イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

映画『ペンギン・ハイウェイ』感想

森見登美彦原作、石田祐康監督、スタジオコロリド制作のアニメ映画、『ペンギン・ハイウェイ』を見ました。
原作のテイストを見事な長編に落とし込みつつ、アニメーションならではの表現力や面白さ、切なさと体温をしっかり宿した、見事な作品でした。
美しい箱庭のようでありながら、そこに切実な生命の営み、一回こっきりの小学四年生の夏が濃厚に流れている"丘の上の町"が、ちゃんと呼吸をしているアニメでした。
主人公たるアオヤマ少年が様々なものに出会い、別れ、目覚めていく青春の息吹を、マジックリアリズムとSFの太い筆でしっかり書ききる物語でした。
アオヤマくんの魂にガッチリ食い込む、お姉さんの可愛らしさと儚さが眼球に焼き付く映画でした。
非常に面白いアニメなので、舞台となる"夏"とシンクロできる酷暑の2018、”今”こそ見に行くべきだと思います。
強くオススメです。

以下、ネタバレバリバリで感想を書きます。
見てない人は映画館にナウ!!!!

 

 

 

というわけで、『ペンギン・ハイウェイ』見てきました。
数ある森見作品でも最も好きな一作なので、さてどうなると思って映画館に入りましたが、こちらの期待を150%上回って"本物"を叩きつけられ、圧倒的な体験に朦朧としつつ、スクリーンを後にしました。
原作から二時間の尺に収まるよう、アニメというメディアで最大限魅力を引き出せるよう、かなり再構築されているのですが、それが原作のエッセンスをしっかり抽出し、強化するような映像体験にまとまっているのが、とても良かったです。

音、色、声、動き。
アニメーションによって再構築された物語、キャラクター、"丘の上の町"という舞台そのものが、原作の味わいを残しつつ強烈な魅力を漂わせ、しっかりとこちらを殴ってくる映画でした。
アオヤマくんを包む"小学四年生の夏"を丁寧に追う、日常の瑞々しい風景も良いのですが、"海"へと飛び込んでいくクライマックスのペンギン軍団の作画は、モーフィングという最も原アニメ的な表現をしっかり使いこなし、物が自在に変容し命を吹き込まれる"Animate"の面白さを、映像で教えてくれました。
"海"の内側のシュルレアリスム的光景も、それまで舞台としてきた"丘の上の町"のリアリティがあってこそしっかり映え、アオヤマくんの特別な決断と離別をこれ以上なく輝かせる、最高の舞台となっていました。
アニメーションという表現を最大限活かし、アニメーションでしか出来ない表現で、原作を生み直させた。
そういうアニメ化であったと思います。

声優陣も非常に素晴らしく、特にお姉さん役の蒼井優さんはハスキーな声質がキャラにビッタリマッチし、グイッと引き込む魅力にあふれていました。
アオヤマくんにとって、彼を主人公にする物語にとって、お姉さんは巨大な謎であり、同時に放置してはおけない魅力を発しています。
よく判らないからこそ知りたい、知りたいけどもよく判らない。
子供と大人の境界線にいるアオヤマくんが、謎多きお姉さんとペンギンを追うことで生と死、愛と悲しみを学んでいく物語においては、お姉さんは作品全体を引っ張るミステリであり、主人公とストーリーを先に進めるエンジンでもあります。
そういう大事なキャラに、蒼井優のややかすれた声が見事に命を吹き込んでいたと思います。
他の声優陣も良かったですが、ウチダくん役の釘宮理恵、お父さん役の西島秀俊の存在感が、特に強く心に残りました。
ホント釘宮”無敵”ですよ……。


こうしてアニメになってみると、このお話が"境界"を巡る物語なのだということが、強く見えてきます。
生死の境界、大人と子供の境界、男と女の境界、他者と自分の境界。
大人びた子供であるアオヤマくんと、子供みたいな大人であるお姉さんを中心に、物語は様々な対立を描き、その線を超えて干渉し、融和し、離別していく心を描く。
そういう線を踏み越えるたびに、一つずつ何かがみえて、ひとつずつ自分を豊かにしていくアオヤマくんと、その周囲にいる人々の優しさを捉えていく。

これを象徴するために、作品内部に大量の境界が持ち込まれます。
県境にある"丘の上の町"は、新興住宅街と丘の下の古びた町に分かれています。
ペンギンもお姉さんも超えることが出来ないトンネルの前には、画面を縦に大きく切る煙突(おそらくゴミ焼却場、あるいは焼き場)がある。
そこは不要物と価値あるものが混在する境界であり、そこを乗り越えることは命にかかわる大きなタブーとなります。

あるいは、整然とした住宅街(人間の領域)と、その中や背後で息づいている森(自然の領域)
バスが運行しサラリーマンや学校が穏やかに暮らすノスタルジックな現代と、田んぼが青々と美しい農村の景色。
水によって区切られた区画を"プロジェクト・アマゾン"に基づいて歩き回る少年たちは、男女の垣根を超えて共同研究者となったハマモトさんに手を引かれ、森の奥にある"存在するはずのない草原"へと足を踏み入れます。
そこは現実と非現実の境界線が曖昧になり、ジュブナイルとSF(あるいはマジックリアリズム)が幸福に共存するユートピアです。

チェスボードの黒と白を飛ぶように、多感な少年は様々な境界線をまたぎ、あるいはまたがれ、侵犯と共感、拒絶と融和が同居する不可思議な世界へと、深く深く踏み込んでいく。
それはペンギンを追う旅であり、つまりは『ペンギンによく似ている』と言われたアオヤマくん自身を探す歩みであり、ペンギンそのものであるお姉さんを追い求める物語でもあります。
女であり、大人であり、理路整然としていなくて、おっぱいがある。
自分と大きく異なる(=たくさんの境界線で隔たっている)お姉さんを、どうしようもなく胸にこみ上げる慕情を燃料に追跡していくことで、少年は優しさや賢さ、強さや尊さを獲得……あるいはそれが既に自分の中に、自分の周囲に存在していることに気づいていく。
そういう非常に普遍的で力強い成長譚を、ペンギン現象という摩訶不思議な道具立てを最大限活かし、独自の足取りで駆け抜けていく時、境界は様々な色彩と表情で僕らの前に迫ってきます。

お姉さんがコーラ瓶という無生物から生み出す"命"もまた、様々な境界をまたいでいます。
空を飛ばず海を泳ぐ、ペンギンという鳥。
陸を離れ海の中でいきる、アシカやクジラという哺乳類。
鳥と哺乳類の中間に位置づけられる、コウモリという生物。
様々な生物の特徴をグロテスクに取り込んだジャバウォックも含めて、お姉さんそのものと同じく、街を埋め尽くす不思議な動物たちは、曖昧な境の中で揺らいでいます。


そんな境界線の中で、最も強いのはお姉さんとアオヤマくん……であり、秩序と混沌の境界線だと思います。
アオヤマくんは科学の子として、尊敬するお父さんのマネをして非常にサイエンスな態度をとっている。
ノートの方眼を世界を図るメジャーとして活用し、美麗な筆と流麗なイラストで、己の疑問を解体研究し続けている。
分からないことを分からないまま放置せず、ロジックで整頓し自分なりのコスモスを作り続けているわけです。

そんな彼が、大きな謎として追いかけているのがお姉さんです。
少年の小賢しい理屈を翻弄し、おっぱいが持つ問答無用の身体的圧力で惑わせ、アオヤマくんの感情を不明のケイオスに叩き込む、不可思議な存在。
彼女から生まれるペンギンたちは、街を不思議な混乱に巻き込みますが、しかし秩序を崩壊はさせません。
開幕五分で『街にペンギンが溢れる』という不可思議はサラリと描写され、視聴者も作中の人物も『それはそういうモノなのだ』と飲み込む。
整然と美しい街並み、よく整理されたアオヤマくんの部屋を、ペンギンという異物、お姉さんという混沌は魅力的に彩りはすれ、破壊はしないわけです。

アオヤマくんは自分を包囲し保護する秩序を、非常にありがたく感じ入り、それを大事に生きています。
わからないことはちゃんとノートに取り、父に聞き、疲れたら母の料理を食べ、お姉さんや街の人に見守られる。
子供たちなりのルールで動いている子供たちの世界は、その境界線を破綻させることなく不可思議を懐胎して動き、少年科学者たちは手に手を取って、アマゾンの、ペンギンの、"海"の、お姉さんの謎を追い続ける。
それがとても幸福なことを、アオヤマくんの明晰な頭脳はしっかり理解していて、そのありがたさに真っすぐ進んでいきます。
彼の年代でそういう、とんでもなく大事なことに気づき感謝し行動できていることが、彼をエキセントリックな変人足らしめているのでしょう。

ペンギン、あるいはお姉さんという優しいカオスは、丁寧にコントロールされた画面の中で、チリ一つない"丘の上の街"に溶け込んでいます。
そこは様々な境界がはっきりしていて、なおかつそこを挟んで対立がない。
お互い異質だけども慎重に交流して、違うからこそ面白い不思議を思い切り堪能できるような、優しく注意深い世界が形成されているわけです。
それが物語の初期状態であり、作中の子供たちが幸福に遊び、立派な大人たちが慎重に維持している、"丘の上の街(ハイツ)"なわけです。


そんな街では、大人という異物も非常に優しく、ありがたい存在です。
お姉さんはおっぱいが魅力的なだけでなく、アオヤマくんがピンチになると必ず駆けつけてくれる。
自動販売機に縛り付けられたり、ウチダくんが"海"に飲み込まれそうになったリ、スズキくんが暴力を振るったりすると、どこからともなく現れてすごい力を振るい、あるべき秩序を回復してくれます。
ちょっとヘンテコな子供でも、その尖った個性が潰されないように、また個性を潰すことでスズキくんが道を間違えないように、よく目を光らせてくれている。
子供たちの世界を尊重しつつも、必要とあらば侵入し、介入し、是正できる理想の大人が、お姉さんには投影されています。

これはアオヤマくんの家族も同じで、背筋をピッと伸ばしたお父さんとアオヤマくんが並ぶと、二人の間に敬愛が強くあることが即座にわかる。
アオヤマくんの理屈臭い態度は、非常にロジカルかつエモーショナルな父をよく見て、真似した結果だというのが、様々な接触からみえてきます。
境界線を超えて、様々な謎を受け取ったアオヤマくんに、お父さんは答えを与えません。
息子の尊厳と能力を信じ、答えを出すヒントだけを与える。
息子もまた、そんな教えを大事にノートを取り、新しい方法を試し、相談をする。
そこには時に身内の甘えが入り込む"家族"の関係を超え、仏僧や哲学者の師弟関係にも似た張り詰めた空気があります。("Eureka"という言葉も出てきますしね)

母は父ほどロジカルにアオヤマくんには接触しませんが、鷹揚に賢い息子を遊ばせつつ、いざという時は命を繋ぐケアをしっかりしています。
お姉さんの苦しみを少しでも理解するべく、断食実験に飛び込んだアオヤマくんは、母が作ってくれたクリームシチューを口に入れる。
苦行を通して初めて、自分が死ぬ存在であることとその意義を知った釈尊のように、母の乳を食することでアオヤマくんは、生き死にがどうしても付きまとう人生の不可思議、そこに身をおいているお姉さんと自分を見つめることができます。
それは、お母さんという"大人"がアオヤマくんと妹を、しっかり見守りケアしてくれるからこその冒険なわけです。

母が健在で、なおかつ立派な人なのはこの作品において結構大事かな、と思います。
アオヤマくんはまだお母さんのおっぱいに甘えようと思えば甘えられる立場で、お母さんもそれを許してくれる人なのでしょう。
しかしその安心感とは別のところに、お姉さんという謎、『お母さんとは違う印象がする』おっぱいがある。
マザー・コンプレックスの果てに代理母を求める(こう言ってよければ非常にアニメ的な)心情とは、アオヤマくんの心はちょっと違う場所にあるわけです。
何かと"おねショタ"という言葉で切り取られがちなこのアニメだけども、その性的ジャンルが孕んでいるマザー・コンプレックス、胎内回帰願望からちょっと出たところに、お姉さんとアオヤマくんの関係があることを、あまり目立たない(が、声は能登麻美子。"無敵"です)お母さんがよく伝えてくれているように思います。


不動の保護者としてアオヤマくんの背中を支えてくれる両親に対し、お姉さんは大人と子供の間にある境界を、フラフラと彷徨っています。
大きな煙突(生を燃やし死を生み出す炉)を超えて、"海の見える街"に脱出しようとした時、お姉さんは消滅の危機にさらされ、濃厚な痛みを表に出す。
無敵に思えた大人が、実は血も涙も自分と同じようにある当たり前の生き物であることを子供が認識してしまった瞬間のショックが、色濃く切り取られた良いシーンです。

ここでアオヤマくんは後ろに引かず、前に出てお姉さんに近づきます。
大人に思えるものが、実は自分と同じとても脆く不安定な存在であり、弱さと強さの境界線は常に揺らいでいることを、愛で乗り越えていく。
その苦しさを少しでもわかろうと、愛する人に近付こうと、不要な断食もする。
"海"が作り出した仮想人間であるお姉さんは、人間が命を繋ぐ食事を必要としないから、食を断てば死に近づいていってしまうアオヤマくんとは、別種の存在です。
アオヤマくんはそういう境界線を認識しつつも、自分の体をキャンバスにお姉さんの苦しさ(の近似値を実感することで、弱くて脆いお姉さんの実像から逃げずにすむ。
そこに近づかなければいられない、境界線を乗り越えずにはいられない衝動が自分の中にあることを、飢えに朦朧とする意識の中で理解し、命がどうしようもなく消えていこうとすること、死のカオスが生のコスモスを常に侵犯する世界の真相を、実感として体得していきます。

それは不格好で無意味な、しかしあまりにも真摯な愛の戦いで、僕は思わず泣いてしまいました。
愛する人が苦しんでいる時、その苦しみに少しでも近付こうと自分にできることを考え、実行するアオヤマくんは、本当に偉い。
その歩み寄りが、お姉さんとアオヤマくんの幸福な夢を壊すものだとしても、アオヤマくんの体に刻まれた秩序への志向は彼を突き動かし、クライマックスへと進めていくのです。

アオヤマくんは大人と子供の境界線上で、既に死についてよく考える子供です。
妹ちゃん(声は久野美咲。"無敵"です)が豁然と『人は死ぬ。母も死ぬ』という事実に襲われ、暗闇の中一人で泣きじゃくる時、アオヤマくんはただただ彼女に寄り添い、抱きしめてあげる。
自分も思い悩んだ"死"の必然に、まだ答えは出ないし、将来お姉さんとの死別をどうしても飲み込まなければならない未来が待っているのだけども、自分の小さな身の丈で与えられる安心を、幼く弱い妹に分け与えるように、彼女を包み、真実へのヒントを出す。
それは賢い父、優しい母、不思議なお姉さんたちから与えられ、アオヤマくんが学び取った人の有り様で、そういうものは自己と他者の境界線を乗り越え、共有されるものなのです。

終盤、世界のSF的(あるいはマジックリアリズム的)真実が見える中で、"大人"に思えたお姉さんが実は、肉体のある人間ではなく、父母の血を受けて生まれてきた存在ではないことが明らかになります。
実働していた時間を数えたら、もしかしたらアオヤマくんの妹よりも幼い存在であるお姉さん。
彼女は自分が生まれてきた意味、死ぬべき宿命の意味をアオヤマくんに、震えながら問います。
それは古来人間がずっと悩み、答えが出ないまま悩み続けてきた巨大な問いかけなので、アオヤマくんは答えを出さない。
その理不尽と不可思議に向き合っていくことこそ、お姉さんのいない世界で生き延び続けなければいけない自分の宿業なのだと噛みしめるように、言葉を探しながらそれに向き合っていきます。
自分が見つけた答えを、境界線を超えて分け与えていく形で、アオヤマくんは"死"という最大のカオスに向き合う方法を見つけ、それを見た目より遙かに幼く弱かったお姉さんと共有するわけです。


お姉さんの消失で終わる物語から逆算するように、物語は幸福なコスモスから、汚れた無秩序へと変質していきます。
無生物から植物が生え、秘密の草原には闖入者が割り込み、子供の秘密だったはずの研究には大人が踏み込んでくる。
可愛らしいペンギンは不気味なジャバウォックに食い殺され、嵐が吹き荒れ、メモはマス目を超えて混沌としてくる。
冒頭から序盤にかけて、"丘の上の街"の整然とした光景、街と自然の共存、満ち足りた幼年期、境界線を守っての対話が美しく鮮明であればあるほど、それが乱れていく光景はザワザワと心を揺さぶります。

お姉さんが生み出す(と同時に、お姉さんそのものでもある)ペンギンは、"海"から拡大する混沌を食べ、秩序を維持する性質を持っています。
アオヤマくんがお姉さんを気遣い、ペンギン生成をやめるよう促すことで、"海"の混沌は拡大し、お姉さんが人間でいられる"丘の上の街"を壊していく。
アオヤマくんはそれでも、お姉さんが実験動物として捕まらないよう、自分の研究がどうあるべきかを考え、その凍結すら口に出します。
熱力学第二法則に従い、どうしても乱れていく現世のカルマを前に、少年はなんとか安定して平和な時間、お姉さんがお姉さんでいられる世界秩序を維持しようとするわけです。

その健気な営みを壊す一因がジャバウォックですが、これもまたペンギンと同じく、お姉さんから生み出された存在です。
ペンギンが独自のルールで秩序だって行動し、誰も傷つけず自分も死なない存在なのに対し、ジャバウォックはペンギンを食べ、発見されることで大学の研究チームを草原に呼び込み、彼らを"海"に捧げます。
物語開始時に約束され、非常に丁寧に描写され視聴者を飲み込む幸福な秩序は、鏡の国から這い出してきたジャバウォックに象徴される混沌(大学調査チームの無精髭、着崩れた衣装)で、ジワジワと塗りつぶされていく。

いわばジャバウォックから混沌と"死"の気配が拡大しているような状況ですが、あの不気味な怪物はどこから来ているのか。
自分が何者であるか不明なまま、子供よりも幼く頼りない存在である不安と戦っているお姉さんの深層心理、秘めたる破壊願望が、ぬるりと溢れ出た結果なのではないかと、僕は思うのです。
アオヤマくんが目を開けてられない深夜、汗まみれのお姉さんの夢は彼女の制御を離れ、悪夢になる。
そこから目覚めた時、ぬるりと重たい夜闇を歩くジャバウォックは、何者でもないお姉さんの自己像を投影され、アシカともサンショウウオとも人間の子供ともつかない、不気味なキメラとして実態を得る。

ペンギンが秩序を回復し、"海"を食い尽くしてしまえば、その投影たるお姉さんもまた消えてしまう。
ペンギンを食い殺すジャバウォック、境界線を不当に混乱させる存在は、それでも生きていたいと望んだ彼女の一側面が、形になった叫びなのではないかと思うわけです。
最終的に、お姉さんの指揮のもとペンギンたちはジャバウォックを凌駕し、押し流す。
アオヤマくんが見つけ、お姉さんと共有した答えに背中を支えられたお姉さんは、己の中から吹き出した形のない生存欲求、イドの怪物と決別していきます。


飢えに悩み、熱にうなされ、"死"に隣接したアオヤマくんが豁然と悟った、世界とお姉さんの真実。
それはお姉さんの消滅、アオヤマくんの幼年期の終わりを意味するわけですが、アオヤマくんは怯みません。
拡大する"海"、自分を子供の境界に押し込める学校や大人を、同い年の仲間と協力しながらはねのけ、二人はペンギンを引き連れて混沌の渦中に飛び込む。
そこは秩序に満ちた"丘の上の街"とも、ジャバウォックの混沌とも違う、しかし何処かに似た部分のある、超現実的な風景でした。

"丘の上の街"のピーキー過ぎない美術の手触りが、生の光を前半照らし、薄汚れた混沌がその破綻を印象づけた中盤を経て、この映画の表現は非常にアニメ的で、圧倒的に鮮明な海(その先にあるおっぱいの形の島)へと踏み込んでいきます。
お姉さんが生まれた場所である"海の見える街"に"人間"は一人もおらず、境界線を不用意に乗り越えてしまったハマモトさんのお父さん達がいます。
娘を研究者扱いしつつ、その成果をのぞき見て大人の領域に引っ張り込み、それを正直に言わない。
ハマモトさんのお父さんもまた、中盤拡大する混沌、境界線を不当に乗り越えてしまう存在の一人なのかも知れません。


子供を包んでいた幸福な秩序が、拡大する混沌によって乱され、真実と向き合うことで超現実を経て、また冒頭に戻る。
行きて帰りし物語』、あるいは秩序の解体と回復という古く、オーソドックスな物語類型を丁寧に追いかけつつ、二人は本来力強く子供を見守り導くはずの"大人"を救助し、彼らが立ちすくむ結末に思い切り駆け出していく。

お姉さんが『それじゃあお家に帰りましょう』と言った時、あるいはアオヤマくんの『ペンギンサーカスの団長になれます!』という言葉に『なればよかった』と答えた時、一体何を思っていたのかということを、見終わった時に考えました。
取り返しがつかないほどに時間が行き過ぎ、決定的に状況が変化・消滅してしまう摂理を飲み込むことで、子供は大人になる。
"死"を前に背筋を伸ばすことが成長のイニシエーションであるのなら、自分に未来がないこと、"丘の上の街"が変えるべき『お家』でないことを強く自覚しつつ、それでも笑顔だったお姉さんは、一体何を考えていたのだろうと、僕は考えます。
それは子供の無邪気さと大人の責任感が同居した、大人でも子供でもなく、子供でも大人でもある人だけがたどり着けた、豊かなアパティア(あるいはアタラクシア)だったのではないかと。

これから"人間"として"丘の上の街"の中で、ペンギンとお姉さんが越えられなかった県境を踏み越えて何処まででも行ける……行くしかないアオヤマくんの、生者の覚悟とはまた違った、死者の静謐。
それが物語の最後で、ペンギンを大量召喚し、"海"と自分を食い尽くして秩序を回復させたお姉さんの中に、強くあったのではないかなと思います。
その覚悟があっても、心臓は動く。
生き続けた魂は、生きていたいと叫ぶ。
アオヤマくんがどうしようもなく引き寄せられたお姉さんのおっぱいの奥には、仮想の存在だろうと力強く脈を打ち続ける赤い血潮が流れている。

アオヤマくんはそれに耳を澄ますことで、自分の心臓もまた動いていて、いつか歩みを止めることを学んでいたのではないか。
男と女、子供と大人、実在と不在、現実と夢に引き裂かれた境界線が、とても優しく乗り越えられるもので、しかしどうしようもなく離れてしまっていて、それでも手を伸ばし触れ合えることに、引き寄せられていたのではないか。
たとえお姉さんと別れても、自分の心臓が鼓動を止める時が来ても、優しいペンギンが巻き起こした不思議な物語は、強く強く意味のあるものだったと確認するために、アオヤマくんはお姉さんのおっぱいに、その奥にある他者の心臓に引き寄せられていたのではないか。
そう思ったのです。
そんな事実を観察し、分析し、体験し、言語化し、言語を超越した実感を魂の奥底に刻む歩みとして、この映画はあるのではないか。
そう思ったのです。


お姉さんとアオヤマくんの間にある境界線、その侵犯と融和と尊重が話の真ん中にある個のアニメですが、周囲の人々も魅力的で、大事な仕事をしていました。
内気なウチダくんの粘り腰の研究者気質、お姉さんとは違った形で"女"という境界線を引くハマモトさん、敵対者にして擾乱者であるスズキくん。
子供たちは皆極めてチャーミングで、アオヤマくんに足りないものをしっかり補い、作品内部に豊かな境界線を引いてくれました。
考察と検証を繰り返して、決定的な結論にしっかりたどり着くウチダくんは、良い研究者になると思う……京大入って人間のどん詰まりに追い込まれたり、天狗にさらわれたり、狸が作った電気ブランに溺れたりしなければ。

アオヤマくんはロゴスの権化みたいな(それが極まることでパトスの怪物でもある)スーパー・エキセントリック・ボーイなので、彼一人にしとくと視聴者の引っかかりどころがない。
ウチダくんが振り回されたり共感したり、ドン引きしたりすることで巧いこと、アオヤマくんの個性を潰すことなく、話が進行している感じはありました。
アオヤマくんは一足飛びに愛の真実にたどり着いてしまっているので、小学四年生の恥じらいとか嫉妬とか、そういう人間臭い感情から解脱しちゃってるんですよね。
そんな届かない相手に恋をしてしまうハマモトさんと、更に彼女に惚れているスズキくんの一方通行LOVEが、おかしくも切ないラブコメディで物語を彩ってくれました。

ハマモトさんは超いい子だしかわいいんだけども、もう冒頭で『自分、お姉さんLOVEなんで。"命"なんで』と高倉健もびっくりのストイシズムで告白しとるからな、アオヤマくん……。
オマケに相手は大人で子供、死人で永遠なので絶対勝てるわけがないという……名前のない"お姉さん"のイデアに、親も生身の肉体もあるハマモトさんが勝てるわけがないんだよ!
それでも、同じように大人び、同じように秩序だった科学的観察手法を持った異性が隣りにいてくれたことは、アオヤマくんのハードな通過儀礼にとってありがたいことだったと思います。

このお話は日常と超常の境界線を、構えることなく行ったり来たりするマジックリアリズム物語でもあります。
学校の景色が何処か懐かしく、しかし何処にもありえない美しさと秩序の中で進行するのは、その"日常"の部分を楽しく飲み込ませてくれる、大事な足場だったと思います。
小学四年生という、あまりに遠く美しい時代。
そこに息づいている小さな息遣いを、リュックサックと帽子、彼らだけの秘密基地、授業風景、学級文庫の品揃えで、画面に映り込む具象を厳選することで理解らせるのは、まさにアニメ、まさに映画という体験でとても心地よかったです。
理想化されてはいるんだが、なんか手触りがあって自分のもののように思えるいい塩梅で、小学四年生の夏が描かれているのは、ほんとに良い。

作中のカレンダーを見ると2018年とありますが、あのニューシティが過ぎ去ったものへのノスタルジーで生成されているのは、見て分かるとおりです。
個人的には、1935年生まれの高畑勲が作った"平成狸合戦ぽんぽこ"が、他ならぬ多摩ニュータウンの造成を『ノスタルジーの終焉、現実の開始』として描いていたことと、そのニュータウンへの懐旧と聖化が1979年生まれの森見登美彦によってこの作品に練り込まれているのは、なかなか面白い対比だと思います。
自然を制圧した結末として描かれた"ぽんぽこ"の宅地と、既に過ぎ去ってけして戻ってこない小学四年生の夢が、街と自然が隔てられつつ共存する夢の街の間にある45年(あるいは、映画の公開時期で24年、小説の執筆時期で16年)のギャップ。
過剰な読みかも知れませんが、ちょっと面白い視点かなと思いました。


同時に、ノスタルジーだけで終わらず、凄く普遍的な少年時代の物語にしっかり仕上がっているのが、とても良い。
あの街は何処にでもあり、何処にでもないユートピアとしてまさに"丘の上の街(ヒルズ)"であり、不在ゆえに偏在する青春の息吹が、とても綺麗に息づいています。
満ち足りて保護された秩序が、現実の混沌によって乱され、しかしその混沌(その最大としての"死")を直視し受け止めることで、再び秩序が回復される。
ペンギンとお姉さんが去り、混沌の名残のように無生物の上に植物が生い茂る"丘の上の街"では、当然のものとして時が行き過ぎていきます。
アオヤマくんの乳歯は永久歯となり、スズキくんもチェスをやるようになり、子供の背丈はぐんぐん伸びる。

一見今までと同じ秩序が回復されたようで、そこにはお姉さんがいない。
その不在を追いかけ続ける信念を、二時間の冒険を経てアオヤマくんは獲得します。
それはある種の呪いであるし、この後も世知辛い離別、ロゴスとコスモスで割り切れないケイオスが押し寄せてくる世界の中でアオヤマくんが生き延びるための、大事な支えでもある。
超現実の青い街を経て、あるいは超現実のペンギンを優しく受け入れてくれた街の思い出を抱えて、アオヤマくんは物語が始まったときより"大人"になった。

ペンギン・ハイウェイの先には、ルッカリーと呼ばれる営巣地があります。
つがいの鳥達が肩を寄せあい、新しい命を育む場所。
もう真夜中でも眠くならなくなったアオヤマくんが、お姉さんを背負い、あるいは抱きしめることも出来るかもしれない場所。
そんなユートピアにたどり着けるかもしれない希望として、ペンギンの幻影と、ペンギン号の帰還がある。
それはお姉さんとの離別……人間が人間であり続ける以上避け得ない愛と死の宿命が、けして哀しいものではないという祈りを込めたラストカットだったと思います。

いつか、生き死にの境界線を越えた場所にたどり着いた時に、あるいは生きている間の夢のような時間の中で、ペンギン・ハイウェイの果てにアオヤマくんはたどり着けるのか。
たどり着いてほしいという願いと、たどり着けるに違いないという希望が、見終わった時ちゃんと生まれるアニメであったのが、とても良かったです。
スタジオコロリド長編アニメ第一作として、制作集団の実力をこれ以上ないほど証明する傑作であり、原作とアニメーションの幸福な共犯の最高の一例でもあり、SFジュブナイルマジックリアリズムに彩られた青春)の傑作でもある。
非常に良いアニメでした。
ぜひ皆さんも見てください。

 

追記 やっぱアニメの動物、アニメートされた動物好きだわぁ……いい具合にキャラ立ちしつつ、ペンギン味も残しつつで、良い料理だったと思います。