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イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ:第49話『マクギリス・ファリド』感想

道化師が月に吠えて、俺達は一人、また一人と、崖から落ちていく。
友よ、地獄で会おう。
オルフェンズ、第49話です。

三日月がオルガの死靈の依代となって、死ぬまで生きることを鉄華団の是として認めさせ、それを果たすためにハッシュが死に、それとは一切関係なくガエリオがマクギリスを殺しました。
宇宙と火星地表、2つの荒野は孤児たちの血を啜って赤く、どこまでも赤く、狂い咲いていきます。
命を燃やしきっただの、精一杯の死に様だの、特攻病に酔っ払った寝言が取りつくしまもなく、負け犬たちは己の血の詰まった溝の中で窒息し、恵まれた子供たちは地獄を理解ったつもりで、トカゲめいた瞬膜で良心を覆って、青春に葬っていく。
嫌な話でした。

前回三行半を突きつけたマッキーを宇宙にすっ飛ばして、鉄華団は己の道行きを定めました。
オルガの言葉は俺の中に生きている、死人の木霊は人生の真理。
いつもの鉄華団らしい、『家族』を大事にする結論でした。
これまで『家族』の範疇から出ず、出ないことで寄る辺ない己を守り続けた鉄華団が、最後の最後だけ『まとも』な想像力を獲得して、生き方を変えるということはありません。
そういう部分はこのアニメ、全登場人物基本的に徹底している。
個人的に最後の一線は、クーデリアが鉄華団の死によって抽象との終わりのない戦いを止めて、マトモに生きて死ぬ人間に戻ってしまうか否か、だったりします。

さておき、三日月は自分の中のオルガと呼応し、その預言を拡大することで空疎な自我を埋めました。
それが三日月の生き方だったし、生身のオルガ=イツカが死んだところで変わるわけでもない。
むしろ死んだからこそ、オルガ=イツカは永遠となった……と言えるのなら、鉄華団もまた残らず死に絶えることで、永遠に汚されることなき無軌道な青春のアイコンになり得るのでしょうか。

ジェームス・ディーンやボニー&クライドのように、年を取らない綺麗な死体として負け犬の遺骸を扱わないのは、このアニメの特徴です。
負け犬は負ける理由があって負けて、そこから目をそらすのは無様で、愚かな所業で、それと全く同時並列的に、生きていた彼らは輝いてもいた。
その輝きが生きる指針ともなり、死を加速させる呪いともなるわけですが、多様だとか多層的というには、負け犬のあがきにポジティブなフィードバックが不自然に返ってこないアニメでもあります。
なかなか不思議な味付けしてるなぁ、こうして思い返すと。

三日月がオルガを憑依させ、褐色のキリストが昇天した後も地上に生き残ってしまったペテロのごとく、半裸で垂訓を語ったことで、破れかぶれの復讐は止められ、生き残るための最後の戦いに全力をつくすことになりました。
生き残るために、仲間を守るために、立ち止まるために、殺されないために戦い、殺す。
鉄華団の戦いにはそういう要素が多々あったわけですが、同時に時流を掴んだイケイケ特有のぶっ殺し路線と、環境由来と自発的選択の合わせ技で加速した想像力の停止が含まれているので、その戦いがサバイブのためだけの無辜なる戦いだとは、けして言えません。
こうなるようにお話が組まれた結果、作中のロジックに従って展開した、ありえるべき結論ではあっても、『悲壮だから』という情緒的な理由をくすぐりつつ、それだけでガキどもの命を助けてはくれないアニメでもあります。

不誠実に殺し続けた『汚い大人』とその被保護者たるアリアンロッドが勝勢を強めていることからも、鉄華団の死は因果応報の結果ではなく、ただパワーを比べ合い、然るべき理由の果てに負けた結末だといえます。
感情やドラマツルギーで結論が変わらないのは『リアル』かもしれませんが、その補正は思いの外、アリアンロッド側には効いていない気もすんだよね。
為政者を未だ引きずり下ろすパワーが有るように描かれている世論が、100%報道操作によって誘導されているところとかさ。
まぁ鉄血世界のカメラの外側にどういう社会が広がっていて、どういう価値観を共有して成り立っているかは残り二話ですら解らないので、ここで画面の外側に議論を伸ばしてもあまり意味は無いのですが。

さておき三日月の選択を受けて、鉄華団のMS乗りたちは『生きるため』『明日に繋がるため』という前向きな、『人として当たり前の』動機で戦うことになる。
ムードがそういうことになっているので、これまでさんざん『死のう! 死のう! 家族で死のう!』というオーラをむき出しにしながら実際バンバン死んでたこととか、生きるために可能だった家族以外の手を銃弾で跳ね除けて、クランク二尉以来バンバンぶっ殺しまくってきたことは、あくまで地下水脈に押し込められています。
僕はそういう、表面的なムードの盛り上げも、それに動かされてしまう自分自身の感情も、大っ嫌いなんだなと今回つくづく思いました。
だって鉄華団は『まとも』ではけしてないし(『まとも』になりたいと願いつつ、内部・外部様々な要因によりそれが不可能だったことも認めます)、そのことをこの作品が忘れたことは一度もないでしょう。
なのにここで、あたかも『まとも』な血肉の通った、罪科なき少年たちが生け贄として死んでいくようなムードだけ出すのは、やっぱ不誠実でしょうよ。

ショックがあり反響も強い語り口と、不完全さと無様さを計画的に積み上げ描写する冷静な目の同居。
そこら辺のギャップを自分の中で定位できなかったことが、このお話を巧く把握できなかった理由なのかなぁと思う。
激しく入れ替わる看板はさておき、主役という立場を与えられた少年たちを切り取る目、描く筆はけっこうシビアで、リアルで、冷静だ。
その目が『持たざる』半裸の彼らだけではなく、『持てる』彼らの敵にはあまり向かないこと含めて。

そこのことを認めた上で、鉄華団が『家族』を守ろうと血まみれになる姿、ハッシュが失ったものを追いかけようとして届かず、最後に三日月に認められて死んでいく姿に感じる痛みも、また嘘ではないと思う。
彼らは間違ったまま頑張って生きたし、その結果負け犬になって死にかけてはいるものの、楽しかったり、頑張ったりしたこと、それ自体が無になるわけではない。
鉄華団は立ち止まらない』という題目を唱えたところで、鉄華団は止まる。
人は死ぬし、勝ち負けは付く。
それでも、そういう夢を裸の孤児たちが見たということ、それが血まみれでピカピカの夢だった事自体は、けして蔑せないことだと思う。
その夢に、僕の心が動いたことも。

三日月の想像力は、死んでいった過去の『家族』と、死んでいく未来の『家族』と、今となりで生きている現在の『家族』の三点測量結果を、やっぱり出ない。
それが、オルガの与えた拳銃により魂を削ってしまった三日月=オーガスの根本であり、そうならざるをえないと作中で規定された、一つの結末なのだろう。
そうなっても、文字を学ぼうとして、植物を育てようとした彼が、刻まれた過去と現在から抜け出しそうとした彼が、消えてなくなるわけじゃない。
オルガの声、ハッシュの声、死人の声を脳みその中に残照させながら、体を張って『家族』を未来につなごうとする彼は、オルガに呪われオルガを呪いつつ、彼なりの現実を活きてここにたどり着いたのだろう。
そこにたどり着くしか無い物語がフェアであるか否かは、その是非とはまた別の話になるんだろうね。

多分三日月は、このアニメは、こうして無用な想像力を伸ばしてどうにか分からないものを分かろうとするあがきを、「うるさいなぁ……」と、いつもの調子で切り落とすのだろう。
それでも、火星の半裸の子供ならざる、それなりに恵まれた現代人の僕は、諦めずにグダグダといろいろ考えてしまう。
それもあと一話で終わりだ。
願わくば、オルガ最後の祈りと呪いに、それを受けて三日月と鉄華団が選び取った結末に祝福があって欲しいもんだが、まぁ望み薄だろう。
どうなるんでしょうねぇ、本当に。


そんな感じで、地べたに縛られながら狭い世界で生きたり死んだりしている鉄華団に対し、天を掴もうとした金髪のイカルスが死んでいた。
己の死闘を持って手の届かない大きな世界を変化させようとしたマクギリスは、狂気とも無知とも嘲られる英雄信仰に準じる形で、大昔の旧型機体と心中する形で死んでしまった。
マクギリスの魂を陵辱の地獄から守り、あるいは歪めた夢は、マクギリスを当然守ってはくれなかったわけだ。

『この力はお前とは違う、人の心を背負った力だ!』と吠えていたガエリオが生き延びたのは、幾度も改修を重ね最新技術とお家のパワーで強化されたキマリスに乗り、ヴィダールとしての仮面に防弾効果をつけておいた用心の結果である。
オルガが防弾チョッキも付けず、死地でもイキって鉄華団スーツ着て銃殺されたのを考えると、相変わらず皮肉と対比のセンスはこのアニメ鋭い。
人間の心、かけがえのない絆。
そういうものが自分だけの特権であるかのように振る舞い、『家族』の死に涙を流して想像力にフタをする姿勢もまた、鉄華団アリアンロッドも何も変わらずだ。

ガエリオはしきりに『俺を見ろ』という。
彼はマクギリスを見たのだろうか?
彼の地獄、彼の荒廃、彼の絶望と拒絶を生み出す源泉が、他でもなくボードウィン『家』に連なる特権階級の己に続いているという反射を、ガエリオは見たのだろうか?
修辞疑問は否定と同義だから、答えは『見ない』だ。
見ないものを見てやる優しさは、想像力の荒野たるこのアニメでも、最大限に他者を(物理的にも精神的にも)拒絶してきたマクギリスには、当然無い。

と言いたいところなのだが、死に及んでマクギリスは想像力の片鱗を見せた。
己の延長線上にガエリオやカルタがいると、その優しさを信じて良いのだと思ってしまえば、生き方が変わっていた。
『家族』の範囲を拡大したい気持ちはあったが、過去の経験から来る恐れや、選び取った生き様へのプライドが、それを許してはくれなかった。
その果てに、この殺し合いがあると。

マクギリスは失血に青ざめた表情で、ガエリオが泣いているのを『見る』。
相手が血も涙もある人間で、尊ばれるべき己と同じ存在なのだという想像力を、死の縁で伸ばそうとする。
ガエリオはそれを拒絶し、お前がそういう『人として当たり前の』感情を持った同種だと分かってしまえば、生き方全てが無駄になるから止めてくれ、という。
その姿は、『マトモになぞ為ってやるものか』と、ガエリオやカルタの手を跳ね除けたかつてのマクギリスと、嫌になるほどよく似ている。

死の瞬間、マクギリスは涙を流している。
ガエリオは当然、それを『見ない』。
カルタの、アインの、過去の死者への帰らない木霊を喚き立てるのに忙しくて、マクギリスが理解不能の怪物であると自分を納得させるために、必死に自己を防衛する。
それもまた、アグニカ=カイエルの幻影に生きる縁を探し、パワーへの信仰だけを選び取って生き延びてきたマクギリスの似姿だ。

死の直前に人間になりかけたマクギリスと、人間らしい『まともさ』を杖にマクギリスを殺しに行ったガエリオ
二人の血、二人の涙にはどんな差異があったんだろうかというのは、イオクとジュリエッタが生き延び(ジュリエッタの方は来週ヤバい感じでもあるが)、オルガとハッシュが死んだ今、ずっと消えない疑問だ。
特に理由はないのかもしれないし、物理的に豊かなポジションを取れる幸運かもしれないし、あるいは特定の立場を『正しい』として推したい作者の意図なのかもしれない。

友情、正義、愛。
きらびやかな凶器を陳列しながら襲い掛かってくるガエリオは、当然主人公でも正義の味方でもない。
彼の博愛は、他のキャラクターと全く同じように目の前にある『家族』までしか伸びないし、『家族』以外もまた人間なのだと思ってしまえば、その殺戮は止まってしまうほどに脆弱な人間でもある。
光り輝くものは、常に醜悪さを身にまとっている。
『家族』と『殺していいヤツ』を分けて歩み、今死にかけている鉄華団と、美しい光を望んで覗き込むことで、マクギリスの涙を見落としたガエリオは、おんなじ光を別の角度から作品に投げかけているように、僕には思える。

鉄華団との共通点に目を向けつつ、『かも』の先にはけして出ないジュリエッタもまた、そこはおんなじだ。
今回そこかしこで匂い立っていた『正しさ』や『在り得たかもしれない可能性』への想像力(の死骸)の描写は、『公平性へのアプローチを、忘れてはいませんよ』というアリバイめいていて、正直な話嫌だなぁと思う。
そういうこと、これまであんま大事にはしてこなかったでしょ、正直。

みなあるべき生き様を教えてもらえなかったオルフェンズでありながら、生きる死ぬ、勝つ負けるは割れる。
その境界線を支えるロジックについて、僕は考えている。
多分最終話を見ても、答えは出ないだろう。


ガエリオが多重にまとう欺瞞性、無私匿名であるがゆえに価値を担保されている数々の想念を、個人的に扱うグロテクスは、正直上手く描けていた。
そのグロテスクを反射するマクギリスの死も、気づけば彼のことが結構好きになっていた自分としては、なかなか良かった。
かくして応報は為ったわけだが、では、その先は。
美しいものは醜くもあり、醜いものは美しいという形は示せたと思うが、矛盾にまみれたその答えを掴み取って、さて何をするのか。
そういう『で、何なの?』という問いに答えが帰ってこない様子は、三日月が、あるいはガエリオが死人の声を己の声と勘違いし、エゴイズムの境界線を的確に引けない作中の描写と、奇妙にシンクロする。

想像力の欠如、『家族』の呪いを画面にみっしり詰め込んで進んできたこのアニメは、もしかしたら想像力によって切開され、理解(誤解)され受容されるフィクションという形式を選択しつつも、その切開自体を拒絶するねじれの中にあるのかもしれないと、残り一話で思い至った。
『お前らなどに理解されてたまるものか。作品の内部のことは、作品の内部でしか展開され得ないのだ』という、創作的自閉がもしこのアニメの基本哲学なのだとしたら、それはやっぱり、ニヒリズムであり自己矛盾だと思う。
まぁ僕は(他のあらゆる人がそうであると思うけども)他者の考えを損傷なく把握できる超人類ではなくて、失敗と断絶にまみれながら当てずっぽで色々考えるしかない、ただのバカなわけで。
本当のところが何なのかは、来週最終回を見ても分からんし、明言されることもないだろう。

ただ、僕がそう感じて、このアニメに想像力を掻き立てられて、今もなお、嫌悪感と倦怠混じりで読み続け、読んだものをこうして文字にしていることは、事実としてそこにある。
『読むな』と書いてある文字を読む自由もまた、人には許されているものだと思う。
やはり、テクストは浮遊しているのだ。
もう感想でも分析でもなんでもなく、心の流れをキーボードに叩きつけているだけの文章だが、今ん所こうして書くしかない。
それをこうしてあなたが読んでいることに、僕は本当に感謝しているのだ。

来週で、この感想も終わりだ。
楽しんでくれるか、反発を覚えるか、はたまたなんにも感じないのか。
僕がこうして書き連ねている文字が、あなたに何かを生み出してくれているのなら。
あなたが僕を『見て』くれているのなら。
それはとても、嬉しいことだと思う。