・前説
(HUGっとプリキュア第40話の感想を書く前に、言い訳じみた前説を。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
色んなタイミングのかみ合わせで、感想を書くのが遅くなった。HUGっとのことを考えると頭が混乱して、なかなか一つにまとまらない。
そういう混乱を読ませるのもなんだなぁ、と思っている内に足踏みして二週間経ってしまった)
(HUGっとは難しい。扱うテーマ、表現されたものを自分がどう受け取ったかを適切な言葉で語る時、要求される熱量が高いし、言葉選びにも慎重になる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
加えて野心的な作品に相応しく話題にもなって、色々外野の声も聞こえてくる。混乱は深まる。僕は何を見て、何を見たいのか。)
(ある種の見当識失調みたいな状態でグルグル過ごしていたが、まぁ外野は外野、どーでもいい話だ。自分の感想を、ダラダラ書けばいいという開き直りがようやく固まったので、これから描いていく。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
何を言いたいかはっきりしない言葉が続くけども、よろしくお付き合い。そうやってまとめてくしかない)
・本文
HUGっとプリキュア 第48話を見る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
プレジデント・クライの絶望は、キュアエール以外の全てを停止させた。永遠を閉じ込めた庭園で、花弁を踏みにじりなが交わされる暴力と思い。
世界は絶望に満ち、綺麗事はいつか汚れていく。
それでも。
それでも、私とみんなとあなたの行く末に、光を見るなら。
というわけで、最終決戦である。年明け前に他のプリキュアの物語にケリを付け、野々はなとジョージ・クライの関係性にフォーカスを絞って進めてきた最終決戦。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
『野々はなに救われた人たち』である元幹部の見せ場を経て、二人きりの問答開始である。
前半15分を(いい作画のステゴロ混ぜつつ)ラスボスとのクエリーに回すのは大胆な作りだが、このシーンをやるために終盤の構成があり、坪田さんがラスト11話(!)全てを担当する無茶があった…のかもしれない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
いち視聴者からは、推測しかできないが。
”家”の重圧、社会の格差、ジェンダーギャップ、様々な愛の形。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
色々見据えて様々なものを取り込み(対象年齢に合わせて語りきらず)進めてきたHUGっとであるが、そこに焦点を合わせすぎると像がぼやけるなと、最終二話前でようやく気づく。
現代の寓話であり、社会問題に切り込んだ野心作。
それは間違いないが、それ”以前”に、一少女の一年間を追ったドラマであり、野々はな個人の成長史であった。それはテーマやモチーフよりも、やはり優越する。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
キャラクターがいなければドラマは動かない。この話が輝く未来と可能性を描く話になったのは、野々はながそこに興味を持つ子だったからだ。
だから、野々はなの話をしようと思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
彼女は語られざる敗北者として物語に登場した。第1話冒頭、髪を切りすぎて失敗するシーンはコミカルな笑い場…に見えて、いじめられた過去、いじめから友達を守りきれなかった自分と決別しようとする、失敗と哀しみの入り混じった笑いのシーンだ。
彼女の薄暗い過去をど真ん中に据え、長い影を引きずりながら尺を使って取り回す道は選ばれなかった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
しかし第31話を経て(止まっていた時間が動き出すモチーフは、今回のクライに通じる)なお、はなは何処か負けて立ち上がった自分を肯定しきれず、自己評価が低く思える。
私は負けた。守れなかった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
その自意識はクライと共有で、”ラスボス”たる彼に共感し共鳴できる負け犬の陰りをはなは抱え続けてきた。
クライは暗黒エネルギーの集合体とか、悪たる悪として生み出された悪なる存在ではない。光に引き寄せられ、希望を懐き、だからこそ絶望した、弱い弱い人間だ。
人間VS人間の闘争。ニヒリズムと楽観主義の殴り合い。これに結論が出ないからこそ、色んな場所で色んなスケールの紛争が維持・拡大され続けている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
そういう分かりにくい戦いに、『それでも』綺麗事をいう権利を得るべく、はなは『何者でもない、持ってない』存在としてスタートしたのかな、と思う。
他のキャラクターが職業的サクセスを手に入れ(ほまれ)たり、自分の才能を活かす道を定めたり(さあや、えみる)家族関係を自分なりに再生したり(ルールー)するなか、はなにはそういう分かりやすい”勝利”が訪れない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
それはこの瞬間、再びキュアエールになることで確定する。
第1話で『なりたい自分になる』べく、『野々はなではないキュアエール』を選び取った野々はなが、『なりたい自分』になれなかったジョージの絶望に一度その鎧を剥ぎ取られ、これまでの物語を思い出し、再度『キュアエール』になったとき。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
彼女はその英雄の衣装を、ようやく借り物ではなく肯定できた。
のではないかな、と思う。何しろほのめかしと暗喩、省略と推察の多いお話なので、自分が受け取ったものがどれだけコアを捉えているのか、いまいち確信がない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
しかし自分にはそれしか受け取れなかったんだから、まぁしょうがない。
野々はながキュアエールになるまでの話。それが僕のHUGプリだ。
はなの独覚は『フレフレみんな!』という祈りに乗っかって拡大していくが、これに敵対するジョージもまた、”みんな”を知らないわけではない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
人間の当然として、ジョージも他者に触れ、愛し、傷つけられた。キュアエールの輝きに希望を抱いたからこそ、それが奪われた時の絶望は深かった。
自分が愛した”野々はな”を守ってくれない”みんな”にも、守れなかった自分にも諦め果てた時に、ジョージ・クライは全てを静止させる怪物になったのだろう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
それは『なりたい自分』を追い求めた野々はな(が背負う、百万人の何者でもない人間)の似姿。希望は絶望に相転移し、世界は苦しみに満ちている
それは”プリキュア”がずーっと語り続けてきたことで、なおかつ各作品ごとにその内実は異なる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
『綺麗事のお伽噺』とひとくくりに片付けられがちだが、15年間語り続けた物語はそれぞれ背負うキャラがいて、別々のドラマと視座があって、書き方も違う。
その上で、”プリキュア”はあまり勧善懲悪でもなく
正確に言えば『善を勧め悪を懲らしめる』というヒロイックな原義は揺るがないながら、善と悪をあまりに明瞭に切り捨ててしまう大鉈に懐疑的だったというか、本朝のヒーロー物語は大概そういう、曖昧な疑問が常に付きまとう、と言うか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
初代EDに曰く”闘うより抱き合いたい”なのだ。
ジョージはあり得たかもしれない野々はなに憧れた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
イケメンに惚れられた時点で野々はなは『イケてるお姉さん』という夢を叶えたのかもしれないが、それで世界は救われない。ジョージも救われない。
いじめというコンパクトで切実な問題に負けた過去の野々はなと、世界を背負えず潰れた未来の野々はな
その中間点に今の野々はな、キュアエールに未来を仮想して一年過ごし、ようやく『キュアエール=野々はな』であると堂々宣言できるようになった野々はながいる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
彼女の決意を結節点にして、取り返しのつかない過去は取り返しがつかないまま肯定され、誤った未来は別の可能性に修正されていく。
時間遡行という少し難しいギミックは、再チャレンジの尊さを作品に取り込むための設定だったのかなと、これまた最終二話前にして思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
カレンダー上では未来のことでも、実感として破滅の未来は過去の話しだ。そこに縛られ時計を止めるか、『それでも』と歯を食いしばって前に進むか。
鏡合わせの野々はなとジョージ・クライは、その一点で異なる。そしてはなの前進主義は、時に大鉈のように強力で凶暴でもある。(この獰猛さを上手く滲ませ演じきった引坂理絵さんは、素晴らしい役者だと思う)
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
自分が見据える世界が、世界の全てだと言い切る強さと傲慢。それをあえて背負う覚悟。
そういう点でも、ジョージとはなは鏡合わせだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
ジョージが自分の中の絶望と精子を全世界に拡大したように、はなも(アンリや幹部の苦しみを回想しつつ『それでも』)自分の胸に高鳴る希望を肯定し、世界に拡大していく。
それを救世主の傲慢だと見る目線は、多分正しい。
でもそういう、自分勝手で力強いヒーローが道を示さなければ。ニヒリズムに負けない呑気なお伽噺を誰かが紡がなければ、絶望だけが世界の真実になってしまって、確かにそこにあるはずの喜びとか希望とかは、一方的に塗りつぶされていってしまうだろう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
ジョージとはなの問答は、彼ら二人の精神戦であると同時に、苦界たる世界に児童向けアニメを作り続ける製作者のメッセージでもあるのではないかと、僕は勝手に読んだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
世界は辛いものだと、現実は頼んでもいないのに教えてくる。それに膝を屈し、それが全てだと思い込むときがかならず来る。
その薄暗さを認め、強力さを受け入れた上で、それでもやっぱり、楽しいことは沢山ある。友情も希望も、アクションのワクワクも、自己実現の輝きも、変身の興奮も。それは確かにそこにあるのだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
お伽噺も綺麗事も、嘘ではない。真実だから無条件に信じられるわけでも、世界を一発で変えるわけでもない
人間そのものと同じように、人間が紡ぐ物語も複雑に揺れ、様々な明暗を取り込みながら、一歩ずつその在り方を刻み続けていくもの。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
その結果としてHUGっと全49話がある。確かに一話ずつ積み上げたドラマとエピソード、それが結像した結果としてのテーマやメッセージがある。
それは無駄でも無意味でもなく、薄暗い部分を無視した都合のいい麻酔でもなかった。ジョージが背負う人間的な暗がりを、それでも突破しうるだけの重たさを、野々はなは背負い得た。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
そう信じたからこその問答であり、エールへの再変身でもあったと思う。
エールがたどり着いた答えは全世界に拡大し、全世界の人々がプリキュアへとなっていく(プリリズAD第50話は、まぁそら思い出すわな)
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
老人は老人のまま、男性は男性のまま、プリキュアになる。ここに、HUGっとらしいパンク魂というか、『プリキュアらしさ』の檻をぶっ壊し次の15年に続ける意思を感じる
『女性-児童-戦士』が物語の中心に位置し続け特権化される構造はこれまでの”プリキュア”でも幾度か見据えられ、それぞれに相応しい答えが出されてきた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
前作で露骨にプリキュアだったピアリオはしかし”〇〇キュア”という名前を明言されず、ある種の非嫡出子のような扱いに甘んじたりもした。
あるいはコミックリリーフ、あるいは『若返る』ことでプリキュアになりえていた男や老人が、その形質を変え得ないまま”プリキュア”たりうるというエールの拡大は、僕には少し新しい踏み込みに見えた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
老人には輝く未来がなく、時間が巻き戻ることでしか可能性を掴みえないという結論は、僕には寂しい
それは過去幾度か、他ならぬ”プリキュア”内部で描かれた可能性の形だったのだから、今回HUGっとがそれを刷新することには大きな意味があるだろう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
時間素行と運命の書き換えをメインギミックにしてきたなら、なおのことだ。
スーパーヒーローとして特別に選ばれ、社会と隔絶された戦士として”悪”と戦う。孤高で特別な快楽を重ね合わせられるから、ヒーローはヒーローでいられる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
それは一面真実であり、同時にその特権(快楽)は色々なものを排除してしまう。
それが最終決戦だけに許された一時の夢だったとしても、『選ばれた私達』以外に”プリキュア”の特権を明確に明け渡し、特殊な属性に戦士たる資質を独占させる以外の道を見せたのは、なかなか凄いことだと思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
ここから何が広がるかは、次作、次次作、あるいは10年後を見ないといけないけど。
とまれ、野々はながたどり着いたエールは全世界に拡大し、停止させられた時間は動き出す。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
そもそも、絶望に全てを閉ざしていたジョージ自身が、希望に惹かれたからこそ闇に落ちた。エールに見つけた小さな光は、どれだけ消しても輝き直す。希望は残酷に蘇り続けてしまうのだ。
その諦めきれなさこそが執着であり、人であり人でしか無いジョージ・クライを世界を飲み込む怪物に変えたものなのだろう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
はなはそんな怪物が自分の中にいることを、見落としはしなかった。はなからトゲパワワが出てくる描写は、過去何度か重なっている。
それと同じように、怪物の中の人間、絶望の中でも希望を見つけたいとあえぐアンビバレントを見落とさなかったから、第11話で剣ではなく詩を選んだのだろう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
その経験があって、はなは別れの挨拶に『またね』を選ぶ矛盾に敏感にもなれた。優しくなるということは、つまり強くなることでもある。
研究室で若きトラウムと、世界に広がるエールを見据えたジョージ(でいいんだろう。ここら辺明言しないのがHUGっと流だ)は、一体何を夢見たのだろうか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
彼は未来の自分も、運命の出会いも、それが切断された苦しみも知らない。今のはなと同じように、白紙の可能性そのものだ。
それを描くのが最終回になるのか、また別の景色を描いて終わるのか。一周遅れでようやく追いついた物語がどう幕を閉じるのか、とても楽しみだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
やっぱ最後の一ヶ月を、はなとはなが背負う物語に回しきったのは正解じゃないかなぁ、と思う。結局、彼女のお話だったのだ、HUGっとは。
絶望の中の光、それを求める自分を見つけ得たプレジデント・クライが『帰る/変える』未来がどんな形かも、少し気になる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年1月28日
それははな達が掴み得た未来とは、また違う可能性だろう。それが流入したからこそ、未来が変わり得たとも言える。
さて、どういう決着が待つか。僕のHUGっとが終わる。