イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

昭和元禄落語心中 -助六再び編-:第11話感想

あの世よいとこ一度はおいで、飯も色も噺も満載の、八代目八雲死出の旅路、未練解きの分かれ道、三途の川の行く先は、心安らか金色浄土、昭和元禄落語心中、最後の一つ前でございます。
火炎地獄から救い出され『生きたい』という望みにたどり着いた八雲は、憑き物を落として親子の和解を終え、孫に見守られながら春日の中で大往生。
死んだ後も恋しい信さんに手を取られ、楽しいあの世巡業を楽しみ、みよ吉とも和解して一世一代の"寿限無"に松田さんのお見送りで極楽行きと、至れり尽くせりの天寿全うでございました。
あの楽しく美しく、少しさみしいあの世の景色は夢かもしれませんが、しかし色んな人の因業をきれいに洗い流し、お話を収めるべきところに完璧に収めてくれる、とてもいい夢でした。
重ねて八雲師匠、お疲れ様でございました。

八雲という非常にめんどくさい人の因業の話としては、先々週死神に導かれて寄席に火を付け、与太の手を取った時にだいたい終わっております。
一期は掴めなかった手をしっかり握り込んで、『死』の影から抜け出し『生』の側へと歩いていく。
その果てにまた『死』があって、たどり着いたあの世は銭湯あり飯屋あり、郭に寄席まである『生』の場所だったという、なかなか不思議な生死のラリーが展開されるのが、落語心中最終盤の展開といえます。
生きることの楽しみが最後に凝縮されてやってくるのは、苦しみ悩みつつも生き抜いて、しっかり死んだ師匠へのご褒美、というところでしょうか。

あの世にしてはひどく明るく楽しい景色ですが、それは八雲が心の曇りを晴らし、残念なく成仏できた結果だと思います。
生前"死神"や"反魂香"、"たちぎれ"を通じて見ていた『死』の世界はとんでもなく苦しいもので、生き残ることの恨みつらみを喉から絞り出すような、冷たい世界でした。
そんなイメージとは正反対のあの世は、炎であぶられて灰から生き返った八雲師匠の心をそのまま反映しており、なんとか師匠をそこまでたどり着かせた与太郎や小夏、信乃助や松田さんなどの功徳を強く感じます。
OPで必死に手を伸ばして、師匠の奈落落ちを救おうとした人たちは、こうして師匠が往生してくれることで報われているのかもしれません。

師匠の天寿全うボーナスは何も感覚を楽しませてくれるだけではなく、死んでずっと対話できなかった人たちの真意を聞き取り、心を通わせるチャンスを与えてもくれます。
『俺が死んでホッとしただろ?』と意地悪く聞く助六には、『あんなこと、あっちゃいけないことなんだよ』という本心を伝え、死ぬことで女のカルマから開放されたみよ吉とも、ねっとりと重たい色欲から離れた素直な言葉を、ようやく交わすことが出来る。
死んだ人とは二度と会えないからこそ、八雲はあれほど苦しんだわけですが、いざ死んでみると死人達は思いの外さばけた仕草で、重たい因縁を軽く笑い飛ばしていた。
腹をぶっ刺されても、刑務所にいる間に親が死んじまっても、耐えられない現実の重たさを笑いで軽くしてくれる落語の力そのもののように、死後の生は人間が背負った業を浄化してくれます。

思えば死出の旅の一番最初に銭湯に入るのも、一期第2話で菊さんと信さんが出会ったときのリフレインという意味合いと、俗世の垢を洗い流し赤子のように素直な心で、お互い向き合う準備という意味合いがあるのでしょう。
文字通りの裸の付き合いから始まった関係が、紆余曲折(それこそ褥でのもう一つの『裸の付き合い』含めて)あって残念ない死を迎え、もう一度素裸になる。
なかなかいい調子だなぁと思います。

銭湯という意味では二期九話、八雲-助六-信乃助という三代の風呂が思い出されますが、今回助六は一切顔を出しません。
八雲を必死に愛し背負って、業を決死に焼き尽くしてくれた与太郎が出てこないのはちいと寂しい気もしますが、今回のお話は『あの世』というカルマから解き放たれた特別な場所で、取り返せないはずの過去を綺麗サッパリ洗い流す回。
血族の因縁から遠く離れた与太郎だからこそ、小夏や八雲に絡みつく業の糸を断ち切れたことを考えると、出てこないことこそが与太ちゃんの徳の高さを反映しているようにも思えます。
逆に言えば八雲師匠は、与太郎に関しては死んだ時点で存念なく、『立派な弟子だよ」と満足して"野ざらし"聞いてたのかもしれません。


今回のお話はあの世をめぐりつつ、過去の思い残しをしっかり晴らし、苦労の多い人生を優しく、弱く生ききった八雲師匠の認識の物語です。
作品世界のルールとして、あの世や亡霊が実際にあるのか、それとも八雲師匠が生み出した妄念の集合体だったのかは分かりませんが、ともかく死んだ人たちとの未練を晴らし、子供から青年、老人まで歩いてきた生き様を肯定していく今回のお話が、師匠の心を反映しているのは間違いありません。
今回のお話が暖かく幸せに見えるのなら、八雲の死は幸せなものであり、その生もまた立派なものだったとは言えるでしょう。

みよ吉や助六という、顔の見える相手と具体的な話を何度もして、哀しみを蒸発させていく展開も良いんですが、認識一つで切り替わるあの世のルールを活用して、八雲自身が時間を飛び越えていくのが、今回すごく良かったと思います。
足の悪い自分のまま、子供時代から青年期、そして老年期へと移り変わっていく旅の中で、『身体の自由が効かないよ』と愚痴っていた八雲は最後、老人の自分自身を、板にかけて恥ずかしくない、最高の姿だと認める。
生き残ってしまった苦しさも、人間への愛憎も、色々なものがあったけれども、それが磨き上げた八代目八雲という老いたる芸術品こそが、菊比古が死出の旅路に際して一番胸を張れる、立派な道具だと、あの"寿限無"は語っています。

二期後半、親子会でぶっ倒れてからの八雲には、老いへの恐怖、失われていく身体性への震えが色濃く反映されていました。
身体があって、初めて表現できる落語という話芸。
それを追いかけてきたこのアニメが、八雲の老衰と向き合いその無様さをしっかり切り取ってきたことと、今回八雲が『老いたる八雲』を最後に肯定し、白髪のまま死んでいったことには、強い関連がある気がします。
苦しみぬいたからこそ、業の中心でさんざん足掻いたからこそ、美しくはないものを笑って認め、肯定できる。
生きることのカルマは助六達の心中に乗り損ねたことや、落語への愛憎と同じように、老い死んでいく身体、人間が否応なく背負ってしまう時間性に関しても、今回見事にポジティブな答えが帰ってきています。

それを思い切りうなずきながら祝福できるのは、ただ綺麗なものだけではなく、醜さや苦しさもひっくるめて嘘をつかずに描ききった、この作品の誠実な姿勢があってこそでしょう。
八雲の生ののたうち回り、安らかな死出の旅を2クールに渡り見守ってきたことは、ただ作品がきれいに収まる範囲を超えて、僕らが色んな形で生きている今目の前の人生を肯定し、安らかな気分で笑えるような結果を、力強く引き寄せてきます。
そういう豊かで幅の広い感覚がお話のシメにしっかりあるってのは、凄く良いことだと思います。


団子を売る屋台、色街、"二番煎じ"で描かれる酒にシシ鍋。
死者の物語のはずなのに、今回のエピソードでは五感に訴えかけるシーンが非常に多く、『死』の中にある『生』を際立たせています。
ここら辺の表現はこれまでのお話の中でも、丁寧に慎重に描かれたものなんですが、これもまた人間が『生きる』事それ自体の肯定という、作品全体、このお話が捉えている『落語』の本質に関わるものだと思います。
食って呑んで色がついて、色んなことが起こる生き死にってのは、基本的に笑えて良いものだという強い信念が、最後の舞台に衣食住の匂いを宿らせ、寂しく冷たいお別れを選ばせなかった感じもあります。
八雲が団子を食った瞬間、『ヨモツヘグリを食っちまった。こら師匠本当に死んだな』と思ったもんですが。

同時にあの世界は俗念を離れた浄土でもあって、みよ吉は死んでようやく『女を捨てる』事ができた。
俗世で苦しんで苦しんで苦しみ尽くしてたどり着ける救いもあるし、死んでカルマから開放されることで手に入る開放もまたある。
どんちゃん楽しい道中を描きつつ、スーッと影が忍び寄り、桜吹雪に蛍に雪、一面の風車に距離を置かれつつ見守られる今回のお話は、やはりこれまで描いてきた浮世とはまたちょっと違う、異界の物語でもあります。
暗い闇の中でぼうと光る美しいものが何度も何度も画面に映ることで、画面に静寂と異界の空気がスッと匂い、最後まで気を抜かない演出力の高さに感じ入りました。

異界には異界のルールがあって、金色に輝き鳳凰が舞う八雲の旅に付き従うのは、自死を選んだ助六ではなく、同じく天寿を全うした(だろう)松田さんです。
助六は路銀がどうのと誤魔化していましたが、自死を選んだものはおそらくあの河を渡れず、生前の輝きを写し取りつつも『味も素っ気もない』食事しか出ないリンボに、永遠に繋ぎ止められる。
四国の旅館では繋がらなかった手と手は、今回も川の流れにせき止められて、小指に名残を宿して離れていきます。
助六は岸に残り、八雲は旅立っていく構図は、苦界に取り残されてしまった菊比古と女房のために逆しまに落ちた初太郎とは、綺麗に逆しまです。

しかしあの時のように、八雲は心残りと苦しみの中で旅立っていくのではないでしょう。
しっかり生きて、しっかり老いて、しっかり苦しんで、しっかり助けられた結果、死出の旅は楽しく、無数の存念はトントン拍子に消えていった。
『アタシの世界に色をくれた男』と明言していた信さんとも、まるで恋人のような色気のある岸辺の約束を残して、綺麗に別れることが出来た。
そういう幸福な分かれが、八代目八雲という男の終わりであり、それをずっと追いかけてきたこのお話の、一つの終わりなわけです。

仏様のエキストラステージという意味では、ついぞ信乃助に聞かせられなかった"寿限無"を最後の話に選んだのも、粋なはからいでした。
八雲という名跡の重さを背負い切り、宝を残して死んでいった男が最後に、生まれてくる命に祝福を込めた『名付け』の噺をする。
それは苦界に身をおいてまで守りきった娘が演じた噺であり、ジジイになったからこそ手に入れた恋しい孫の得意演目であり、散々に苦しめられた『血』の呪いの、光の側面を象徴しているようでもあります。
『浄土にたどり着いて、戒名をもらって生まれ直す』という視点で見ると、八雲師匠は名付け親のジジイであると同時に、名前を与えられ業を背負わず世界に飛び出していく、一人の赤子なのかもしれません。


かくして、その歩み自体がまるで一つの落語であるような、笑いあり涙あり、血のかよった『生』の気配と全てが終わった『死』の匂いが同居する、不思議な死出の旅が終わりました。
僕らが見守らせてもらった八雲の生き様をしっかり祝福し、助六に『よく生きた。よく死んだ』とようやく褒めてもらえるこの話が、じっくり24分あったこと。
それはとても嬉しいことで、同時にこのアニメが何を描いてきたのかをしっかりまとめ上げる、見事なエンドマークだったとも思います。

とか言ってますけども、旅立っちゃった師匠と松田さんは横において、若い連中は俗世で生きております。
時間という川が流れ、老人を極楽にさらっていっても、おいさばらえつつ生者は居残る。
紅顔の美少年は世の中の屈折を受け取って、涼しい美貌の青年へと相成りました。
桜散る平成の世の中で、生き続ける人たちがどのような終わりを語っていくのか。
残り一話の落語心中、心の底から楽しみです。
ほんといいアニメだぁ、このアニメ。