イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

FGO:二章三部「Lostbelt No.3 人智統合真国 シン 紅の月下美人」感想

Fate/Grand Order本編第二章第三部『紅の月下美人』を遊んだ。
非常に面白く、興味深い物語であったので、感想を書く。
こういうのは普段ツイッターでやっておるのだが、あのメディアハネタバレを回避するのがとても難しく、ふせったーでやるんならブログでやったほうが手間が少ないため、こちらで書くことにする。
一切ネタバレには斟酌していない感想なので、未クリア、未プレイの方はご注意を。
僕個人としてはFGO全エピソードでベストだと思うので、遊んでいない方には強くおすすめしておきます。

 

 

さて、FGOの敢行を破りライター公開で描かれた、今回の物語。
Fate/Accel Zero Order』以来の虚淵玄執筆となったが、彼自身が過去作への愛着に縛られたきらいもあったFAZに対し、自分の得手、愛着、知識と筆才を見事に駆使した物語となった。
アニメ化によってFateレーベルに息を吹き返し、四作同時コミカライズという無道を打ち出すほどに巨大なポップ神話となる起点となった、Fate/ZERO
それへの思い入れは、当然作者たる虚淵氏も深く、それ故『作者手製の二次創作』という色合いが濃かったFAZ。
これに対し、本編に組み込まれる一つのサーガとして、得意の中国史を題材に博覧強記の知恵者ぶりが、必要なだけ乱舞する今回のお話は、オリジナルな味わいと魅力、力強い筆運びが生き生きと踊っていた。

虚淵玄といえば鬱エンドの王様、後味の悪い話ばかりというイメージが先行しているが、その実爽やかな人生の光り、命が生み出す最も尊い行いを、とても大事にしている作家である。
しかし同時に、それがままならない人生の桎梏を無視して、幸福な結末を深く愛したキャラクターに与えることが出来ない明晰な知性と業を、兼ね備えている作家であった。
ここら辺の懊悩は、他ならぬFate/Zero書籍版あとがきに、明晰に描かれているところである。(自分の手元には商業版がないので、再録されているかは分からんけども)

今回の物語は人のあり方に深く悩み、その興味と施策を物語に塗り込めていた虚淵玄の快活さが、非常に生きたと思う。
キャラクターの描写は快活、敵も味方も生き生きと見せ場を与えられ、己の信じるままに突き進み、命を散らし、また繋ぐ。
そこには薄暗い業の陰りが色濃く宿っているが、あくまで人の可能性を信じ、敵味方含め多様な価値と生き様、能力を色彩豊かに輝かせてきた。
その多彩な楽しさこそが、『我真人独りのみ、この地上にあり』と多様性を切り捨ててしまう始皇帝の、それでも色濃く漂う"理"を否定しうる、大きな足場となる。

人は生きて、歌を歌う。
物語を紡ぐ。
それを忘れ、恒久平和の中で家畜のように生きていくあり方は、しかし悪しざまに罵られるのではなく、確かにそこにある幸福として、しかし否定しなければいけない”敵”として、複雑な魅力に彩られている。

動物的な生を圧倒的に肯定し、世界の全てを覆い尽くした秦。
これを否定しなければカルデアと、彼らが背負う汎人類史の蘇生、二章のグランドオーダー成立は果たせない。
しかし、欠乏から救われ、安楽を求める意識が人類……生物共通の真理であるというのは、否定しようがない。
そんな、深く考えなければいけない"理"を背負う敵たちは、己こそが大儀であると恥じることなく、自己を肯定する。
その後悔のない歩みが、作品全体を貫通する潔さ、風通しの善さを産んで、彼らを討ち滅ぼし独善を貫く終りを迎えてなお、爽やかな感慨を与えてくる。
単純な文章量としても、長すぎず短すぎずちょうどいい塩梅で、非常に良かった。
充実した物語体験を、”ああ、楽しいな”と遊びきれるくらいの熱量、文量がよく図られ、適切だった。
……これに収めるために、長めの序章をintroとして別枠に切り出したのかな?

四苦八苦を滅した往生楽土、永遠の秦帝国
そこで営まれる苦なき(『それはつまり楽なき、ということなのか、果たして人間の善き部分は、本当に悪しき部分と不可分か』と問うのが、今回の主題である)生を、カルデアの面々は否定し、消滅させなければいけない。
それが一点の曇もなき悪ならば、ロジックは単純だ。
間違っているから消す、後悔もない。
しかし主役たちが背負う大義……作中では"儒"とまとめられる個人主義啓蒙主義(つまりはPLに親しい西洋型の人権主義思想)と敵対する独善主義、文盲政策には、確かに楽があり、義があった。

カルデアが新たに踏み出したグランドオーダーとは、そういう悪の中の善、理不尽の中の理を、自分の悪と理不尽で踏み倒す物語だ。
だからここで、力強く『己等の善を告げよ』と問われたことは、非常に大きい。
人が生きる形は多様で、文化や地理、歴史や気候によって”是”とされるものも変化していってしまう。
歴史を縦断しその改変(消滅)を行うカルデアは、しかしその実”現在”の価値に当然支配され(ていなければ、”現在”日本を生きているほとんどのプレイヤーにとって、共感ができない、面白くない物語になるだろう)ている。

自分にとって当たり前のものを押し付けることが、実は侵略であること。
生き物にとっての当然が、実は悪を孕んでいるかもしれないこと。
英雄を引き連れ歴史を『是正』する正義の行い、FGOというゲーム体験が持つ複雑な矛盾を、楽と義と生命の輝き、好漢善女達の思いに満ちた秦は、鋭く指摘してくる。
それはFGOが持つ危ういロジックを内部から批判し、興奮可能な"私の物語"として洗い直してくる。
人間愛と業への意志、冷静な批評眼と綿密なる知恵。
作家としての自分の強みを最大限活かして、虚淵玄FGOの急所に、重たい一撃をブチ込んできた。


しかし虚淵玄は、自らのFate愛、FGO愛、そこで紡がれる物語への共感と使命感でもって、"敵"と同じだけの武器を、味方にも与えていく。
秦が持つ活力、楽しさ、強さでカルデアを押しつぶしてしまえば、それはただのヘイト創作である。
しかし"Fate"にまつわる一員として、秦では許されない(あるいは統制された)歌を作り物語を紡ぐ作家として、虚淵玄は啓蒙を肯定する。
個人が個人として生き、ただ動物の喜びを感受するだけではない可能性が許された現在を、その危うさと愚かさを十分見つめた上で肯定する。
その結果、カルデアの勝利は約束された筋書きをなぞるものではなく、作家の共感と必然の籠もった、それが溢れてくるからこそ読者の心を打つ運命となるのだ。

敵に理があり光があることは、敵を輝かせるだけではない。
それにて期待する主人公がどのような理をもって、感情と価値観をもって挑み、いかなる武器(敵がもっていないもの)で対決に勝利するかを、より鮮明にしてくれる。
そうすることで、主人公(我々読者の心の置所)はより輝きを増し、彼らが紡ぐ物語への思いは強くなる。
健全な物語は、魅力的な敵と味方の両輪でもって支えられ、加速し、高みに到達するのだ。

スパルタクス(潰えたFateMMOにおいて、そのキャラ設定を行ったのは虚淵玄であった。『数年ぶりのリベンジ、本来の父の筆に叛逆の闘士が帰還した』と言えるか)は失われた夢のありかを、敵である秦にみる。
人々の笑顔、苦のない生活。
討ち滅ぼすべき圧制者が行うのは、彼が望んだ開放の果て、同志と夢見た善政であり、バーサーカーである彼は非常に思弁的に(本来英雄スパルタクスがそうであった、あるいは虚淵玄がキャラ創作時に思い描いていた)振る舞う。
そこには、ただの破壊機械、『アッセーイ』と叫ぶだけの半裸の変態ではなく、確かに人の苦しみを思い、己の身を盾として尊厳の破壊社に立ち向かった英雄の姿がある。
その輝きは、やはり"理"を備えた始皇帝が敵に回ったからこそ、輝いたものだろう。
スパルタクスはその知恵故に"敵"の顔を覗き込み、その優しさ故に"敵"に反逆する足場を(プレイヤーと同じように)失ってしまう。


その上で、荊軻が歌と文字、己を表現する詩歌を教えたことで、人民は"儒"に感染した病原体とみなされ、圧政に押しつぶされていくことになる。
その歪みを眼にしたスパルタカスは、己の叛逆の性、アナキストでありヒーローでもある英雄の資質を取り戻して、叛逆の先頭に立つ。
令呪の強制力を嫌ったマスター(PL)の決断により、それは味方の暴力でもって正気を取り戻し、歩みを止める。

どれだけ玉体が傷むとうそぶいたところで、臣民は我が子、我が体も同然と飾ったところで、かけがえのない命を押しつぶし、可能性を切り捨てる行いは、"悪"である。
そのようなスパルタクスの英雄本色も、迷えばこそ鮮明に輝き、説得力を増す。
叛乱の勝鬨を、人が人として必ず背負う自由への希求を踏み潰すべく、迫りくる魔星を前に、男は星となり散りゆく。
その時、PLが持つ令呪は英雄を縛り自分の意志を押し付ける鎖ではなく、人が人たるべき信念を証明するためのブースター、願いをかなえるための正しき願望器として機能する。
このように、各モチーフの裏表を簡勁に使い、その善なる側面を強く輝かせる虚淵玄らしさが、今回のエピソードでは明瞭であった。
作中に現れる人や物が、いかなる声質を持ち、矛盾を抱え、しかしその真実がたしかにどこにあるのか。
虚淵玄という作家は、これを発見するのも、読者に届くように描ききるのも上手い。


そして世界唯一の人間として、頑迷に己の"理"にしがみついていた始皇帝も、戦いの中でカルデアの"理"、己の理不尽を思い知らされ、己と世界を改めていく。
最終的には人VS人のシンプルな殴り合いで決着するものの、大勢としては鉄の躯体から降りた時、荊軻匕首ではなく言葉とウィルスを届かせた時に、決着していた気がする。
唯一の真人ではなく、混沌の中蠢く群体としてたどり着いた、一つの可能性。
皇帝だけが特権的に持ちうる演算・通話能力を、万人に分配するありふれた奇跡

今まさに"FGO"を駆動させている"携帯電話"というデバイスを、真人皇帝の不遜を打ち破る切り札として使うのは、なかなかにソシャゲというメディアを見据えた運びだななぁ、と思った。
今、このゲームを遊んでいるメディアは人を傷つけることも、叡智に触れることも、世界を変えることも出来る。
そんな皇帝のような特権が、科学と経済の荒波に乗っかり当たり前に消費される世界。
万人が皇帝と同じ権能を抱え込み、その総和は(賢人独裁による適切な方向づけは、当然ないとしても)秦を凌駕する。

その事実に打たれたからこそ、始皇帝はうっかり携帯電話をスキャンしてしまったのであり、王以外に通信技術を持たない世界では、通信を通じて人を害するという発想もまた、ない。
皇帝は自ら否定した可能性への興味によって、国土全域に拡大した巨大な身体(『王の二つの体』は鋼鉄の始皇帝においては、一切矛盾なく存在し続ける)を破壊され、一人間のサイズにまで降りる。
皇帝は『世に己のみ持てば善い』と封じた知的好奇心……己の中の"儒"に導かれて、敗北の必然へと飛び込んでいく。

あるいは、荊軻の信じる叛逆の意志、不安と自由に満ちた未来への可能性を、対話の中で認めたからこそ、一人間が一人間として向かい合う世界に希望を見たからこそ。
真人は只人へとスケールを減じ、なんとか殴り合いで決着が付く領域に話が収まったのかもしれない。
荊軻が皇帝の誘いに乗り、一個人としての信念のぶつかり合いに応じた時に、多分勝負はついていたのだ。
そこまで踏み込めた暗殺者としての技量と、生前、そしてカルデアでの生活を経て手に入れた自由への信念を、水銀に魂を閉ざした皇帝に届けた時に、"十歩必殺"の秘技は発動していたのだ。
史実においては未達だった刃を、言葉と信念と知略に載せ、別の形で昇華する……伝奇の醍醐味である。
それを生み出し得たのはやはり、カルデアが背負う"理"であり、そこにあった自由と笑顔、始皇帝が封じた知性と尊厳の最も輝かしい精髄なのだろう。


このシナリオにおいて"歌"は非常に重要なモチーフであり、テーマそのものでもある。
古来中国では士大夫の資質、あるいは市井の人々の魂の輝きとして大切にされた詩歌が、中華が極限化した秦においては病原菌として扱われている。
荊軻史記に旅立ちの詩を持って刻まれている、暗殺者にして詩人だ。
”風蕭々として易水寒し。壮士ひとたび去って復還らず。”
始皇帝暗殺という大逆(あるいは大善)を前に、不帰の覚悟を風水の美しさとともに力強く語った名句である。
殺意というどす黒い感情を燃料に、匕首を忍ばせ命を奪う"悪"
その中にも詩はあり、風情と心情は豊かに生きをしている。
作中、マスターに単独暗殺を提案した時の会話は、この詩歌を下敷きにしている。
虚淵玄にとって、荊軻は何よりも詩人……作家である自分の偉大なる先駆者として認識されているのだ。

荊軻に文字を学び、スパルタカスの叛逆の生き様に憧れた少年は、滅びを約束された世界で詩を口ずさむ。
"我舞影凌乱 醒時同交歡"
唐の詩人、李白の"月下独酌"の一節であり、彼もまた英霊たり得る資質を持ちえた、後の大詩人であったわけだ。
宮廷詩人として栄華を極めつつも、天子の声を無視し船に上がらない生き方は、後に彼を苦難に巻き込むが、それも流星となった英霊の生き様が、どこかに刻まれていたからかもしれない。
始皇帝の生み出す安寧は、李白から詩才を奪い、土から生まれ土へ変える言葉なき只人として葬ってしまう。
引き立てられるのは戦争の才、政治の才、始皇帝個人の価値と世界観に収まる英明さのみであり、我々が舌の上で"静夜思"を、"早發白帝城"を転がす馥郁は、あの世界ではありえない贅沢なのだ。

中華文化を太く貫く軸たる"歌"は当然"敵"にも及び、蘭陵王、秦良玉、項羽ともに詩歌がキャラの根っこに用意されている。
FGOの花とも言える宝具は全て"蘭陵王入陣曲""祟禎帝四詩歌""力抜山兮氣蓋世"と詩そのもの、あるいはその英雄の本文を七言にまとめた絶句から名付けられている。
生き死にの極限で怯える人心を、その美貌を晒すことで慰撫した器量を称える蘭陵王の歌は、今でも舞楽として日本で舞われている。
秦良玉が己の魂とする詩歌は、時の崇禎帝が手ずからその功績と人品をたたえ作った、四首の詩である。
戦に挑む武人に最も報いるのは、天下の名剣でも数多の黄金でもなく、官位でも名声でもなく、七言四句四首、百十二字のただの言葉であるというのは、"詩"の力を如実に示すものであろう。
自身も詩文を能くした彼女が、歌を憎み病疫と避ける。
その歪みは、たとえ彼女自身が『そんな自分は知りえない。歌う自由のある世界など、私の世界ではない』と否定したとしても、やはり英雄の本懐を不当に歪める、誤った治世なのではないか。

項羽が作中でも歌い、意気軒昂なるさまを意味する"抜山蓋世"の語源ともなった垓下の歌は、その勇ましさが次第に現実のままならなさ、運命の限界点を嘆く哀しみを、見事に語っている。

"力、山を抜き、気、世を蓋う"と己の武勇を誇り始まった歌は、"時、利あらずして、騅、逝かず。騅の逝かざる、奈何すべき"と勇ましさだけでは動かない世の理、愛馬たる騅すら歩みを止めてしまった戦場のどん詰まりを、哀しく、しかしどこか冷静に見据える。
嵐のごとく、天下に乱を与え覇道を進む性はあっても、それを収めて和を作り王道を導く人の謙虚さは、項羽にはついぞ訪れなかった。
そんな男最後の戦い、最後の歌は、覇王の抱える最後の光、寵姫・虞美人への愛を、天下の命運より、己の運命よりも重たく据え付ける。
"虞や虞や若を奈何せん"という言葉には、取れなかった天下、変えられなかった性に嘆きをもって決着をつけても、未だ答えを見つけられない愛の行方を、答えなく問いかける響きがある。

己の才が天下に通じなかったことも、魂を分けた(と言えるほどの存在だから、サーヴァント・項羽は人馬一体の形態なのだ)愛馬すら諦めてしまった現実も、運命の理不尽も飲み込める。
しかし、愛だけが居場所を見つけられないまま、この四句の詩は終わるのだ。
覇道の機械として生きるしかなかった英雄が、最後にたどり着いた言葉は、死の運命を前に愛姫の命を、去りゆくものをどれだけ諦めても諦めきれない一人の女を、一体どうすれば良いのかという、答えるもののない慟哭であった。

史書はこの後の虞美人を語ることはないが、俗説は敵に辱められるよりも早く、項羽への操を守るために自害したと伝えている。
その赤い血から生まれたのが虞美人草……雛芥子であり、"芥雛子"の変名は虞美人がいかにその別れを悔い、もう一度の再開を魂より望んでいたかの証明だと言える。
この変名もまた、儒を封じ歌を禁じた秦においては、けして生まれ得ぬ詩だと言える。
芥ヒナコと始皇帝の同盟が破綻するのは、その名に込められた詩情において必然だったのだ。

死だけが、愛を守る。
詩だけが、愛を語る。
そういう極限の場所にこそ歌があるのは、スパルタカスに率いられた民衆が手ずからプロテストソングを、自然と語っていたことからも見て取れるだろう。
己がほかならぬ己であり、家畜ではないこと。
食が満ち、性が補われ、破られることのない安寧の中に微睡んでいても、人の性は自然詩を求め、知恵を生み出してしまう。
それを無礼というのならば、地脈は異界より三国一の反逆者を呼び出し、謹んで不敬申し上げる。
でもさーぶっつぁん、さーすがに馬人間・ライダー呂布奉先はやりすぎじゃね?


さておき、我々の知る歴史の中の英雄は、かくも詩に満ちている。
それを抑え込まんとする始皇帝のありようは、己以外の可能性を悪性とともに封じ、未来永劫不変なる閉塞へと繋がってしまう。
異物たる他者と交わることは、たしかに争いを生む。
人が人としての知恵、儒の学を抱え続ける限り、恒久的平和など不可能なのかもしれない。

それでも。
それでも、と前に進み続ける希望こそが、かつてゲーティアに焼き尽くされ、いま異界の神に漂白された人類史が歌いうる、最も力強き歌であり、カルデアのプロテストソングなのだ。
商品としてのえげつなさ、娯楽としてのポップさ(それもまた、FGOの本文であり強さであるが)にかき消え、時に見えにくくなっているけども、Fate奈須きのこが持つ視座はこのFGO二部第三章でも健在であり、ともすればこれまでの物語の中で一番、強く輝いているように思える。

虚淵玄の過去作を見ると、この希望の歌は、常に高らかに歌われている。
そのヒューマニズムこそが、彼に当世の作家として支持を集めさせたのであり、人目を引くセンセーショナルさや、悪趣味にも思える苛烈さはあくまで、人倫を問うための大事な道具である。
しかし高らかに歌われる人間主義は、必ずしも幸福な結末を産まないこと、人の魂に溢れかえる自由への渇望が悲劇を生む"事実"に、虚淵玄は目をつむることが出来ないのだ。
それ故"魔法少女まどか☆マギカ"は、"鬼哭街"は、"沙耶の唄(!)"は、かのような悲劇的な結末、アンチ・ヒューマニズムにも思える絶望の中に終わる。
"楽園喪失""翠星のガルガンティア"などのポジティブな終わりが、『ぶっさん日和ったな』と煽られるのも、無理は無いと思う。

しかしその、楽園の詩こそ人の本文と信じつつ、それを歌いきれない人の愚かしさ、祈りが呪いに変わる理不尽も無視できない業に苦しみきっていたのも、また虚淵玄である。
そんな彼が"バッドエンド症候群"で筆を折る寸前、盟友・奈須きのこの依頼で書き上げた作品が"Fate/ZERO"であった事実を鑑みると、FGO二章三部という舞台で、人の業と祈りをしっかり見据えた活劇が踊ったのは、運命であるし必然でもあろう。
これは虚淵玄が詩作/思索の長い長い苦しみの果てに出した一つの答え、彼なりの絶唱なのだ。
だから、詩を殺す始皇帝は"悪"であり、乗り越えなければいけない"理"、カルデア(を通じてFGOの作品世界を体験する僕らプレイヤー)が刻むべき"傷"足りうるのだ。


そしてこの第三章、"詩"に対する愛着と同じく、"史"に対する愛情で満ち満ちている。
好きだからこそ学びぬいた中国史への言及、己が見た解釈を話の中心に据え、なおかつ衒学にも退屈にもならないバランス感覚で面白く仕上げているのは、虚淵玄の天分と言える。
項羽の蛮行への再解釈、焚書坑儒に秘められた仁愛の意志。
定説をひっくり返し、新奇なる眼差しで歴史を見据え、己の言葉で語り直す史学(あるいは伝奇)の視座が、今回の物語には特に強く響いている。

Fateに僕が惹かれたのはそれがオールドスクールな伝奇の文脈(山田風太郎南條範夫半村良、宇月原清明などなど)を抑え、美少女ゲームナイズされつつも奇想と愛着を"史"に持っていたからで(も)ある。
FGOに落とし込むにあたり、わざわざ世界史探訪の時間旅行を選び取ったのも、"史"への愛あってのことだと思う。
スパルタカスとモードレッド以外は、見事に中華英雄で占められた今回の物語は、異文化が衝突しありえない衝突が物語を生むFGO的快楽は、正直少ないと思う。
しかしあえて的を絞ったことで、地域の衝突による"横"の快楽とはまた違った、一つの文化圏・地理的歴史区分の中での"縦"の衝突が、鋭い快楽を産んでくる。

2500年生存し続けた始皇帝による、"儒"の廃された中華。
後に儒学を文化の、国家の根源として興亡を繰り返す"正史"を知っていると、まさに奇想としか言いようがない発想であるが、小国寡民による牧歌的支配を是としていた老荘の理想が体現された中華は、あり得たかもしれないもう一つの"現在"として芳香を放つ。

始皇帝なき後千千に乱れた天下を、虐殺と不義によって暴れまわった項羽を、短時間未来予知に特化した仙術サイボーグと規定することで、その行状を逆転させる発想。
これもまた、歴史の秘められた扉を開き、大胆な発想に遊ぶ史家(あるいは伝奇作家)の発想であろう。
正直項羽始皇帝が好きすぎて、史書読みすぎて頭おかしくなった結果、どうにか自分の推しを擁護できる世界を思いっきり捏造しにかかったようにも見えるが、それを他人が楽しめる形にシェイプできる誠実と豪腕が、作家の特権であり資質であろう。

虚淵玄がたっぷりの思い入れで描いた、もう一つの中華、もう一つの英雄。
それは伝奇の喜び、その根っこにある"史"への思い入れを強く感じるもので、そこにこそ"Fate"の面白さを見出しているファンとしては、非常に良かった。
『あり得たかもしれないもう一つの可能性』という、FGO独特の要素もしっかり取り入れ、最後に猛烈な商売動線を引いてくるところ含めて、力強く面白い"史"への参加であった。

あんまり"史"が好きなもんで、ポップ・カルチャーで消費するにはやや重たく、説明の少ないシーンも多々あったけれども、そのくらい想いが溢れている方が僕には食べやすいし、今後もガンッガン判りにくい史実ネタをサラサラと投げ込んで欲しいところだ。
大量のオタク的引用、時に上滑りする流行りネタも見られたが、これも虚淵玄のサービス意識の現れ、TYPE-MOON的同人気質と思えば……やっぱちょっと寒いな。
でもぶっつぁんが自分の萌えを存分に叩き込みつつ、画面の向こうの俺らが笑ってくれるようネタをドサドサ入れてくれてる姿を妄想すると、なんかホッコリする。


キャラクターの造形としては韓信が珠玉で、ティーチ的なオタクキャラ(どう見ても"以下略"のヒラコー)で楽しませつつ、国士無双の知略、血腥い戦場でしか生きられない怪物性を両立させ、深みのあるキャラとなっていた。
史実では"狡兎死して走狗烹らる"という末路になった韓信であるが、永遠の王が終わらぬ乱世を走り続けた秦においては、煮られはしない。
血と戦乱の中でしか己を満足させられない(ライバル項羽が大陸の平穏を求め、殺戮に走ったのとは真逆の)性を嘱みつつも、どこかで忠義の在り処を探しているアンバランス。
そんな彼を懐に抱いて、本懐を遂げさせた始皇帝の器を見せる意味でも、とても良いキャラだった。

キャラ萌え、史実萌えに全力疾走した結果、少々ロジックが行き届かないところも、正直あった。
項羽の未来予知をどう攻略したかとかは、『そこが項羽の強敵たる所以』と描いた以上、毒花で描写を入れるところだと思うんだけども……直感持ちのアーサーを殺したモーさんが、叛逆剣術でどうにかしたのかな?
こういう補足を入れてしまうあたり痘痕も笑窪というか、虚淵玄という作家への評価が甘いなぁと思うところである。
しょうがねぇじゃん、好きなんだもん。

戦闘は一章、二章の生煮え感が嘘のようにハードコアで、マージで限界ギリギリバトルだった。
僕は攻略情報を見ながら進めちゃうPLなので、『まぁ中華英雄大集合だし、こんくらいでいいかな』と思いながらそれなりに楽しんだけども、初見でガリゴリ攻める人は、トライ&エラーで無駄になるスタミナにブチ切れ金剛なんじゃなかろうか。
MVPはスカスカ様と、各種Q鯖。
特にメルトは高回転・高火力の宝具でバスバスゲージをぶっ壊し、頼れる女武者振りであった。
楽しかったのはリップが六回ぐらいロケットパンチぶっ込んだ韓信with16勇士戦と、久々の登板なったヘラクレスが次々首級をあげた始皇帝戦・空想樹戦かなぁ……マージギリギリだった。

とまれ、とても楽しく、自分に波長の合うシナリオでした。
とにかく歴史オタクの面目躍如で、『ぶっつぁん、その解釈どうなの?』とツッコみたくなるところも含めて、僕がFateで食べたいものがた~っぷり詰まった、とても良いシナリオでした。
抜け目なく『縁があったらまたね!』をあざとくぶっ込んで、購買意欲を煽るのも忘れないところも、えげつなくてよかったですね。
ヒナコはPU2じゃなくて、個別特別イベントで引かせに行くスタイルかなぁ……汎人類史側に身を寄せるには、時間がかかるヒキだったし。
彼女が英雄・虞美人として再来した時の、引けた引けないのヒーヒー加減を色々想像しつつ、楽しいシナリオに感謝を。
とても面白かったです。