イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

リトルウィッチアカデミア:第20話『知性と感性』感想

星星が古い時代の魔法を蘇らせ、少女たちは新たなる友情を紡ぐ、リトルウィッチアカデミア第20話です。
初の2話またぎエピソードとなりましたが、前回きっちり土台を整えた甲斐もあり、ダイアナとアッコがお互いを、そして自分自身を試練の中でよく見知っていくお話となりました。
ここまで20話、交わらないままに優等生と劣等生、インサイダーとアウトサイダーに別れて暮らしてきた二人ですが、優しく見守り橋をかけてくれるアンドリューやアンナの助けもあり、見事に一つの答えにたどり着くことが出来ました。
今回も色んな要素が入り混じっていますが、書きながらまとめていきましょう。


今回のエピソードは色んな対立構造が融和点を見つけていくわけですが、一番大きいのは『大人』と『子供』だと思います。
学校をやめ、当主の責任と社会的地位を背負うとするダイアナは、無理して『大人』になろうとする『子供』です。
そんなダイアナの中の『子供』に、理屈は弁えない、伝統は踏み越える、自分の感情が何より大事な『子供』のアッコは気付いていて、言語化出来ないにしても違和感を感じている。
さんざん部外者だ、無関係だ、お友達なんかじゃないと距離を置かれても屋敷にとどまり、ダイアナの問題にコミットし続けようとするのは、母を失い大人になるしかなかったダイアナの不自然さを、無意識に感じ取っているからでしょう。

ダイアナの前に、アッコに『大人』として接するアンドリューの役割が想像以上に大きく、彼のファンである僕には嬉しい展開でした。
うまく言葉を見つけられない、しかし情熱と直感力は図抜けている『子供』に寄り添い、時に知らない知識(子供時代のダイアナが、アッコと同じ『劣等生』であったこと)を授け、時に的確な疑問と整理を行って問題解決の道筋を作る『大人』
そんな彼もまた、ハンブリッジ家の伝統と父への敬意により、『大人』であり続けようとする『子供』です。

貴族の息子として、伝統の扉を守る側にいるはずのアンドリューはアッコの背中を押し、女の子には開けきれない重い扉を解放します。
それはアッコの真っ直ぐな瞳に向き合い、自分の代わりに存分に『子供』でいてくれている少女と対話することで、心を動かされたからだと思います。
そしてそれは、今回だけではなく第6話、第10話、第17話と、アッコの冒険に付き従い彼女の良さ、アッコが代表する『自分とは異なる世界』の価値に目を開いてきたからこそ、生まれた行動だと思います。

アンドリューとアッコの間には、恋に近接しつつ友情とも言える、なんとも不思議な距離感があります。
伝統を尊びつつ抑圧され、それでもノーブルな生き方を貫きたいと願うアンドリューにとって、東方からやってきた元気な女の子は、性別も立場も性格も違うからこそ、そして魂の奥底でうねる青春の熱を共有するからこそ、助けたくなる仲間なのでしょう。
知力も年齢も上のアンドリューは基本、その落ち着きでアッコを導いていく『大人』なわけですが、同時に物分りが悪い『子供』だからこそアッコはアンドリューが気づかない疑問にたどり着き、みんなが諦めてしまう真実に果敢に挑もうとする。
その輝きは、かつてピアノという憧れに出会った『子供』であり、今も『子供』であり続けているアンドリューの中に未だくすぶっている炎です。
己の中にあって忘れかけているものを蘇らせてくれるからこそ、アンドリューはアッコのズボラさや愚かさも含めて、彼女を大事に扱うのだと思います。

ラストカットで、アッコは大事な魔女帽をアンドリューの車の中に置き忘れる。
それは衣装であり、外から見て判る魔女の証です。
アッコにとって『魔女である』という証明は、ワックワクーのドッキドキーな夢を忘れず、『信じる心』という真実の魔法に素直であり続けることだから、うっかり忘れてしまうのでしょう。
伝統の継承者として、外側を大事にする『大人』の方法論を学んだ『子供』として、アンドリューにとってその忘却は苦笑を禁じ得ないと同時にとても眩しい、周りを顧みない生き様でもある。
今回の話は二人の女の子だけではなく、彼女たちを優しく見守り、ジェントルに手を差し伸べた一人の少年の姿も見事に照らしてくれていて、嬉しいお話でした。


ダイアナの話に入る前にアンドリューの仕事を見たのは、それが後の物語の暗示にもなっているからです。
母を失い、『大人』になるしかなかったダイアナですが、彼女はアンドリューと異なり『魔女』です。
アンドリューが立ち止まった扉の向こう側、巨大な蛇がとぐろを巻き、箒が空を飛ぶ魔法の世界の住人である、ということです。
前回『現実』のシビアさを背負っていたハンブリッジ伯爵が去るところから今回のお話が始まるのは結構示唆的で、現実-魔法という対立軸が外れ、魔法に接近したファンタジックな物語が展開される象徴だといえます。
アンドリューが天文学と神話学の知識からキャベンディッシュ家の伝承を読み解き、金星食ユニコーンが織りなす魔法儀式の真実に接近するのも、その一環と言えるでしょう。
やっぱアンドリューは『魔法が使えない/男』として、外部から魔法の価値を見出し、擁護する立場にあると思うなぁ。

魔女に親しい立場にあっても、アンドリューは扉の奥の魔法界には入れません。
それはアッコとダイアナという二人の魔女が接近し、対峙し、融和する舞台であり、対立者として『悪い魔女』であるダリルと古き呪いが立ちふさがる儀式場です。
アンドリューが差異を用いて自分とアッコの歩む道を整えていたとすると、ダイアナは同じ『魔女』たるアッコとの親和性を足がかりにして、自分が本当に見つけなければいけないものを探していくことになります。
そしてそれが、アンドリューもアッコを鏡に見つけた『大人の中の子供』なのだということは、家の重責を下ろしルーナノヴァに帰還していくラストシーンからも見て取れます。


ダイアナは賢く視野も広いので、まず己を改めていくのはアッコになります。
アンドリューに『ダイアナだって生まれたときから優等生だったわけじゃない。苦しい時に必死に苦労して、劣等生から生まれ変わったんだ』と教えてもらうことで。
もしくは打ち捨てられた伝統を巧く象徴した水没図書館で、ダイアナの素直な気持ちを聞き出し、『立派な夢』を持っているのだと気づくことで、アッコはダイアナが自分と同じ存在だと気づくことが出来る。
アッコはバカでガサツですが、心を震わせる真実を目の前にしたときは己を改め、生き方を変えられる強さを持っているというのは、例えば第6話で示されたところです。
完璧に光り輝いて見える星が、実はとんでもない苦労を重ねて燃え上がっていると知るのも、ポラリスの泉に通じる展開ですね。

アッコの変化は『分かっていない』状態から『分かる』状態になる変化で、例えば冒頭、ダイアナを留める時に『よく考えて?』という言葉を使っています。
アッコはダイアナが思慮の果てに学校を去る決断を下したとも、ここで追いすがることがダイアナの決意を踏みにじることだとも考えない。
そこに思い至るのは、優秀な思考の産婆役たるアンドリューが、的確に状況をまとめ上げ、疑問点を洗い出してからです。
そういう無神経さはアッコの『弱点』であり『個性』でもあって、少しずつでもそれが変化出来ること、微細な成長に向かって開かれていることは、学園と青春を舞台にするこのアニメにとってとても大事なことだと思います。

またアッコは『分かっていないけど分かっている』という、いわば愚者の智慧のような状態にもあります。
アンドリュー、またはダイアナ自身という『大人』が覆い隠してしまっている本心は、知性でいくら追いかけても真実を見せない。
物分かり悪く、ただ自分の感性に従う『子供』だからこそ、ダイアナが本当にやりたいことに、論理を一足飛びで超えてたどり着いてしまえるわけです。
『学校でやりたいことがいっぱいある。ダイアナは学校にいるべき』という身勝手な思い込みが、実際真実であるというのは、細やかな心理を映像で演出する力によって、視聴者には理解っていることです。
作品全体を俯瞰できる神の視点を持たなくても、こと人間の真心においては間違いを犯さないあたりが、アッコの主人公力だなぁと思います。

アッコがダイアナのことが分かってしまうのは、自分を過信した妄想であると同時に、過剰な共感能力の表れでもあります。
『来たからにはやめたくない。卒業したい』という願いは多分、ダイアナの行動をロジカルに推測したというよりも、ルーナノヴァまではるばるやってきた自分の気持ちを重ねた結果だと思います。
それは身勝手な行為なんだけども、優秀さゆえに孤立しているダイアナには扉に踏み込む行為が何より必要で、アッコはそこで躊躇わない。
コンスの研究室にも、スーシィの夢の中にも踏み込んできた青春の足取りでガンガン距離を詰める身勝手さは、やっぱりアッコの武器なのです。
時に無神経で乱暴なことが、何よりも優しい治療になりうるというのは、なかなか豊かな見解だと思います。

かくして『ダイアナの中に私がいて、私の中にもダイアナがいたんだ』という気づきを得たアッコは、20話にしてようやくダイアナの顔を見る。
それは第12話で物理的に『ダイアナになって』も理解しきれなかったことであり、心を開いて他人を受け入れることでしか達成できない魔法でもあります。
アッコにとって、『立派な夢』というのは存在の根幹です。
『シャリオになりたい』という一心で英語を身につけ、イギリスくんだりまで魔法を学びに来た彼女には、賢さも伝統も血縁も地縁もない。
ただ憧れた人がいて、大事にしたいものがあって、守るべき夢があるからこそ、苦労もたくさんあった道をなんとか走ってこれた。

そういう女の子にとって、ダイアナにも夢があり、母親と祖霊の思いを守りたかったのだと知ったことは、自分にダイアナを引き寄せる決め手になります。
自分を構成する最も大事な要素が、シャリオと伝統、形は違えど同じ熱さ、同じ重さで胸の中に宿っている。
言葉をうまく扱えないからこそ、直感力に優れたアッコは、そういうものを本当に実感しなければ、ダイアナが自分の魂の姉妹だという真実にたどり着けないわけです。
それは長く曲がりくねった道だけども、だからこそ揺るぎない信念の足場になるし、そこから生まれる行動には魂が宿るのでしょう。
アンドリューやアンナという優しい介添人の助けも借りれば、そういう物分りの悪い『子供』の道もちゃんと歩ききれると示すのは、凄く夢と誇りのある描写だなと思います。


心理的にも物理的にもグイグイ間合いを詰めてくるアッコに対し、ダイアナは持ち前の高潔さで既に手を差し伸べています。
自分の儀式が頓挫するにも関わらず、自分を守るために毒に侵されたアッコを、自分を構成するハンブリッジの医療魔術の伝統で治す。
それは彼女が第2話で枯れかけていたジェニファー記念樹を『治療』した時から変わらない、優しく公平な彼女の『個性』です。

過去に描いたものを大事にしつつも、今回は二人の関係性が決定的に変化する回であり、アッコはズケズケとダイアナの過去、信念、心に踏み込んでいきます。
『大人』であることを己に任じ続けたダイアナが、物分りよく諦めようとしたものを、『子供』の無知と貪欲で全て手にしてしまおうと提案してくる。
ダイアナの世界観ではどれかを選ぶしかなかった、当主と学生、『大人であること』と『子供でいること』、現実と夢という対立項が実は両立可能で、何かを切り捨てる必要など無いのだという真実に、アッコは直感でたどり着きます。
それはダイアナやアンドリューの知性では到達不可能な飛躍であり、アッコが主役として持つとても大きな力です。
ただ感性の強さだけを持ち上げるのではなく、知性ゆえに可能なこともたくさん描いているのが、非常に良いですね。

何者も諦めないアッコの無謀を、ダイアナはずっと眩しく見つめてきました。
それが自覚されたのは第13話、バハロワの怨念をアッコが『治療』し、観客を楽しませる魔法の新たな可能性に出会ったときなのでしょうが、やはりダイアナの登場話でもある第2話、パピリオディアの『復活』の時から、ダイアナは自分とは異なるアッコの輝きを見つけ、伝統に反すると反発しつつ引き寄せられていたのだと思います。
今回キャベンディッシュの起源が分かってみると、ダイアナとアッコが交錯するイベントには軒並み『治療』『復活』という要素が絡んでいて、ダイアナの中の譲れないモノにアッコが無意識に触れていたからこそ、ダイアナはアッコを気にかけていたのだなぁと得心がいきました。

遠巻きに視線を送っていた過去とは違い、今回は鼻が擦れ合うほどお互いの距離が縮まっています。
何も諦めず、全てを手に入れようとするアッコの方法をダイアナは選び取り、伝統に縛られる大人として、『もう間に合わない』と諦めることを諦める。
アッコが自分の中のダイアナを認めたように、ダイアナもまた、自分の中のアッコ、自分の中で夢に目を輝かせ、あまりにも綺麗な夢を真っ直ぐ追いかけ諦めない『子供』の存在を、肯定するわけです。
優等生のダイアナが押し殺してきた、物分りが悪い劣等生。
アッコがズケズケと他人の家に、他人の心に踏み入ったからこそ、けして殺してはいけないその存在が顕になり、肯定され解放される結末に至るわけですね。

子供の無茶苦茶を実現可能にするのが、ダイアナがアッコに言葉を送り、声を合わせて言の葉に意味を与え、その結果手に入れたシャリオの箒をダイアナに譲渡する一連の流れなのは、とても面白いです。
お互いの強みを分け与えながら増幅し、二人で力を合わせて何かを成し遂げる展開は、第4話のロッテ、第8話のスーシィ、第17話のアマンダ、第18話のコンス……つまりアッコの仲間たちのエピソードに共通する構図だからです。
『伝統』に馴染めない劣等生・問題児という共通点で繋がっていた仲間たちにとっては、存在していた絆をより強くする冒険だったわけですが、異質だからこそ自分の新しい可能性を見つけていく今回は、同じ構図が別のものを生み出している感じです。
同時にアッコの中にあったダイアナも、ダイアナの中にいるアッコも、今回いきなり撒かれた種ではなく、反発しつつ瞳を奪われる引力の中で目立たない芽を出していた感情なわけで、根本では通じるものがあるのでしょう。


かくして、第3話で流星号と見せた疾走もかくやというスピードで、ダイアナとアッコは飛ぶ。
今回のシャイニーロッドが箒になることには、色んな意味が込められていると思います。
変化は出来ても飛行はできないアッコが、自分が救世主として手にれた特権をダイアナに譲渡する美徳を導くためでもあろうし、魔女術のオーソドックスである『箒での飛行』をどれだけダイアナがやれるのか見せる意味もあるだろうし、アッコと言の葉にたどり着いて開放されたダイアナの心の速度を絵で見せる意味もあったと思います。
第3話では競争した二人が、17話かけて同じ箒に乗る所まで来た、という対比もあるかな。
ここまでアッコが『飛ぶ』瞬間を引っ張るのは、やっぱ最後の最後で印象的に使うためだよなぁ……もしかしたら、カガリ・アツコ最後の魔法になるかな、ともうっすら思うけど。

飛行魔法は使いこなせませんが、アーシュラ先生と二人三脚で磨いた変身術は、すっかりアッコの強みとなりました。
古き領域に足を運ぶ時、ダイアナは先祖伝来の古式の呪文(石によって円を作る所が伝統を感じる)によって樹を伸ばすのに対し、アッコはネズミに変じて自分らしく渡っている対比は、それぞれが背負う魔法を感じさせて良かったです。
ネズミ→鳥→ゾウ→カメと、トーテムを取り替えつつ蛇と戦う魔法の使い方は、第13話では変幻自在のエンタテインメントとして観客を喜ばせ、ダイアナに驚きと敗北感を与えたものと同じだったりします。
状況が変われば同じ魔法でも別の使い方が出来るし、その現れが違ったとしてもそれぞれ良いものであるのは変わりがないわけですね。

圧倒的なスピードで時間に追いつき、閉鎖的な地底から開けた空に躍り出た二人は、儀式の総体を初めて自分の目で見ます。
それはダイアナの飛行術がなければ、アッコが杖を箒に変化させなければ、二人で飛ばなければ見れなかった景色です。
ダリル達(その性根が悪いとはいえダリルは優秀で、娘達にさすダルされている姿はハンナ&バーバラにワッショイされているダイアナを思わせます。歪んだ鏡だね)の妨害をものともせず、ダイアナは悪い魔女、悪い伝統を弾き飛ばして己の望みの前に立ちます。

が、ダイアナはそれを振り捨てて、呪いに囚われたダリル達を助けます。
これは蛇に噛まれたアッコを助けた行いの再演であり、『慈善と治療』というハンブリッジの伝統を正しく遂行した結果でもあります。
時間切れとなり、『当主継承』という目に見える目的を果たせなくても、血に刻まれた不可視の価値を守ることを、ダイアナは選んだわけです。
形には残らなくても、心に刻まれた正しさと喜びは記憶に残る。
そういう形の勝利は、アッコが第3話の箒レースで、もしくは第13話のバハロワ救出で達成した真実の勝利であり、対外的な勝ち負けという『大人』の価値観を内面化セざるを得なかったダイアナが、遠目で見ながら羨んでいた輝きでもあるのでしょう。
こういう形でも、今回ダイアナはアッコを内部化しているわけです。

そういう伝統を正しく継承できなかったダリルが、『毒蛇』を使い魔にしているのは非常に面白い。
歪んだハンブリッジであるダリルは、薬が毒になり、毒が薬にもなる医術の家系であり、ダイアナが伝統を正しく行使する『薬』だとすると、その影であるダリルは『毒』を使うわけです。
さらに言えば、医術神アスクレピオスの杖には蛇が巻きついており、現在でも救急車やWHOに刻まれているところを見ると、似合いのトーテムだなぁと思います。
祖霊と向かい合う時の衣装もギリシア・ローマ系だったし、名前はダイアナ=アルテミスだし、ハンブリッジは南欧からブリテンに移住してきた家系なのかもしれないなぁ。
ダイアナの無償の行いを前にして、ダリルを蝕んでいた毒が薬となり、生き様を変えてくれるといいなぁ、と心から思います。


家を継がなければならない、大人でいなければならない、儀式を成功させなければならない。
ダイアナは知らずの内に自分を縛り付けていた『やらなければならないこと』を、アッコの生き様に感化されることで振りほどき、『やりたいこと』に向かい合います。
それは母が為し得なかったハンブリッジの本懐をやり遂げ、敵味方の区別なく傷ついたものに手を差し伸べること。
形式としての伝統(アッコにとっての魔女帽子)に囚われるのではなく、『信じる心』という本当の魔法に素直に、道を選び取ることです。

己が定めたハンブリッジのあり方を体現するダイアナの決断を受け、ベアトリクスは死んだ石ではなく、生きた魔法として一時の復活を果たします。
それはアッコが歩んできた言の葉集めに似た、形式ではなく行いと思いこそが魔法に力を与える瞬間であり、過去に失われたものが己の志を継いだ末裔により、現在に復活する瞬間でもあります。
『失われた過去を現在に引き継ぎ、未来に向けて復活させる』というモチーフは、例えばグラントリスケルによる魔法界復活、パピリオディアの復活、バハロワの除霊もしくはアーシュラと名前を変えたシャリオの舞台がアッコとダイアナを導いてきた展開とも共通するところですね。

伝統と先祖を何より重んじ、尊敬してきたダイアナの決断を受けて、ベアトリクスが復活し彼女を祝福する展開は、ダイアナの母が死んでしまっていることと合わせて、報われる思いがしました。
当主の座は告げなかったけども、キャベンディッシュの本懐を遂げ、母の遺言となった『伝統と新しい力が交わる時、まだ見ぬ世界の扉が開く』という願いも叶えた。
革新の権化たるアッコとふたり、箒で空を飛んで見つけた新しい扉には多分、『友情』と刻まれていると思います。

優等生故に孤高だったダイアナに、とんでもなくパワフルでバカで優しい対等な友だちができたこと。
今回の物語の終着点はそういうちっぽけで、何よりも大切な結論になりました。
祝福であると同時に呪いでもあった母の言葉を乗り越え、『やりたいこと』と重なり合いつつ先にある『やるべきこと』に別の形で向かい合うようになったダイアナの新しい人生は、より強い輝きを放つでしょう。

そして新たな友は、これからアッコが立ち向かう世界規模の変革に際し、これ以上無いほどの助けになってくれると思います。
ダイアナの背負う伝統の重さ、気高さ、夢の輝き、自分で話しえない生き様をアッコが学ぶことで。
アッコの中のダイアナをより強く、大きくしていくことで、アッコがどう変化していくかは、今後の描写から見て取る部分です。
とても楽しみですね。


今回の話は過去のリフレインであると同時に、未来の予感でもある気がしています。
試練に向かい己を試し、真実の答えと目に見える実りを天秤にかけ、迷いの果てにより大切なものを選び取る。
ダイアナが今回辿った旅路は、アッコがこれまで歩んできた道のりの延長線上にあると同時に、アッコがこれから歩く物語を暗示しているのではないかなと思うのです。

過去が現在に繋がり、現在が未来を指し示し、過ぎ去ったものが蘇る。
様々な時間の相の中で発生する響き合いを、物語の構造の中で最大限活かしてきたこのアニメにとって、ダイアナがたどり着いた結論は過去の集大成であり、同時に未来に繋がる足場の一つでもあるはずです。
新たに友となった少女がたどり着いた答えが、アッコにとってどういう意味を持つのか。
新たに友となった少女が挑む試練の中で、アッコに助けられたダイアナはどういう役割をはたすのか。

これまで丁寧に描写されてきたダイアナの強さ、優しさに、ようやくアッコが気付いてくれたこと、あの身勝手な子供がそこまで他人を見るようになってくれたことが嬉しい。
それと同じくらい、大親友となった二人が歩むこれからの物語がどうなるのか、楽しみでなりません。
とても良いエピソードでした。