イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

Talkin' 'bout our generations -ダーリン・イン・ザ・フランキスの評価と世代についての、長く錯綜した有意義な会話-


とつぶやいたら、Aimerさんに補足され、お言葉をいただく。こっから、オッサンと若人のバチバチダリフラ再評価世代間闘争が始まったのだ。(言い過ぎ)

ツイッターのリプライを駆使して会話していたので、ツリーは錯綜し、当事者以外にはなかなか捉えにくい形になった。ブログにまとめるにあたり、色々再構築を試みている。
・『若者へのアニメ』としてのダリフラとEVA、

『オタクのオタクによるオタクのためのフィクション』の世代間変遷と、その救済作用。オッサンには届かなくても、若者には救済として響いたダリフラ

・ロボアニメ文脈の『窃盗』としてのダリフラと、秘められたオリジナリティ。オートマティックであること自体が、すでにある種の肯定であるようなメッセージ。

・『アリモノ』としてのダリフラロボ描写の弱さ

・ナイーブな傷への処方箋としてのダリフラ。自分が罹患していない病気への治療薬でも、誰かのための命綱として作られたなら(あるいはそう意図しなくていても、そう機能してしまったなら)、それは優しく強いアニメなのではないか。

・トリクルにまつわる会話、ブログにまとめるにあたっての要請と承認。

・タグ文化、娯楽のパーソナライズ、"物語"に求めるものの変化、フランシス・フクヤマ的『歴史の終わり』以降の物語消費≒生きづらさを生き残るための杖としてのアニメーション。

 

・所与のものとしてオタク文化があることの呪い、社会・経済・政治情勢の変化による時代の波の変化。

 

という感じで、色々蒙を啓かされる思いで、お話をさせていただいた。自分は実は創作認識の足場、アニメを解体するためのツールがアニメそれ自体ではなく、よりハイ・カルチャーより(哲学と文学)にある人だ。なので、一般的なアニメファンの受け止め方とは、また当然違っているのだろう。
僕はずっと『僕はアニメが好きだけども、アニメはあんま僕が好きじゃないかもな』という、解消されることのない不安を抱えながら、こういう文章を書き続けている。離人感はあらゆる場所で顔を出す、僕の起源なのだ。
そういう個人的な傷が、Aimerさんが主張する世代の傷と少し共鳴し、違和感それ自体は理解できなくとも、居場所のない不安さ、疎外感の『匂い』みたいなものは通じ合うものがあったからこそ、僕にとってこの対話はよく響いたのかもしれない。

世代を越え、性別を越え、時代を越え、無条件に人を感動させる『強い』物語。ハイ・カルチャーとしての文学が志向してきた普遍性のある物語は、個人的で狭い嗜好に徹底的にパーソナライズされ、『アナタを喜ばせるための物語』を適切に供給される時代において、その存在意義が揺るがされているのかもしれない。
僕はそういう古い価値観を、疑いもなく信じられた最後の世代に多分属しているから(あと否定しようがなく文学ジャンキーだから)、大きくて強い物語が問答無用に人間を殴り倒す、普遍性の文学神話の実効性を、まだ信じたい気持ちが強い。
そういう視座からするとダリフラは、人を殴り倒すだけのオリジナリティを最後の最後で放棄した『弱い』物語に見えるわけだが、しかしそれこそが、『強い物語』を信じきれず、流された結果としてオタクに漂白しつつも、それをシェルターとして"空気"と戦う世代にとっては福音であった。
とするなら、『弱い』ことは、特定世代の特定個人に深く刺さっている事実をもって、無価値なもの、否定するべきものではなく、ただの現象としての形容詞となる。
そういう転倒を教えてくれたのは非常に稀有な体験であった。

正直ダリフラは僕のアニメではなく、終盤の展開には不満しかない。子の対話を経ても『なかった』には未だなりえていない。Aimerさんとその世代が抱える呪いと痛みを、オッサンである僕が真実理解することもなく、つまりはAimerさんがたどり着いた独自の特別性へ、真実たどり着くこともないと思う。
しかしその断絶を認めた上で、ダリフラによって最もナイーブで、最も創作によって支えられるべき世代が、たとえ一部であろうとも真摯な思いを受け取り、己の苦しさへの処方箋としてあのアニメを受け取ったのであれば、それは大きな意味のあることであろう。

僕が気に入らないからと言って、世に意味のないということと直結するわけではない。少し足を止めて深呼吸すれば思い至る、当たり前の常識を、言語ブンブンぶん回し系オタクとしてツイート垂れ流しているうちに、すっかり忘れてしまっていたようだ。
そんな独善を正し、背筋を伸ばしてアニメと他人を見るチャンスを与えてくれたことには、感謝してもしきれない。
とりあえず、ダリフラを見返さなければいけないな、という気持ちになる対話でした。そうしても『やっぱ分かんねぇ』ってなるかもしれないし、『わかる……わかるぞ!』と飛行石持ったムスカみたいになるかもしれんのだけども、そのどちらにたどり着いても、良い変化な気がする。
そういうものが生まれる会話が出来たのは、僕にとって実り多く、ありがたいことでした。どうもありがとうございました。