イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

少女たちの革命 -質問箱から-

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ご質問ありがとうございます。 なかなか難しいご質問が来てしまいましたが、自分なりに答えたいと思います。 まどか☆マギカウテナ、それぞれのTV版と劇場版の対比をする前に、『まどかとテナが劇場版で何を描いたか』を比較すると、逆に縦の比較も分かりやすくなるかな

二作が劇場という盤外で描いたのは正反対のものだと僕は思っていて、まどかは『TVシリーズの先』を、ウテナは『TVシリーズの総まとめ』を、それぞれ描いたのだと思います。 なので、両作正逆の位置にあって、それがTVシリーズ含めたそれぞれの特色を際立たせるかな、と。

まどかはTVシリーズにおいて、傍観者だったまどかが実は運命の結節点=主人公であり、彼女の決断が世界のロジックを書き換えてしまう(その代償として、ロジックそのものになったまどかは消えてしまう)ことを、そのクライマックスにしています。

叛逆の物語は、ある意味悲劇に終わった物語をハッピーエンド同人誌のような風体を巧妙に装った、異質な世界で前半演じつつ、実はそれが崩壊しつつあるい魔法少女・ほむらの理想世界であり、魔女の結界であることが判ってくる作りです。

まどかの消滅によって、永遠に魔法少女で在り続ける呪い(時間使いであるほむらには適した呪いですね)をかけられたほむらは、最終話ラストカットで描写されていた魔獣戦の果てに擦り切れ、魔女になってしまう。それが救済のロジックであるまどかを呼び出し、彼女たちは最期に再開する。

サッドエンドからハッピーエンド後の世界を(ある意味嘲笑的に)先取りして、その先にある新たなサッドエンド(魔法戦士ほむらの限界点)を描いて、それでも少女たちは運命的に出会う…というある種の救いを描くと思いきや、ほむらは自身をもう一つのロジックに変化(まどか化)させ、まどかを捕まえる

まどかの円環の理とほむらの炎愛の理、2つのロジックが衝突した結果、世界は新たに生み直され、ほむらもまどかも理でありつつ人間でもある、重なり合わせに終着する。 友達が死んで悲しい。そういう当たり前の人間の情を切り捨て、すくい上げ、弄んできた物語は、その情自体が無化される地平に飛び込む

そこでは(本編終了後のまどかがそうであるように)生きることと死ぬこと、悲しいことと嬉しいことはとても曖昧な、矛盾せず同居し、どちらも存在していないような状況に飛び込んでいきます。 それは世界を背負って理になったまどかが、TV版で到達していた境涯だと思います。

戦って報われず死ぬ。魔法少女の哀しい運命を救済するべく、まどかをある種の贄に捧げたTV版のエンディングを引き受けつつ、ほむらをまどかと同質化し、ほむらとまどかの理が入り交じった曖昧な世界を、犠牲無しで創造する。 叛逆の物語で展開し… 叛逆の物語で展開しているのは、自分たちが作り出したTV版の批評でしょう

そこでなまじっかな人間的な情に流されて、例えばまどかが『人間』として転生してハッピーとか、魔法少女のカルマ全てが蒸発して『普通の女の子になる』とか、そういうことを映画スタッフはやらなかった。 重たいロジック、入り混じった業と感情を踏まえて、突き詰めて、ほむらを悪魔にした。

そういう風に、ほむらがまどかを思う愛の熱さと重さと痛さを裏切れなかった結果、TV版の結末を(ある意味)裏切って別の地平、別の世界を再想像するしかなかった情熱が、僕はとても好きなわけですが、これは個人的な感情です。 とまれ、叛逆の物語は名前通り、TV版に反逆している。

これに対し、ウテナ劇場版・アドゥレサンス黙示録はTV版を別の語り口、別の配置で語り直してはいるものの、それを貫くロジック自体は強烈に同じものであり、支配の檻に少女(と少年)たちが苦しみそこから脱出していく展開も、また同じものです。

キャラクターの仕事や立ち位置は、映画の尺に収めるべく変化していますが、そこでかわされる感情、キャラクターが象徴する欠落や熱情には、大きな変化がない。 アドゥレサンス黙示録は、TV版で展開した青春救済の物語を再度黙視しつつ、それに叛逆はしていないのです。

TV版の最終決戦で、ウテナは王子様(の支配下から結局脱出できなかったアンシー)に指され、決闘というお遊び自体を無化されて敗北してしまいます。 しかし暁夫があざ笑い、捨て去ってしまったひたむきさを杖にして、彼が実現できなかった救済を成し遂げ、世界から放逐される。ジーザスになる。

世界は暁夫の臨むまま、以前と同じ学園という永遠の檻が再生されるわけですが、ウテナの起こした革命はアンシーの内的世界を変化させ、花嫁は王子様に支配される状況から決定的な一歩を踏み出し、学園を出る。 ウテナは敗北することで勝利し、アンシーをウテナと同じようにかっこいい女の子に変える。

そこには円環でもどん詰まりでもなく、希望に満ちて勝利を約束された旅立ちがある。メガネを外して学園を出たアンシーが、必ずもう一度ウテナを見つけて、自分がされたようにしっかりと抱きしめてあげるハッピーエンドは、最後まで見た視聴者には容易に確信できます。

劇場版は王子様の決闘のその先、アンシー自身がドライバーとなり、ウテナカーという『花嫁の剣』を振るう主体になる物語を描いていますが、それはTV版EDで描いたラインからはみ出ず、むしろあるべき必然の闘いとして描かれている。

別の部隊、別の場所、別のキャラクターで再演されても、ウテナは潔くかっこいい女の子であり、清廉な売女を王子様の臨むまま演じるアンシーを軛から解き放って、自分の足で前に進む女の子に変える。 それは幾度も再演されて然るべき、ある種の強靭な『正解』なのです。

だから、劇場版はTV版の長い物語のエッセンスを残しつつ、物語を大胆に変奏しつつも、その価値観、ウテナ達がTV版で選び取りた高い獲得した友愛を、再度肯定するように展開する。 それは叛逆を語らざるを得なかったまどかとは、やっぱ正逆の劇場版だと思います。

無論映画の尺に合わせたリニューアルは鮮烈だし、映画だからこそ可能な圧倒的な表現も多数あります。(水の薔薇園での舞踏、エロティックなスケッチシーンは、『劇場』でなければ不可能な芸術でしょう) むしろ圧縮・変更・再話されることで、ウテナの物語のコアはより鮮明となり、確信されていく。

その上で、薔薇の花嫁自身が剣を握って、世界の果てを超えていくラストをちゃんと絵にしたことと、影絵少女という匿名・無名の我々によく似た存在が、実はウテナでありアンシーでもあったと、藁人形に変じる終戦の光景で見せたのは、非常に鮮烈な自己批評といえます。

あそこで、顔のない存在もまた、潔くかっこいい女の子になりえるし、また虐げられた花嫁でありそこを脱却も出来ると見せたことで、ウテナは特別な存在の物語から、ありふれた人に確実に勇気を与えうる神話へと、決定的に変化したようなきがするのです。

それが性別を超え、女性の特権として描かれていないことは、TV/劇場版両方の男性陣の描かれ方、様々な虐待と生きづらさをウテナとアンシーに出会うことで変えていった姿を見れば、容易に納得できると思います。 皆人は、(暁夫すらも)自分を見つけられない花嫁であり、そこから脱する可能性を持つと

ウテナを忘れてしまったかのような、学園に取り残された少年(と少女)は、いつか必ず世界の果てを乗り越えて、自分自身になっていくでしょう。 その変化は、後ろから刺されたり車になったり、汚い不意打ちに必ず負ける宿命にあるウテナが、負けることで達成した革命であり、劇場でもTVでも語られる。

エロティックでデカダンスアヴァンギャルドな表現スタイルを取りつつ、眼の前のおとぎ話を常に、それを見ている主体を勇気づけ、作中人物が起こした革命を揺るがぬ『答え』として提示してくる真っ直ぐな姿勢が、同じ物語をTVと劇場でやり抜く姿勢につながっていると、ぼくは思うのです。

これはまどかの製作者が自作を信じきれていないとか、変節したとかいう話ではありません。 まどかが叛逆の物語を、わざわざ劇場に乗せることで見せた『疑問』もまた、それを追う中で自分と出会う強烈な導となりうる、『答え』と同じくらい大事なものなのでしょう。ただ、両方を同時に語るのは難しい。

なので創作者たちは自分が何を描くべきなのかを常に問いただしながら、モチーフやテーマ、暗喩やドラマやアクションを一つ一つ選び取って、視聴者が受け止められる物語を必死で組み上げ、自分なりの答えであり疑問でもある物語を投げかけてくる。そこには色んな思いと語り口がある。

その全てを、まどかもウテナも、TV版も劇場版も、それぞれの選択、それぞれの物語を用いて、しっかりと語れているアニメだと、僕は思っています。だから特別に好きなのです。 違うことには違うことの、同じことには同じことの意義がちゃんとある… と確認できるので、これら4つの物語を見るのは面白い。

それにあれくらい様々な意味を織り込まれた物語は、答えの中に疑問が、疑問の果てに答えが、同時に(それこそまどかとほむらの理が混じり合った新世界、あるいはアンシーとウテナが突破した荒野のように)存在している。 矛盾に見えるものが、実はお互いの尻尾を噛んで存在している物語的ウロボロス

それを現出させるためには、一つ芯を入れて自分たちの作り出したものへのアティチュードを明瞭に、乗るにしろ反るにしろ自分たちの物語を踏まえて、ちゃんと再話しなければいけない。 そういうことを、理屈と同時に実感として教えてくれる連作として、この4つの物語はとても面白いと思っています。