イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

吐く息白く -2018年1月期アニメ総評&ベストエピソード-

・はじめに
この記事は、2018年に僕が見たアニメ、見終えたアニメを総論し、ベストエピソードを選出していく記事です。
各話で感想を書いていくと、どうしてもトータルどうだったかを書き記す場所がないし、あえて『最高の一話』を選ぶことで、作品に僕が感じた共鳴とかを浮き彫りにできるかな、と思い、やってみることにしました。
作品が最終話を迎えるたびに、ここに感想が増えていきますので、よろしくご確認を。

 

ゆるキャン△
ベストエピソード 第5話『二つのキャンプ、二つの景色』

一緒に同じ風景を見つめた第3話のシメとはまた違う画角から、キャンプと出会いお互いと出会った女たちの情景を豊かに描いて来て、最の高であった。

ゆるキャン△:第5話『二つのキャンプ、二人の景色』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 僕がゆるキャンを正座して見るようになったのは、やはりこのエピソードのラストを見てから、だと思う。
キャンプ回のラストは毎回とんでもない叙情性の爆弾を投げ込んでくるアニメだったが、離れていても繋がっている二つの星空を描くこのエピソードは、ここまでのやや近接した距離感から離れつつ、それが物理を超越した魂の繋がりなのだと、堂々と宣言せしめた。
バラバラのものが接近し、自分らしさを保ちつつも相手を敬い、取り入れ、変化する。りんちゃんとなでしこの出会いと交流をポップに楽しく描きつつも、このアニメはそういうすごくベーシックで太い『人間』を描くことを、絶対に怠けなかった。
それを成立させるためには、やはり『別である』ということを丁寧に積み重ねる必要があり、その強い現れとして『ソロ』と『野クル』がある。両者は接近しつつ別々で、しまりんも斎藤さんも簡単にはサークルには入らない。しかし、グループキャンプはする。

そのベタベタしない距離感が、ともすれば世界を一つの価値に埋めて安心を得ようとする『ゆるふわ系』のいやらしさから作品を遠ざけ、ジャンルの一番善い美質のみを回収しうる清潔さを、作品に与えていたと思う。
ぬくもりを感じるほどに近いけども、風通しが良いのだ。その気質は、このお話ラストを飾る二つで一つの星空に、非常に明瞭に書かれているのだ。離れていても、別にいい。くっついているのも、また良い。
そういう鷹揚な豊かさこそが、この作品の特殊性である、また普遍性であったとも思う。いいアニメだった。

 

ポプテピピック
ベストエピソード 第2話『異次元遊戯 ヴァンヴー』

実写にフェルト人形ストップモーションセルアニメだけがアニメーションではないんやで、という前衛性を感じる。

ポプテピピック:第2話『異次元遊戯 ヴァンヴー』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 ぶっちぎりのクソアニメからはこの話数を。初弾の衝撃がある程度抜けて、『さてどんなアニメなのかな?』と座を改めて見る話数で、色んな手法、いろんな表現を綺羅星のように並べて見せてくれたのが、とても嬉しかった。
実際この後も、ポップなアニメーションの文脈ではなかなか表に出てこないメンツを引っ張り出し、新しいものを見せてくれた。
無論、アートアニメの方向に舵を切ればそれは別に『新しいもの』ではないんだけども、皿を変えると料理が新鮮に見える、というか。深夜アニメのパッケージングで、アートアニメの手法と才能が見れるのが良いというか。
そういう楽しみ以外にも、クソオタクとして脳に溜め込んだゴミクズデータベースがぶんぶん駆動する『読み』の楽しさとか、クソオタクとして溜め込んだ声優分解酵素がガンガン喜ぶ豪華声優陣の無駄遣いとか、『フツーのアニメ』でもあることを活かした楽しみも、沢山あった。
どっちにしたって、作品は文脈の中にある。それはジャンルやメディアの歴史という時間軸でもあるし、パッケージされた作品とそれを取り巻く宣伝・印象操作の領域という意味でもある。
その両方に総力戦をかけて走りきったこのアニメは、すご~く『深夜アニメ』っぽいアニメであったし、全然そうではないアニメでもあった。そういうトンチキな勝負がこのタイミングでズドンと飛び出したところに、僕は大きな意味と、けっこうな楽しさを感じたのだ。
いいアニメであったと思う。

 

・続・刀剣乱舞-花丸-
ベストエピソード 第5話『皐月・俺だから、出来ること』

ただ正しいだけの意見じゃ、まんばちゃんには届かなかったし、それを引き継いで加州の闇を払いもしない。

続・刀剣乱舞-花丸-:第5話『皐月・俺だから、出来ること』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 昇竜の勢いをそのままに、女性向けコンテンツとして独自の安定感を手に入れた刀剣乱舞。そのアニメ化第三作は、スタッフをほぼ全取っ替えしつつも前作への、コンテンツ全体へのリスペクトに溢れた、面白い仕上がりとなった。
頭のネジの外れたトンチキな笑い、ゆるふわな世界で顔のいい美青年達が仲良く凄く多幸感だけでなく、個性あふれるがゆえの悩み、本丸という共同体が異物を受け入れていく様子を、起伏をこめて描いていた。
月の移ろいと話数を合わせて展開し、四季の彩りをエピソードに添えつつ運ぶ運びも、非常に鮮明かつ繊細で、前作の良さを全体的にブーストし、押し広げる作りであったと思う。
第5話をベストエピソードに選んだのは、逆説的な言い回しになるが、このアニメが必ずしも『ゆるふわ』なだけではないと、しっかり示せているからだ。Bパートにおいて、加州と山姥切というコンプレックスの強い刀剣男士が真ん中に座って、それが解消…というか、自分なりのやり方で肯定されるまでが丁寧に描かれている。

それは一人で可能なわけではなく、薄暗い感情や歴史の重さ、時間を超越した怪物である悩みなどをしっかり受け止めてくれる、本丸の仲間がいてこそだ。大上段に振りかぶった正論ではなく、お互いの顔を見た思いやりこそが、生まれつきの歪みを自分の個性であり、美質なのだと受け入れる心境に繋がる。
写しでありながら前を向けるソハヤの前向きさから、山姥切は写しコンプレックスを飲み込んで、自分を隠していた布を取っ払う力を得る。そのことが、相棒の不在と審神者との距離に思い悩む加州の心に届く、嘘偽りのない言葉を生み出す。
薄暗い感情は、そこにある。悲しい過去も、歪んだ心も、そこにあるのだ。『優しい世界』はそういうものを否定し消し去るから成立するのではなく、それを肯定した上でどう乗りこなしていくか、乗りこなせる道筋を共同体の中に作り上げていくかという、緩やかな努力の中にこそある。
そういう、ちょっと骨太で、真心に満ちた心のリレーがあることで、『ゆるふわ日常系』というジャンルのお約束に逃げすぎず、キャラクターの地金をちゃんと掘り下げた作りに、続花丸はなったと思う。その代表として、この5話は非常に良いのだ。

 

からかい上手の高木さん
ベストエピソード 第4話『掃除当番/逆上がり/風邪/尾行』

ドラマ的な遠近法の巧さを、ちゃんと絵的な遠近法でも表しているのが、なかなか良いところだ。 理科室で語らう二人を、ヒキで撮りつつフラスコをナメるシーン。別のカップルを見て揺らぐ心が、曲面ガラスで歪んで切り取られる。

からかい上手の高木さん:第4話『掃除当番/逆上がり/風邪/尾行』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

ベタ足の甘酸っぱさと、細やかな配慮と巧さで見せるラブコメの新境地を、しっかりアニメにした作品からはこの話数を。 
基本的に同じモチーフ、同じ気持ちよさ、同じ衝突を繰り返し続ける、ミニマルテクノのようなお話。なので、変化する部分への好みでベストを選ぶ形になる。
舞台となる季節、恋を切り取る角度、一瞬一瞬の仕草やセリフ。足場になる要素は多数あると思うが、アニメは『絵』なので、『絵』に強い工夫のあったこの回を選ぶことにした。
同じ話をずっと続けていると、人間の舌は慣れる。でも、別のことを急にやられると、求めていたものではないように思える。贅沢な視聴者の気持ちを的確に繋ぐべく、同じように見えて色んな角度から変化をつけて、バレないように揺すぶりをかけ続けてきたアニメだとも思う。
『掃除当番』ではレイアウトやカメラワークが非常に凝っていて、その映像的緊張感(と、『いつもの教室』を出ているという変化)がいい刺激となり、最高に気持ちいいマンネリを飽きずに食わせている。
こういう工夫は、BGMの使い方とかエピソードのムードとか、様々な部分で効いていて、しかし目立ちはしない。ずっと同じ気持ちよさが続いているのだ、という錯覚を的確に与えるべく、工夫は総動員されている。それはこのアニメだけでなく、『フツーのアニメ』とされてしまう全ての創作において、必死に凝らされているのだろう。
そういうさりげない努力のいじましさも、子のアニメを好きになれる足場だった。ポップでありつつチャーミングでもある、素晴らしいアニメだったと思う。

 

宇宙よりも遠い場所

ベストエピソード 第6話『ようこそドリアンショーへ』

すごーく太いものを、説教臭くなく肌で感じさせる描写のさりげない巧妙さは、ずっと損なわれることなく健在だ。

宇宙よりも遠い場所:第6話『ようこそドリアンショーへ』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 ベストは全話。と、思わず判断放棄したくなるほどに、クオリティの高い物語を放送し続けたよりもい。あふれかえる叙情性でグッと掴んだ第1話、館林死闘編のラストを飾り今後を照らす第5話、タメにタメた日向の物語が洪水を起こす第11話、全てのピークである第12話と、候補は沢山あったが、結局子の話数となった。
これは好み……というか、アニメーション(あるいは話数・章数を使う物語形式)のどこを重視してみるかという、スタンスの話になると思う。僕は部分をしっかり仕上げてこその全体だと考えながら見ているので、途中を巧く繋いだり、全体の見取り図を見せるような話数に、話の評価がかなりの部分乗っかる。
アタマだけしっかり仕上がってたり、終わりだけ感動的だったり。それはそれで良いんだけども、個人的には物語がそこにある意味を全話に持たせて、巧く繋いで構成してくれると、連続する意味がその総和を遥かに超えていく不思議な運動として『物語』を体験できて、非常に楽しいのだ。

館林と『南極』の間を繋ぐこの話は、日向の物語としても中間地点にあって、全ての問題が解決はされないけども、彼女が抱え込んだ陰りがしっかり描かれる。ここでの経験が、『南極』で様々な困難に向かい合い、心の堰をきる力を作る。
そういう明瞭な繋ぎの仕事を与えられつつ、このえぴそーどにはしっかり個別の顔、喜びと悩みがある。『カウントを整える玉』だからといって、力を抜いた仕上がりになど絶対にしない。
シンガポールには個別の夜景があり、ドリアンは特別に臭く、あの街での思い出は『南極』の前座などではない。すべてが特別に光り輝いて、だからこそ最後にたどり着いた場所はとても高くて。抜かりなく道を整えたからこそ、その高みを一切嘘なく、必然として受け入れることが出来る。
そういうシリーズ・アニメーションの理想形を、このアニメは見事に走りきったし、そのフォームを維持するための思いの強さ、技術の確かさは、この話数(が繋がっている前後の描写全て)に、しっかり込められているように思う。
そういう有機的で野望に満ちた連環こそが、傑作を気づき上げ、僕らのもとに届けてくれるのだと思う。そういう巧さとアツさが結びついた強さが、ドクドクと脈打つエピソードである。

 

刻刻
ベストエピソード 第肆刻

魚眼やビッと決まったレイアウト、あえての止め絵に小気味いいダイアログだけ流して『聞かす』演出。

刻刻:㐧肆刻感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 全体の構成、伝えたいメッセージが明瞭で、それが作品全体を支配しているようなアニメが好きだ。仕上がった感じというか、ゆるぎのない目配せというか。刻刻もそういう目の良さがあったが、あえて選ぶならば単話の圧倒的な仕上がりを見せた、この話数となる。
とにかく印象的な『絵』とそれを繋ぐ『動く絵』『動かない絵』の取捨選択が鋭く、印象的だった。そしてその巧さが、止界の異常性と見事に噛み合って、ドラマから浮いていない。キッチリ話を加速させるのに十分な力強さで、テクニックが駆動している。
単純な興奮を追いかけすぎず、かといって蔑ろにせず。非常に優れたバランス感覚で『エンターテインメント』を走りきったこの作品は、やっぱり1カットごとのセンス、それをどう見せ繋げていくかの意識に支えられていると思う。その鋭さが、一番鮮明な形出ているのは、湯川敦之がコンテと演出を両方担当した、この回であろう。

 

ハクメイとミコチ
ベストエピソード 第1話『きのうの茜 と 舟歌の市場』

あ、野生と人造に別れたA/Bパートを、『割れたマグカップ』という縦軸で繋いで一つの話にしている構成も、アニメらしい再構築力で素晴らしかったです。

ハクメイとミコチ:第1話『きのうの茜 と 舟歌の市場』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 ハクミコのアニメは素晴らしい仕上がりだった。色と動きと音がついたことで、原作の魅力はいや増し、原作読者が見たかったアニメが、ズドンと真ん中に飛び込んできた。エッセンスを殺さず、よく原作を読むことで生まれる魅力。
しかしそれは、アニメーションという別メディアの特性を理解し、的確に調理した結果だ。童話風の『枠』を使って絵を区切っていく工夫。『動く絵』に合わせてアングルや構図、動きを工夫しより適切に伝えてくる工夫。そういう『変化』が随所に(そして悪目立ちしないように)盛り込まれているからこそ、『原作通り』という印象を受ける。
それはつまり、アニメーションは再編集であり、再編集は独自の創作でもある、ということだ。変わらないためには変わることが必要で、元のままあるためには別の形にならなければいけない。そういう必然をどう乗りこなし、『原作のままだ』と思わせるのか。
そこにプロフェッショナルの技量と心意気があるし、原作漫画とアニメーション、その両方への愛情がある。様々な工程が有機的に組み合わさり、だからこそ面白い週刊放送アニメ。変わりつつ同一でもある矛盾の楽しみこそが、やはりアニメーションの醍醐味だと思う。
この第一話は『割れたマグカップ』というフェティッシュを有効活用することで、本来繋がらない物語をしっかりつなぎ合わせ、シリーズに必要な連続性を見せてきた。初手でそういう配慮を見せたことが、『変わるからこそ、原作通り』という健全な制作意識を感じさせ、作品への信頼ともなった。
無論それは、変えるべきではない部分、変えてしまっては魅力が死んでしまうエッセンスを見事に活かしたからこそ納得がいく、必然の変化でもある。世界に漂う生活臭、汗と空腹の手触り、そこで息づくキャラクターの人生。
そういうコアの部分を、アニメというメディアでどう伝えるのか。非常に苦心しつつも、その力みを視聴者には極力感じさせず『なんとなく雰囲気が良く、楽しいアニメ』に収まるよう整えていた努力も含めて、非常に誠実でストイックなアニメ化だったと思う。
この第1話で感じた変化への野心と勇気、核心への敬意と愛情。それは1クール損なわれることなく、多様な場面、多様なキャラクターを照らしながら見事に走りきった。初手でそういう匂いを漂わせているアニメは、やっぱりいいアニメだし、強いアニメだ。

 

3月のライオン 第2シーズン
ベストエピソード 第34話『黒い霧&光』

シャフトの演出力は不定形の心の闇を描く時、一番冴えると思っている。その筆の冴えが、画面の端に宿った答えのない暗がりに、視線を吸い寄せた。そういうことか。

3月のライオン 第2シーズン:第34話『黒い霧&光』感想まとめツイート - イマワノキワ

 シャフトの演出が苦手だ、と言ったら笑われるだろうか。『お前信者じゃん』と。実際信者なのだが、だからこそ使い所が難しい前衛力と、ポップな題材が噛み合わなかったときのダダ滑り感は痛ましく、それでも『いつものシャフト』で押し切るしかない不器用さをどうにかして欲しいと、いつも思いながらシャフト作品を見ている。
3月のライオンとシャフトは非常に幸福な出会い方、混じり合い方をして、毎回違う表現、撮影、色彩、筆致を楽しむことが出来た。(『アニメーション』が持っている可能性は、実は『深夜アニメ』が持つ保守性に閉ざされて芽を出さないことが多々あると思っている。ポップな商業主義という名前の檻)
3月のライオンは魅力的なキャラと強いドラマに支えられつつ、シャフトが投げかける前衛のラッシュをしっかり受け止め、噛み合った演出として使いこなせていた。その幸福な出会い、そこから生まれる多彩な表現を毎週楽しめたのは、非常にありがたい。

(『深夜アニメ』の枠からはみ出した、エッジな表現を『深夜アニメ』の枠組みで見れるという、倒錯した気持ちよさ。今期はそれに満ちたクールで、”ポプテピピック”でも”Fate/EXTRA LastEncore”でも、攻めた演出の尖った爆発を浴びることが出来、大満足である)

ドラマ的な盛り上がり、キャラクターへの愛着を鑑みると、本当にベスト選出は悩む。宗谷との仙台、棋匠戦、どれも圧倒的に良い。そういう盛り上がりのない、繋ぎのエピソードにふんわり漂う水彩と柔らかさも、ベスト級の良さがある。
のだが、あえてこの話を選ぶのは、Aパートを彩るホラー&サスペンスな演出が、あの教室、あの教師を縛り付けていた重たさをしっかり表現しきり、そこから開放されるBパートの開放感へと繋がっていることだ。
前衛であることは、それ単品では価値ではない。あくまでポップに、娯楽として消費される『深夜アニメ』の文脈ではなおさらだ。わかりやすく、飲み込みやすい価値にコンバーションし、つなぎ合わせて初めて『攻めた演出』には意味が生まれる。
(とは言っているが、意味が剥離してしまうほど攻めに攻めて、文脈から離脱した孤独な表現としての『前衛』も大好きなので、それはそれで好物だったりする。ただマッチングを考えないと、売られ方というか文脈への置かれ方というか、浮きっぷりが痛ましくなってしまって表現自体を味わうどころではなくなってしまうのが、時にもったいなく感じもする)

このアニメ全体に言えることだが、創作集団の尖ったアイデンティティを巧くドラマに馴染ませ、食える形で最適に届ける努力が、怠けず行われていたエピソードだと思う。その努力は『前衛』をただ放置するより効果的に、『前衛』の意味を見せる気がするのだ。
そういう歩み寄りや語りかけが、ひどく凶暴な形で発揮されているエピソードなので、ベストに選んだ。ここで使われている語り口があってこそ、このアニメは『深夜アニメ』……『とても良い深夜アニメ』たり得ている気がする。良いエピソードだし、いいアニメだった。

 

ヴァイオレット・エヴァーガーデン
ベストエピソード 第3話『あなたが、良き自動手記人形になりますように』

しかし今回ヴァイオレットが果たしたのは、心のない『自動手記人形』でしかない自分から、複雑に変化する他人の心を読み取り、その間で生きる『戦後の人間』へと変化していこうという決意に満ちた、0を1にする第一歩なわけです。

ヴァイオレット・エヴァーガーデン:第3話『あなたが、良き自動手記人形になりますように』感想 - イマワノキワ

 ヴァイオレット・エヴァーガーデンは、過剰品質で、頑なで、遊びがなく、過剰な意味に満ち溢れた、『いつもの京アニ』であった。
超越的なクオリティ自体に振り回され、何を語り伝えるかという目的/手段設定に弾力性を獲得できない、創作集団としての生真面目さ。
生き死にのこと、時間のこと、反射のことを真面目に丁寧に、あまりにもしっかりとやりすぎるこのアニメーションは、”小林さんちのメイドラゴン”で見せたバランスの良さから少し離れて、石立太一のアンバランス(ということに、現状の深夜アニメーション受容環境ではなる)な誠実さに捉えられた作品となった。

その不自由さ、頑なさが僕は好きだし、そこで表現される光と時間、人間と世界の細やかな分解能が好きだ。
たとえそれを緩められないことが、ある種の固さ、不自由さに繋がっているとしても、そこに挑み続け表現するために、撮影や背景を自社で抱えきり、スケジューリングから原作確保までやりきる強さは、高く評価されるべきだと思う。

今作において美麗な背景や圧倒的な撮影技術は、それによって切り取られる時間の変化、『戦場』から『戦後』へと移り変わる世界、それによって治癒されあるいは取り残される人々の傷と陰りを、絵として表現する強力な補助線として機能していた。
過剰な品質が必要な『特別な物語』が、戦病兵のありふれたリハビリを追うアニメに必要であったかは、人それぞれ答えの分かれる問いだろう。
しかし僕は、むしろありふれた快復の物語であったからこそ、それが圧倒的に特別なのだと叫び続けた過剰な品質は、大きな意味を持っていたと思う。

さて、全てが劇場版品質で紡がれたこの物語で、ベストを選ぶとしたら何処か。
話のピーク自体は第9話、あるいは第13話にあるし、個別の切れ味や楽しさとしては第5話、第7話、第10話なども候補に上がるだろう。
その上で、この第3話をあげたい。

それは『ただの綺麗な物語』として展開しかねないこのアニメが、実はちゃんと時代と個人のリハビリテーションを追う物語であり、性別や美醜にかかわらず傷ついた人、取り返しのつかない喪失について追いかけていくのだという確信を、この話数で手に入れられたからだ。
スペンサーを描く筆の細やかさは、後々ヴァイオレット自身に帰還して『自分の足で立ち直ること』の意味を第7わから第9話の三連作、あるいは第11話から第13話にかけての『戦後も続く戦場』の物語の中で語ることになる。
何よりも、誰かの言葉を代理するドールでありつつ、自分自身も変化する主体であり、他者に光を投げかけ続ける反射体でもあるヴァイオレット・エヴァーガーデンの姿が、一番最初に鮮明に見えるエピドードだからだ。

ヴァイオレットは長くて難しい物語を何とか歩いて、他者を救い、己を癒やしながら、後悔と喪失に満ちた世界を生き残っていく。
この話数で語られた予感は、最後まで揺るぐことなく回収され、生真面目に語り尽くされる。
その頑なな姿勢が、僕はやっぱり、とても好きなのだ。

 

アイドリッシュセブン
ベストエピソード 第4話『プロの覚悟』

ライバルの骨格が太いと、やっぱ一気に物語が立つねぇ。良いキャラ、良い見せ方だったと思います。

アイドリッシュセブン:第4話『プロの覚悟』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 アイドリッシュセブンが嫌いだった、と書くと意外に思われるかもしれない……し、納得されるかもしれない。第3話辺りまでの感想を読み返すと、自分の中の違和感をいかにオブラートにくるんで言語化していくか腐心していて、少し面白くなる。(当時、尖った言葉を好きなモノに投げられ、傷ついた方はごめんなさい)
アイナナはいわゆる『女性向け』コンテンツに分類されるアニメだが、僕はそういう部分をあまり気にせずアニメを見る。面白ければ何でも良い、というか多分『アニメ』である時点である程度楽しさのレセプターが満足して、最低限の視聴ハードルを超えてしまう嗜好があるのだと思う。採点基準が甘いのだ。
しかし見続けるアニメと、見るのをやめてしまうアニメの差は歴然とあって。その基準点の一つが『選び取ったテーマに誠実であること』だったりする。アイナナなら『アイドル』の特異性と強み、歪みと危うさをどう捉えて、どう妥協せず(もしくはどこで妥協して)描いていくか。そこをしっかりやってくれないと、好きなアニメとはならない。

序盤、アイナナの連中は『アイドル』を舐め腐っている。自分たちが自分たちであることにも必死でないし、なんとなくサークルの空気をいい感じに維持しようと、怒るべきところで怒らず、凹むべきところで凹まない。
その半端な気持ちよさの維持は、正直かなり不快だった。キャラと世界設定とドラマと描写が渾然一体となった『物語』を受け入れるレセプターはあっても、そこから離れた文脈を丸呑みできる受容体は僕にはない。
無条件にキャラ萌えすることが殆どない自分としては、わざわざ選び取った『アイドル』に本気ではない(ように見える)彼らには、かなりイライラしていた。

そんな状況で、この回が来た。いろいろ得心がいって、アイナナへの視聴態度が大きく変わる重要な回となったので、ベストエピソードである。物語構造上重要な仕事をしている回でもあるし、何より自分の気持が一番動いて、好きという気持ちが生まれた瞬間はとても大事だ。(アイマスアニメで言うと、第5話合宿回である)
このエピソードで、TRIGGERが前面に出てくる。ライバルとして、陸の『家族』への視線を受け止める対象として、TRIGGERは半端なアイナナを牽引していく。点に高く煌く星、『アイドル』の理想像たる彼らは、ストイックなプロフェッショナルとして、なぁなぁの仲良し主義じゃない絆の持ち主として、アイナナの手本となる。
そこに投影されている『アイドル』の理想形は、つまりアイナナが見ている『アイドル』というテーマそのものだったりする。本気で嘘を尽き、己を殺してでも客の夢になる存在。痛みと犠牲を宿命づけられ、それでも『何か』のために歌い、踊り、一瞬だけ神様になり得る存在。
その認識は僕のそれとピタッと重なり、作品に感じていた違和感はすんなり収まっていった。アイナナがTRIGGERを目指すのなら、今見えている欠点は意図的なもので、必ず自覚し変化していくものなのだろうという見取り図を書くことが出来た。
そういう風に、作品内部の価値観や倫理が自分のそれとシンクロする瞬間は、創作を信頼できるようになる瞬間だ。どれだけ顔のいいキャラや、魅力的な世界設定や、引き込まれるストーリーがあっても、そこが重なり合わないと僕は、作品を好きになれない。

四話でそういうモノを出してくるのは、タイミングとしては遅いかもしれない。しかし、遅すぎるということはなかった。ここで差し出された暗示、理想、歪みと一体になった成長の余地は、起伏の激しい感情のうねりに乗っかって、しっかり回収されることとなる。
象徴性の高い画面の作り方。ちょっと大仰な見せ場とヒキ。日常芝居の中の可愛げ。作品のソウルとシンクロしてみると、製作者がアニナナに埋め込んだ魅力もぐっと引き立ってきた。
そんな強さは、『良いかも知んないけど、どうにも好きになれねぇなぁ……』と、斜に構えた時もちゃんとそこにあったのだ。作品を好きになるということは、そういう色眼鏡を外し、作品の良いところを素直に見せてくれる、ということでもある。そしてそういう姿勢にならないと、作品に込められたものを真実受け取るのは難しい、とも思う。
だから、作品を好きになれる回があるというのは、とても大事だ。自分とそのお話が『合っている』のだと、気付かせてくれるようなエピソード。そこで重なり合うのは作品内で提示される価値観かもしれないし、言葉にならない波長かもしれないし、キャラの顔の好みかもしれないし。色んな可能性があって、そのどれにも価値があると、僕は思う。
そんな風に、アニナナのリズムに僕のチューニングを合わせてくれた回が、アニナナのベストである。