イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

アイドルタイムプリパラ:第42話『ディア・マイ・トモダチ!』感想

少女たちよ、世界に挑め!
愛と裏切りの先週に引き続き、未知に戸惑い頑なさに閉じこもるしゅうか&ガァララを、お節介な友達と同類と姉が勇気づけ、生き方を変えていくエピソード。
いつものお笑い調子を随所に混ぜつつ、ある程度自意識が成熟しているがゆえに身動きが取れないしゅうか、何も教えられず何も体験できなかったがゆえに怯えるガァララ、それぞれの表情が巧く切り取られていました。
お互いの居場所から動きにくい二人に、各キャラクターが働きかける方法もそれぞれで、最終的にみあのレジェンドライブが決め手となりましたが、バカのお節介にも見えるトロイの豚貯金箱作戦も含めて、それぞれのキャラクターらしい助力を描いていました。
DMFリバイバルをキッチリ決めたみあも素晴らしかったが、守られるべき子供だった無印からだんだん自力で立ち、世界を広げてきたガァルルの歩みが、同じく世界に愛されなかったガァララに変化をもたらす流れ、自分も孤独と頑なさを経験すればこそしゅうかの信条に寄り添えるミミ子の扱いも、とても良かった。
少しずつ生き方を変えて明るい未来へ踏み出していく少女たち、そこから弾き出された闇の忠義者・パックの巨大感情もしっかり切り取り、一つの終わり、一つの始まりとしてとても良いお話でした。


というわけで、例によって例のごとくいろんなことが起きているアイドルタイム。
お話の主軸はしゅうかとガァララ、運命に結び付けられつつ別れてしまった二人の少女が、どう自分の心に、未知の体験に踏み出していくか、というところにあります。
正直もう少し引っ張るかなぁ……と思っていたのですが、二人が生き様を改めるところまでは一気にやってしまって、それを貫き通すために立ちふさがる壁を、他のキャラの成長描写共々、今後やっていく感じになりそうです。
声優さんの演技も相まって、惹かれあう二人がすれ違っている描写は心に痛かったので、手早く、しかしアツくエモく説得力強くまとめてくれたのは、非常にありがたいですね。

今回は各キャラクターがどういう段階にいて、何を問題視しているかが、凄く細やかに描かれていました。
当たり前に家族がいて、教育を受けて、それなり以上に成熟した結果、トップアイドルという立場にいられたしゅうか。
パック以外誰もいない夜に閉じ込められ、善悪の基準も友情の意味も教えられないまま、異常な力を手に入れてしまったガァララ。
同じように友情とそのつまずきに苦しんでいても、二人の精神状態、それを生み出す社会的・内面的背景は大きく異なります。

独力で店を経営し、アイドルとしての自分をプロデュースもしてきたしゅうかは、冷静な現実能力を兼ね備えています。
冒頭でファンとの関わり、ガァララとの友情を思い返す描写には、彼女の幅広い視野が反映されている。
あくまで『しゅうかが嫌だって言うから』夢の収奪を止めるガァララに対し、しゅうかは自分を支えてくれる人のことも、自分が踏みつけにしてしまったものも、薄っすらと認識している。
そういう接点を持っていればこそ、彼女の『店』は扉を開け、他者によって身銭を切る価値があるかの審判に備えているわけです。

しかしそういう『公』への視野を持ちつつ、問題の根っこはそこにはない。
あくまで、自分が初めて手に入れた掛け替えのない『トモダチ』であるガァララと、それに利用された(としか思えない)自分自身、そこに伴う個人的で共有不可能な痛みが、彼女の足を縫い止めています。
理想主義的現実主義者であると同時に、エゴイストでもある彼女は、『公』への意識という体温の低いものではなく、より切実な熱量を伴う個人的感情に支配されて、ガァララに向かって踏み出す足を止め、扉を閉じてしまう。

それが必ずしも悪いものではない、ということは、虹色夢眼の狭い視界に囚われつつ、物語の中心を爆走してきた夢川ゆいの描き方を思い返しても、納得の行くところです。
結局人間を躍動させ、世界を変化させていくのは、実感の伴った『私』の痛みと感情なのであり、他者や世間『だけ』を見た動きは、真実何かを生み出すパワーに欠けている。
夢の形骸だけを追い求めてきたときのにのの脆さや、自分自身が己の夢であったと気づく前のみちるの危うさなどからも、アイドルタイムがそういう文法で描かれていることは明瞭です。


でも、そういう出発点から始まった動きだったとしても、人は必ず誰かに接合されてしまっていて、自分が動けば他人を引っ張り、頼りない足場を誰かに支えられてしまっている。
ゆめの身勝手な思い込みは『アイドルは男のもの!』という世界のルールを書き換え、色んな女の子の夢になってパパラ宿全体に広がった。
それは強力な夢というエンジンが、ゆいのもう一つの強さ……優しさというシャフトで世界に接合されていたからこそ生まれる運動であり、心に鍵をかけて空っぽの店に閉じこもったしゅうかもまた、そのうねりに連なる場所にいます。

『夢見た未来を、すぐさま現実に変える』『あくまでストイックに、極限的に『個』を伸ばしていく』というしゅうかのスタイルは、ゆいの広範な夢とは違うスタイルだけども、価値のあるものだった。
その輝きに引き付けられたからこそ、ミミ子はしゅうかに接近し、みあもおちゃらけた態度の奥で妹を見守り続けた。
なによりも、ガァララの孤独と自分を重ね合わせ、心通わせる共感能力は裏切られてなお、当然死にはしなかった。
だから、扉を閉ざしたとしてもみあの言葉はしゅうかの元に届くし、彼女は他人にこじ開けられるのではなく、自分で扉を開け自分の足でステージへと赴く。
それは彼女が、孤独に努力を続けつつ他者を見、他者に見られてきたから……ファンと仲間を(分かりにくい形であれ)ちゃんと尊重していたからこそ生まれた、エゴイズムと公共性が同居する瞬間だったのだと思います。

自分で自分を見失ったり、損なったりしたときでも、その真価は心の何処かに眠っていて、完全に消えるわけではない。
にのが『ヒーローアイドル』という夢を探し、様々な道をさまよい歩いたように。
あるいはみちるが、自分自身を守るために夢を隠し、アイドル活動を通じてもう一度自分と出会い直したように。
もしくはミミ子が、アボカド学園を一旦離れ、自分の耳で過去に出会い直して、アイドルが好きな自分を取り戻したように。
しゅうかもまた、『孤高の現実主義者』という(セルフ、あるいはパブリック)イメージの奥で培っていた他者への優しさ、世界との繋がりを一旦投げ捨てて、みあの呼び声によってそれに出会い直すわけです。


そこに至る前に、主役勢のおバカなトロイの木馬作戦が試みられ、失敗します。
『合わないかも』と明言していたしゅうかにわざわざおせっかいを焼くのは、ゆいの公平な善性ゆえであるし、『みんなトモダチ』を体現する主人公の責務でもあるし、ファララという運命の相手に抱く特別な共感ゆえでもあるでしょう。
第16話で、ゆいとらぁらがミミ子を受け止めきれなかったように、これまでしゅうかとクリティカルな繋がりを作れなかった二人は、彼女の心を開放しきれない。
その仕事を担うのは、彼女にとって特別な身内であるみあ、あるいは運命の相手であるガァララです。

でも、その結果を導いたのはあんま親しくもないバカ達のお節介あってのことだし、そうしようとバカたちが立ち上がったのは、しゅうか自身の善性が彼らに繋がる強さを持っていたからこそだとも、思うわけです。
唯一絶対の特別な相手は確実にいて、運命的で決定的な変化はその太い繋がりの中でこそ生まれるのだけど、でもだからといって、他の存在との繋がりは無駄にならない。
むしろ感情や運命の濃淡は当然のようにあって、それを前提に多層に繋がっていく幅の広さを、主役たちのオチャメな失敗は巧く肯定しているように見えました。
好きな人、合わないけど放っておけない人、愛すればこそ裏切られたと傷つく人。
様々な存在との感情や繋がり方は、シンプルな是非によってスパッと切り捨てられるものではなく、複雑なスペクトラムを描き、その濃淡に応じた役割を演じることで、機能を果たしていくものなのでしょう。

しゅうかは彼女自身の気質と才覚、環境と人間関係によって、そのように多彩な色を持った世界と複雑に接合し、そんな自分自身を(ある程度)客観視も出来ていました。
そういう視野の広さと冷静さが、夢を食わなければ生きていけないガァララの特異性を、彼女に説明される前に推察できてしまう聡明さにも繋がっている。
それでも、裏切られたと思い込むエゴは強く痛み、彼女はそこからなかなか出れない。
同じ経験や資質を持つミミ子が、『そうやって殻を自分で作って動けないのは、不幸で良くないことだ』と歩み寄っても、ついつい自閉してしまう。

そこをぶち破るパワーを持っているのが『アイドル』なのだと見せた、みあのステージを決定的な要因に持ってきたのは、ステージを扱う作品としてまさに正着、素晴らしい流れでした。
判っていても動けない、進みたいけど勇気が出ない。
そんなアンビバレントを、問答無用のカリスマで、歌と踊りの興奮と共感で『どっかーん!』とぶち壊し、自分の気持ちに素直に前に出れるパワーを与えてくれる。
正しいと思えるものに、真っ直ぐに向き合えるきっかけを与えてくれる。
みあのステージが妹であるしゅうかだけでなく、ガァララや他のアイドル、世界中のファンを動かしたのは、そういう『アイドル』のパワーを肯定する形で、とても良かったです。


赤と黒シンフォニアドレスを着込み、グレイトフルシンフォニア世界樹を背負い、フラッシュグローブの残光が鮮やかなみあの舞台。
モーションアクターに(今はなき!)Prizmmyの日下部美愛本人を引っ張ってきて、6年越しの"上葉みあ"本人による"Dear My Future 〜未来の自分へ〜"を歌わせる。
どっかで見たモブ含めてオールドファン感涙の仕上がりなんですが、ノスタルジーをこれでもかとくすぐりつつ、あくまで現在進行系の物語をしっかり後押しするステージになっていたのは、とても良かったです。

"Dear My Future 〜未来の自分へ〜"はDMFらしい、真っ直ぐで泥臭くすらあるメッセージ性の強い歌詞が、何よりの特徴だと思います。
その中の一節『挑戦する精神が大事さ 何度でも立ち上がろう』というエールは、まさにすれ違いに怯え、過去の自分にしがみつこうとする少女二人の背中を押し、とてもありふれた、でもとても勇気のいる仲直りへと導いていきます。
それは過去の尊さへ向けられた詩であると同時に、今まさに人生の岐路に立つあらゆる人に向けられた、未来の歌でもあるわけです。

姉という支えがいる(どころか、自分のために目の前で歌ってくれさえする!)しゅうかと比べ、善悪の基準も、他者の痛みも、あらゆる『人間としての当たり前』を教えてもらえなかった、人外のガァララ。
彼女にとって『仲直りをする』ことはとても怖い未知への挑戦なわけですが、みあの歌はその恐怖に強い理解を示す。
"たとえ翼折れたとしても 涙の数、強くなれるから"と、失敗すること、それが涙を伴うことに、強い共感を示す。
そしてそこから"もう一度立ち上がれるよ"と、自分の経験を含めて、同じ目線で語り、背中を押してきます。
それは先週、茶化しながら妹に訪れた友情の気配を、そこに生まれる戸惑いと照れを見守り、静かに背中を押してあげた優しさと、同じ心だと思うわけです。

更に言えば、みあ自身が六年前、いろんなことに傷つきながら前に進んだ少女だった。
運命に出会い、友情に傷つき、それでも『私がみんなを未来に連れて行く!』という夢を追いかけ、一つの結末にたどり着いた主人公だったわけです。
だからこそ、傷つくこと、立ち止まること、身勝手であることを頭ごなしに否定はしない。
それもまた人のあり方で、私もそうだったし、今もそうだったと歌い踊り、『アイドル』として全身で伝えてくる。

そんな彼女が、時空を超え、あのときのお転婆おバカのお調子者のまま、誰かの憧れになって背中を押してあげれる存在になった。
あいらのオーロラライジングに夢を見て、セイントという伝説にたどり着いた少女が、今度はかつての自分と同じように、恐怖と期待に震え立ち止まる少女の夢になる。
そういう輪廻があのステージには込められていて、とても良いなぁと思いました。
いろんな不思議で結びついた妹の運命を拓くべく、ステージに立つ彼女の『アイドルタイム』が、かつて彼女に夢を見た世界中のファンの想いで満ちるのも、相当にエモかったなぁ……。


みあの歌を決定機に、しゅうかとガァララは向かい合い、許し合うわけですが、しゅうかだけが世界に対し開かれ、支えられていたわけではありません。
ガァララもまた、ガァルルと話し合うことで機会を与えられ、より善い結末への道を整えられています。
それは彼女がガァルルと出会った時……というか、夜の精霊として孤独な場所に産み落とされたときから、誰かと繋がることを望んでいた結果だと言えます。
彼女にとってプリチケをパキることは『ずっとやりたかったこと』であり、邪悪な存在が新しい生き方に目覚めたというよりは、かつてからの願いが様々な人の助けにより形をなしたものなわけです。

ガァルルは外見こそガァララより小さいものの、パラ宿での紆余曲折を経てしっかり成長していて、経験も豊富です。
トモダチということ、仲直りをすること、失敗を受け入れること、愛の意味。
みあがしゅうかにそれとなく諭していたように、『小さな先輩』であるガァルルは、世界から切り離されたまま体が大きくなってしまったガァララに、とても大事なことを彼女らしい言葉で伝えていきます。

しかし当然ながら、ガァルルも生まれたときから正しく行動できていたわけではなく、むしろ劣等感や怨嗟の集合体として、様々なハンディーキャップを背負わされて生まれた。
生まれたときから体を焼く黒い感情に突き動かされ、他人と触れ合う手段も持たない彼女を、パラ宿のアイドル達が『トモダチ』として受け入れ、歩み寄ったからこそ、ガァルルは他者の感情を学び、関係性を学習するチャンスを与えられたわけです。
逆に言えば、そふぃに噛み付けず、地下アイドルとしてステージにも立てず、あろまやみかんとユニットも結成できなかった成れの果てが、今までのガァララだと言えるかもしれません。
『自分も迷い傷つき傷つけたからこそ判る』という共感の作り方は、ミミ子やみあに通じる部分かもしれません。

一歩間違っていたらそうなっていたかもしれない、幼くて未熟な自分の影を、否定し突き放すのではなく、わかり易い言葉で幾度も諭し、道を教える。
それは完璧に『大人』な態度であり、お仕事を見つけたりマスコットを世話したり、ガァルルなりの『自分一人で出来ること』描写を積み上げてきた、アイドルタイムらしい変化だなぁ、と思います。
ゆいをルームメイトにすることで、真中らぁらの『等身大の小学六年生』の表情を多く切り取ったように、無印時代は描けなかった『だんだんと出来ることが増えて、子供のままではい続けない』ガァララの変化を、アイドルタイムはとても大事にしてくれている。
その延長線上に、今回のガァララへの『お姉さん』な対応がある気がしますね。

体験したことを客観視し、分かりやすく言語化して、未だ知らない相手と共有できる。
『わかんない!』を繰り返す子供に、『自分も同じだよ』とガードを下げ、目線を合わせて伝える努力をする。
ほんとガァルルはスゲェなぁ……もう『ガァルル』じゃなくて『ガァルルさん』って感じだな……。


様々な人に助けられ、許しあい、分かりあったしゅうかとガァララ。
しかし問題が解決したわけではなく、夢を食わなければ眠ってしまうガァララの運命は、未だ残酷に横たわっています。
これを前に各キャラの対応が異なっていたのが、僕としてはとても面白かったです。

まず当人であるガァララは、『夢を食わないで眠る』という選択をする。
それは『いけないことだから』とか『皆がかわいそうだから』という『公』の認識ではなく、あくまで『しゅうかが嫌だって言うから』なわけです。
しゅうかもまた、社会性に眼は向けつつも行動の根源に素直に、『私は嫌だ』と、あくまで彼女個人に責任と尊厳を引き受ける形で意思を伝える。
何も知らない子供にとって、世界のルールや倫理は(まだ)どうでも良く、身近で太く太くつながっている特別な存在に嫌われないこと、離れていかないことが行動の基準になる。
それでも、彼女は自分の望みを抑えて、繋がった世界によりダメージが少ない判断をするに至ったわけです。

あくまで『しゅうか』が判断の足場になるガァララは、『みんなトモダチ』という理想からは遠いでしょう。
しかし、彼女の中に刻まれた『しゅうか』は非常に特別な一であり、それがあることで一が十に広がっていく。
顔の見える特別な存在が学び取った、広い視野を側で共有することで、ガァララの狭くて幼い世界もまた、段々と拡大していくのでしょう。
彼女の『夢を食わないで眠る』という選択は、そういう可能性に向けて開かれた変化なわけです。


そしてしゅうかも、『自分の夢を食べさせる』という選択をする。
『夢なんてない』と自分を定めていた彼女は、ゆいに負けたこと、もう一度挑み勝つことを『夢』だと言い切りました。
敗北に深く傷ついて『ほっといてちょ!』と言ってた彼女は、ガァララとの関係を洗い直す中で、その傷もまた価値のあるものだと、受け止め直すことが出来たわけです。
また自分の中にある理想主義者的な側面も、『夢を持つ、自分らしくない自分』を肯定し、トモダチの意識を繋ぐ意味を与えることで、また肯定できたと思います。

彼女が夢を持たないわけではなく、それをすぐに現実に変換できるよう努力と理想を欠かさない存在出ることは、これまでも描写されてきました。
前半『友達なんていない』『一人で十分』と強がっていた彼女ですが、夢と存在が強く結びついたガァララと繋がることで、トモダチに囲まれて存在していた過去の自分の真実に、しっかり向き合えた。
それがあればこそ、自分のために骨を折ってくれたミミ子にしっかりお礼を言って、トモチケを交換するシーンも生まれるわけです。

エゴイストを演じるために切り捨ててきた、視界の隅に捕らえられていた真心。
それに素直に報いることが出来る自分を、しゅうかはようやっと捕まえ直すことが出来た。
そうやって自分を変化させていくのは勇気のいることで、今回二人はそういう当たり前の震えを、凄く頑張って乗り越えたわけです。

それと同じ働きが、理想主義者としての自分を肯定できる足場を、彼女に与えた感じもします。
エゴイストを自認していたのに、他人の夢を食われるのが我慢できないから自分を差し出す自己犠牲精神がモロっと出てくる所に、しゅうかの高潔さが見える気がします。
ある種の罪滅ぼしとか、食われることでガァララの特別であり続けたい意識もあるかなぁって感じもしますが、そういう泥も引っくるめて人間だわな。


そしてゆいは、『誰かが犠牲になる選択自体を否定して、世界を書き換える』ことを選びます。
これは多分、ゆいにしか出来ない選択です。
どんなにバカにされても、『女の子の夢の舞台、誰もがアイドルになれる場所』を夢見続け、実際にパパラ宿にステージを定着させてしまった彼女だからこそ、この無茶苦茶をいう資格がある。
物語が始まる前段階で、散々にバカにされ傷ついてきたからこそ、同じように傷ついているだろうしゅうやかガァララを見捨てられず、バカなお節介しに行ったのかな、とも思うね。

しゅうかが『理想主義者的な現実主義者』であるのに対し、ゆいは『現実を強引に引き寄せるだけのパワーを持った理想主義者』です。
この二人の照応関係はほんとによく出来ていて、方向性は真逆に見えて根っこの部分ではよく似ていて、反発もするけど運命的に繋がるしかない共通点が、随所に見られます。
しゅうかがその賢さで世界をよく見て、『アイドルタイム・イズ・マネー、現実のルールは変わらないからその中でベストをもぎ取る』というクレバーな結論に到達したのに対し、虹色の狭い視界しか持たないゆいは『自分の見ている世界で、現実を塗りつぶす!』という無茶苦茶を信じ、実際に形にしてみせる。
しゅうかが独走の端っこで色んな人にちゃんと眼を効かせていたように、ゆいもまた狭い視界のなかで『みんな』の幸せを願って、自分の夢で他人の幸福を実現できるよう、必死に走る。

そこら辺の対比が、ガァララの運命を前にした二人の違いに、よく現れていた気がします。
プリパラは真実が常に叶う理想の世界なので、ゆいの『最高』を欲張りに目指す姿勢がベストチョイスなんだけども、現実の制約を見据えつつ『最善』を選び取るしゅうかのスタイルが、間違いってわけじゃないだろうしなぁ。
ただ、いかに自分が納得しているとはいえしゅうかが夢を食われる選択は、ちょっと哀しすぎるわけで。
ここで『因果も時間もシステムも、全部ぶっ壊す!』とパワフルに宣言できる所が、アイドルタイムの主役らしいところですね。


そして、そんな盛り上がりから置いて行かれ、エゴイズムの檻に一人篭ろうという姿勢を見せるパック。
ガァララがまっすぐな道に進む分、話に必要なネジレを全部背負う勢いですね。
まーどっかに歪みがないと、クライマックスに必要な爆発力生まれないからなぁ……もうちょっと拗らせておいてくれや!

しゅうかという運命に出会い、他者の夢を踏みつけにする過去に勇気を持って決別できたガァララ。
しかし夢を食うパックの悪行は、そんな彼女の苦しみを和らげるために行われる、愛と忠誠の好意でもあります。
何千年と続けてきた、たった二人の営みが崩れ、『ガァララの特別なパック』というセルフイメージが崩れてしまうショックは、とても大きいのでしょう。

パックもまた夜の動物として、社会や他者から切り離され、より広い価値観を学ぶチャンスを剥奪されてきました。
しゅうか(と、彼女を接点とした広範な世界)から注入された善により、ガァララは生き方を変えることが出来たわけですが、パックにそれを教えてくれる存在はいないし、嫉妬心や独占欲によって。自発的にそこから距離を取ってる感じもある。
いわば今回、様々な人の助力によりガァララが切り離した過去の影が、パックの形で取り残された印象ですね。

ガァララが幼いエゴイズムを手放さないまま、しゅうかという『特別な誰か』に手を惹かれて/手を引っ張って変化できたのと同じ救済を、未だ変わらずパックにも用意してくれんもんかなぁと、ひっそり願っております。
そうすることが、ある種の共犯関係にあったガァララの無知なる罪を、余すところなく拾い上げ、真実生まれ変わらせるためには必要だと思うし。
ラスボス的存在はカタルシスのためには必須なんだけども、ここまで光と闇のバランスをちゃんと描いてきた以上、『悪』の仕事やってもらって終わり、は寂しいじゃないのよ。
まぁプリパラだからそこら辺キッチリ拾うだろうし、その事前準備としてマスコットにも『壁』があることを今回見せたんだろうけど。


というわけで、少女たちの想いが道を見つけ、一つの答えにたどり着くエピソードでした。
メイン二人の絡み合う感情をアツく描きつつ、その人格的成熟度の違い、社会的・内面的背景の差異を揺るぎなく切り取ってきて、非常に細密でした。
そんな彼女たちに繋がっている仲間や社会、『アイドル』が持つ力の意味なども、明るく楽しくプリパラらしく描ききってくれて、非常に豊かなお話でした。

因果を書き換え運命を乗り越える旅は、なかなかに厳しそうです。
『キラッとプリ☆チャン』が発表されたことで、TVシリーズとしては最終章になるだろう、残り1クールの冒険が、一体どんなものを描き、切り取り、輝かせるか。
その最後の航海に期待を抱かせる、良い終わりであり、良い始まりでもあった。

そう感じさせるエピソードでした。
来週以降の『壁』のなかで、各キャラクターの物語にも大きなエンドマークがつくでしょう。
まずは、夢なき荒野を必死に走って、自分の夢を取り戻してなお走る元気系ヒーローアイドル、最後の戦いです。
来週も楽しみですね。