではけしてなく、むしろ八雲のねじれに捻れた生き様に似ているけども、でも、樋口が落語に向けた気持ちの強さはなんというか、報われるべき真っ直ぐさがあった。
渾身の新作落語を袖にされているのにとても仲良しで、妙に爽やかな中年男二人の姿は、彼らが迎えた一つのゴールとして、凄く良いもんだなと思いました。


寄席が燃えても子供が出来て、ラジオもテレビもあって、足を止めている暇なんて欠片すらないバリッバリの現役・三代目助六
これに対し、八雲は長いカルマの道のりをようやく走りきり、盛りを終えて散る桜のように、人生に幕を下ろしていきます。
スルスルと包帯を外し、生き残ってしまった申し訳無さ、落語に捧げた人生への後悔を穏やかに受け止める姿は、憑き物が落ちたようです。
というか、実際に信さんとみよ吉の霊を外して、『八代目八雲』という落語の生き神ではなく、あの時死ねなかった男でもなく、嬉しいことも悲しいことも、立派なことも情けないことも全部歩いてきた、裸一貫の老人として死ねるようになったんでしょう。
寂しいことですが、胸を張って誇るべきことだとも思います。

死を目前にして、小夏と八雲はあの時の縁側で繋がったような柔らかい関係を、なんとか取り戻すことが出来ます。
死ね殺せと言い合うことしかできなかった親子は、『お前がいたから死ねなかった、お前がいたから生き延びれた』と娘に伝え、『私を見捨てないでくれて、ありがとう』と父に伝えられる姿に、ようやく戻ることが出来ました。
あの時寝物語に聞かせていた"野ざらし"を、死にゆく八雲を微笑ませる子守唄として使うリフレインの上手さは、まさに圧倒的です。

菊さんは優しくてナイーブな人で、小夏が地獄で生きるのがかわいそうに過ぎて、惚れた男と女と一緒に心中できなかった男です。
死ねなかった自分への情けなさ、生き残ってしまった申し訳無さ、助六亡き後の落語と八雲を背負う重責、小夏を活かすための嘘の重たさ。
いろんなものを背負いすぎて、その気持を言葉にしてしまえば『八代目八雲』ではいられなくて、辺境なクソジジイであり続けようとした。
その強がりと不器用さが話芸を極限まで磨き上げさせ、八雲にしかたどり着けない峻峰に押し上げた部分もあるんでしょうが、彼は同時にずっと、無邪気な子供を飼ってきた。
『品のない』与太郎の落語、子供のように頑是ない噺を素直に笑って聞けるのは、胸に閉じ込めていた子供をようやく開放し、『生きたい』という願いに素直になれるようになったからでしょう。
死の直前の短い時間ですが、八雲がそういう場所にたどり着けたのも、僕には嬉しかったです。
思いっきり死にかけのジジイだったところから、助六の"野ざらし"聞いて艶が出てきて、小夏の弟子入り志願を受ける所は完全に『いつもの粋で色っぽい八代目八雲』に戻っているところに、八雲と落語の間にある業、幾度でも帰ってくる春の色合い、世界に色を付ける落語の魔法を、感じずにはいられなかった。


ぶっ殺したいほど憎んだことも、死んじまいたいほど苦しんだことも、けして嘘ではないと思います。
小夏と八雲の間にあった憎悪は、春風に吹かれて消えてなくなってしまうわけではない。
でもそれだけが二人の間にあったわけではなくて、むしろ憎悪は愛情の背中を、恋しい気持ちは憎しみの影を、それぞれ踏んでいたのではないか。
心のなかにわだかまるあらゆる感情、あらゆる業を長い道のりの中で受け止め、肯定し、言葉にして語り直せる物語の強さを、八雲と小夏の親子はようやく自分のものに出来たのではないか。
ラジオ越しの遠い"野ざらし"は、そういう気持ちを僕に抱かせます。

どっしりと滑稽な枕を流しながら、一言一言を拾うように市井の人々の暮らしが切り取られる。
天ぷら、釣り堀、夕暮れ。
流れ行く景色の中には、八雲や小夏が抱え込んだ分厚い愛憎が山ほどあって、それぞれがぶつかりあいながら一つの人生のお話が今まさに、浮世の中で生まれつつある。
『そういうものを肯定しながら語るのが落語というメディアであり、このお話だったんじゃないの?』という静謐なメッセージをあのどっしりとした映像さばきから、僕は勝手に受け取りました。
八雲と助六の長い長い物語から一瞬離れ、広くて遠くて名前がない人々に目線をやったあのシーンは、落語というもの、物語というものの根本的な力を再確認するような、非常に長くて広い目配せだと思うのです。
凄く、いいシーンでした。

与太郎が自分の身に降り掛かった不幸をまるごと飲み込んで、笑えないのを笑えるように生きていくためには、落語と八代目八雲が必要だった。
そんな与太郎もすっかり真打ちの貫禄を手に入れ、八雲の代わりに落語を背負って、ラジオという開けた場所に自分の噺を乗せ、誰かの人生の支えになっているかもしれない。
桜が咲いて散って、また新しく咲くように季節は流れ、世界は移り変わっていく。
それは寂しくもあり、喜ばしくもある、人生という物語なのでしょう。

信乃助が無邪気にがなる"野ざらし"は、女の骨を釣り上げてそれを笑い飛ばす、死と艶の混じり合った物語です。
今はその意味がわからない信乃助も、流れていく時間の中で(八雲と同じように)色を知り、死を知り、悲しいことも楽しいことも、沢山有るのでしょう。
世界を知り尽くした老人の前に無知なる少年を配置し、新しい命を宿した女と死にゆく男を据えた幸せな情景を、落語が遠くから愛情深く見守り、語っていく。

バラバラにならざるをえない人間の業にも、情けの橋がかかって皆孤独ではないし、それでも死ぬ時は皆一人で死んでいく。
その寂しさを噛み締めながら、親子の気持ちを、生きたいという願いを、子と孫へのしがらみではなく愛情を確認して死んでいくところまで八雲が行けたのは、やはり言祝ぐべき終わりなのだと思います。
生きるということはとても色々なことがあって大変で、それと同じくらい、死ぬのも大変であるし、死んだあとも人間は死なず、幸も不幸もいろんなものを残す。
桜とラジオが彩る美しい情景は、物語が始まった時既に死んでいる二代目助六を背負って、与太郎がやった大立ち回りの結果だと考えると、まぁ、そういうお話だったのではないかと一つの結論を出したくなります。

文字でかけば単純で当たり前で、うわっ滑りしちまうような結論ではあります。
でも、20話以上に渡って物語を積み重ね、幾重にも噺を折り重ね、業と愛憎をたっぷり練り込んでここにたどり着いたこのアニメを見ると、それは言葉を超えた実感として、僕の中で手触りを持ってきます。
ちょうど二期になって、綺麗すぎる与太郎が必死に自分の人生を生きて、悩んで苦しんでそれでも前を向くことが『らしさ』なんだと納得できたように。
すねてひねくれて、落語が好きで嫌いで、浮世を憎みつつしがみついた八雲の生き方が、『死にたくない』という答えにたどり着いたように。
憎しみで世界を塗りつぶし、差し伸べられた情をはねのけることでしか生き残れなかった小夏が、夫と父と息子の手を握ることが出来るようになったように。
誠実に人生の諸相と向かい合い、一つ一つアニメにしていくことでしか得られない手応えが、今回の話しにはみっしりと詰まっていました。

幾度も会いたいと願い、近づいては袖にされた信さんと、今週八雲はようやく再開しました。
それは死出の旅路であると同時に、かつて手に入れた黄金時代の再来であり、あの時掴めなかった手を掴んでのデートでもあるのでしょう。
『色』をくれた男との再開は、やっぱりどこか恋の色がする。

寂しくもあり、喜ばしくもあり、花に嵐の喩えじゃないですが、今は八雲とのさよならがどういうものになるか、とても楽しみです。
お疲れ様、ありがとう、菊さん。
ちょっと早いですが、やっぱり僕はあんたが好きだったよと伝えて、別れの挨拶とさせていただきましょう。
おそらく残り二話の落語心中、非常に楽しみです。