Caligula -カリギュラ-を見る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年6月25日
地獄より愛をこめて、君を殺す。
機能不全の自分を思い出し、式島律はμの待つメビウスへと帰還する。佐竹笙悟は、亡霊と決別する。
無限の楽園に囚われるだけの理由、ざらついた現実へ帰還するだけの意味。最後の銃弾は、火薬の代わりに想いが詰まっている。
そんな感じの、アニメカリギュラ最終話。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年6月25日
文字通りのデウス・エクス・マキナであるアリアの、不思議なパワーに問題解決をかなり預けることで、μと律の対話に使う時間を作る、割り切った作りでした。あとソーンVSビッグガン先輩。
なんだかんだ律の感情を足場に見てきたんで、正しい割り切りだと思う。
お話としては凄いシンプルで、女の子に恋し、憧れの先輩の皮を被ってすべてを忘れていたダメ人間が、好きな子に好きだって言って、その子が生み出した瓶詰地獄をぶっ壊すという、血まみれのジュブナイルだったと思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年6月25日
律がアバター引っ剥がして、自分の姿、自分の言葉でμと向かい合う。
たったそんだけの話なんで、律は他人に寄り添わないし、闇も掘らない。それは『誰か別の人』の物語なのだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年6月25日
透明な一人称(あるいは無人称)主人公として、ゲーム体験にプレイヤーを引きずり込む窓。ゲーム的な主人公であることを、律は最後の最後で放棄する。あるいは、放棄していたことに開き直る。
自分の物語を背負う、三人称的主人公への変化。それはゲームからアニメへ物語メディアをコンバーションする、”アニメ化”という行為そのものに、ちゃんと向き合った結果だ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年6月25日
透明な事故が個別のストーリーを収集し、その体験そのものが物語になるような、自己没入型のゲーム的体験。
それを基底に置きつつ、自分たちが作っているモノはそれとは違うのだと、最後にしっかり宣言する。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年6月25日
あくまでアニメは”式島律”という、固有の名前とストーリーを背負ったキャラクターが、自分勝手にさまよい歩き、μが好きだったことを思い出すまでのお話だと、台詞と展開で証明する。
それは”ゲームそのままの転写”という意味での”アニメ化”ではけしてないけども、(ゲーム版をプレイしていないので『おそらくは』になるけど)ゲームという原典をよく読んだ上で、自分たちの物語を作ろうとする意志に満ちている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年6月25日
そして、式島律の物語は面白かった。
暴走するソーンに、超かっこよくカットインしてメビウス復帰するシーンが好きで。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年6月25日
あれは仮想空間でアバター被って現実逃避してたダメ人間共が、鏡合わせに対峙するシーンだ。楽士も帰宅部も、みんな現実では負け犬のダメ人間だから、このアニメはずっと合せ鏡の物語だった。
しかしソーンが被る”早乙女一凛”が対話不能な亡霊であり、棗飛鳥がココロの中で腐敗させた妄想の産物であるのに対し、部長が羽織る”橘慎吾”は式島律と話をした。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年6月25日
自分の思い通りにならず、でも言葉をかわしてくれる相手への憧れを、式島律は忘却と一緒に被ったわけだ。
一足先に現実に帰還し、慎吾さんとギクシャクコミュニケーションしたことで、律は慎吾さんを憎みつつ憧れ、遠ざけつつ助けて欲しい自分に気づいた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年6月25日
矛盾だらけの人間像、等身大の自己像を確認した律は、自分がなぜそのアバターを選んだのか、つかみたいものが何だったかを把握している。
アリアの超絶パワーで帰還させられるまで、ソーンはアバターを脱がない。ビッグガン先輩が”早乙女一凛”の墓穴から這い出て、『光って、こんなに眩しかったんだな』と呟いたようには、失われた過去、そこに投射される自己像と向き合えない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年6月25日
ソーンの”現実”がエピローグで描写されないのは、印象的だ
”メビウスとかいう超ヤバ物件、どう処理するの問題”を、出自不明なアリアの超パワーで全部押し流してしまったのは、僕は大正解だと思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年6月25日
そこら辺の”現実的”な対処よりも、大事なのは律のたどり着いた場所、自己の存在証明、それがμに届くか否かである。
いやホント、アリアはどっから来た電霊なの…
そこで押し流してしまってもどうにかなる程度には、サブキャラクターの葛藤と解決の描写はあった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年6月25日
少年ドールが図書館を出て鈴奈を助けてくれたこと、現実で再び出会う彼らが指輪物語を読んでいたこと。鼓太郎が山田の名前を出したこと。
駆け足だが、ちゃんと要素を拾って納得できる。
”現実”の歳三がおそらく寝たきりであるのをみて、ミレイさんというキャラがようやく把握できた気がする。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年6月25日
借金まみれの地獄絵図、優しいじいやは伏したまま。そら現実には帰りたくないわな…そのとなりで、おそらく茉莉江ちゃんだろう子が、手も足も自由に動かせない姿を晒していたが…。
μはそういう、本当にどうにもならない現実の痛みを忘れさせる、幸福な楽園を作った。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年6月25日
コミュ障の創造主と、ポンコツAIの共犯で生まれたメビウスは、あまりに不完全だ。幸福定義は甘いし、複雑さと矛盾を飲み込む可塑性がないし、現実世界への影響もデカすぎる。
それでもμは”みんな”に幸せになって欲しかったのであり、そんな彼女を生み出した律もまた、心のモジュールのどこかに博愛を持っていた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年6月25日
いびつで幼い、間違いすぎた願い。それに巻き込まれれば、帰りたいと願う人も、微睡み続けたいと思う人も、当然いる。
だが帰宅部が勝利し、皆が”現実”に帰るとしても、メビウスが見せた夢は悪夢ばかりじゃないはずだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年6月25日
μの”みんなが幸せになりますように”という、真っ白なエゴイズム。その無邪気な優しさが、どうにもならない人に一瞬の希望を見せて、どうにもならない現実を動かすパワーを与えたことは。
程度の違いはあれ、”みんなを幸せに”したことは、多分事実なのだろう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年6月25日
μに恋した律は、そういう彼女の白い優しさを愛している。μが真っ白だからこそ、現実との摩擦で生まれたドス黒さを処理しきれなかった事実が、多分悲しかったんだと思う。
(あるいは、僕は悲しいので律にもそう思って欲しい)
それでも、部活の仲間とのふれあい、楽士とのぶつかり合い、慎吾さんとの対話を通して手に入れた律の願いは、楽園を壊すことでしか達成できない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年6月25日
自分自身の願いを掴むため、自分を見失ったμを止めるため、律はエゴイズムの弾丸で愛する人を撃つ。そうして、地獄に帰る。
アニメカリギュラは、そんな式島律のキャラエピであり、彼のヒロインであるμの物語だったのだろう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年6月25日
いい話だったと思う。慎吾さんという、どう考えてもメビウスに囚われない人をだすことで、メビウスに飛び込むしかなかった律の痛みと憧れが鮮明になっていた。
律は部員と向き合うよりも、μと自分に対峙するのに時間を使った。”部”全体で決戦に向かう時も、仲間を気遣うより”現実”を見ている。一人で脱出する。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年6月25日
俺がメビウスを壊さなきゃ、μを殺さ/救わなきゃ。そこにあるのは、劣等感を跳ね返すための英雄願望であり、身勝手なエゴイズムだ。
でもそこには、ここまで積んだ物語がちゃんとある。μは大事だ。自分も大事だ。でも、アバター被って大暴れした楽しい部活も、そこで切開されて見えた人間の魂の色も、律の決断に無関係ではない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年6月25日
全てを塗りつぶしてしまうほど強くなくても、メビウスで出会えた人達は、律にとって大きな意味があった。
博愛とエゴイズムの終わらないダンスは、このアニメの中で幾度も顔を出す。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年6月25日
裏腹で曖昧な人間模様を、スタイリッシュな描画の背骨としてしっかり入れ込んだからこそ、どうにも表現しきれない人間の難しさを、それでも愛する人に伝えようとする律の”どもり”が、しっかり胸を打つ。
第5話で律は、μを突き放す。自分が橘慎吾ではない事実を忘れ、衒学とスカした態度で作った仮面を付けたまま、μの真っ直ぐな問に向かってしまう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年6月25日
そのことが、μを孤独な世界エンジンへと追い込み、今回の大暴走にもつながっている。まぁ、忘れてたんだからしゃーないな!!
しかし今回、律は仮面を引っ剥がし、どもりつつ自分の言葉を探す。思いを伝えるのはなんて難しいんだろうと、現在進行系で悩みながら、メビウスで手に入れた自分の答えを、剥き出しのままμに届けようとする。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年6月25日
第5話でμに投げた拒絶を、土手っ腹に投げ返されても足を止めない。血まみれで近づき続ける。
そういう不格好で、剥き出しで、あんまスタイリッシュとは言えない主役のあがきでこのアニメが終わるのは、僕は凄く良いな、と思った。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年6月25日
仮面として選び取った軽妙さ、他人と自在に付き合える万能感。作品全体に漂うムードをかなぐり捨てても、剥き出しの真実を伝えたい。
君のことが好きだから。
そういう、一切嘘のない場所に式島律がたどり着けたこと。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年6月25日
それをμも受け取って、他人から押し付けられたどす黒い瞳ではなく、”みんなの幸せ”を身勝手に夢見た幼い少女に戻れたこと。
それは凄くパワフルな決着で、ゲームを尊重しつつ自分のエゴを押し通そうとした、立派な”アニメ化”だとも思う。
その決着が、壊すことでしか収まらないのはなんとも悲しい。ポンコツμとダメダメ律が、一緒に穏やかに暮らせる世界が、何とか手に入らなかったもんかと思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年6月25日
想像の余地があるエンドカットは、そういう無念も吸い込む豊かさがあって、好きだしとてもありがたい。μも”現実”に帰還できたのかな?
というわけで、アニメカリギュラは終わった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年6月25日
スカした衒学趣味のスタイリッシュさをあざ笑うような始まりから、ドタバタドタバタ色々あって、限界人間が限界っぷりを晒したりして、最終的には主役とヒロインに収める。
やや変則的だが、パワーのある運びだった。いい具合に痛くて、生臭かった。
僕はデザインの段階からμが好きだったので、律が部員との交流をぶん投げてでもμ一本槍で走り切る後半の展開は、本当に良かった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年6月25日
一旦現実に返す展開は、叙述トリックとしてショックがあるだけでなく、律の(そして僕らの)ありふれてつまらなく、だからこそ切実な歪みをしっかり伝える演出だった。
主役が拾わなかったからと言って、サブキャラが薄味だったわけではなく。つうか限界人間博覧会として、思う存分楽しませてくれた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年6月25日
『メインが拾う余裕ねーから、一話で全部やっぞ!』と割り切った第10話は、今思うと大正解だ。そっちが”Caligula”としては本道だから、サブタイああなんだな…。
もうちょいバズンバズン超常バトルするかと思っていたから、対話と日常重点の展開は意外だったが、閉鎖楽園のヌルい日々はことのほか面白く、しっかりキャラを好きになれた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年6月25日
相当な限界人間共なんだが、妙な可愛げがある造形がいいバランスだよな。…だからこそ、山田死んだのつれーわ…。
大人数をどう捌くか。どこまで現実に忠実にやるか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年6月25日
こういう座組では常に問われる問題に、オーソドックスではないがパワフルな答えを出し、歯ごたえのあるストーリーを展開していたのも良かった。
これはCaligulaであり、同時に式島律の物語でもある。
とてもいい答えだと思う。
ゲームを知らない僕は、”Caligula”の真価は知らないのでしょう。だけど、非常に独自の味付けがなされたカリギュラのアニメは、本当に面白かった。トンチキでダメダメな連中が自分を見つけ、夢から覚めるまでの物語として、手触りと体温、痛みと苦痛のあるお話でした。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年6月25日
とても面白方tです、ありがとう。