イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ:第48話『約束』感想

一握りの砂が指の隙間から逃げていくように、一粒一粒、散っていく希望と命。
オルフェンズ第48話です。
連絡を断ち切られ孤立無援の状態で、地下トンネルとマクギリスによる包囲突破という一筋の光明にすがり、『いつか』を求めあがく子供たち。
しかしそれは誘蛾灯のようにオルガを火に誘い込み、かくして鉄華団の旗を掲げた少年は血まみれのまま死んでいく。

お疲れ様、オルガ=イツカ。
無様で、愚かで、家族以外の連中に己を預ける勇気も優しさもない弱い人間だったけど、僕は夢見がちな君が、本当に好きだったよ。
こんな寂しい故郷の町でお別れなんてどうにも辛いだろうけど、君が死んでも物語は続いてしまって、どっちにしても、後二週間で一つの幕だ。
本当にお疲れ様、オルガ=イツカ。


お話としては先週見せた微かな希望がアリアンロッドによる全周包囲で潰され、地下トンネルとマッキー特攻で少しの希望が見えて、フラグを順調に積んで、マッキーが振られてオルガが死ぬと、まぁそんな感じです。
光があるから闇が濃くなる作り、希望を盛り上げて最後にざっと奪う展開は、第41話でラフタが死んだ時にやっていることなのですが、何度やられてもしんどいもんはしんどい。
どうせ手が届かないんだろうなぁと、酸っぱい葡萄のように諦めたふりをしつつ、それでも縋ってしまう感情の煽り方は、大したもんだと思います。

今回も自分の墓穴に続く道を舗装し続けるような展開で、マッキーが鉄華団との差異を認識して別れていったり、女たちがなんとか安全圏に逃げ延びたり、オルガと三日月の癒着を強調したり、お話が収まるよう細かい仕事が随所になされていました。
マクギリスが鉄華団に感じていたシンパシーは本当のものだったけど、『家族』を信じられないからこそ力にすがり人望を失った彼と、『家族』が地獄の中で唯一すがれるものだった鉄華団とは、根本的に目指すものが違っていた。
マクギリスがそのズレに納得し、道が重なっていなかった哀しみにしがみつくことなく、修羅の道を歩んでいく姿には、奇妙な清々しさがありました。

マクギリスはカルタの恋慕も、ガエリオの友誼も跳ね除け、ただアグニカ=カイエルが示した力の神話(もしくはお伽噺)だけをよすがに生存してきた、『家族』のいない男です。
しかし同じ地獄から生まれ、踏みつけにされる現状を同じく力で跳ね返そうとした鉄華団に、敵対するうちに共感を抱いたのでしょう。
俺と同じ場所から生まれ、同じ方法を選んでいるのだから、同じ道に歩めるはずだ、導いてやろう、と。
それは傲慢な共感であり、勝手に擦り寄られた鉄華団としては疫病神以外の何者でもないんですが、それでもひどく歪な形で、マッキーが手に入れた『家族(に似た別物)』だったのかもしれません。
『家族は陰謀の道具でも、数で数えられる駒でもねぇ』とオルガに言われたら、反論はできませんが。

心情がどうあれ、『家族』主義の鉄華団と『力』主義のマクギリスは根本的なところですれ違っていて、利害が吹っ飛んだ今となっては別れていくしかない。
今生の別れの瞬間ですら、『君たちがとどまることで、私に利益があるんだ』と言うしかないマクギリスは、徹底して孤独なのだな、と思います。
『家族』とそれ以外に境界線を引くことで、想像力を死滅させた数多のキャラクターを見ていると、孤独であることが必ずしも悪いとも、弱いとも思いませんが。
こうなってみると、マッキーが思い描いた幼い夢想に己の夢を重ね、道具としてでも一緒に戦ってくれた石動がいたことは、裸の王様であることが強調されているマッキー、最後の誇りになるのかな、とも思う。
一人だけでも、マッキーの夢が届く人がいたってことだから……それが悪夢でも、です。


マッキーは最後の駄賃のように、今回三日月とよく話しました。
『オルガのやりたいことが、俺がやりたいこと』という三日月イズム(もしくは鉄華団イズム)の先を問うことは、実際オルガが死んじゃった今回大事な問いで、今後三日月はこれに向かい合わなければいけない。
自分の人生を狂わせた十字架たる拳銃は、オルガが持って行っちゃったわけだし。
『あの時俺の魂を壊したんだから、俺の代わりに人間の苦しみを背負って、人の生きる道を考え続けてよ』という呪いは、オルガの死によって強制的に解除されてしまいます。
それに先んじて、『では、オルガが消えたら君は何も望まないのか。君自身の望みはないのか』という問いを三日月に(そして鉄華団に)投げかけられるのは、マクギリスが『家族』ではなく、オルガ一人を群れの頭として際立たせ、判断を捨て去る集団的価値観から自由だからでしょう。

思い返すと、三日月は問いかけには無言、もしくは暴力での中断を持って常に答えてきたように思います。
クランク二尉にも、ジュリエッタの言葉にも、『うるさいなぁ』で切り落として、思考を止める。
無論それだけが彼の処世術ではないってことは、戦争の機械から抜け出るべく足掻いた彼の軌跡(文字学習とか、植物育成とか)を考えれば分かりますが、他者の言葉があまり刺さらなし、刺さるより早く攻性防壁を張るキャラだというのは、間違いないと思います。
そんな彼が受け入れた二人の女が、おそらくもう鉄華団と合流することはなさそうなのは、なんとも虚しいことです。

マクギリスの誘惑は、鉄華団の中でも最もアグニカ=カイエル的な存在、己の力のみを頼りに世界を切り開いていく豺狼の生き方に共感したからだと思います。
『君の姿は僕に似ているから、僕と一緒に来ないか』と思えるほぼ唯一の存在が、マッキーにもいたわけです。
しかし共感を殺した戦闘機械であることの先に、『誰もが輝かしい未来をつかめる世界』という夢想を見るマクギリスと、手で触れ体温のある『家族』、特にオルガの未来を求める三日月では、方法は似ていても根本が異なる。
だから、三日月へのラブコールは袖にされて、マッキーは苛立ちをイオク様にぶつけます。


無謀な突撃に身を晒し、身内のために体を張る。
これまでと同じようにイオクとオルガは重ね合わせて描写されており、お互い身を寄せた河岸の命運を背負って、その無様さと生死は反転しています。
見知らぬ人の血で喉を潤し、荒野を生き延びてきた暴虐の徒が、生きるのか、死ぬのか。
その境目にあるものが何なのかは、正直僕には分かりません。
イオクがクジャン家の御曹司だから生き延びて、オルガが親のいないバカガキだから死んでいくってのは、何度も言うけどやっぱやりきれない、ニヒリズムに満ちた答えな気がするなぁ。

イオクは『自分の命は他人の血で繋がれている。それを贖わなければならない』と、英雄的(とされる)行動を取りました。
でもその発言には、死んでいったタービンズの女や、MAに焼かれたプラントの人々は入っていない。
どんな立場だろうと、顔のない他者への無条件の共感など持ち得ないのがこのアニメの基本ルールではあるんですが、しかし贖罪や無垢という概念は、直接的つながりのあるなしを超えて無条件であることが、その尊さの根底にあるものだと思います。
あくまで自分に縁のある身内、血の繋がった『家族』に限定された想像力から生まれた涙は、オルガの死に涙する団員と同じように限定的で、人間らしく、醜く美しいものでしょう。

『オルガが死んでんだから、イオクも殺せよ』って話ではなくて、それが同質のものだとして描いているのなら二人の行く末には差異がありすぎるし、異質のものだとして描くには似通った部分が多すぎる。
そう感じています。
そういう物語的な計算式が成り立たない作品なのかもしれませんが、どーにも自分は原因と描写の積み重ねがあって結果が生まれる、一般的(とされるだろう)な物語の組み方を、この期に及んで求めてしまっているようです。
不条理をルールに定めるにしては、語り口に味が付きすぎてる印象なんだよなぁ……今更か。

どっちにしても、マクギリスはイオクを殺さず(殺せず?)、彼は悪の輩を排斥する聖戦の嚆矢の役目を、身を持って果たし生き残りました。
それを栄光として描くのは、作品内のルールがそうなってるのなら、そうなのでしょう。
ただ、その下にはタービンズの顔のない女たちや、プラントの人々や、サヴァラン兄さん筆頭にドルトコロニーの労働者達の死体がたっぷり埋まっていて、その血はイオクの命を贖うために流れた『家族』の血と同じ値段なのではないかという疑問は、どうしても付きまとう。
『そういう話だから』と諦めるには、自分の中でそこはちょっと、譲れなさすぎるポイントです。
イオクが今後たどる物語は、そういう部分に関わってくるので、見逃せないなと思っています。


んで、オルガが死にました。
三日月の自立は作品に残った数少ない芯でしょうし、ここで死ぬのはまぁしょうがないかな、と思います。
たっぷりフラグも積んだし。

死ぬ前に『もしかしたら鉄華団が何人かは生き残れるかも……』というルートをちゃんと整備して死んでくのが彼らしくて、寂しいなぁとも思いました。
地下トンネルを抜けて、アジーさん率いる新生タービンズと合流し、蒔苗先生の権力で鉄華団という旗を綺麗に焼き尽くせば、生存の目がある。
『頼れる団長』の仮面をかぶり直して、テキパキ今後のルートを差配する手際は頼もしく、それが自動的にフラグにもなっているという、なんとも悪辣な運びでした。

オルガが整えた道にすがって、あと二週間鉄華団は行くのでしょう。
鉄華団が足掻いた結果少しだけ残ったものを命綱にして、『無駄じゃなかったんだ』と己を慰めながら、もしくはザックのように悪態をつきながら、沈む船を修理しながら、脱落者を出しながら進むのでしょう。
その先に未来があるのか、鉄華団の旗は心のなかだけに残れば報われるのかってのは、最後まで見ないと分かりません。

どっちにしても、生き延びた子供たちはオルガに全てを任せてきた負債を、どうにか払わなければいけない。
敵味方両方含め、他人の血にまみれた道を歩いてきて、最後は自分の血で足を濡らして前に進もうとした男がいなくなってしまった事実と、向き合わなければいけない。
向き合えなくても、世界が彼らを殺しに来るのだから、答えは自動的に出るわけだけども。

オルガが死ぬのは、まぁ良いよ。そういう話だよ。(良くねぇけど)
ただ、器じゃないのにガキどもの魂を背負って、泥の中から引っ張り出して、薄ら弱い夢に酔わせて、必死に頑張ってきた愚かな男が、最後の最後に残そうとした道を、あんまり無碍には扱ってほしくない。
この話の『リアリティ』がそういうものを踏むことで成立している(としか僕には思えない描写が多々ある)としても、なんかこー、手加減してくれねぇかな、って感じです。
オルガの喪失が鉄華団にとって絶望ではなく、絶望の先に新しい灯火を宿すものだといいなぁと、なまっちょろく祈っております。


正直、オルフェンズの感想を書くのは辛いです。
色々揺さぶられて、揺さぶられることに疲れたので心を動かすことをやめようと努めてもいましたが、それでも揺さぶられてしまうのは、やっぱなんだかんだ、僕はあの子達が好きなんだろうなと、今は思っています。
オルガは死ぬんだろうな、三日月は死ぬんだろうな、クーデリアは死ぬんだろうな、明宏は死ぬんだろうな、みんな死ぬんだろうなと準備を固めて、防壁を積み上げても、やっぱしんどいものはしんどいです。
死んで当然と言わんばかりのアリバイ的な描写はそこかしこに巧妙に埋め込まれつつも、死なない側のアリバイが徹底されていないから、持たざるものが死んで持つものが生き残る『リアル』な結末にも、因果の繋がった物語を求める脳は納得できていません。

オルガが死ななければよかったなと、今でも思っています。
でもオルガは死んでしまって、全然道の途中でバカみたいな死に方したのに、なんか褐色のキリストみたいなエモい演出乗っけて、盛り上がる音楽と一緒に死んじゃいました。
そんな感動より、僕はオルガに生きててほしかった。
視野が狭くて、身内以外に冷たくて、博打打ちで、バカなあの子が、そうじゃなくなる世界が良かったなと、今でも思っています。

この先どういう物語が来るのか。
あと二話で、オルフェンズは終わるようです。
楽しみか楽しみでないのか、正直もうよくわからないですけども、見て、感想を残そうと思います。
いつもの様に後ろ向きな感想で、申し訳ない。

最後に、オルガと三日月にに僕の好きな詩から一節、抜粋して送ろうと思います。
自分でもキモいなぁと思うけども、今はそういう気持ちなんで。
三日月は来週と再来週、オルガのいない世界に放り出されて、何を選び取るのかなぁ。

 

愛するものが死んだ時には、
自殺しなきゃあなりません。

愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも、業が深くて、
なおもながらうことともなったら、

奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

奉仕の気持に、ならなきゃあならない。
奉仕の気持に、ならなきゃあならない。

 

中原中也"春日狂騒"より