どろろ を見る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月14日
盲た世界、目明きの世界。見えるからの不自由、見えないからこその洞察が、欲界の渦の中で唸る。
怪物鬼神も人の皮で覆えば、ヒトの形を手に入れる。その奥にある赤い炎は、怪生だけの存在証明か。水の向こうの街で、欲望が揺らぐ。
そんな感じの室町末世伝奇絵巻、骨の太い立ち上がりを見せる第2話である。主役が一切喋らない異例の状況は今週も健在であり、どろろと百鬼丸は時に心を通じ、時にすれ違いながら、お互いの欠落を認めていく。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月14日
”名”を明け渡すことで信頼と共感を表現する話運びは、シンプルでベーシックながら強い。
主役がしゃべらないもどかしさはやはり強く、それでもどろろは健気に(あるいは欲深く)コミュニケーションしようとする。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月14日
一般的な視界を持たない百鬼丸は視線を向けず、人形か器物のようにその真心を無視しているようにも思える。だがしかし、その呪われた出生を知る視聴者には、そうでないと理解る
一般的な五感がなくとも、百鬼丸は飯を食い、悪を殺し、生きようとする。怪物になるか人になるかの瀬戸際で、功徳の塊のような寿海に拾われた結果、白い炎を宿すこととなる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月14日
何も届かないはずなのに、案外気持ちは通じている。琵琶丸のいう通りでもある。
途中参加の琵琶丸が非常に良い橋渡しになっていて、盲の世界を知るものとして百鬼丸側、アウトサイダーながら人の世を渡ってきた琵琶法師としてどろろ側、両方の立場がわかる強みが生きていた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月14日
当然文”盲”のどろろ相手に、指でなぞって文字を読む。彼は超常と日常、両方の地獄の通訳者なのだ。
『指で読む』モチーフは序盤で既に顔を見せていて、どろろが火を通した魚(蛮人のように生で食べるのではなく、曲りなりとも文明の形を整える作業)を差し出した時、百鬼丸はそれを撫で擦る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月14日
百鬼丸の目は確かに、見えないものを見る。だが、見えないものもある
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怪物のようにそこから隔絶するのではなく、百鬼丸はその呪われた出生、特異な五感を最大限活用して、なんとか人の世を見ようと努力している。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月14日
しかし、曖昧な魂の炎の視界ではどろろの過去、母への慕情(子捨てされた百鬼丸が密かに抱くもの)の細密を、知ることは出来ない。
どろろが万代に重ねてみていたものが言葉になった時、百鬼丸は手を伸ばす。魂の曖昧な形しか見えない目ではなく、自分の傀儡の手のひらでどろろの真心を味わおうとする。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月14日
それはどろろ側の歩み寄りを、化外が受け止めてちゃんと返した…コミュニケーションが成立した証明でもあろう。
その結果として、百鬼丸は己の名前…人が人であるアイデンティティをどろろに預ける。名前のない怪物ではなく、ヒトの形を整えた存在として己を刻む。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月14日
この在り方が、人を装い村を守る万代という怪物に投射されているのは、非常に面白いところだ。
毛外の者たちは薄墨のグリザイユを歩く。暗闇の中飯を食って、朝日は少し希望の色、意思疎通の色彩を帯びる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月14日
共同体からはみ出た川沿いを親なしの子供が歩きつつ、『鬼神を殺す』なんていうファンタジックでヒロイックな命題を背負った百鬼丸は、金勘定をしない
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どろろと出会う前は獣のような食事を続けていた百鬼丸は、どろろという目明きの介助者を通じて金銭経済に繋がり、”際”を超えていく。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月14日
ヒトの形をした人喰いの村に入る時、あるいは怪物の褥に近づく時。橋、あるいは井戸という境界線を隙無く写す。民俗と伝奇への解像度が異常に高い。
百鬼丸がヒトと怪物の境界線の上に立ち、その真贋を見定める目をもっていることを、ナレーションはスルスルと説明していく。何しろ自分で喋んないからな!
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月14日
自分の異能と欠落をべらべら喋れないことが、アニメ版百鬼丸にストイックなかっこよさを与えていて、非常に好きな演出である。
ここで百鬼丸の視界が意味するものを見せた結果、怪物を切らず人間を切ろうとする後の行動が、ただのアウトサイダーの狂気に見えないのは巧い。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月14日
百鬼丸はどろろ(や私達)に見えないものが見える。なにか事情があるに違いない。そういう疑問が、村を巡るミステリを掘り下げる足場にもなる。
醜い本性を露わにした万代の眼を切り、百鬼丸は傲然と正義を為す。しかしそれはある意味自動的な反応であり、倫理的な判断ではない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月14日
鬼神は殺す。全てを奪われた彼に唯一残された宿命に突き動かされ、彼はヒトの形をした怪物を、自分と同じ盲にする。
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補記
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月15日
『赤い血を流す』という機能もまた、”肌”の再獲得とともに百鬼丸に回復されたものである。しかしそういうわかりやすい記号が出てくる前から彼は人間であったし、それを受けて寿海も琵琶丸も命を拾い、繋げようとした。
機能不全と喪失の間には、どういう関係性があるのか。
そこは今後、百鬼丸が鬼神を借り己の身体を奪還していく中で、またそれらフィジカルな器官/道具を通じてどろろが百鬼丸とコミュニケーションしていく中で見えていくだろう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月15日
これが”際”を超えた先の尋常の社会、その崩壊と連関しているところが、非常にエグい作りであるな。
万代の眼から血は流れ、その禍津風を身に受けた琵琶丸、百鬼丸も赤い血を流す。小さなどろろを体を張ってカバーさせることで、琵琶丸の善性をさらりと強調する。静かなヒロイズムが良い。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月14日
村人の目線からすれば、怪物領主は救いの神。醍醐が百鬼丸を生贄に領地を安堵し、崩れた結果隣国が攻め入る。
百鬼丸が怪物を倒し、自分を取り戻していく戦いは、”際”の向う側にある当たり前の世界(は同時に、血の色の炎で塗られた地獄でもあるのだが)を壊していく。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月14日
代価なしには、何も得ることは出来ない。何かの代価とされたものが、平穏を崩してでも己を取り戻す。
そういう未来の縮図を、小さな村の怪物領主、それに養われる只人の姿で上手く見せるエピソードだったと思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月14日
斬魔行の中で、百鬼丸一行は赤い血を流し、結束を深めていく。それぞれの魂の色を見て、悲しみを知り、おずおずと手を伸ばす。歪で、しかし真正な温もりの旅路。
それはあくまで”際”の外側、銭金を必要とし五体が揃い魚には火を通す世界の埒外を、フラフラ彷徨う座頭の道行きだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月14日
しかし眼明きの世界、領主が暴力によって富と安全を振りまく世界が、そこまで上等なのか。清廉な白ではなく血の赤が、そこには脈打ってはしないか。
立派な衣装を着た外道と、みすぼらしい埒外の高貴な野人。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月14日
これは万代(醍醐)-百鬼丸の構図だけでなく、仏法(室町時代の主要な知恵であり倫理。これを納めているから、百鬼丸も琵琶丸も筆写コミュニケーションが可能になる)にも及ぶ。
既存教団の内側にいた僧正は、醍醐に切り裂かれることを喜んだ
僧形ながら教団に収まらぬ琵琶丸、あるいは傀儡師として戦場を彷徨う寿海は経文を上げない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月14日
しかし人を害する怪物を切り、死体の尊厳を取り戻し、全てを奪われた赤ん坊に人の形と生き様を伝える彼らは、誰よりも仏法者である。立派な形だけが、すべてを決めるわけではない。
しかし一方的に”野”の理論が優越するわけではなく、それが境界を超えて”街”に侵入すると、とても大事なものが壊れてしまう時がある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月14日
今回は村一つの生計。やろか水はあの後、洪水で全てをなぎ倒すのかなぁ…妖怪オタクー! 今どろろみないと一生の損だぞ! やろか水出たぞ!(唐突な興奮と絶叫)
補記
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月15日
やろかやろかの声に誘われ見落としたが、説話の構図としてはモロに”六部殺し”であり、文脈的にはそっちよね当然。
マレビトを殺すことで共同体が栄える物語は、平穏な繁栄の裏側にある犠牲を露わにする。橋、あるいは井戸をくぐって”街”という異界に飛び込んだい百鬼丸一行は、修羅の巷を目撃する
ヒトの皮を被って銭を稼ぐ万代よりも、怪物の姿で無邪気に『やろかやろか』と呼びかける六部の残骸のほうが、”際”の外側にいる欠損者・百鬼丸にとっては親しい存在なのかもしれない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月15日
盲た目でその事実を見抜き、六部を二度殺す悲劇を避けた百鬼丸。その浄眼が奪われた時、彼は何を見て何を見損なうか
寂寂と響く鈴の音は、すなわち村人の倫理の声だ。怪物が背負う赤黒い理屈…貨幣経済と戦争の”人間らしさ”に身を投げても、目明きの視界にだって魂の色は見える。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月14日
自分が無力に赤黒く染まる辛さが、消えたはずの遍路の声を蘇らせる。しかし生きているものの大半が、野人のように正しくは生きれない。
補記
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月15日
ナレーションと琵琶丸、二重の補助線により『百鬼丸の目は、目明きには見えないものを見る』と強調される。
消えたはずの遍路の鈴を幻聴する村人も、視覚と聴覚の違いはあれ、幻影とも真実とも言えるものを捉える機能としては同じである。が、村人は万代との共犯を選ぶ。
寄らば大樹の陰、口に糊できるのなら怪物の乳でも啜るその姿は、”際”の内側で当たり前の人生を生きている弱い存在、そのあさましく哀れな生き様を捉える。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月15日
誰もが野人のように、高潔に生きられるわけではない。魚を捕らえる浄眼、貫く特殊な武器を持たないのなら、流されるまま悪に加担するしかない。
醍醐が百鬼丸を贄に捧げ守ろうとしたのは、己の肥大化した野心であり、同時にそういう衆生の浅ましさでもあろう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月15日
百鬼丸の目は、そういう当たり前の事情を見ない。赤か白か、魂の色だけを愚直に見据え、切り払う。その明晰さが爽快でもあり、大胆にすぎるとも感じる。巧い書き方である。
どろろに村の事情は見えない。怪物は怪物、人の形を装っててもだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月14日
それが崩れる時の変化は、ちと文楽の”ガブ”っぽくて面白かった。やっぱ伝統的な”和”の表現力を、静かにリバイバルしようという意欲がこのアニメからは感じられる。非常にグッドである。
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— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月15日
万代が”逆立ち”してるのも面白いところで、本当の中心は女の下半身、子供を育み生み出すところにある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月14日
毛だらけ欲まみれのヴァギナ・デンタタは、それが悪いことと知りつつ抜け出せない村人と近親相姦的な共犯関係にある。
どろろが焦がれる”母”の、最も恐ろしい顔。全ては二面、背中合わせだ。
百鬼丸の欠損が生み出す不自由も、それに適応して生み出される独特の体使いも、凄く細密かつ繊細に描かれていた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月14日
良くも悪くもなく、百鬼丸は今、そういう存在である。彼なりに必死に生きていて、そこにどろろが”当たり前”を持ち込んでくる。銭、火、道連れと会話。戦いを経て欠落が埋まる。
その変化もまた、欠落に適応した百鬼丸の在り方と同じように、あるものとしてそこにある。奪われていれば無条件に聖なる/正なる存在になるわけではないし、満たされているものが皆誤っているわけでもない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月14日
善も悪も正も誤も、渾然一体となって全てはそこにあるのだ。静かで暖かな目線を感じた。
様々に奪われ、見誤る者たち。静謐のヒロイズムを背負う百鬼丸もまた、何かを奪うことでしか何かを手に入れられない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月14日
そんな修羅界の道理の中で、確かに繋がるもの。百鬼丸はどろろの感触を知り、どろろは男の名前を知った。その交流、仲立ちをした琵琶丸の存在が、いかな未来に繋がっていくか。
作品のポテンシャルで殴りつける第一話から、キッチリ一話完結の満足感、ミステリでまとめる第二話へ。このお話が持っている力量と熱量、語り口と見据えるものが鮮明になる、とてもいい運びだと思います。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月14日
これで基本形ははっきりしたわけだが、そこから更にどう繋ぎ、転がすか。来週も楽しみですね。
追記 ”眼”を獲得/略奪したあとの百鬼丸の書き方は、凄く鮮烈に刺さると思う。そうなるように、盲の状態を丁寧に丁寧に、凄く切実な身体感覚で積み上げているのが偉い。
どろろ追記。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月14日
盲で聾唖の百鬼丸は、作中常に発話者に視線を向けない。当たり前の人間が当たり前に共有しているコミュニケーションから、人形のように目を背けている。
しかし戦いを経てどろろの事情がわかった時、一瞬目線が通る。
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すんごい小さい芝居なんだが、『百鬼丸は声の方を向かない』という演出哲学が徹底されている分、彼が手に入れた変化、交流されたものの温もりが鮮明に感じられ、とてもいい。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月14日
頬についた”傷”がここでは癒えて、血を流していないのも良い。欠落は取り戻すことが出来るのだ。
取り戻したなら取り戻したなりの地獄が待ってる、ってのが、このアニメのなかなか業の深いところであり、描写の正しいところでもあるが。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月14日
しかしこの”目線”を最後に配置したのは、自分たちが何を描いているかはっきり見据え、欠落(を埋めるもの)に誠実に向き合う意志を強く感じる。凄く良い。