イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

ヴァイオレット・エヴァーガーデン:第10話『愛する人はずっと見守っている』感想

一つの答えを得ても、人生という物語は続く。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンの出張代筆は、母が子に残す最後の手紙を追いかけるエピソードとなりました。
子供、秋風、迫り来る離別と死、それを超えうる『手紙』の力。
細やかな仕草の描写力、丁寧な死と生の暗喩、これまでも大事に使われてきた時間経過の演出力と、ベタ足のいい話で涙腺を絞り倒してくる、ど真ん中の一本となりました。


今回のお話は第2話に近い構造になっており、ヴァイオレットを見つめる『誰か』の一人称で世界を覆い尽くす、反射と客観の作りになっています。
今回ヴァイオレットを見る主体となるのは、幼きアン・マグノリアマグノリア花言葉は"崇高""慈悲""自然な愛情")
小さな背丈の彼女が見ている小さな世界にカメラを据え付け、無邪気な背伸び、母を奪われることへの敵愾心、そしてそこからはみ出して、死と悲しさに満ちた『大人の世界』を子供なりにしっかり見据えている事実を、丁寧に追う作りになっています。

ヴァイオレットは『良くないお人形』として母と子の家にやってきて、『優しいお姉さん』として去っていく。
ここまでは徹底して子供の視点で物語が展開し、『母と人形は、一体どんな手紙を書いているのか』というミステリを追いかける形で進むわけですが、『家』たるCH郵便社に帰還し『人形』の仲間に出会い直した時、ヴァイオレットは堪えていた涙を溢れさせる。
母を奪われるのが嫌だと、なぜ人は死んでしまうのかとヴァイオレットの胸を叩いたアンを前に、無表情な人形、冷徹な職業人、頼りがいのある『大人』を演じていた彼女も、先週出会った死の真実、それを乗り越えて生きるに値する現在を踏まえて、強い共感を母娘に見せていた。
彼女もまた、泣きじゃくる一人の子供である事実を切り取る時、物語はアンの一人称からヴァイオレットの内面へ、それを見守る社会と世界へと、視点を拡張していきます。

愛する人はずっと見守っている』という物語は、ヴァイオレットがやってきて始まり、ヴァイオレットが去って終わる。
それを冷静な人形として記述してきた客体は、実はそこに様々なものを感じ入る主体であり、アンのように母に愛された記憶を持ちえず、生身の柔らかな腕をもう奪われてしまっている、『子供時代を持たない子供』でもある。
子供が人形遊びをすることで、他者への想像力を養うように。
『良きドール』として仕事を重ね、ホッジンズの導きにより死の真実と生きる価値を学び直す過程を経て、ヴァイオレットは愛するものがどうしようもなく奪われてしまう残酷な事実と、それを肯定してなお生きるに値する生を、おのれの心で受け止める豊かな感情を獲得した。
子供の視点を非常に丁寧に追いかけた『愛する人はずっと見守っている』という物語は、アンとクラーラの物語であると同時に、少佐の遺言、それを受けたホッジンズと『会社』の仲間によって見守られ生き延びたヴァイオレット自身の物語でもあった。
死してなお届く慈しみの手紙と、アンの成長と婚礼……自分を慈しみさって行った『母』になるまでのエピローグで、子供の一人称を解体する仕掛け含めて、巧みな入れ子構造を脚本と映像の共犯で、見事に仕上げるお話だったと思います。


先週まで重たく続いていた、過去と現在、死と生の綱引きが終わり、通常進行(というには、感情をかき回す腕力が特大ですが)な今回のエピソード。
世界は生きるに値すると示すかのように、やはり世界は花と光に道、同時にクラーラに迫る死を反映して、薄暗がりと枯れ葉がクローズアップされます。

『花』の演出に関しては、アンの夫となる青年が、プロポーズに『向日葵』を差し出したのが非常に示唆的でした。(ちょっと"響けユーフォニアム"の滝先生が、イタリアンホワイトに込めた思いを想起させますね)
彼にとって、そしてクラーラにとって、アンは太陽であった。
死してなお託された強い思いが、一年に一度死の国を超えて届くように、ひまわりの花が太陽をむき続けるように。
母の愛はアンを常に覆い続けたし、夫となる青年もまたその想いを背負い、生者として彼女に寄り添うことになる。
そしてアンもまた、母となり自らの太陽を手に入れて、そっと口づけする。
無慈悲な死が枯れ葉を落とすとしても、時は過ぎて子は育ち、やがて母になる。

幾度も繰り返される、据えたアニメでの早送り演出を見ても判るように、時間に対して強い意識を持つこのアニメ。
空や星、花を捉えるカメラは少女を見据えて、14年の時間を早回しで見せる。
花は散り、想い出は色あせ、しかし手紙は届く。
時間も死も超越できる、一種のタイムマシンとしての『手紙』は例えば、第7話で娘の死を克服しえたオスカーに通じる演出でした。

あのときは父と娘であったのが、今度は母と娘になるのは第4話、あるいは第5話に響くテーマ設計かなぁ……。
『戦争』から遠い場所で無事に日常を謳歌する実の母娘も、血の繋がりなく巣立ちを祝う母も、死を前にして最後の思いを残す母も、みなそれぞれの形で愛を届けようとする。
ときに巧く伝わらないその思いを、ヴァイオレットは『良きドール』として媒介してきたし、そこで交わされた言葉はそれぞれ、強い意味のあるメッセージでした。
庶民と貴種、生存と死別、様々に立場は違えど、そこには共通するものがあり、別個の輝きがある。
そういうたような反射を切り取る意味でも、『婚礼を寿ぐ母』がシリーズ中幾度もリフレインするのは、面白いモチーフだな、と思います。


先にも述べたように、今回のお話はアンの小さな世界を、徹底して一人称で負います。
迫り来る死を前に、残酷な真実を前に、大人たちはアンを真実から遠ざけ、ショックを受けないようにする。
冒頭サラッと流される遺産目当ての親族の描写、そこから漂う生臭さから、母は娘を当然守ろうとする。
そういうシェルターは、(ホッジンズがヴァイオレットに対して見せたように)少女を残酷な喪失から守るわけだけども、同時に蚊帳の外におかれているもどかしさ、本当に欲しいものが手に入らない苛立ちを加速させる。

ヴァイオレットとクラーラは、硝子で守られたテラスで執筆を続けます。
それは透明に公開されているけども、なかなか踏み込めない『大人の世界』であり、そこで何が語られているかは判らない。
それを聞かせないことこそが、ヴァイオレットがあの家を来訪した理由なのだから、聞こえないのはある意味当然ですし、死という剥き出しの真実が少女から何をもぎ取るかは、前回と前々回、ヴァイオレット(と視聴者)が身を以て学んだことです。
冬の気配が青葉を枯れ落とすように、避けようのない死。

願わくば、その痛みを知らないまま守られていて欲しい、硝子のシェルターの中で幸せに咲いていて欲しいという、母とヴァイオレットの思い。
しかし子供にも目はあり、耳もあり、大人が作った衝立に回り込んで真実を探したり、そこからはみ出してしまう『死』の巨大さを見つめてしまう瞬間も、どうしても起こる。
必死に笑顔を作り、健康体を演じている母は、死病の発作を抑えきることは出来ないわけです。
それは小さな子供の無力な腕では、どうにも出来ない重たいものであり、アンは大人が望むように『死』の巨大な影を見て見ぬふりをしつつ、ワガママな『子供』であり続ける。


ヴァイオレットを前に、アンがお姉さんぶった言動を続けるのは、僕にはとても痛ましい姿でした。
彼女は薄っすらと母の『死』を感じ取っていて、それを前に無力な『子供』ではなく、何らかの対処が出来る(と、アンは思っている)『大人』になりたい。
『大人』を演じていれば、死が母の時間を略奪する運命が打破されると信じる、無邪気で切実な夢想。
そこから更に踏み込んで、『死』が母に到達し自分が一人になってしまう未来を生き延びるべく、タフで物分りの良い『大人』への背伸びを繰り返しているようにも見えました。

人形遊びが好きで、お仕事の邪魔をして、一見『子供』っぽく見えるアン。
しかし彼女(と、世界のあらゆる子供)は、小さな身の丈で残酷な世界をよく観察し、その有様を前に自分がどう振る舞うべきかを、必死に考え続けています。
『お客さん』が嫌いなのも、死神という最強の『お客さん』が母を奪っていく気配を、強く感じ取っているからでしょう。
そして自分が、何も気づいていない『子供』でい続けること、硝子のシェルターで守られて続けることを望まれていることも、しっかり気づいている。

世界の真実を背負うには小さくて、しかしそれに気づかずにいるには大きくて。
非常に不安定な『子供』のあるがままの姿を切り取るのに、京都アニメーションの細やかな芝居力が最大限発揮されており、映像で殴り続ける作りでした。
京アニはかなりKD(子供大好き)な制作会社ですけども、そのフェティシズムをドラマに密接させて、物語が駆動するエンジンとして活用する手腕に優れていると思います。
静止した観察対象から半歩踏み出して、自分の小さな世界を必死に踏破している、尊厳のある主体としての子供を愛している感じ、というか。
それが今回、賢く優しく、痛みに満ちたアンの描写に生かされていたと感じました。

大好きなお母さんが、愛ゆえに遠ざけようと、硝子の中に閉じ込めた『死』を、私は見ていないのだ。
この幸福な時間はずっと続いて、リボンをお母さんが結んでくれる日が、体が良くなる時間がやってくるのだと、彼女は演じ続ける。
しかしそれは、彼女が見据える秋の景色、世界に満ちた陰り、母の喪失、そこに『子供』でしかない自分が感じる身を引き裂かれる痛みと、ずっと矛盾する。
母が作った硝子の覆いは、野放図に伸びる向日葵の芽を押さえつけて、きしませてもいる。


アンは自分の足でガラスの温室に踏み込み、自分が『死』に気づいていること、愛に満ちた母の優しい欺瞞を指弾します。
それを言ってしまえばお母さんは泣くから、ずっと『子供』と『大人』に引き裂かれながら黙っていた世界と自分の真実を、大きな声で公開する。
一人称視点で綴られてきた『子どもの世界』にあふれていた影を、当然アンはしっかり見ていて、それをずっと堪えていたのだと、諸星すみれ渾身の演技で叩きつけてきます。
それは彼女が、周囲が望むままの『子供』(あるいは『大人』)から抜け出して、そのどちらでもあり、どちらでもない自分自身に帰還した瞬間です。

彼女は『家』から遠く離れた並木を駆け抜け、薄暗がりが待つシェルターの外へと歩いていく。
でもその歩みは拙くて、彼女は自分の気持も、死の運命も抱えきれないまま倒れてしまう。
そこに、ヴァイオレットは追いつく。
第3話でスペンサーの杖を受け止めたように、少女の涙と拳を胸で受け止める彼女は、涙を堪えながら言葉を紡ぐ。

あのときはただ側にいるだけだった彼女は、死も生もそこにあり、時が巻き戻らないことを思い知っている。
『それでも、人は生きていくのだし、生きていて良いのだ』という実感を先週もぎ取ったヴァイオレットは、世界の理不尽さに自分を見失ったアン(それは過去の自分自身、その反射です)に、自分だけの言葉を紡いでいく。

アンの父、クラーラの夫を略奪した戦争は、ヴァイオレットの両腕と愛する人を奪った。
その痛みを銀の腕で補って、立ち上がる杖を他人から借りて、ヴァイオレットは母娘の家にやってきて、一人取り残される娘の杖となる『手紙』を、その腕で描いている。
喪失と補強が繰り返される残酷な世界を、その無慈悲さひっくるめて肯定し、生き延びること。
アンを胸に抱きながらヴァイオレットが紡ぐのは、彼女自身もまた傷ついた生存者だからこそ生まれる物語であり、他人事ではない。
だからこそ、その温もりを杖として、アンは母を奪っていく『お客さん』を、それをどうしても肯定できない自分自身を、その痛みを振り回して母を傷つけてしまった事実を、見据えることが出来たのでしょう。


去っていく母、残される娘。
ヴァイオレットは人形の仮面、プロフェッショナリズムの鎧で自分を覆うことで、悲哀に共感する柔らかな気持ちを覆い隠しています。
しかしそれは言動の端々から溢れ出て、最初は『悪い人形』『嫌なお客さん』と距離をとっていたアンを、彼女に惹きつける。
『死』が硝子のテラス、母の笑顔からはみ出してしまっているように、ヴァイオレットの共感もまた、彼女の人形めいた態度を越境して、アンに届く。
巨大な存在を覆い隠しきれず、溢れてしまうことは、悲しみも喜びも生みうる一つの形相であり、多彩な価値を持ちうるわけです。

相変わらずのマジレス人間ながら、仮想の物語やはぐらかし、冗談やたとえ話といった複雑な言語行為を駆使して、豊かな関係を作っていくヴァイオレットの姿は、彼女の変化を巧く演出していました。
第5話、第6話の残響のように、物語を込めた『本』を読む行為が、ヴァイオレットとアンを繋ぐのが、僕は好きですね。

しかしヴァイオレットは、母を知らない。
『世界のすべて』である少佐は、彼女にとって父であり母であり恋人でもあったわけですが、しかし感情を素直に発露し、それを受け止めてもらえる幼少期というのは、戦争の犬たる彼女にはなかった。
優しいシェルターで愛に守られる代わりに、ナイフとライフルを抱えて人を殺してきた。
自分が体験していない尊さに大きな価値を見出し、強く心を揺さぶられ、そしてそれを人形の仮面で覆い隠すという、複雑な心の動き。
ヴァイオレットはここまでの物語を経て、そういう能力を快復させたたわけです。

ヴァイオレットはアンのそばにいる時、彼女を羨ましく思ったのだろうかと、答えの帰ってこない疑問が胸を叩きます。
自分もそうなり得たかもしれない、当たり前の母の愛に包まれた少女の笑顔と泣き顔を見ながら、過去を思ったのだろうか。
そういう余計ごとに思いを巡らせる潤いが蘇ってる感じもあるし、機械の美徳も自分のものとしているヴァイオレットは、誰かを羨むことはしないかな、という思いもあります。

どちらにしても、異質なものに対しても人の想像力は伸びうるし、その思いを適切に言葉にし、あるいは真摯な態度に反射させることで、『良きドール』の仕事はなしうる。
賢く周囲の願いを感じ取り、それでも溢れてしまう気持ちを泣きながら吐露し、その感情がしっかり暴れまわった後、よりよい場所に収まることが出来る、涙まみれの幸福な幼年期。
アンと離れた後ヴァイオレットが流した涙には、銀の腕のように取り返しがつかず失われた『それ』への憧憬と思慕が、少しでも混ざっていたのか。
その答えは見る人次第だと思いますが、どちらにせよ、ヴァイオレットは人を思って涙を流し、そして『良きドール』であリ続けるためにそれを堪える能力を、長い道のりの果てに快復させました。


それはやっぱり、とても大きな意味のあることだと思います。
今回のお話は、先週ラストで、『良きドール』としてのヴァイオレットの歩みを肯定したホッジンズが『ずっと見守って』いた輝きを、アンという幼いレンズを通してもう一度切り取り直し、追体験させるエピソードとしても、受け取れる気がします。
ヴァイオレットが成し遂げたこと、頑張ったこと(それはつまり、『良きドール』の『家』としてホッジンズ自身が積み上げてきたことでもある)がどれだけ意味のあることか、ヴァイオレットの主観から少し離れた場所にカメラを置くことで、遠近法を作り直すエピソード、というか。

小さな女の子が、自分は強く傷ついていることに気づき、荒野を一人歩いて転び、強く吠えること。
そこから立ち上がって歩き直し、沢山の喜びと少しの哀しみに向き合いながら、おのれの道を歩いていくこと。
アナの場合、その先には自立と恋、娘という向日葵が待っていました。
ヴァイオレットもまた、別の登場人物、別の舞台を、似通った(そして全く違った)足取りで歩いて、青い傘を携えてあの家にたどり着く。

その先同じ道を、ヴァイオレットは辿るかもしれないし、辿らないかもしれない。
アンとヴァイオレット(に限定されず、彼女が出会うあらゆる他者)はお互いとても良く似ていて、でも全く違う存在であるから、その道は一瞬交わって、再び別れていく。
再び出会うかもしれないし、出会わないかもしれない。
それでもその一瞬の出会い、そこで託された思いと、それを形にしうる『手紙を書く仕事』は、凄く意味のある営みです。
その残響は第9話で、街(とヴァイオレットの想い出)を満たしていた人々の名残のように、離れていたとしても世界に満ちて、届く。
『手紙』のように。

残り数話。
『良きドール』であり『殺し、殺された戦病兵』でもあるヴァイオレットの歩みが、どこへ向かっていくか。
おそらくはもう一回少佐絡みのお話をやる気がしますが、その時今回彼女が立ち会った母娘の涙と笑顔が、彼女自身が書き上げた『手紙』がどんな意味を持つのか。
来週も非常に楽しみです。