イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

ヴァイオレット・エヴァーガーデン:第7話『        』感想

洪水はわが魂に及び、炎は心を苛む……それでも、いまを生きていく人のための物語を。
ヴァイオレット・エヴァーガーデン第7話は、過去と現在、自己とその投影にまつわる複層的なエピソードとなりました。
幾多の出会いと仕事を乗り越えて、人形から人間への脱皮を果たしつつあるヴァイオレットの変化と成長を、子供を失った小説家の再起と共鳴させて描きつつ、その外側にある大きな物語へのアプローチとする。
過去には血まみれの戦場が、未来には愛しきものの不在が配置された現在を、少女と小説家はどう受け止め、どう迷い、どう歩きだし、また歩き出せないか。
湖畔の美しい秋で目を楽しませつつ、取り返しのつかない現実によって焼かれ、物語を獲得することで潤う魂の色を、丁寧に切り取るお話でした。


今回もまた、ヴァイオレットは旅に出る……のですが、オスカーとの対峙は比較的短く、前後に彼女のホームたるCH郵便社を基点とした物語が挟み込まれます。
それは第1話からの引用や反射を多数含みつつ、物語が始まった時は快復されていなかったヴァイオレットの人間性、気づいていなかった現実、失われてしまった物語を、豊かに切り取るものになっています。
第1話の時点では気づいていなかった(が、『大人』であるホッジンズは見抜いていた)炎に、焼き尽くされている自分。
『少佐は生きている』という物語に支えられて、なんとか生き延びてきたヴァイオレットは、かつて冷たい現実(『息子の代わりに、養女がやってきた』という物語の破却)を突きつけて決別したティファニーと出会うことで、その死(という物語)に出会い直します。

秋の湖畔に旅立ち、オスカーとの仕事……で片付けるには生活面でも、精神面でも多様な交流を果たしている出会いを経て、ライデンに帰還する。
このちょっと変則的な構造自体が、ドールの『仕事』を通じてヴァイオレットが(再)獲得してきた能力を確認し、彼女が真実と人間性に向かって再出発する展開を、雄弁に支えています。
泣かず、笑わず、感情の機微を読み取れない機械の自分を疑問にも思わず、物語に興味も示さない。
第1話のリフレインを多数織り込むことで、あの時代とは違うヴァイオレット、それを生み出した(あるいは治療した)『良きドール』の仕事と人々との出会いにどういう意味があって、今後彼女がどういう物語を歩むかを、暗示していたように思います。

娘の喪失を、児童向けの戯曲を書き上げることで受け止め、涙とともに現在を受け入れるに至ったオスカー。
他ならぬヴァイオレットが起こした奇跡は、それが終わった後ヴァイオレットが歩き出す喪失の確認とそこからの逃亡を、彼女自信を主体にして展開させます。
ヴァイオレットが救ったオスカーの物語は、そこを離れた彼女の『ホーム』で、その始まり……愛する者の喪失から語り直される。
ならば、彼女が逃走した終わりの先にもまた、喪失を何らかの形で受け入れ、傷ついた心に名前を付けうる『物語』が、待っているのではないか。
オスカーにとっての『現在』として描かれた湖畔のエピソードは、そこに深く関わったヴァイオレットの『未来』を、彼女の不器用な、でも人間的な努力を祝福するかのように暗示しているのではないか。
そう思わされる、なかなか複雑な構図でした。


今回の話は非常に多層的に『物語』と向き合うエピソードで、時間軸と受容者を取り替えつつ、幾つかのストーリーが重なり合っています。
一つはヴァイオレット今回の仕事である、オスカーの口上筆記。
それは契約で結ばれた無味乾燥な仕事であると同時に、『本来ドールの仕事ではない』掃除や整頓、食事作り(衣食住の充実によるクオリティ・オブ・ライフの確保)、依頼者の精神的リハビリも含めた、笑いあり涙ありの『物語』です。
幸か不幸か、死なずに岸に取り残された彼らは悲しみに荒廃しつつ、生き延びてしまったものの宿命として食事を取り、活力を手に入れ、再び立ち上がる。
静かな湖畔の中で繰り広げられる冒険には、魔法の剣も炎の精霊も出てきませんが、そこで起きているのは停止した時間の再動、死者の蘇生、死せる心の復活という奇跡であり、これまでこのものがあt利害くども積み重ねてきた、リハビリテーションの物語です。

そしてそこでは、児童向けの冒険譚が作られる。
これもまた作家の『仕事』であると同時に、オスカーが失った娘を主役にして、魂のインクで描く、活きた『物語』です。
ファンタジックな装いに彩られた嘘っぱちの物語ではあるけども、そこに描かれている『オリーブ』はオスカーが愛娘『オリビア』に抱く思いを反射して生きており、これを描いていくことが、人間再生という『現実』の物語を完走することでもある。

ヴァイオレットはその物語に引き込まれ、共感という能力を快復させた証明として、興味を抱く。
子供っぽい幻想は少女に、物語を通じて人と響き合うことを教え、ヴァイオレットはオスカーの言葉をただ書き写す機械ではなく、楽しさの実感を伝える良き読者、厳しいダメ出しをする編集者、相談を受け取る共同執筆者、ファンタジーを現実に引き寄せるアイデアイカーとなっていく。
その瑞々しい反応が、オスカーにヴァイオレットへの信頼を獲得させ、また今はなきオリビエを投影させ、喪失の哀しみを克服する契機になる。
小説執筆に奮闘する今回、誰も手紙は書きませんが、幾多の『仕事』を経て人間性を快復させたヴァイオレットの存在自体が、知るはずもないオリビエが言葉に出来なかったメッセージを、オスカーに想起させる『手紙』となっている気がします。

二人を繋ぐ『現実』と『仮想』の物語はまた、二人個別の過去……離別の『物語』と強く繋がっています。
戦争とは無縁の場所で、愛娘との幸福な日々を、病によって奪われたオスカー。(京アニの作画力が、小児がん患者を描く方向で振るわれると凄い威力だな……)
戦争によって両腕と『世界のすべて』を喪失し、その意味もわからないまま、火に焼かれているヴァイオレット。
二人の心のなかにある物語、『戦場』でも『後方』でも発生してしまう喪失が響き合うことが、現在進行形で綴られる『物語』を前に進ませる、強いエンジンとなっています。

現実と仮想、現在と過去、わたしとあなた。
幾重にも折り重なる物語が無関係に存在しているのではなく、共感と想像力によって共鳴可能であると信じることで、オスカーの傷は癒やされ、ヴァイオレットの傷はようやく切開される。
それは、開くことでしか閉じること、癒やすことが出来ない物語なのでしょう。


リビアは物語開始当初、オスカーにとって『名前を言うことすら苦しく、存在しない少女』でした。
ホッジンズの優しい嘘(これもまた、一つの『物語』でしょう)によって維持されてきた、『少佐は生きている』という『物語』が破綻し、背中を向けて駆け出したヴァイオレットの姿で終わる今回の物語も、また名前がない。
物語は現実を受け止めるためのモデルであり、そこに名前をつけられないということは、自分自身と、あるいは過去から現在、未来へとつながっていく時間認識と適切な距離が取れていない、ということでもあります。

オスカーの『物語』を、共同執筆者として手助けしたヴァイオレットが、自分の『物語』に帰還するなり混乱に陥り、名前をつけられないまま駆け出してしまうのは、なかなか面白い。
それはオリーブの冒険に心躍らせ、仮想の中のオリーブ/過去の中のオリビエに自分を重ねる共感の、もう一つの顔だから。
オスカーが最愛の『名前のない少女』から酒(身を苛む、炎の水)に逃げてしまったように、ヴァイオレットもまた少佐の喪失という『名前のない物語』から一旦逃げてしまうことで、今回のエピソードは終わるのです。
ということは、オスカーが『物語』を書き上げたように、ヴァイオレットも混乱と痛みから(おそらく彼女がしてたように、されてきたように、誰かの力を借りて)立ち上がり、自分の中にある『物語』に表題をつける、ということなのでしょうけども。

オスカーは冒険物語を書き上げることで、名前のない少女との想い出に『オリビエ=オリーブ』という表題を付け、胸を焼き続ける痛みと向き合い、過去の輝きと潤いを思い出すことが出来ました。
同じようにヴァイオレットも、少佐の喪失にまつわる物語の表題を付ける資格があることを、オスカーの物語感性に付き合うことで今回、しっかり示しています。
それは仮想の冒険物語を完成させるべく、ドールとして口上筆記を行い、読者として素直な感想を述べ、時に(これまでは欠点だった!)マジレスクソ真面目力を発揮して、嘘や冗談を現実に引き寄せることだけではない。
本を片付け(『物語』を乱雑に床に放り出すのではなく、本来あるべき場所に戻す。本棚はつまり、オスカーの心です)、食事を作り(『餌を食わない犬』だったヴァイオレットが、遂に他者のために食事を作る努力と真心を見せた時、やっぱ湧き上がるものがありました)、生活の質を上げることで、悲しみの物語をハッピーエンドに持っていくタフネスを、育んであげることでも、ヴァイオレットは掛け替えのない仕事を果たしています。


オスカーは開始時、扉を閉ざし暗がりの中にいる。
そこから覗く、あまりにも美しい秋の湖畔(『花』はそこまで輝いていませんが、落葉が圧倒的に美麗で、華やかさは全く損なわれていません)は、オスカーにとっては『明るすぎる』光景です。
未だ名前のつけれない痛ましい記憶は、常に娘の金色の光と結びついていて、光に満ちた風景は自動的に、その喪失を思い出させるから。
座る人のない椅子のアップは、自動的にそこにかつて、美しい思い出があったことを想起させるから。
彼は薄暗く汚れた場所の中に閉じこもり、酒に溺れている。
第3話のお兄ちゃんとも共鳴する、半身を失った存在がアルコールによって己を苛む描写ですね。

幾度も繰り返されるノックは、物理的な扉と同時に、オスカーの心理、停止した『物語』を始動させます。
ヴァイオレットはオスカーの過去、彼の中にある『物語』を知らないまま、彼が失ったオリビエと同じ表情で、乱れた室内を整え、想い出のカルボナーラづくりに失敗し、明るい外へと作家(あるいは父)を連れ出していく。
その過程で、作家は執筆への意欲を、『良きドール』『良き読者』への信頼を、過去と向き合うための足場を、娘への愛を取り戻していきます。
この信頼関係構築が静かに、しかし力強く進んでいく過程を、美しく楽しく描いてくれる筆が、今回(も)非常に良かったです。
京アニらしくちょっと固くて、上品な笑いの作り方はこのアニメ、やっぱ好きなポイントだなぁ……。

青く美しい日傘の中で、金髪の少女が微笑んだ時、作家の心は『名前のない物語』に題名がついてしまう痛みに震えて、美しい湖に背中を向ける。
その視線の先には薄暗い家があるけども、沢山の『仕事』を経て人間の心が蘇る様、そこで『手紙』が果たす力を知っているヴァイオレットは、諦めずに『言葉』を紡いで、オスカーを向かい合うべき過去に引き戻させます。
普通下り坂・下手で描くシーンだと思うんですが、上り坂・上手で描いて違和感がない、むしろ描くべきものを強調するレイアウトになってるのは、なかなか凄いね。
オリビエとの想い出は『矯正』させるべき悪しき想い出ではなく、『快復』させるべき善き記憶なのだから、それが閉じ込められている部屋≒オスカーの心理へ続く道は、上向きに未来へ、花に彩られて在るわけだ。


オスカーが苛まれているフラッシュバックは、後にヴァイオレット自身を炎で焼くことになるわけですが、今はヴァイオレットが現在の支え、過去をリフレインさせる反射板となって、オスカーは心を切開し、失ってしまった過去に名前をつけていく。
今作っている仮想の物語が、失われてしまった過去を再生させるための力強い嘘であること。
作家という職業が、艱難辛苦を乗り越え、観客もキャラクターも巻き込んでハッピーエンドを連れてくる尊い『仕事』であることを思い出して、彼は執筆に戻ります。
それはもう暗い室内ではなく、想い出の詰まった湖畔を眺める、光に満ち溢れた屋外での作業になるわけです。
そういう場所に、ヴァイオレットは作家(と自分自身)を連れ出した。
『良きドール』の努めを存分に果たす、立派な『仕事』だと思います。

作家がものの例えで言った『水の上を歩いてくれ』という願いを、マジレスマシーン・ヴァイオレットちゃんはそのまま受け取り、全力疾走からのジャンプをします。
それは兵士として鍛え上げられた脚力が生み出す、パワーに満ちた跳躍であり、彼女がようやく悔めるようになった炎の過去の、とてもポジティブな意味を秘めている。
そしてオスカーは、その跳躍に果たせなかった約束、成長を見届けたかった父の愛を重ね合わせ、未完だった『オスカーとオリビエ』を涙とともに、完結させることが出来ます。
ヴァイオレットの生真面目さが水に塗れる笑いと、道に迷った髭面オヤジがようやく、自分と娘を取り戻せた涙と喜びが、不思議に入り交じる名シーンだと思います。

あそこは『人間だって空を飛べる』という仮想と、『当然、水に落ちる』という現実、二つの『物語』が交錯するシーンでもあって。
葉っぱに乗って、水鳥のように空を舞う。
かつて少女が(幼さを象徴する歯抜け顔で)呟いた夢が、別人の背中に乗って空を舞う時、過去と現在、夢と現実は不思議に共鳴して、一つの『物語』になる。
それは凄い豊かな、人生を復活させて余りうる瞬間だと、僕は思うわけです。

人は死に様々な『物語』を乗せて、それを克服しようとします。
前回語られた(ヴァイオレットとリオンによって再生された)『妖精王の嫁取り』の物語も、死に別の意味を付与し乗り越えるための『物語』だった。
400年前の人がファンタジーに託した遠い思いも、最も愛するべき半身を失った痛みを幻想冒険譚を語り切ることによって快復させようとする現在進行系の戦いも、みな同じ『物語』への意志に支えられています。

ヤマトタケルが死して白鳥になった神話、エジプト神話において魂(バァ)が鳥に擬される様、子を求めて飛来する姑獲鳥。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンという物語の外にある、そしてそこにつながっている我々の『物語』にも、死者と親子に繋がる霊鳥の物語は、多数あります。
失われたオリビエがヴァイオレットの金の髪に宿って、青い日傘の翼をはためかせ、もう一度会いに来る。
火の剣も精霊もない世界で、そういう『物語』を信じたくなる気持ちは、仮想の物語である”ヴァイオレット・エヴァーガーデン”だけでなく、我々を含む人間にとってとても基礎的で、死や別離という避け得ない痛みを飲み込むために、絶対必要な夢なのだと思います。


オリーブの冒険に心躍らせ、仮想の『物語』に共鳴する心の瑞々しさ。
物語開始時の、人形めいたヴァイオレットを覚えている身としては楽しくも嬉しい食いつきっぷりでしたが、そこで駆動した共感力は、彼女が支配されていた(支配され続けている)『戦場』のコードと齟齬を起こし、彼女を苛みます。
戦争の道具として奪った他者の命は、作家にとっての娘のように、かけがえのないものだったのではないか。
戦争の道具として人の命を奪った腕が、人の喜びを寿ぐ言葉を紡ぐ資格など、どこにもないのではないか。
第1話でホッジンズが告げた炎が蘇り、『家』に帰る途中のヴァイオレットを焼きます。
冒頭、エリカとアイリスが見ている劇が『断罪の炎と、血に濡れた腕』にまつわる悲劇だったのが、後の展開を予言する暗示としてよく効いていますね。

それは(会社社長であり、『戦場』のトラウマを適切に乗り越えて『戦後』に適応し得た)ホッジンズと同じ世界……『物語』へ、7話かけてヴァイオレットがたどり着いた証明でもあります。
あのときヴァイオレットが否定した傷は、あの当時から確かにあって、『良きドール』として人と交わり、傷に共鳴し、共に癒やしていくことで、その存在を思い出した。
そのことは、彼女が獣でも人形でも兵器でもなく『ただの女』として生きる資質が、過去もあったし、今もまた疼いていることの証明なのです。

痛みは人間の巷、至る所にあって、それに押しつぶされず生きていくためには、気づかないふりをして麻酔をかけるか、受け止めた上で為すべきことを果たす以外にはありません。
ヴァイオレットの痛ましい姿を見て、薄暗い病院から『外』へ、『街』へ、『家』へと連れ出した第1話のホッジンズと、『戦場』に静止し続けて心を麻痺させていた第1話のヴァイオレットは、違う『物語』を見ていたから対話が成立しなかった。
しかし時を経て、異なる存在が持つ異なる『物語』への共鳴を学び、ドールの『仕事』を任務ではなくかけがえのないものとして受け止められるようになったヴァイオレットは、ようやくホッジンズの『物語』への共鳴を開始する。


物語は回り道を経て、ヴァイオレットのドールとしての名声(冒頭カトレアに差し出される依頼書の束は、その証明です)を高め、色んなモノを積み上げて開始点に戻ってきました。
人間でありながら殺戮兵器と化し、共感を殺すことでしか生き残ることが許されない『戦場』
そこに適応してしまったことが罪だというのなら、物語はどん詰まりのバッドエンドで終わるしかありません。

しかし、オスカーの物語がヴァイオレット(と、彼女の背負ったオリビア)との共同作業によって名前を見つけられたように、『良きドール』となった(あるいは『良き人間』であることを快復した)ヴァイオレットの物語もまた、混乱と痛みによる空白無名を離れて、名前をつけられるようになるはずです。
時間と死を乗り越え、愛する父のもとに帰還し得たオリーブ=オリビエの二つの翼……児童向け冒険譚という『物語』と、思い出を背負ってヴァイオレットに託された青い日傘は、依頼主の幸福を願う優しさ、それを諦めずに引き寄せる強さによって獲得された奇跡です。

それはたしかに、ヴァイオレット・エヴァーガーデンの手元にある。
今は罪悪感と混乱に支配されも、必ず奇跡が起きて死者が蘇り、人生の物語に題名と意味を快復させる瞬間がやってくる。
そういう未来を、ヴァイオレットとオスカー、娘と父が一つの『物語』を完成させた今回のエピソードは、見事に予言しているように思うわけです。


第1話で的確に『母と娘』になれなかったティファニーエヴァーガーデンと港で再開し、適切に謝罪して関係を再構築し、そのことが真実を暴いて『物語』を指導させるのは、なかなか面白いなぁ。
孤児たるヴァイオレットは『家族』という物語を喪失しているわけだけど、オスカー(あるいはホッジンズ)という『父』、ティファニーという『母』と向き合うことで、それを獲得しつつあるわけだ。

個人的な体験として『父と娘の物語』を体験していない(し得ない)ヴァイオレットは、リオンに教えてもらった『寂しさ』を足がかりにして、オリビエの喪失につきまとう身を切るような『寂しさ』に共感し、オスカーの胸の中から個人的な『物語』を取り出して、自分のものとして共鳴することに成功した。
身を切るような『寂しさ』の意味を、その牙で味わうかのように、少佐(とホッジンズ)から送られた緑の宝玉を齧っているカットが、非常に雄弁です。
ヴァイオレットは美獣なので、手ではなく牙でその意味を探るのだ。


酒に溺れ、痛みと苦しみ、喪失と無力感に麻酔をかけたままでは、物語に名前はつかない。
しかし人は皆思わず、心のなかで疼く愛の喪失から目をそらし、名前をなくしてしまうものである。
ヴァイオレットが出会う人の、思いの反射を追いかけ続けたこの物語は、そういう裏腹な真実でみっしりと満ちています。

ドールへの初期衝動を忘れていたエリカ。
片足と両親の喪失を、酩酊の中でごまかしていたスペンサー。
己の名前の中に込められていた祈りと、父母への感謝を忘却していたアイリス。
初恋のときめきを、国花儀礼の中で見失いかけていたシャルロッテ
母に捨てられたと思い込み、女性への偏見に支配されかけていたリオン。
最も愛する存在の物語に、名前をつけられなかったオスカー。

人は皆、名前のない物語に迷い込みかけて、純粋なるヴァイオレットと出会い、彼女とともに様々な『手紙』を書くことで、その意味を再獲得してきました。
名前のない白紙の痛みに気づくことこそ、そこに意味在る物語を書き記していくためには絶対に必要であるし、ヴァイオレットは他社にそういう物語を開始させる不思議な輝きを、瞳と魂から溢れさせている少女です。
その輝きは銀の腕に反射して、必ず彼女のもとに跳ね返る。
そうでなければおかしいという確信を、今回彼女が成し遂げた『物語』の完成、失われたオリビエの再生からは、強く感じるわけです。


というわけで、娘を喪失した父、物語を失った作家に『良きドール』として寄り添い、一つの『物語』の終りと始まりを見届けたヴァイオレットが、そのことによって麻痺させていた共感と想像力を蘇らせ、優しい嘘の奥にある真実を駆動させるエピソードでした。
オスカーが支配されていた死と悲嘆は『物語』を紡ぐことで再動したわけだけど、ヴァイオレットのそれは『物語』に共鳴することで薄暗い闇へと疾走し、名前を見落としてしまう。

でも、それは必ずハッピーエンドに終わる。
希望と感謝を込めて、青い日傘の翼を託してくれた作家の物語がそうであったように。
他ならぬヴァイオレットが、その奇跡のために必死に強く優しく戦った結果、そこにたどり着けたのだから。
ヴァイオレットの『物語』は、ようやく真相……名前のない混乱と痛みにたどり着き(あるいは帰還し)、動き始めました。
今回燃え尽きた作家に、あるいはこれまで様々な人に、ヴァイオレットの美しい瞳と銀の腕が投げかけた光が、担い手を変えて走り出した彼女に届いてくれることを。
ヴァイオレットの『手紙』によって幸福を見出した(あるいは思い出した)人が、彼女の苦しみを支えてくれることを、強く願っているし、それが叶えられるという徴は、このエピソードの中にたくさんありました。


オリーブの花言葉は『平和』『安らぎ』あるいは『勝利』『知恵』です。
世界を洪水が洗い流した時、ノアの方舟が陸地を探して鳩を飛ばし、帰還した時に咥えていたのがオリーブの枝だったことから、『平和』と『安らぎ』への祈りを象徴する花になりました。
アテネがポセイドンと、アテネの支配権を巡って争った時、『人の役に立つもの』としてオリーブを与えたアテネが勝利し、その知恵をたたえて象徴となったことから、後者の花言葉が捧げられています。
このときポセイドンは、日常で明かりと食料となるオリーブではなく、戦争の道具である『馬』を『人の役に立つもの』として選び、アテネの市民に拒絶されて『勝利』を掴み損ねています。

そういう『物語』を、人はただの花に投げかけて、別離と苦しみに満ちた人生に意味を与えながら、前に進んでいます。
『馬』を必要とする『戦場』のコードに立ち返り、手に入れた幸せがそこに込められた『物語』を読む障害になってしまっている、今のヴァイオレット。
そんな彼女が共感した、オリーブの冒険、その結末を勇気と力を振り絞ってハッピーエンドに変えたオスカーの想いが、いつか光となると良いなと、強く思います。
来週も楽しみですね。