ゾンビランドサガを見る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
月に叢雲、華に風。
サヨナラばかりの人生で、掴めば逃げてく淡い夢。
どれだけ仲間が支えても、握りきれぬよ誓いの拳。
幾度殺すも蘇る、遠い失敗、持たざる自分。
迷い路隘路の果てにこそ、真実己があるのなら。
最後の最後にドン曇、思う存分晴らしましょう!
そんな感じの新世紀アイドル伝説・最・終・回! である。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
デスおじのように『よか…』の一言で終わらせたい二億兆点の最終回だったが、まぁ語るよ。
沸き立つ確信の矢を明日へと解き放つのが、アニメブロガーの宿命だって言ってたしな! 誰かが! あるいは俺が!!
色々謎も残っているが、常に作品コアを見据え続けてきたこのアニメ。基本、今回も徹底的にさくらを彫り込んでいく。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
たえちゃん必死の歩み寄り、姉さんのビンタ、仲間の叱咤。『もうそれでいいじゃん!』という激エモプッシュを畳み掛けても、さくらの(つまり僕らの)無力感と記憶は簡単に蘇生しない
世の中、アニメみたいにわかり易いばっかりじゃない。『それでも』は希望の方向にだけ、呟かれる言葉じゃない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
生々しい失敗の記憶が、持ってない自分への諦観が、そして周囲に失望と負担をばらまく申し訳無さが、何度でも夢に向かう足を止め、人を死人に変える。
そのどうしようもない重たさを皆知っているからこそ、それをはね返し光へ進んでいくフランシュシュの物語に夢中になったのだと思う。少なくとも、僕はそうだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
ゾンビたちは他人じゃなかった。誰も持っていなかった(何しろ死んでいるのだ)。打ちのめされ這いつくばる、僕によく似ていた。
そんな生々しい重たさを”ゾンビ”というアイコンで戯画化し、しかし”ゾンビ”の破壊性、非社会性を真面目に見据えることで、『持ってない僕ら』の象徴として先鋭化させる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
ゾンビが過去も社会に無条件で受け入れられる『フツーの』身体を失ってなお、希望とつながりをどう保つか。
そこに『メイク』という名前のエンバーミングと、常に演じ続け虚実が混ざり合う『アイドル』という職業を持ってきたのが、このアニメの眼目である。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
◯号という偽りの名前。腐敗した肌を分厚く偽装/武装するメイク。ステージアクトで興奮と幸福をばらまく善行。河原者のサバイバルゲーム。
そういうアダプターを用いることでしか、持っていないゾンビたちは『フツー』の人間を演じることは出来ないが、しかし巽幸太郎が用意した偽装を活用し、自分のものと受け止めることで、フランシュシュは蘇生した。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
たとえ夢でしか出会えないとしても、夢でなら会えるのなら。それはやっぱり救いだ。
偽りの蘇生を、アイドルという欺瞞を、徹底的に貫き通し、真実己のものと受け止められるなら。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
どうしようもなく失ったものは戻らないとしても、新たに始まる物語、ゾンビ的な生=性=サガは脈動を始める。世界(佐賀)も、その努力に銃弾パナスばっかりじゃない。
そういうアイデンティティ・ロストからの蘇生、残酷であり優しくもある世界の様相を、このアニメはずっと追いかけてきたし、最終エピソードは主役のさくらから一度すべてを奪うことで、そういうゾンビ=アイドル=人間的蘇生を、しっかり掘り下げた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
自分がどういう存在であるか、大声で世に吠えた。
それは生半では嘘になってしまう問いかけで、だからさくらは幾度も拒絶する。勝手に盛り上がってる他人の記憶は、自分のアイデンティティではないと拒絶する。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
ほんと…さくらはんがたえちゃんに冷たく当たるシーンは…見てられなかったです…。
最終回で、前回(そしてシリーズ通して)出番をスカされてきたたえ&ゆうぎりがビッグな仕事をするのが、悪魔的計画性でヤバい。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
真ん中に座らなくたって、二人はフランシュシュの仲間。ネタ方面でもマジ方面でも存在感は大きくて、だからこそメインが来ない歯がゆさは強かった。
不満感をあえて煽り、今回の爆裂につなげる計画性は、ホント凄まじい。ゆうぎり姐さんのビンタ芸を、爆笑必至の火力で脳髄に焼き込んでおいてからの、今回のあまりに正しい使い方とか、ホント悪魔と契約したとしか思えない。ネクロマンサーアニメだけに。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
たえちゃんは言葉を持たず、芸も巧く出来ない。弱い立場のゾンビの中でも、特に弱い立場の存在だ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
そういう彼女が画面の端っこで、だんだん自分を確立し、自分なり芸を獲得し、仲間を大事に思っている様子は、三石琴乃の熱演と合わせて、しっかり僕の記憶に刻まれていた。
あうあう煩いドライブイン鳥は、たえちゃんが差し出せる唯一のものなのだ。何も持ってないゾンビの中でも、言葉すら持たないたえちゃんにとって、さくらが教えてくれて、仲間と一緒にやったあの道化芝居だけが、シリアスに差し出せる『言葉』なのだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
だから、そのさくらがドラ鳥を拒絶する姿は辛い。
たえちゃんの言葉なき言葉、死者の無言の訴えを聞こうと歩み寄ったのは、誰よりさくらだった。バラバラの死人をまとめようと、どやんすどやんすうるさかったのは、誰よりさくらだった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
その暖かさが、今はない。毎度おなじみ、OP開けのさくら劇場がない時点で、凄まじく寂しい。
それを再獲得していく歩みの中で、状況変化のマーカーになっているフェティッシュがいくつかある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
一つは”布団”。アイドル合宿ドキュメンタリーともいえるこのアニメで、眠るシーンは距離を示す大事な指標だ。前回さくらを隔離していたホーム感が、今回近づいてくるhttps://t.co/m2fa4zqAo2
自分のものでありながら、どうしても遠い思い出。暖かな布団のように、自分をくるんでくれる仲間。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
それと接近し、拒絶し、付いたり離れたりを繰り返す中で、さくらは布団との付き合いを変えていく。
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自分を温めるはずの布団が、周囲の期待と知らない記憶をシャットアウトするための障壁として機能したり。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
仲間の方もさくらを強く求めるあまり、インペリアルクロスめいた包囲網(佐賀だけに)を敷いてしまったり。
関係が修復された後、ゼロ距離を取るのがたえちゃんと最年少のまさおだったり。
布団は桜の現状を見せる劇場として、今回(も)印象的に機能する。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
基本食事を取らない彼女たちにとって、『みんなで寝る』ということがフッドの絆を見せる象徴だった、ということか。
本来眠らなくても良いゾンビだが、人間の真似事をすることで自分を保っていたのかもしれない。
もう一つの道標は”手”である。握ったり、離したり、色んな感情が色んな場面で、手に宿っていた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
自分から握手が出来ない、アイドルの顔を作れないさくら。
頑なに握りしめていた手を少し緩め、周囲が押し付けてくる”アイドル”のアイデンティティを、少し許容するさくら
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蘇ってきた記憶とともに、自分が『持ってる』かもしれないという期待に拳を作るさくら。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
姐さんの想い(ビンタ)、かつて自分を突き動かした愛の言葉を受け取り、無力な手のひらを拳に変えるさくら。
彼女の複雑な内面は、今回”手”の芝居に託されている。
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信じたい、でも信じられない。生き直したい、でも足が止まる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
複雑なアンビバレンツに支配されたさくらの心境を、嘘なく見せることは今回とても大事だ。
物語的な熱さで希望を掴み取りつつも、そうはならない現実の無力感を嘘なく描ききり、さくらの心理的リアリティを通じて視聴者を引き込む。
そういう難しい仕事を、”手”に託したのは大正解の演出だったっと思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
明日に延ばす手、何かを掴む手。
でもそれが空を切った時、人は強く失望する。何も掴めない、持ってない自分がどれだけ周囲を空回りさせたか思い知るたびに、さくらは希望を捨てていった。
その実感は、凄く生々しく身近だ。
”手”の身体感覚に喪失と再獲得のドラマを載せたからこそ、過剰にアイドル的、物語的な自分を拒絶し、絶望の淵に沈もうとするさくらの心境、そこで危うく揺らいでいるリアリティのバランスは、絵空事ではない重さと熱さを獲得できたのではないか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
それを最終回、本気で叩きつけてくるのは”強い”。
そしてもう一つ、明暗がくっきり別れたライティング、光と闇の境界線の演出がある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
『キカイダーかよ。あるいはスト3のギルかよ』と突っ込みたくなるくらい、パキッと割れた夕闇の顔。それは自己を反射する鏡に投影され、裏腹な心を写す。
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絶望の中で腐っているようにみえて、さくらはいつでも希望を殺せない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
無力感を学習してきた生前の記憶を失い、がむしゃらに前に進んできた歩みが、仲間を奮い立たせ、実績を積んできた。
でもそれは、私ではない私のもの。鏡に映る自分は、泣いているか微笑んでいるか。青黒いトゥーフェイスが嘲笑う
鏡は過去エピソードでも、さくらのゾンビ化した現実を反射し、どうしようもなく持ってない現状を冷静に突きつけてきた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
それは世間の目であり、失敗(その最たるものが”死”である)を許容してくれない冷たさそのものでもあった。https://t.co/tr3hnlqOWl
そのひび割れた自己像を、どう許容していくか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
世の中がゾンビを認めねぇってんなら喧嘩上等、ぶん殴って新しい像を結ぶヤンキーイズムの含めて、やり方は沢山ある。
そんなサキと愛のゾンビ・アイデンティティは、さくら自身が手を貸し作り上げたものだ。
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しかしさくらはステージに上るまで、ゾンビとしての自分=学習性無力感に苛まれる前の子供の自分が積み上げたものを、真実肯定できない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
空は薄暗く曇り、しかし月はそこにある。あるいは希望がみえてきても、月は叢雲に陰る。希望と絶望は、背中合わせの双子である。
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曖昧な霞の中の光。諸行無常な人生の波風を、ひどく古典的なモチーフに乗せて印象づけた後、粉塵の中のステージライトで再演するセンスが、ゾンビランドサガっぽくて良い。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
昭和アイドル・水野愛、永遠の12歳・星野リリィを。アイデンティティを残したまま、時代に合った形で再生させたように。
演出面に置いても、古いモチーフを”アイドル”というテーマにすり合わせ、その秘められた地力を最大限活かす使い方を見つける。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
ゾンビとして蘇生したのは、なにもアイドルたちだけではない。様々な人と思い、概念と演出が、新たな装いで蘇っているのだ。力強い。
まさかのアルピノ大破壊を経て、ステージはアクター不屈の意志、裏方の努力、ファンの信頼によって蘇生していく。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
その当惑の中で、さくらは走馬灯(それが死の瞬間に訪れるものならば、ステージの上で”持ってない”さくらは真実死ぬのだ)を見る。
記憶を失い、さまよい歩く。さくらのいじけた迷走はしかし、自分たちが何をやってきたのか、何処から歌と友情が生まれるのかを、追いかけ直す旅でもあった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
自分たちが何を見てきて、何を創ってきたのか。主役の記憶を白紙にすることで確認していく筋立ては、圧倒的にクレバーである。
ステージの上でも明暗は入り乱れ、さくらは様々な表情を見せる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
”アイドル”が、”ゾンビ”が真実自分を見つけるのは、あくまでファンと向き合うステージの上。偽りの光条が、許されぬ蘇生を果たした歌姫を、闇の中から照らしていく。
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薄暗い不幸、否定し得ない現実は、いつでも空から降ってくる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
それでも、夢は何度も蘇るのだ。
そのためには本人が自分の足で立ち、自分の目で光を見据えることが大事だ。ただし、一人で立ち上がれるほど、人は強くない。
仲間の支え、見知らぬ人の温かい声援、過去の自分が成し遂げた夢が必要になる
ステージとフランシュシュ、さくらのアイデンティティが渾然一体となって蘇生するアート・ネクロマンスにおいて、名もなきスタッフの奮闘がちゃんと切り取られているのが、最高に良い。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
皆己の誇りを載せて、一つの夢を見る。それぞれに闇の中の光がある。
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メインの”ヨミガエレ”と、アンコールの”FLAGをはためかせろ”で、さくらの顔が違うのが良い。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
失われた記憶に迷い、蘇生した意味を探す。高速で流れていくステージ的時間の中で、他人を見る余裕はさくらにはない。表情は非アイドル的で、とても険しい。
©ゾンビランドサガ製作委員会 pic.twitter.com/RGFz8rbjz9
そして自分を取り戻したあとはきっちり顔を作って、アイドルとしてファンに向き合う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
それは巽が蘇生させ、叶えた夢の仮面だ。嘘だけど、とても愛おしい嘘だ。そういうモノを堂々と他人に晒し、終わったはずの夢をあるき直すアイデンティティを、さくらは取り戻した。
この2つの曲、二つの表情を同じ”アイドル”が歌えるのが、アイドルジャンルの器量だと思うし、それに揺さぶられ救われる人たちの肖像もまた、大事に切り取られた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
これまでの物語蓄積を活かし、様々な人が観客席に顔を見せているのが、とてもいい。ごった煮上等、色々いるから面白い。
年代も性別もバラバラで、だからこそ面白かったこのアニメに相応しい、見事なステージであった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
そしてそれは始まり、まだまだ佐賀は救われていない。アルピノも売却されちゃったしね…ある意味”持ってる”タイミングだよな、リアルのゾンビランド佐賀っぷり…。
という感じで、狂奔怒涛の本筋は見事さくらの、ゾンビの、アイドルの、佐賀のアイデンティティを語りきり、走りきった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
最後デカいステージを成功させてサクセス! ではなく、あくまで佐賀のロコドル、ファン密着地域直結のローカル感で〆るところが、題材に誠実でいい。
ゆうぎり姐さんとたえちゃんの正体、巽の根源は詳しくは語られなかったけども、ドラマ的な見せ場は山盛りあったし、そこに迷って本筋薄くなるより、どっしりパワーで押し切ってくれたほうが面白かったと思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
まぁ二期あるでしょ実際! この色気残した終わりでないとか、マジ承知しねぇゾ!!
巽の過去…というか献身の源泉はずーっと気になっていたので、ちらっとでもそこを見せてくれたのもいいサービスだった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
純愛墓掘りネクロマンス野郎かよ…重いな、乾くん。まぁさくらちゃん良い子だし、一生引きずるよねそら。ハリウッド留学してメイク学んだのかな…。https://t.co/uQ8LkwYMoJ
巽は辰巳(南東)、乾は戌亥(北西)。十二支でちょうど逆の方角になる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
凶方といえば艮(北東)が取りざたされるが、乾もまた天門の居座る方角であり、凶の方向である。
”怨霊や魑魅魍魎などの災いが出入りする方角”とされている。ネクロマンサーに相応しい本名だな。
というわけで、期待の大トンチキド真面目地域密着ゾンビアイドル青春物語も無事完結、二期やれるだけのヒキも残してのフィニッシュとなった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
結論としては、二億兆点です。満点超えて最高の二文字ッッ!!
いいアニメだった、掛け値なしに…ゾンビにもアイドルにも佐賀にも、本気で向き合った。
良いところはたくさんあるんだけども、トンチキなギャグでしっかり笑わせつつ、現代性と力強さを兼ね備えたメッセージを、しっかり発信できたのが特に良かったと思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
俺たちは死人だ。だがゾンビになれる。やり直せるし、戦える。
最後の曲が”Flag(軍旗)”を見せるのは、そういう意識な気がする。
世の中マジでクソで、自分は悪くないのに潰されたり殺されたりする。ゾンビ少女は様々な不幸に肩まで使って、絶望に沈みかけたところで、ぐいっと地面を噛んで蘇る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
それは簡単なことじゃない。鏡に写った見にくい自分、他人を傷つける腐った身体は、いつでも世界の拒絶される。
それでも生きて言葉があるなら、それを歌にして誰かに投げかけたり、身近な仲間と語り合ったりは出来る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
メイクで凶暴性を丸くして、社会と折り合いをつけることも出来る。◯号という仮初のアイデンティティに、本気の思いを込めて、過去を取り戻すこともできる。
『それでも』と諦めてしまう呪いと、『それでも』と顔をあげる祝福。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
その両方を、たっぷりの笑いと愛情と可愛げ、溢れる生命力でしっかり描き、キャラクター個別の物語として群像を駆動させたのは、非常に素晴らしかった。
それを支えたさくらを、最後の最後で折って、自作を振り返る機としたのも。
とにかく真面目なアニメで、しっかり積み上げた作り込み、冷静な観察眼を客に悟らせないシャイネスも、非常にチャーミングだった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
この恥じらいをそのまま、辰巳幸太郎というキャラの個性、可愛げに転写し得たのが、まさに偉業だと思う。宮野真守でなければ、演じきれないキャラであった…。
萌え萌えな記号を貪欲に取り込みつつも、生っぽいキャラの人格、意志溢れる芝居の作画で命を吹き込み、ただの記号で終わらせなかったのも良い。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
フランシュシュがキャッキャしているところは、オタクへの媚びを確かに超え、家族的つながりを新生させていく命の息吹が、たしかに宿っていた。
そういう生っぽい新しさをちゃんと見据え、作品に吹き込んでいった結果、キャラへの愛着は深まり、題材もフレッシュに蘇っていく。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
それは根源的に真面目じゃなきゃ達成できない戦いで、見返せば大爆笑の第一話から、そういうシリアスさはしっかり漂っているのだ。
そういうモノを堂々突きつけても、娯楽を求める視聴者は引いてしまう。勝機も失うし、メッセージも伝わらない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
だから最大限キャッチーでポップな可愛さ、笑いを分厚く作り上げて、とにかく楽しく、見ていて元気に心を揺さぶられる…視聴者をネクロマンスするアニメにした。
ゾンビという題材が持つ裏腹な感覚もしっかり大事にされ、フランシュシュは人間でありながら銃で撃たれ、他人を壊す。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
そういうゾンビの異質性から目を背けないまま、それでも掴み取れる第二の生を、大真面目に掴みにいった。喪失からの再生は、必ずしも復元を意味しない訳だ。
そのためのツール=メディアとして選び取った”アイドル”も、世代がバラバラなゾンビィが社会と繋がるための、特権的で普遍的な足場としてしっかり掘り下げられた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
純子と愛が体現するアイドル史、キッチリ作り込んだ音楽ジャンルの豊かさ、ローカルアイドルとしての泥臭い温もり。
なんとなくのイメージではなく、自分なりしっかりテーマを考え抜いた結果選ばれた描写が、真実をえぐる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
これは佐賀も同じで、おまけ扱いと謙遜しつつも、その歴史、今なお息づく息吹を大事に、舞台を描いていた。
聖地がぞろぞろ死んでいくのも、ある意味ゾンビランドサガ的、というか。
人数がたくさんいることで、バラエティ豊かな藻の語りが展開でき、しかもそれぞれが同じ不幸、同じ喪失をしっかり照射していたのも、統一感を生み素晴らしかった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
年代も性別も飛び越えて、繋がれる希望。ネタで死人を掘り返すだけじゃなく、核心にガッチリ食い込ませる。
そういうグリップ力が作品の全領域、全瞬間に溢れた、精気溢れる躍動のアニメだったと思います。ゾンビなのにね!
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
一切の情報を封鎖された第一話でぶん殴られ、一気に惹きつけられて三ヶ月。
最高に面白く、愛おしく、力強い物語をありがとうございました。
とても面白かったです、お疲れ様!
追記 たえちゃんに投影された(と、僕が僕の歪みを宿すレンズで、身勝手に読み取ったもの)について。
(ここら辺の感覚は、やっぱたえちゃんと障碍者の重ね合わせに一番出ているかな、と思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
これは絶対に明言されないし、明言された瞬間描く対象を『かわいそうなもの』にしてしまうので明言しちゃいけないことでもあるけど、やっぱりたえちゃんのパフォーマンスはアール・ブリュットだと思う)
(ゾンビという不謹慎な隠れ蓑を、例外的に着続けるたえちゃん。彼女は道化として始まり、だんだん彼女なりの努力と歩み寄り、変化が見えてきて、ゾンビのまま、出来ないことがある存在のまま、僕らは彼女に注目しだす。好きになりだす。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
ゾンビであることをやめない彼女も、そのまま人間になる)
(『治療』という視座、『普通』という言葉の暴力性をしっかり見据えつつ、フランシュシュは成仏もしないし、『人間』にも戻らない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
それでも良いんだ、と。そういうものとして、その人達が成し遂げる渾身の一歩を見守り、楽しみ、笑うことは大事だと、たえちゃんの描き方は言ってる気がする)
(失われてしまっているものを無理くり回復することは出来ず、それでも夢で会える希望を第8話で描ききったこの話は、たえちゃんをゾンビのままにする。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月20日
それは嘲笑ではなく、自分とは異質な、しかし隣人である存在への敬意と興味に、しっかり満ちた書き方だったと思う。それを押し付けないの含めて)