イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

映画『HUGっと!プリキュア♡ふたりはプリキュア オールスターズメモリーズ』感想

HUGっとの秋映画を見てきたので、感想を書きます。
ネタバレせずに言いますと、非常に良かったです。
15年目のアニバーサリー映画として、賑やかに華やかに歴代の戦士が大集合する……で終わらずに、HUGっとが今現在見据えているテーマ、”プリキュア”が15年継承してきた主題、ヒーロー物語と創作物がメディアを変え作品を変え幾度も描いてきた人間の尊厳を、真正面から描ききるお話でした。
徹底的に"プリキュア"の話でありHUGっとの話なんですけども、そこに本気で集中した結果、"プリキュア"の枠、少女戦士の枠、幼児向けのおとぎ話の枠を大胆に突破し、様々に普遍的なものを語り得ている。
そういう力強さと横幅のある、骨の太い73分でした。

メイン客層に合わせてやや短めの上映時間であることが、逆に的確な圧縮を映画に加えて、非常に内容の濃いアニメーションとなっています。
しかし急いでいるとか、語り足りないということはなく、野々はなと美墨なぎさ、最新と最古のプリキュアを物語の主軸として大きく据えたことで、逆に横幅広く様々なプリキュアの物語、15年の系譜を語り切ることが出来ています。
現実世界を舞台とする前半を2D作画メインで、幻想と記憶の精神世界を駆け巡る後半を3Dモデルで、それぞれメディアを変えて描いたことも、ただ新規な表現を使うというだけでなく、演出面、ドラマ面での意味がしっかりとつかめるチョイスになっており、素晴らしかったです。
ラクルライトを用いて観客の没入感、当事者性を引き寄せる演出もドンピシャで、俺も貰ってたら迷わず振ってた。
腕が抜けるまでぶん回してた。

そのくらい熱く、力強く心を掴んでくるアニメでした。
自分は(こういう感想をわざわざ書くくらいだから)"プリキュア"に思い入れがあり、児童に向けて物語を紡ぐ行為、英雄の強さと優しさを語る営為に希望と関心を持っています。
しかしそういうジャンル的関心を超えて、グッと心を打つ真摯な熱量が、シンプルで真っ直ぐな物語の中に、しっかり宿っていたように思います。
プリキュアが好きな人は勿論、かつてモニターの向こうのヒーローに想いを寄せ、そして果たせなかったあらゆる人々、これからヒーローを目指し未来に駆けていくあらゆる人に、ぜひ見て欲しい作品だと思いました。

 

 

 

というわけで、バリッとネタバレしながら感想書いていきます。
テーマと表現、形式と内実が力強く噛み合い、児童向けというジャンル、72分という尺を大きく超えて、豊かな映画になっていました。
これは様々に工夫された物語的レトリックの成果でもあるし、そういう小手先の技量から身を乗り出し、非常に普遍的なものを語ろうとするパワーが生み出したものでもある。
『矛盾に思えるものが、実は背中合わせであることに気づく』という止揚の物語体験は、非常に強烈に心を揺さぶるものですが、この映画は展開するドラマは勿論、選び取った表現、置かれた文脈の中でも様々に、断絶を乗り越え新たな発見を生み出す体験が、随所に埋め込まれています。
これを見つけ、あるいは気づかぬうちに魂を揺さぶられることこそが、このアニメの短い上映時間の中で、グッと魂を揺さぶられる大きな源泉ではないか、と思います。

例えば明瞭に前半後半を分け、現実の横浜2Dパートと、ミデンの心象を彷徨う3Dパートに分割したこと。
バリバリアクションしまくる後半を、それを得手とする3D作画に乗せて描く……そのポテンシャルを最大限発揮するべく、ケレンと動きのアニメーターであるりょーちも氏に(おそらく)コンテを任す目は、見せ場であるバトルの熱量を見事に最大化しています。
あそこの熱量と表現力があればこそ、少ない出番で歴代戦士の動きにキャラクターらしさがしっかり乗っかり、オールスター特有の満足感、かつて心を震わせてくれたヒーローが未だに戦っている感慨が、ドワっと湧いてくる。
オールスターを看板に据える以上、それはとても大事な感覚です。

しかしそんなある種のノスタルジーだけで終わらせず、2つの表現メディアを行き来したことは、より奥行きのある表現にもなっている。
今回の"敵"であるミデンは、誰にも顧みられることなく時代遅れになってしまった、銀塩カメラ付喪神です。
時代は常に前に進み、表現メディアはすぐに時代遅れになる。
"セル"アニメーションが既に、PC上での仮想のものになっているように、現在最新鋭と受け取られているセルルック3Dによる表現もまた、すぐさま古びたものになってしまうかもしれない。

しかしそこで、メディア固有の表現に固執するのではなく、そこに焼き付けられた真実の魂、継承される魂を受け継いで、そのメディア固有の表現を肯定していくことこそが、流れる時間を肯定することに繋がる。
過去と現在、そして未来へと繋がり、止まることはない時間は、"育児"や"仕事"とならぶ、HUGっとの大事なテーマです。
そこで変化し、置き去りにされてしまうものへの愛着と執着を、この映画は否定し消し去るのではなく、同居させそれぞれの良さを活かした上で、共に美しく描き出す。
最新の"HUGっと"から、最古の"ふたりは"まで。
綿々と受け継がれる"プリキュア"の系譜(を更に超えて、創作の中のヒーロー像、それを語ってきた様々なメディア)全てが、一つの思いを別の角度から、それぞれ自分らしい語り口で表現してきたこと。
そんな歴史性への肯定が、前半と後半、二つの表現法をシームレスに繋いだ構成に、見事に現れたように感じました。


横浜パートと心象パートは、共に同じものを語っています。
戦うことの意味、そこで生まれる傷と痛み、血と涙を流しても立ち上がれる理由。
ヒロイズムについて語る物語なのだから、そこがブレたり対立したりしてはいけない。
それと同時に、2Dの落ち着いた質感、現実的なシーンセットだからこそ語りうるものを、大事に運んでもいます。

ミデンの能力により、無力な赤ん坊("プリキュア"を一番本気で受け止める、メインの客層)に変化してしまったプリキュアは、非常に生々しく子供です。
泣きわめき、反抗し、心を許さず騒ぎ立てる。
それはTV放送版のHUGっと(に限らず、多数の赤ん坊を育ててきた"プリキュア")が描かない、描けない生々しさでもあります。

しかし特別版として描かれる今回、赤ん坊は非常に生々しく反抗的で、プリキュアもそれに疲れ果てる。
2D横浜のリアルな背景は、そういう生身の少女、母親未満なのに母親になってしまったはなとなぎさの奮戦と疲弊を、静かに収めていきます。
疲れ果て、声を荒げ、それで弱いものを傷つけてしまった自分自身に、更に傷つく。
ヒーロー失格の生々しい人間らしさは、ツルッとした3Dモデルではなかなか表現しきれない、生身の傷だと思います。

ハリーはそんなはなの当たり前の疲労を『疲れとる場合やない!』と叱咤しかけますが、先輩戦士であるなぎさはそれをせき止める。
"♪地球のため みんなのため それもいいけど忘れちゃいけないもの あるんじゃない?! の!"とEDで歌っていた少女は、自分たちがごくごく普通の中学生であること、傷つき涙し笑って怒る、当たり前の人間であることをハリーに(そして観客とはな自身に)思い出させます。
無敵の機械のように、傷つくこともなく正義を執行する。
そういうヒロイズムを"プリキュア"は肯定してこなかったし、戦うべき理由はいつだって、当たり前の日常の中にこそある。
だから、『子供を育てきれない』というあまりにありふれた、だからこそ重くて苦しい問題に思い悩むことを、なぎさは否定しないわけです。

ほのかと手を繋がなければ変身できないなぎさは、無力な一人間としてミデンの暴力に身を晒し、子供を守る。
ヒーローがヒーローたり得ない瞬間が、当たり前の日常の陰りの中にこそあるのと同じように。
ヒーローがヒーローたり得る資質というものは、特別な変身アイテムをもっているからでも、圧倒的な暴力を備えているからでもないわけです。
自分より少しでも弱いもの、戦う力がないものを背中に背負い、一歩も引かない勇気。
傷を受けても前に出て、不屈の愛で戦い抜く心の力こそが、ヒーローをヒーローたらしめるのだし、それを生み出すのはスペシャルにキラキラした特別な思い出だけでなく、当たり前の日常にこそ宿っている。

ミデンがほのかの記憶を略奪し、二人のプライベートを微に入り細を穿って暴露した時に、なぎさは(そして見ている僕らも)すごく大事なものを踏みつけにされた怒りを感じます。
それはそんな他愛もない日常の、特別な記憶がヒロイズムの源泉であり、それを守るために/そこから力を得て戦う"プリキュア"のスタイルが、"敵"によって踏みにじられたからです。
ここら辺のヘイトコントロールは非常に巧みで、同時にミデンが隠しているオリジン、そこから漂ってくる哀しみもちゃんと匂わせていて、上手い取り回しでした。

最古の戦士の奮戦を見て、最新の戦士であるはなは、自分を取り戻します。
それは"なりたい自分"というキュアエールの原点に立ち戻ることであり、はぐたんを背中に背負い怪物に立ち向かった第1話の志を、再び甦らせることでもある。
戦うことは怖く、現実には哀しみや苦しみが満ちている。
それでも、強く正しい理想に憧れるからこそ人は前に進むのであり、そんな心にこそ特別な力は反応し、"プリキュア"へと変身できる。
横浜を舞台に展開する、非常にありふれた心の衰弱と超人への飛翔は、"プリキュア"(を始めとする変身ヒーロー物語全て)に込められた精神性への祈りを、しっかり反映しています。

清く正しい願いにこそ、正しい力が宿って欲しい。
そんな祈りにも似た綺麗事を、"プリキュア"はずっと語ってきたし、それが宿るための条件や資質について、15年間本気で考え、表現してきました。
非常にありふれた、だからこそTVで写しにくいワンオペ育児の辛さがたしかに反映された横浜の風景は、生々しい現実を舞台とするからこそ描ける、的確なTV版保管だったように思います。


3Dパートは非常に巨大で空疎な、キラキラと綺麗でスペクタキュラーな世界が描かれます。
ミデンの空疎と、だからこそ憧れた"プリキュア"の輝きが同時に反映されていて、またアクション映えもする見事な表現ですが、そこでは日常のドラマではなく、超常のバトルが展開する。
生身の女の子としての悩みは一旦横に置かれ、スーパーパワーを持ったヒーローとしてのケレン、ド派手なアクションが大暴れします。
何しろ55人、歴代プリキュアの見せ場を作らなければならないので、入れ物は大きく……って話なんですが、アクションの中にそれぞれ個性があって、非常に各プリキュア『らしい』アクションになっていたのは、とても良かったです。
プリキュアがもらえる尺はどうしても少なくなるので、芝居の圧縮率を極限まで高め、ギュッと濃縮された『らしさ』を見せなきゃならないわけですが、グリグリ動きまくる動画のパワーも手伝い、見事に表現されていました。
ここら辺はTV版第37話にも通ずる、アクションのリッチさをキャラクター表現の太さに接合していく手法でしょう。

短い出番の中で様々なものを感じ取れるのは、無論15年の重たさ、的確にアーカイブを使って"歴史"を見せてくる演出の鋭さ故です。
ここら辺のバランスは(少なくとも、各プリキュアにそれなり以上思い入れがある視聴者としては)非常に優れていると感じました。
そしてそれが成立するのは、野々はなという主人公、それを助ける美墨なぎさという二人に、あえて的を絞った作りだからこそかな、とも思います。

サブキャラクターは早めに赤ん坊化され、話を主体的に引っ張るのはこの二人に限定されます。
なぎさが見せた戦士としての矜持、守護者としての決意、ほのかへ寄せる思いの強さは、彼女に尺が偏っているからこそ濃厚に見え、既に物語を終えた先輩戦士としての貫禄、"歴史"の重さをしっかり見せる。

そしてその上で、未だ答えを手に入れていない、現役最新のプリキュアであるはなだからこその物語を、もう一人の主人公がしっかり背負っています。
才能にも恵まれず、自信も成功体験もない、ごくごく普通の女の子。
そんなはながなぜ、プリキュアになる特別な資格を手に入れたのか。
なぜ彼女が主人公でなければいけなかったのか。
この映画はその答えを、弱さゆえの感受性の強さ、損なわれるモノたちへの共感の強さに預けます。

いざ決戦と皆が血気にはやる中、はなは足を止め、ミデンの言葉を反芻します。
戦いの中で戦いを忘れ、暴力をせき止める仲間の戦いの邪魔をする彼女は、ともすれば戦士失格です。
しかし"敵"に己の姿を投影し、対話を諦めず食らいついていく優しさこそが、暴力に方向を与え力に変える、最も大事な資質です。
はなは自分が持たないものだったからこそ、そんな過去を忘れていないからこそ、最も戦士らしくない戦士として、特別な戦いを任される。
それは既に完成していて、答えを見つけてしまっている過去のプリキュア、あるいは彼女の仲間にはなかなか難しいはなだけの物語であり、特別な戦いの中にフッと訪れた、非戦の静寂なわけです。

そこに耳を澄まし、戦いの中で戦いを捨てる勇気を持つこと。
それを最新型の主人公、最強の武器だと描いてくるのは、僕は非常に的確な表現だと感じました。
全ての虚栄を剥ぎ取ったミデンは、赤ん坊のような姿をしています。
あるいは無力な自分にプリキュアという憧れを近づけるために、記憶を奪ったあとはプリキュアを赤ん坊にしていたのかもしれません。

空っぽだからこそ、綺麗なものに憧れる。
他人の物語をどれだけ収集しても、自分の苦しみも空虚も埋まらない。
のっぺらぼうのミデンは、プリキュア(に限らず、ありとあらゆるヒーロー)に憧れ、そしてなり得なかったかつての少年少女の似姿であり、またどう頑張ってもプリキュアにはなり得ない現実にこれから漕ぎ出していく子供たちの、もう一つの姿でもあります。
はなはそういう、プリキュアになりえない百万の子供、百億の大人たちを、共感と共に抱きしめる。
その身勝手で暴力的な憧れも、他者の物語を静止させ停滞させ心の中に閉じ込めてしまう独善も、ヒーローを駆動させる大事な思いなのだと肯定する。

そこには"プリキュア"的な綺麗事がけして叶わないと、現実をしっかり見据えた上でなお、15年間ずっと(あるいはそれ以前から、またこれから先もずっと)語り続けてきた、現代版の神話話者としての矜持と歩み寄りが込められています。
世知辛い現実に打ちのめされ、またこれから打ちのめされる人々を前に、絵空事のヒーローであるはなはなんにも出来ない。
それでも、ヒロイズムに満ちた物語を語り続け、傷にまみれながら真摯に前進していくことには意味があるし、そこから力と憧れを得て、自分の物語を映画館の外、プリキュアのいない現実で生きていく中で、"プリキュア"はいつだって、非プリキュア的な"敵"にすら接近できる。
2Dの横浜と3Dの心象の切断面は、プリキュア的な綺麗事と、ミデン的な絶望の境界線であり、それは断絶に見えてしっかり乗り越えられ、橋をかけることが出来る。

そういう信念を堂々と吠えるからこそ、その獅子吼で諦めを踏破し、ヒロイズムへの信頼と経緯を呼び覚ますからこそ、ヒーローはヒーロー、プリキュアプリキュア、野々はなは野々はななのである。
ミデンが秘めておきたかった孤独と空疎に踏み込む時、はなは謝ります。
パーソナルな哀しみと恥に踏み込む独善が、しかしそれ以外に真実を掴み取る術、心を切開し"戦うより抱き合う"解決法を掴み取るためには必要だと知っているから。
その恥じらいと優しさ、エールを振り回す時の暴力性への意識もまた、はなが"プリキュア"たり得る資質なのでしょう。


エールとミデンの間にある越境性は、無論ミラクルライトという画期的な仕掛けによっても、強く発露します。
やっぱこの演出は神の発明で、どうしようもなくヒーローが追い込まれた時、その解決手段をスクリーンの向こう手の届かない物語ではなく、今まさに自分が握りしめているという実感が、グイグイ作品の側に視聴者を引き込んでいきます。
しかも三回……72分の短い映像の中で、三回もハリーはこちらに呼びかけ、奇跡の権利を視聴者に委ねてくれるわけです。
劇場でプリキュアを見るのは久々でしたが、仮想と現実の境界を思いっきりぶん殴り、スクリーンの向こうに視聴者を関与させる仕掛けの力強さを、実地で感じることが出来ました。

またミラクルライトを使うしか手がない状況が、よく考えられた追い込みでどんどん迫ってくるのも凄い。
プリキュアというヒーローはみんな赤ん坊にされ、空から颯爽と増援が登場するとは望めなかったり。
圧倒的な数の敵が画面を埋め尽くし、伝説の戦士が力を取り戻すことでしか状況が改善しなかったり。
そういう"力の召喚儀式"としてミラクルライトを使わせた上で、最後の最後、ミデンと心を通わせ、"敵"を"敵"でなくさせる最も偉大な勝利のステージを整えさせるために、観客の力を必要とする運びが、一番凄いわけですが。
分身ミデンとの総力戦よりも、はながミデンの孤独に食らいつく心理的決闘が一番大変だと描く筆と合わせて、プリキュアの力は何に対して振るわれるべきか、正義は何と戦い何を手に入れるべきか、よく考えた運びだと思いました。

二回目の呼びかけがまーた凄まじく良くて、15年蓄積されたプリキュア全てにエールを送り、その全てに意味があると肯定することで、視聴者の思いがスクリーンに焼き付くよう、しっかりやってくれているんですよね。
15年の歴史性を知っているファンも、知らないファンも、皆平等に特別な思いをエールに変えて、奇跡の一端を担うことが出来る。
ともすれば『出ただけ』になってしまう55人という大所帯を、画面の外側の歴史性、各ファンが背負った思い入れにアウトソースすることで見事に方向づけ、オールスターとしての満足度と、作品としての深度を両立させる。
短い尺に大量のキャラを乗せる矛盾も、しっかり乗り越え力に変えたアニメだったと思います。

尺の使い方と言えば、序盤かなり駆け足気味にいきなりアクションから始まり、キャラの出会いやミデンのモチベーションを蹴っ飛ばしたことも、良い生き方をしていました。
いきなり強めのアクションから入ることでダレ場がなくなるし、ミデンの真意がわからないことは後にはなが立ち止まり、その思いを受け止めるドラマと視聴者をシンクロさせもする。
作中起こっていることと、それを見て視聴者が感じることの間にしっかりブリッジをかけ、グイグイと引き込むパワー。
テーマやメディアの扱い、キャラクターの描写で展開されていることが物語の形式でも活用され、最大限の効果を発揮する。
尺の短さ、人数の多さをハンディではなく、むしろ盤上この一手の必然に書き換え、描写に圧倒的な説得力を乗せる。
そういう工夫が随所に見られ、しっかり機能している映画でした。

 

というわけで、とても力強く、理知的で、熱量のあるアニメでした。
自分たちが何を描いていて、何を描くべきなのかをはっきりと見据え、そのためにはどんなメディアを、表現を、話運びを選び取るべきかを、しっかり考え抜く。
アニメーションが、物語がするべき工夫をしっかり果たして、特化することで普遍へと至る見事な語り口を、己のものとしていました。

様々に過ぎていく時間の中で、表現のメディアは変わり、流行りは廃れていきます。
それでも受け継がれるべきもの、損なわれるべきでないものが確かにあって、それは幾度も語り直し、語り継ぐことが出来る。
そういう物語への信頼と矜持が、晴れやかで楽しい画面構成の中で見事に光るアニメでした。
そういうプライドがある映画を見ると、僕はすごく元気になります。

ヒロイズムについてもよく考えられた映画で、日常と連続した非日常、強さと直結した優しさの意味を、なぎさとはな、最古と最新のプリキュアにしっかり背負わせ、見事に描いていました。
彼女たちが代表して作品を背負えばこそ、55人の戦士たちも少ない出番にギュッと自分らしさを圧縮し、大輪の花を咲かすことが出来た。
人数の捌き方、尺の使い方合わせて、理想的なオールスター映画だったと思います。

『静止した時間をフレームに閉じ込める』写真をモチーフにすることで、現在進行系のHUGっとと連続性を保ち、ただのオールスター映画ではなく"HUGっと"個別の物語としても、大きな意味をもたせる。
このあとクライアス社との決戦に突き進んでいくTV版を後押しし、またTV版では描ききれなかった子育ての薄暗さを保管し、非常にいいポジションをとってもいます。
そんな感じで、様々なものに目と気を配った、いい映画だと思いました。
とても面白かったので、ぜひ皆さんも見てください。