どろろ を見る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
国のために死ねと吠えるその口が、血の繋がらぬ兄弟の惨死に涙する。
希った生身の手は、怒りを伝える刃を掴みえない。
間違えきった赤児たちが、胞衣なる城へと帰る。
炎、血。ただ赫だけが待つ母胎へと帰還しながら、修羅に落ちる兄弟。
その傷口に、どんな言葉をかけられるのか
そんな感じのラスト一個前、今生修羅道どろろである。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
当然のように血まみれで殺し合い、親子兄弟の情愛に涙し、取り戻してなお間違える。人の愚かさとどうしようもなさを煮込んだ地獄鍋が、グツグツと音を立てる愁嘆場。
そこでなお人であり続けようとする者たちの、脆く儚い祈りが機能しうるか。
最後の問いかけをエンディングに投げ込むべく、状況を整えていくエピソードだと言える。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
同時に百鬼丸の修羅行、多宝丸の畜生道を伴した者たちが志半ばに散るお話でもあり、一切容赦なく首がもげ、命が散っていった。
この期に及んで残虐に足がすくむなら、こんな話を作っちゃいないわけだ。
戦場は修羅以外の存在を拒み、百鬼丸の隣にはどろろではなくミドロ号が、多宝丸の隣には醍醐の父母ではなく鬼に堕ちた陸奥と兵庫が隣り合う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
琵琶丸が止めるように、刃を握ったものを前に優しさだけを構えて進んでも、言葉を届けることは出来ない。そこで通用するのは身内を守り、敵を殺す刃だけだ。
身内。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
難しい言葉である。
血縁にしろ地縁にしろ、あるいは義や恩、情といった繋がりにしろ。何らか自分の痛みや切実さと繋がり、その苦しみを己のものと感じられるような、特別な他人を表す言葉と言える。
醍醐の兄弟を繋ぐはずの血の縁は、醍醐の国を背負う責任に切り裂かれ、二人を繋がない。
身内ではないからこそ殺し合え、不当に奪われたものを取り返すことが出来る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
一個人の身体に国家の全てを預けられ、奪い返そうと立ち上がれば贄となれと罵られる。『勝手なことを言うな!』の叫びは、全く正当である。
同時に国を襲う旱魃蝗害、戦の気配は多数の死と不幸を呼び込む。
国の頭を司る貴種として、多宝丸にとって国と民は"身内"である。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
それは血の繋がりよりも重い"公"として、親子の行く末を縛り付ける。
かつて百鬼丸を贄に捧げたように、父は多宝丸の危機に兵を差し向けない。民は血よりも重く、繁栄するべきなのは私的な家族ではなく、公的な国民なのだから。
その判断基準がブレないのは、景光の格を落とさずにすむのでありがたい。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
我が子を捧げてでも手に入れたかった、繁栄の夢。そこには景光の私心があり野心があるが、同時に非常に公平で揺るがないものが宿っている。
間違いではない。このアニメに登場する全ての在り方のように。
景光の見ている世界(多宝丸が継承し、人間の方の眼で見据える世界)では、公が私に凌駕されることはあってはならない。あり得るはずがない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
題目のようにそう呟きながら、景光は己の眼で己の過ちを見据え、己の手で差配の扇をへし折る。
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手。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
琵琶丸が上手く説法しているように、それを受けてどろろが上手くまとめているように、己の力、己の手で何かを掴むためのツールはとても大事だ。
同時に、それが制御できることは殆ど無い。醍醐がへし折る差配にはその家紋が刻まれている。何よりも守るべき"公"の象徴を、その手で折る。
息子たちの修羅場(それを生み出した母胎は、間違いなく景光の"公"意識であろう)に足を運ばない責務放棄(それは極大化した"公"としての責務…戦争を優先した結果である)が、どのような結末を父にもたらすのか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
次回の幕引きを暗示するような、凶暴な景光の"手"である。
兵庫の"手"は頭を食いちぎられてなお勝手に動き、ミドロ号の命を奪う。戦争のための道具に己を落としてでも、守りたい平和な国。"身内"である多宝丸と共に夢見た、きれいな世界。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
そこに百鬼丸はいない。『"身内(国民、家族)"じゃないんだから、俺たちのために死ね』という刃を、死せる兵庫は振るう
どろろの"手"は空疎を掴む。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
力がなけりゃ何も出来ない。既存のシステムに文句を言っても始まらない。まずは個人が力を付けて、それを適切に制御すること。
琵琶丸の達観を跳ね除けて積み上がる言葉は、しかし妙に希望から遠く響く。
百鬼丸と多宝丸、醍醐の国に身を委ねるすべての人がたどり着いた修羅界は、力は例外なく暴走することを教える。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
刃を持てば、農民も野盗になる。理想を抱いた火袋も、イタチの裏切りに刺された。そのイタチも、黄金を夢見ながら虚しく死んでいった。
刃は必ず、その持ち手を刺す。だが刃を持たなければ
どろろが幸福にも直面していない矛盾に、百鬼丸はど真ん中から突き刺されている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
かつて"身内"のどろろが岩に挟まれ、死に直面した時。刃の腕もそれを覆う義肢も、なんの力にもならなかった。
まともな腕さえあれば、それを不当に奪われなければと身を焼いた思いが、百鬼丸を修羅界に連れてきている。
二人の鬼神を殺したことで、百鬼丸には腕が戻った。しかし手を使って刃を握る"まとも"な殺人術を、百鬼丸は習得していない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
あれだけ希った"手"は、迫りくる多宝丸の刃を止めてはくれない。なら、もう一度刃の手に戻るしかない。命を掴めない、未来を開けない殺すだけの腕に、百鬼丸は自発的に戻る。
それは決断とも言えるし、極限状況が生んだ強制とも言えるだろう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
マトモな人間は、そんな決断をしなくても良い状況で生きなきゃいけないと、安全圏から言うことも出来るだろう。
だが、刃を血を濡らす土壇場は否定しようなく物語の中にあるし、現実の中にも山とある。あるものを否定しても始まらない
己の命を捧げ、国の危機を購おうとした多宝丸達の決断と、せっかく手に入れた"手"を刃と繋ぎ、斬ることで己も切られる矛盾に身を投げた百鬼丸の決断は、根源のところで同じだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
だがそれを共有したところで、彼らは"身内"にはならない。他人は他人、自分(たち)は自分(たち)だ。
この身勝手な業は修羅界の外でも再演され、農民たちは『百鬼丸からもう一度奪えば良いんじゃねぇの? 国のほうが一人の命より重いんじゃねぇの?』と口にする。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
どろろは当然憤怒するが、"身内"に拡大していく私以上の存在を、常人は想像できない。皆が客観的で公平に、正しくいられるわけではない。
というよりもむしろ、どろろの博愛(に見えるもの)は百鬼丸の"身内"だからこそで、例えば陸奥や兵庫のように"国"に足場を置く立場なら、その愛情は百鬼丸を殺す方向に向いていた気もする。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
奪われたんだから、奪い返してやる。
お互い支え合って生きていくには、乱世は狭すぎる。
琵琶丸の諦観も、借り物の平和の脆さを説く母の言葉も、運命の炎城にたどり着いた寿海の優しさも。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
兄弟が行き着いた修羅の必然をひっくり返すには、あまりに弱い。どろろの個人的自由主義も同じだが、それで良いような気がする。全てを貫通する唯一の正しさを描くには、この話は矛盾が多すぎる。
誰も正しくないし、誰もが正しい。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
欲望と慈愛が渦を巻く曼荼羅の中で、しかしそんな客観を揺るがすほどに命の炎は熱く、渦を巻く。
そんな複雑怪奇な極彩色自体に引き寄せられて、僕らはこの話を見てきた。だから、何か正しい答えを唯一押し出すのも、また違う感じがする。
物語の終わりに、一体どういう感覚を覚えるのか。何が正しかったのかと、乱世の極彩色を絵の具に、僕は結論を描くのか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
まだまだ見えないし、なんとなく判る気もする。どっちにしても、それは視聴者の筆に任されている部分だろう。"どろろ"がどんな物語だったかは、自分で決めるしか無いのだ。
そういう不親切極まる親切に重さを出すには、それぞれの正しさ、涙、人間性を描くしかない。それが無様に蒸発していく矛盾を描くしかない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
お互いに"身内"がいて、それは身を切るほどに大切で、だからこそ"敵"は情け容赦なく殺せる。
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ミドロ号は我が子の姿を見て、情に隙を作る。陸奥は弟が頭を踏み砕かれ、怒りに駆られる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
自分以外の誰かを、血の繋がった愛を思い浮かべる想像力は、反転すれば残虐な刃になる。"身内"を深く愛せるものは、"身内"以外を最も残虐に殺しうる。想像力という人の特性は、菩薩にも修羅にも通じているのだ
そこに祈りを捧げられるのも、無縁の存在だからこそか。縁のない無責任な存在だからこそ、死者を弔う菩提を呟けるのか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
ならその仁愛は、鴻毛のごとく軽い、無意味な優しさではないのか。あまりにむき出しの殺し合いを前に、救済への祈りもまた、矛盾に汚れていく。
主君を運命の決戦に送り出すために、無残な躯となった兄弟に、多宝丸は涙する。その時、鬼神の瞳は閉じている。借り物の瞳ではなく、人間のパーツが感情をほとばしらせていることを、救いと見れば良いのか、欺瞞と笑えば良いのか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
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畢竟極まって、鬼神の身体を身に入れ兄を斬るとしても。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
多宝丸は正しく優しい青年で、人の死に涙する。だから百鬼丸を身内と受け止める訳にはいかない。
国を維持するための肥やし、死んで民の田畑を豊かにする道具と、その人間性を徹底的に切り捨てることでしか、彼の"公"は貫けない。
そうやって公平でいることは、景光が望む後継の資格でもあり。父と同じように、私情を殺し国主たりうる証明でもある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
狂うほど"公"であることが、家族の愛を引き寄せる"私"にも繋がっていることが、多宝丸の不幸であるのなら。
生まれたときから"公"から切断され、その犠牲を約束されていた百鬼丸の不幸は、徹底的に"私"であることに繋がっている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
特別な視界、聴覚、感触。それが生み出す人間感。
奪われた言語。"公"空間に発せられ、共有されることを当たり前とされた人間の叡智を、百鬼丸は最初から剥奪されている。
喋るな、見るな、生きるな。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
その端緒から"公"に押し潰されてきた百鬼丸は、"公"に叛逆することでしか生存できなかった。
寿海という"身内"と繋がり、人の形を模した義肢に祈りを込めてもらっても、それはどろろの命を奪う岩を動かしてはくれなかった。
切り離された"私"であることを貫いても、無力は排除できない。なら最も私的なツールである身体を再獲得することで、俺は俺になり直す。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
その再獲得が"私"の領域でとどまらず、"公"を自動的に転覆させてしまうところが百鬼丸の不幸であり、鬼神に安堵を願った景光(の身体たる醍醐国)の悲惨でもある。
御簾の奥から出て、打ち掛けを脱いで市井に混じった奥方は、己の国の脆弱さを語る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
一人の犠牲に寄りかかった国は、重責を押し付けられた"私"当然の反乱で簡単に揺らぐ。夫が縛り付けられた"公"の極限…戦争とは違う位置から、母は国を見るようになった。
一人の犠牲に頼らず、しかし降りかかる不幸に甘んじて流されもしない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
"私"の集合体でありながら"私"を超えた力と理不尽を有する"公"の、良き側面。
インフラ整備、財政扶助、社会保障、安全保障。それは例えばかつて、多宝丸と兵庫・陸奥が蟹の鬼神を対峙したときに、堂々背負ってみせたものだ。
あの時は狩る側だった彼らは、鬼神をその身に宿し(ある意味、倒すべき敵を"身内"にする行動とも言える)、もう一つの鬼神に噛み殺され、蹴り殺されて果ててしまった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
鬼になること、不具になることが必ずしも、百鬼丸というアウトサイダーの立場を、為政者たる弟たちに分からせるわけではないのだ。
むしろ自分と子供たちがどれだけ断絶し、どれだけ身勝手な祈りを押し付けていたかをしっかり見ることで、母は為政者としての資質を獲得しているように見える。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
同質化(身内化)だけが、他者を理解する手段ではないのだとしたら。より良く離れていくために、人は何をすればいいのだろうか。
火宅なる城は、百鬼丸の失われた故国だ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
生まれたときから家族として、国民として、身内として認められなかった青年と、その犠牲の上に生まれ、喪失故に孤独な"公"たらんと己を押さえつけてきた青年。
その決算は、赤い炎の中でしか果たせないのか。母とどろろと寿海は、修羅に何を施しうるのか。
泣いても笑っても後一回、次回で最終回である。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
念願の両手を取り戻しても、戦をやめることも、刀剣を正しく使うことも出来ない百鬼丸と、父から伝授された正統の刃を鬼に堕ちても振るいうる多宝丸の衝突は、良い作画で支えられよく突き刺さった。
流石に星霜編の監督、と言ったところか。
切り合いのタイミングをずらす"腕"の再獲得(リーチの延長)が、鴨居と柱が邪魔をする屋内戦では仇になるところとか、冴えた演出だった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
マトモな身体を獲得さえすれば、マトモな人間性を再獲得出来る。サイボーグの素朴なヒューマニティ幻想を、長柄の不利が裏切るのだ。ポスト・ヒューマンSFだね。
公と私、公と公、私と私。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
様々な次元で衝突する人間性に、父も子も、母もまた向き合う。赤い血と炎の中で、それぞれの業を背負って居場所を定めた者たちは、"身内"と定めた誰かに、何かを届かせうるのか。
全てが問われる幕引きが、次週やってきます。
非常に難しい問題を複数抱えた物語運びに、どう答えをだすのか。あるいは出さないか、出せないか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年6月19日
そういう物語全体の総評と同時に、人が人として生き得ぬ乱世でそれでも人たろうとしたキャラクターたちの生き様を、最後までしっかり看取りたいと思っています。来週も楽しみ。