イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

小林さんちのメイドラゴン:第10話『劇団ドラゴン、オンステージ!(劇団名あったんですね)』感想

優しく奇妙な隣人たちと紡ぐ笑顔のキャロル、10話目のメイドラゴンはクリスマスの演劇でございます。
メインキャラクター勢揃い(除くサラリーマン)で劇の準備と本番にドタバタしつつ、カンナちゃんのサンタさん大作戦が挟まる構成。
ドラゴンの異質性を的確に受け入れて導いてくれていた小林さんが観客席に下がることで、逆にドラゴンたちが8ヶ月で獲得した社会性が表面化してくるような、この話数ならではの回でした。
なんでもゴチャまぜになっちゃうカオスな楽しさも、細やかな仕草に込められた表現力も、ドラゴンたちの健気な可愛さも健在で、『らしさ』もたっぷり味わえる。
いいエピソードだったと思います。


今回のお話は、『商店街の花だから』とおだてられたトールが、怪我をした人間の代わりに老人ホームのジジババを喜ばせようと、一肌脱ぐところから始まります。
春の段階では『表面を繕っているだけです』と言っていたドラゴンが、気づけば商店街という小さな外界("たまこまーけっと"を少し思い出しますね)に受け入れられ、特別な地位を占めている。
ドラゴンもまた、生活の中で獲得したそのポジションを悪くは思っておらず、仲間を巻き込んで好意に報いようとする。
この導入自体が、トールが必死に『人間』を学び、自分なりに溶け込もうとした成果のように見えます。

むき出しのドラゴンは人間世界にはあまりに衝撃的すぎて、トール達はその使い方を常に考えなければいけない異邦人です。
世界を壊したり、人間を下に見たりするのが自然の振る舞いであるドラゴンたちが、流れ着いたこの世界でどう振る舞うのか。
そこには様々なクッションがあって、破壊は修復魔法によって可逆性を手に入れ、隠蔽魔法は角と尻尾を隠してくれる。
舞台の中で使用されていた各種魔法(戦闘用含む)のように、ドラゴンたちはむき出しの自分らしさを装飾し、隠蔽し、人間が飲み込める形にアレンジしてくれています。

むき出しの現実を『嘘』のフィルターを掛けることで、どうにか受け入れられる形にする。
今回の出し物が『演劇』だったのは、結構多層的な意味を持っている気がします。
ドラゴンブレスは『CG』というフィルターを掛けられ、無害な演出になる。
"マッチ売りの少女"のマッチの火は、幸せだった時代の幻影を見せるわけですが、トールのブレスが映し出すのは自分を受け入れてくれた人間の世界と、そこに溶け込もうと頑張るドラゴンたちです。

笠地蔵と魔法少女忠臣蔵がカオスに入り混じり、演出もひどくレトロでチープな舞台演出と、バリバリの魔法が混在している"マッチ売りの少女"。
人間とドラゴンがみんなで考え、みんなの良さを活かせるように配役を考えた『演劇』は、やはりトールたちが獲得した日常生活の影絵のように思えます。

普通にしてても才川に泣かれるファフッさんは、素で演技できる邪悪な魔王役に。
混沌と調和に別れて相争った過去を持つトールとエルマは、大石内蔵助吉良上野介に。
それぞれの特質を考えて試行錯誤を繰り返し、なんとか適材適所に落とし込んで一つの物語を演じていく『演劇』自体が、異邦人としてこの世界にやってきて、異質な部分を社会や自己、他者と衝突させながら成長してきたドラゴン(と、それを受け入れる人間)達の物語に、巧く重なっているなと感じました。
演劇が終わった時、ファフッさんだけそっけなくおじぎもしないのが許されているのが、僕は好き。


大人数で色々大暴れする今回、小林さんは準備にも係わらず、演劇もただ見守る(そしてツッコミを入れる)役に終止しています。
これまでドラゴンたちを溢れる人間力で受け入れてきた名主人公にしては、控えめな出番ですけども、それが逆に、トールの成長を強く感じさせます。
小林さんに支えられて、小林さんだけを『人間』と見ていたはずのメイドドラゴンはいつの間にか、小林さん抜きで仕事を頼まれ、受け入れ、完遂するまでになったわけです。
それは小さなすれ違いや衝突を、『家』の中と外で幾度も繰り返した結果手に入れた成長なわけで、それをちゃんと小林さんが見守り、褒めてあげる〆方が非常に心地よい。

今回の話は優しい偽装をかけたまま、ドラゴンたちがどうやって自分たちを『外部』に受け入れてもらうか、という話です。
劇という舞台、クリスマスという時間、老人という優しい観客、楽しいけれども本気の準備が合わさって、ドラゴンたちは角と翼という『ドラゴン性』を『外部』にむき出しにしても、問題にならない居場所にたどり着いた。
それと同時に、彼女たちの努力が形になった後、小林さんとドラゴンが大空にデートに出かけるシーンがちゃんと入るのが、僕はとても好きです。

偽装を重ね、相手との距離を測りながら、適切なだけ自分を出す。
そういう『外部』との付き合いもとても暖かく、大きな価値があるんだというのが、ドラゴンたちの『演劇』を描く過程で切り取られたものだと思います。
その上で、むき出しのままのドラゴンとして思いっきり飛び回り、遠慮も偽装もない自分を受け止めてもらえる『内部』があることの意味を、迫力ある飛翔シーンとロマンスが教えてくれる。
作画力をきっちりアクションシーンに使って、非日常のワクワク感をしっかり出せるのは強いなぁ。

僕はこのアニメにおいて、ドラゴン形態のトールがちゃんと『怖い』のはいい表現だと思っています。
トール(が代表するドラゴン)は、圧倒的な力と異質なメンタリティをもった異物です。
人間の姿を偽装しても、どれだけ社会との距離感を学習しても、それは絶対に否定できない『自分らしさ』なわけです。
その『怖さ』を認めた上で、『自分らしさ』が持っている危険性や暴力性は適切にコントロールできるし、抜き身でむき出しの『自分らしさ』を受け入れてくれる人もいる。
小林さんとトールの月夜のランデブー、そこで交換された真心が描かれることで、『演劇』の優しい嘘とは対極的な、しかし根っこにある精神としては全く同じの、『内部』の価値が確認される。
横幅の広さを追いかけていたカメラはあの瞬間、一気に狭くて深い特別な関係を捉え始めるわけです。

ドラゴン形態のトールを開放し、認めてあげられる唯一の『人間』としての小林さんは、あんまり出番がない今回でもしっかり切り取られました。
家を新しくしたときでも、海に行ったときでも、小林さんはいつでもそうやって、異邦人として慎ましやかに人間社会で生きているトールを開放し、あるいは導いてあげた。
『自分』が『自分』でいてもいい瞬間を与えてくれる人はいつでも偉大だし、歴史の教科書に乗るくらい立派だなぁと、しみじみ思いました。
やっぱ重要なモチーフは手を変え品を変え、幾度もリフレインさせるのが大事よね。


今回は第8話でエルマを迎え、より賑やかになった世界を堪能できる回でもありました。
大人数でワイワイガヤガヤやっているように見えて、実はこのアニメ非常に的確に人数を絞る(そして出番のないキャラはアイキャッチで、コンパクトな見せ場を作る)作劇をしております。
今回小林さんの出番が少ないのもその一環といえますが、ドラゴン人間合わせて7人の大所帯は、色んな奴らがいる豊かさ、楽しさをたっぷり味わえる、贅沢な座組でした。

クセの強いアホどもが大暴れするのも楽しいんですが、主筋が暴走しているのを気にもとめず、なんか好き勝手にやってる描写が凄く好きで。
公園でエルマが悪戦苦闘する中小学生Sが肉まんで仲良くなってたり、小林さん達の心配を他所にジジババが舞台を心底楽しんでいたり、そういう一種の『身勝手さ』が好きです。
なんかこー、カメラが主役を捉えている時でも、周囲の世界が独立して動いている感じが出るっつーか、そのおかげで風通しがよく感じるというか。
そういう『好き勝手力』が一番高いのは我らがカンナちゃんだと思いますが、主役の練習を頑張ったり、サンタさんが気になって眠れなかったり、相変わらずいるだけで作品全体の幸福度がガン上がりするナイス少女だった。

人間、ドラゴン、男、女、若者、老人、社会人、家庭人。
今回の『演劇』が、『みんなが楽しい一夜の夢』として終わったのは、色んな人がいて、それぞれ自分なりの優しさと努力を持ち寄った結果だと思います。
そういう横幅の広さと、小林さんとトールの親密な距離が交錯して、みんなそれぞれの幸せなクリスマスが切り取られる。
このアニメがずっと切り取ってきたものを、今回、この季節にしか切り取れない形でちゃんと描いていて、あのシーンはやっぱ良いなぁと思いました。


偽ることも、ありのままであることも、時と場合によって自分と人を傷つけもすれば、楽しませもする。
色んなあり方が世界にはあって、それは学び育むことが出来る。
春から夏を経て、秋を通り越してクリスマスまで。
この作品とドラゴンが話数を重ねてきた成果がじんわりと滲む、良い第10話だったと思います。
一話一話キャラが増えて、色んなことがあって小さく変化を積み重ねた結果が今回の『演劇』なのは、豊かなだなぁと。

来週は年の瀬のドラゴンと人間を、じっくりと追いかける話のようです。
そこを超えたらトールの家族との対面でクライマックスかなぁ……丁寧に布石打ってるからなぁ。
今回トールが果たした成長を見るだに、シビアでハードな展開が来ても、全く大丈夫だと思います。
そういう信頼感がお話とキャラにあるのは、つくづく良いことだ。