神撃のバハムート Virgin Soulを見る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年7月9日
戦い終わり日が暮れて、それでも日々は巡る。神の国を目指すニーナ&ジャンヌの旅、その中休みを描いた竜の里のお話。
展開的には小休止なのだが、キャラの心理面では大きな進展があった。VSらしいゆったりとした語り口が、最大限生きている。
神との戦争によって傷ついた王都と、その復旧。未だ健在な王宮とシャリオスの裸身。ニーナサイドに話が移る前から、今回は傷と治療の話である。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年7月9日
ニーナたちと違い、シャリオスは休まない。風呂は一人で入るし、傷を増やしながら戦場に戻る。王は個人的な癒やしを必要としないし、してはいけないのだ。
そんなシャリオスの『王的な身体』は、裸身になっても羞恥を伴わない。堂々と見せ、共有される公的な身体だ。シャリオスの心理的鎧は、風呂に入るときでも脱げはしない。それが一部でも晒されるのは、ニーナの視線の前だけなのだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年7月9日
ここに油断がないのは、敵役としても恋の相手としても大事だろう。
悪魔の生き血を絞り、神に槍を向ける覇王。その身体は完璧さを失い、どんどん傷ついている。片目は失明し、床屋の剃刀で赤い血が流れる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年7月9日
しかし損傷を認めてしまえば、もう一つの『王的な身体』である王国自体も綻び、喉笛を狙う敵に食い殺されてしまう。血が流れようが、平然と立ち続ける必要がある
玉体を傷つけた床屋に、恩寵を見せるシャリオスは印象的だ。彼は覇王であっても、(少なくとも人間同種に対しては)暴君ではない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年7月9日
己のプライドを守るために他人の命を使うことはしない。剃刀一つでシャリオスの偉業は揺るがないとばかりに、堂々と許し、休むことなく走り続ける。
その姿に頼もしさと危うさが同居しているのは、なかなかいい演出だと思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年7月9日
王と人間。優しさと残虐。矛盾する性質はシャリオスの美しい身体のなかで同居している。理解が難しかろうと、シャリオスはそういう存在として世界にあって、王たる権力と暴力を撒き散らしている。
王の危うい裸身に感じるものは、つまり彼が背負い守る人間の街、社会そのものへの印象でもあろう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年7月9日
戦争の合間としての平和。治癒期は必ず破綻する。その時、王は金剛不壊の身体を持つ超人として立ち続けられるのか、人間的な傷にうずくまるのか。今後の焦点を巧く暗示するシーンだった。
シャリオスの複層性は未来だけではなく、現在にも通じている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年7月9日
傷跡が目立つ王都から、穏やかで完璧なドラゴンの里へと舞台が移る。家を見つけ、人と出会、風呂に入り、服を着替え、食事をする。
王には描写されなかった人間的身体/尊厳が、衣食住を伴って回復されていく描写の穏やかさ。VSらしい
ニーナはジャンヌと二人で風呂に入る。衣を脱ぎ、親しい距離で裸身を晒し、共有する。孤独な王とは違う入浴だ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年7月9日
そこでニーナは、母…つまり恋の先輩であるジャンヌに心を預け、初恋について語る。アクションの急流、牢獄の非日常の中では反省できなかった自分の心を、友に語ることでまとめていく。
ニーナは子供なので、王であり人間でもあるシャリオスのことがわからない。人間には色んな顔があり、善悪は同居出来ることを知らない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年7月9日
しかし今回、風呂の中で開けっぴろげに語り合う中で、ニーナはジャンヌから複雑さを学ぶ。難しいことは分からなくても、友達のことならニーナにはよく分かるのだ。
それは恋への特効薬でも、人生の解決策でもない。しかし共感や知恵はそういう、一歩ずつ長い階段を踏んでいくような積み重ねによって形作られるのだろう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年7月9日
王様のことはわからない。でも、友達のことなら判る。判るように、素裸になって自分を見せ、私を受け止めてくれたから。
肌色サービスシーンのはずなのに、女たちが悩み、傷ついていること、そしてそれをお互いに受け止めケア出来る人間のタフさを静かに表現する場面としてしっかり機能しているのは、非常にVSらしいと思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年7月9日
のんきなシーンなのだが、子供なニーナを成長させるためにも、大事な場面なのだ。
もう一つVSらしいのは、年長者としてニーナを導いたジャンヌが、強く賢いままでは終わらない、ということだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年7月9日
彼女もまた人間として、複雑さと癒やされない傷に悩んでいる。神の機械であり、エル=ムガロの母であり、殺戮者でもある自分を、巧く受け止められないでいる。
そんな彼女に、ニーナの母が(文字通り)手を差し伸べる。『傷つかないふりをしなくても良い。泣いても良いのだ』と。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年7月9日
それはジャンヌ自身が、ニーナの恋を受け止める時見せた姿勢であり、真心だ。それはドラゴンの里では循環している。強い存在が同時に、弱い存在でもあることが許されている。
王の傷つかない身体と、ジャンヌの脆くて強い体。脆いことを許される関係性と、失明しても荒野に戻らなければいけない立場が、より鮮明になる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年7月9日
そういう物語機能を横においても、ジャンヌのしんどさをママが受け止めてくれたのは凄く良かった。そういうのってやっぱ大事よホント。
10年前の暴走により、ジャンヌの心に刺さった罪悪感。それはエルへの愛情と同じくらい、ジャンヌを強く縛っている。ニーナの父親を自分が殺してしまったとあれば、なおさらだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年7月9日
母の包容により、ジャンヌの心の底が見えてくると同時に、ニーナもまた10年前の惨劇に関わっていることが見えてきた。
ニーナが竜化してしまうのは、父の死と強い関係がある。父という最も身近な男性を喪失して以来、ニーナは竜になることで恋…男性と関係をもつことを拒絶するようになったのだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年7月9日
ニーナにとって、巧く恋することは暴力を制御することであり、失った父と再話することにも繋がるわけだ。
そして父の死は10年前の惨劇の結果であり、ジャンヌの心に刻まれたトラウマでもある。ニーナが恋≒暴力≒父の死と向かい合うことは、ジャンヌにとっても大事なのだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年7月9日
ジャンヌがニーナの恋を支えるのは、子供を守る年長者の義務でもあり、友への恩義を返すためでもあり、自分自身の贖罪でもあろう。
このようにして、『複雑さは私の中にもある』というジャンヌの言葉に肉がついていく。喜びと悲しみ、痛みと許し、過去と現在。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年7月9日
抱きしめてもらう子供(ニーナ/ジャンヌ)と抱きしめる母(ジャンヌ/ニーナの母)という構図が繰り返され、ジャンヌの立場が変わることで、複雑さを強く実感できる。
心に刻まれたトラウマは、乗り越えるべきハードルでもある。(特にドラマの中ではそうだ)
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年7月9日
父の喪失と10年前の贖罪という、女たちの心底がよく見えたことで、それを乗り越えていく道筋もクリアになったと思う。今後彼女たちは、今回のように一歩ずつ、恋と罪悪感に立ち向かっていくのだ。
その道程はハードで、助力とケアを必要とするからこそ、今回のどかなドラゴンの里に立ち寄ることとなる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年7月9日
みすぼらしい囚人服から、清潔なドラゴン族の衣装への変化。それはジャンヌが尊厳を取り戻し、傷を治療され、ドラゴン族の価値観を受け入れた証拠にもなる。第4話のムガロの衣替えと同じやね。
脚本が大石静だからか、VSは女同士の支え合いというか、身近な衣食住を通じて心の力を回復していく描写が多く、見ていて安らぐ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年7月9日
着飾ることは外部へのアピールなのだが、同時に自分自身を慰撫しプライドを取り戻す行為にもなる。服を通じ、女たちが相互に支え合い前進するパワーが描写されている。
そんな女たちの関係と並列して、オルレアン騎士団の男たちの関係が書かれていたのは面白い。ニーナが喪失し、ジャンヌが略奪した『父』を、ディアスが牢屋と歓楽街を行き来して演じる形だ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年7月9日
拷問で傷ついたカイザルに手を差し伸べるディアスも、仲間の傷をケアできる優しさと強さの持ち主だ。
ケルベロスに手玉に取られる放蕩息子、アレサンドをディアスはぶん殴り、道に戻す。ジャンヌ/ニーナの母とはまた違う、年長者としての責務の果たし方。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年7月9日
ケルベロスにキッチリ料金払っている辺り、オヤジは頼りになるなぁ…。アレサンドのゲロの始末も、ある意味『治療』か。描写重ねるね。
何言ってるか理解できない婆ちゃんが、見事に竜の力を制御して変身すると力強い竜体になるのもとても良かった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年7月9日
積み重ねてきた年月は飾りではなく、パワフルで美しい。女たちを神の国に運んでくれるくらいに。そしてそこは、理想郷ではない。治癒された心身を構え、彼女たちは新たな舞台へ向かう。
大きな見せ場の合間の、繋ぎの話。なんだが、各キャラの心の傷を掘り下げ、今後の戦いに向き合うパワーを注入する展開を、どっしりやってくれた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年7月9日
ケアされる主役サイドと、傷だらけのまま立ち続けるシャリオスの対比が、巧く物語全体を照射していたように思う。舞台は神国へ移るが、さてはてどうなる
追記 玉体と瑕疵
追記
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年7月9日
『玉体』とは貴人の体を表す言葉だが、『玉』の価値は欠けたところがなく、完璧(これも『玉』から出た言葉)であることから生まれる。
『傷ついた玉体』とは既に矛盾した言い回しであって、血を流し片目が見えないシャリオスは、政治装置としての身体をもはや喪失しかけている。
傷一つ受けず、人間的な弱さを一切持たない完璧な装置。それを演じることでシャリオスは悪魔を踏みにじり、王国を支えてきた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年7月9日
シャリオス自身が望んだ覇道の夢は、当然のこととして破綻しかけている。英雄装置であり続けるには、シャリオスは人間的に過ぎる。素顔で恋などしてしまうのだから。
追記 新EDについて
VS追記。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年7月9日
新EDはシンデレラとUFOを組み合わせたポップで可愛らしい仕上がり。とても良いものなのだが、あらゆる要素が『これは夢でしかないよ』と言ってきてしんどくもある。
カイザルの腕、シャリオスのファバロの足、シャリオスの目。身体的喪失は拭い去られている。
あのとき踊った幸せな城下は、現実では戦火に巻き込まれて瓦礫になってしまった。UFOの馬車に連れられてのシンデレラ・ストーリーは、夢の中、本編の外側にしかない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年7月9日
傷が当たり前に存在する本編世界の中で、ニーナとシャリオスはどんなダンスを踊るのか。楽しみつつ、そんなことを考えた。