イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

映画"天気の子"感想

 ・19/07/23 本論 

新海誠監督最新作、"天気の子"を見てきました。
"君の名は。"のギガヒット(というのも生ぬるい、暴力的社会現象化)を受けてどういう映画をとるのか楽しみでしたが……いや、難しい!
映像と音楽のクオリティ、心象と風景がシンクロする流れの気持ちよさ、悪魔的に美麗な世界描写は、凄まじい映像の快楽を脳髄に注ぎ込んできます。
キャラクターもチャーミングで、自分にやれることを必死にやっていて、少なくとも僕は応援できました。

しかし同時に、今大々的にパッケージングされているような『この夏最高の感動をあなたに……』的な青春デートムービーとも、"君の名は。"以前の内省的で後ろ向きな『いわゆる新海誠作品』とも、また違った結論とヴィジョンを思い切り投げつけてくる、爆弾のような映画だとも感じました。
気づかなければファンタジっくな恋愛物語として消費できてもしまう(それを許すくらいの偏執狂的映像コントロールが果たされている)けども、同時にそれで飲み込むには危うい棘が、随所からはみ出して喉を焼く。
そんな作品であると感じました。
『"君の名は。"の新海誠』としてもう生きるしか無い監督が、その延長線上に望まれるものを最大限誠実に達成しつつ、今彼が見据えている世界のあり方、そこでどう生きるのかという吠え声を、ゴツゴツとエゴイスティックに投げ込んだ作品でもあります。
そんな物が見えてしまっているのなら、飲み込みやすいオーソドックスな味付けよりも、賛否両論あろうが"この結末"になるしかない。
腹三段に切り裂いて臓物を見せるような、それを綺麗なお花と光で飾って隠蔽するような、なんとも名状しがたい殺気と臭気の漂う、いい映画でした。

僕はこのくらい、牙をむき出しに堂々噛み付いてくる作品が好きなので手放し気味に評価ですけども、安心とか癒やしとかを求める場合、あんま似合いの映画じゃないな、と思います。
これも僕が勝手に感じたことですけども、少なくとも今大々的にぶっこんでる宣伝キャンペーン、それが積み上げる"君の名は。 セカンドシーズン"的なオーラからは、中指立てて尻を捲った映画な気がします。
ここら辺、ほんと人によって感想が異なるところだと思いますので、是非に実物を劇場に見に行ってください。
RADWIMPSの二時間PVとして見ても、十全満足できる質はしっかり保証します。
以下、ネタバレ込みの感想。

 

 

 


というわけで、奥歯にモノ挟まったような物言いを止めて本感想行きます。
『こりゃー、"君の名は。"期待して映画館行った人、全員クビひねりながら出てくるだろう』と思いました。
『俺たちの新海だー!!!』と古参気取りが騒ぎ立てるには、あまりに大資本と上手く寝て、マスが求めるものにしっかり答えて、しかしオチとカメラが捉えるものはあまりにアナーキーでエゴイスティック。
『誰が得すんだよだよ!』と怒られたら、迷いなく『俺が得すんだよ!!』と返せるくらいには好きですが、アニメーションに何を求めるかは千差万別、そしてそれぞれ意味と価値のある欲求なわけで。
見所、物語的分解酵素、食べたい味付けによって何を見つけるか、どこが面白いか(あるいは面白くないか)は全然異なる、異形の大作映画だと思います。

作品の話に行く前に自分の話しますけども、今回はいつもの感想からちょとズレた形で書こうと思います。
普段は僕、極力『目の前のアニメが何であるか(何であると、僕には感じられるか)』というのを、あくまで明瞭にアニメに描かれている(と僕が受け取ったもの)を基準に描いてます。
しかし今回は、『俺が新海誠の本音、世界で一番分かってるマン』になり、本来なら判るはずのない『作者の真意』『作品に込めたテーマ』を身勝手に推測しながら、色々垂れ流す方向で行こうと思います。
可能なら、明白に描かれたものに立脚して自分が受け取ったものをいつものように語りたいんですが、今回は作品の表面の奥に分け入り、隠されている(と僕が感じた)ものが凄く心に突き刺さってしまったので、そっちを軸に話していきます。
勝手にオカルトを読み取った"ムー"的な与太話と思って、しばらくお付き合いください。


さて、最初に結論からいうとこのアニメ、デートムービーの皮を被った社会批評だと思います。
令和を重たくどす黒く覆い続ける社会と経済の雲から、じとじと滴り続ける重たい雨。
居場所なく世界の片隅に追い詰められ、"大人"が代表する既存秩序を一切信用せず、またそれに愛されることも信用されることもなく、社会を道連れに心中を果たす主役たち。
世界と個人の天秤を、極限的に個人に割り振った孤独な魂たちが、自分がぶっ壊した水まみれの東京の中で、身勝手にかすかな光を見つける物語。
そこには崩壊しかかった社会秩序の現状と、それに救われないやけっぱちの弱者の生き様が、色濃く刻まれたいるように思いました。
方向性としてはJ・G・バラードの諸作品(特に美しき大破局としての"沈んだ世界"、文明批判としての"クラッシュ""ハイライズ""スーパー・カンヌ")が、一番近いと感じたかなぁ……。

お話として綺麗なオチを目指すなら、天上の冥界に登っていった陽菜を帆高は無事取り戻し、世界も天気を再獲得してハッピーエンド、というところでしょう。
しかし帆高は世界と個人の天秤を極限的に個人に振り切り、世界を水没させて陽菜を取り戻す。
個人を贄に捧げて繁栄する世界なんぞクソ食らえとばかりに、あるいはそういう形でしか世界は回転し得ないのだからぶっ壊すとばかりに、彼らの決断は永遠の雨を東京に降らせ、水没させる。
世界が元々狂っていたことを証明して、作品は終わっていく。

そこには警察だとか身分証明だとか就業だとか金だとか、既存の社会が当然視するシステムからはみ出した(背中を向けた)キャラクターが、そう生きざるを得ない認識が強く宿っている。
作品は帆高・陽菜・凪の『子どもの世界』と、圭介・夏美の『半大人の世界』、警官やスカウトマンの『大人の世界』に分断され、色んなモノが切り捨てられています。

そう、このお話むっちゃくちゃ切り捨ててるんです。
天気の子を取り巻く超常現象のロジックはふんわりして特に説明されないし、大人サイドはとにかくクソみたいな圧力と無理解をぶん回して子供をいじめるだけの書き割だし、帆高が"島"を出たくなった訳も、天野家に父親が不在な理由も省略される。
それは作品としてのヴァイタルゾーンにも踏み込んでしまっていて、波長が合わない人を片っ端から切り捨てる雰囲気映画の領域までぶっ飛んでもいるわけですが、同時にそうやって切り捨てて書きたいものが、僕には妙に腑に落ちるのです。
青年映画にありがちな『大人は判ってくれない』という季節性の絶望ともまた少し違った、あまりに断絶してしまった状況を見て見ぬふりする社会への、言葉にならない(してしまったら、乗っかってる大資本に正面から喧嘩売ることになるので屈折させてる)怨嗟と憎悪と殺気みたいなものが。

帆高と陽菜はビッグマックを奢ってもらい、自室に入ってチキンラーメン満漢全席を平らげ、ラブホの飯で豪遊する。
それは一見子供たちを優しく繋ぐように見えて、世間一般のクラス分けで言えば『負け犬のメシ』でしかない。
まともな調理器具があって、暖かい家庭的な飯が食える『半大人』の編集プロから、帆高は距離を取り、陽菜との時間に身を投じ出す。
理由はさておき(『そこが一番大事だろうがお話として!』というツッコミは、よく分かります。正統だとも思う)、彼は大人が当たり前に用意した世界では窒息し、世間的には『監察医呼びます?』と狂人扱いされる"水"の領域でしか生きていけない。

あるいは陽菜が体を売る寸前まで追い込まれた雇用の破壊、夏美がラッタッタ大暴走にまで追い込まれる就職難も、子供たちに糧を与えない。
金を稼ぐには3400円で運命を売っぱらって、おっぱいが水に透けてしまうほど可能性を身売りしないといけない。
まともな雇用、まともな未来、まともな世界は『子供たちの世界』からはあまりに遠くて、『大人たちの世界』が猫なで声で、あるいは怒声とともに押し付けてくる『こうすれば幸福に生きられるよ』というモデルと、指切りできる現状なんてどこにもないわけです。

帆高に意識して背負わされた『童貞臭さ』とは裏腹に、彼は非常に処女的な存在です。
幾度もアスファルトに頭を擦り付けられ、顔面をぶん殴られ、黒光りする暴力を突きつけられる。
こっちの言い分を何も聞いてくれないまま、あるいは見て見ぬふりをしながら檻に閉じ込めて、大事なものを狂気扱いして、暴力的に気持ちよくなられる。
3000円ちょっとで色んな人の笑顔引き換えにと、心身の変質を売り飛ばす『100%の晴れ女』稼業と、スカウトマンや警官が何度も何度も何度も擦りつけてくる拳の硬さは、多分同じ場所から出ている。
クソみたいな世間に陰日向にレイプされ続け、吸い殺されて一切かまってもらえない犠牲者としての絆が、多分恋心以上に帆高と陽菜を繋いでいる。


そして大人たちは、軒並み彼らと和解することに失敗していきます。
『自分と似ていて、だから手を差し伸べた』と述懐する"半大人"はしかし、帆高の"家"には(最終的に)なってあげられない。
他人のガキより自分の仕事、とっとと大人になれよと五万円渡して、帆高を窒息させる"島"に帰還させる。
それは『イメージ』でクソみてぇな判断を押し付けられ、娘から切り離されている圭介自身がかつて(そして今)身を置いている、当たり前で息苦しい『普通の社会』に他ならないんだけども、そうやって世間と妥協して加齢臭撒き散らしだした圭介は、帆高を切り捨てる。
彼より『子供』よりな夏美は陽菜の手を跳ね除けはしないけども、天気の子が人柱であり、文字通り身を削って金を稼いでいる現状を指摘します。
でも指摘してもらったところで、もうその段階で陽菜の身体は決定的に水に変わってしまっていて、取り返しがつかないほどに冥界に近づいている。

それも無理からぬ事で、特に警官に逮捕されてからの帆高のクレイジー加減は舌打ちも納得の超高温で、それを世界に解ってもらおうとする努力もしない。
瀧くんが乱暴に放送をジャックしてでも、色んな人を隕石落下の危機から救おうとしたのとは正反対に、彼は狂ったように走り回り、その姿を透明なカメラで切り取られる。
発砲を捉え日常をぶっ壊した監視カメラ。
あるいは、線路を疾走する帆高をクスクス笑いながら、おそらくSNSにアップロードするだろう透明な眼。
彼らは帆高が出会った陽菜の不思議な物語(巨大な歌舞伎町では打ち捨てられてしまった曖昧な過去の方に、より強く繋がっているもの。だから、東京は江戸以前の武州の姿を取り戻す)がどんな痛みと辛さを持っているか見ようともしないし、手も差し伸べない。
彼らが"東京"を水に沈めるのは、ある意味下流社会からの暴力的反動であり、オカルト的手段に頼った二人きりの首都テロルとも言えるでしょう。

一瞬の気の迷いで手を差し伸べた圭介は、ファックした後いそいそお金を差し出す買春の当事者のように、手切れ金を渡してオカルト的ヤバさから距離を取るようにする。
世界の真実に接近しつつ、『これが嘘だって、俺たち大人は全部わかってんから』とニヒルに笑って、安全圏に逃げようとする。
そのお金から、ラブホで豪遊する『子どもの世界』の料金が出てるのは、"ホ込"って感じで最悪に切れ味鋭い演出でした。
やっぱ帆高くん、男娼として描かれてるよなぁ……。


最後の最後で圭介は、"大人安全圏"に逃げつつもかつて同じ傷を背負った存在として、愛するものを先に失った負け犬として、警官に蹴りを打ち込む。
凪先輩も女装に身を包んで、物理的な距離を全てぶっ飛ばして『オメーが姉貴ぶっ殺したんだから、世界ぶっ殺しても取り返してこいよ!』と吠える。
あそこは背の小さな完璧超人として、物語の進行に超協力的だった凪先輩がただの子供、ただの弟、ただの人間になるほぼ唯一のシーンで、多分このアニメの中でも一番好きです。

そうやって飛び込んだ非常階段は錆びていて、乗っかった瞬間に奈落に落ちる。
もう誰も帆高を追えないし、帆高も階下で繰り広げられている無理解と暴力的秩序の押しつけの既存世界に帰ることは出来ない。
"君の名は。"では再開と再接続のラストステージだった階段は、今作では分断と飛翔を意味する境界線へと変化し、水没東京に長く伸びるジェイコブズ・ラダーとして、死の世界を照らしている。
捻った見方をすれば、そうやって現実に飲み込まれて帆高は死んでいて、あの後の世界は陽菜を生贄に"陽気(≒下流社会を食い物にアップドリフトする"景気")"を取り戻し、『キチガイのガキ、死んじゃったなぁ』と嘲笑われているのかもしれない。
そういう想像をさせるだけのヤダ味が、開幕15分の歌舞伎町地獄変、生々しいネカフェ難民の描写とスカウトマンの悪意、武器であり破滅の呼び声でもある拳銃との出会いには、みっしり詰まってもいます。

島から東京に向かう船の上で、気まぐれに伸ばした手と同じように、圭介の暴走は帆高を旅立たせる。
しかしその先に待っているのは、最初の出会いの後の一瞬の家族幻想でも、生きる意味との運命的な出会いでもなく、東京すべてを飲み込む破壊の決断なわけです。
圭介は滅んだ後の東京で、三年間死んだ目をして"島"に幽閉されてただろう帆高に、『気にすんな』という。
『たかがガキ二人、世界滅ぼせるわけねぇだろ。思い上がるな』と。
それは自分にはおそらく出来なかった決断を果たし、愛する人と二人(+凪と一部の個人的友人)で生きていける青年の辛さを、少しでも軽くしようとする心遣いなのかもしれない。
あるいはあの時背中を押したことが、東京を永遠の雨に閉じ込め、天上に隔離されているはずの"死"を解き放ってしまった重たい因果から、自分を遠ざけるための魔法かもしれない。

その気休めに目を閉ざそうとしたところで、階段の踊り場から(現実にしろ幻想にしろ)飛び上がった事実(その踊場での再開で終わった"君の名は。"に続く物語)は、世界と引き換えに手に入れた女の子の祈りを見つけてしまう。
陽菜が自分の死を見せるシーンとの同ポジで、滅びきった東京の姿と逆転した身長差を見せる構図は、おぞましいほど巧いラストへの動線と言えます。
自分のために祈れ。
百万の幸福を全て水に沈めて、生贄の生き方を拒絶しろ。
水が逆向きに吸い上げられ、既存の秩序と常識が逆巻きになるアナーキーと契約した少年少女は、既存の世界が崩壊した後でも生き続けることを選択するしか無い。

事実、彼らは世界を殺し生き延びた。
世界を活かすだけの説得力、既存の"天気"に巻き戻す意味を、帆高は獲得できなかったし、『大人』たちは与えられなかった。
その反社会的でエゴイスティックで、異常な殺気と質量に満ちた決断が、やハリこのアニメの心臓なのではないかな、と思います。


序盤、歌舞伎町は異常な量の商品広告に満ちています。
ビールにチキンラーメン、ポテチにソフトバンクの犬。
ハリウッド産のヒーロー映画も真っ青な、タイアップ広告の嵐には『お-、新海も遂に資本と寝たかぁ……売れるってのも大変だねぇ……』と訳知り顔で呟いていましたが、その過剰な消費の強調は、それら全てが沈んでしまった"決断後の東京"を際立たせるために、微細なディテールとして入れ込まれていたように思います。
うざってー広告が血流となって回転する、高度資本主義欲望社会は、少なくとも東京においては(多分『100%の晴れ女』として触れ合っていたいくつかの幸福、いくつかの命を巻き添えに)破綻した。
『足すな、奪うな』と祈ったところで、容赦なく搾取して回転するキャピタリズム・マシーンは、『みんな死ね! 俺達は生きる!!』という帆高の呪詛に巻き込まれて、世界に元々満ちていた狂気に食われた。
俺たちに金とメシと居場所を与えず、身分照会と監視カメラと『公妨!』の叫びとアスファルトの硬さと顔面の痣ばっかり押さえつけていた『大人の世界』は、全部終わった。

そこに爽快感は覚えず、少しの罪悪感を背負いつつも、『生きる』というあまりにシンプルで動物的で真摯な欲動を最優先に、自分が助けた少女に会いに行く。
それが結末となるこの映画は、それこそ自分たちが水に沈めた大量の広告に今乗っかって描かれているイメージとは、相当に違う映画のように感じます。
それをど真ん中に据えて、都合のいい救済や収まりの良い結論を投げ売ってでも、この結末にたどり着かなければいけない"眼"が、新海誠の中にあった。
当たり前に再獲得されるように思える"陽気"の下で、誰にも手を差し伸べられず優しくもされず贄になっていく存在を、新海誠は見つけてしまった。
そして彼らが"セカイ"に反撃し、もともと切り捨てられていた社会を破綻させる決断を肯定するかのように終わることを、作者(達)は選んだ。
凶暴な話だと思います。
伊藤計劃"虐殺器官"にも似た、自棄のやん八感を覚える。


一つ誠実なのは、帆高をあんま英雄としては描いていないところでしょうか。
あの子は舌打ちされるのに十分な狂人で、自分の困窮を社会に訴え出る手段も勇気もなく、どんどん子供だけで身勝手に自閉して、対話もなく世界を殺してしまった。
それが持つ危うさと、彼らのラブストーリーの足下で腐敗する水死体を、この映画は切り取れてしまう。そこを映さないのが意図的な隠蔽か、狙い通りの強調なのかは横に置いて、確実にあの東京には死体が埋まっている。たっぷり人柱(陽菜をそうしたくなかったもの。帆高が拒絶したかったもの)が存在している。
だから立花富美はもう一度顔を出して、情緒ある邸宅が水の底に沈み、味も素っ気もないマンション(昭和レトロで丁度が統一されているところが、良いノスタルジーの腐敗を感じさせて最悪で最高の美術)に身を置くしか無かった。
上手く世界と繋がれるかもと思えたあの夢は、確かに現実で、自分たちが殺した。
その最終報告書を、二年越しに静かに手渡してから、ロマンスは終わり天の梯子は二人を照らします。

踊り場のその先へ進み、世界救済ではなく世界破滅を呼び込む物語に、瀧くんも三葉もいます。
優しい店員のお姉さんが相談に乗ってくれる世間を、帆高は結局信じきれずに陽菜を救って世界を殺した。
あの水の中にもしかしたら、"君の名は。"のキャラクターがプカプカ浮かんでるかも、という想像をしてみると、これはまぁ悪趣味な展開です。
あのマンションに瀧くんが顔を出して、生存を確認させてくれればある程度安心できるのに、それはしない。(7/24追記。よく見ると、三葉と結婚した瀧くんの写真が切り取られてるらしいので、生存はしているようです。しかしまぁ、名前と顔のある主人公以外の幸福は、どっしり水底に寝ているでしょう。そういうカメラの外側の説得力も、このアニメの解像度は連れてきてしまうと僕は思う)
帆高が選び取った崩壊と生存は、そういう作品世界の葬式を無言の内連れて来もするわけです。

贄になって消えていく存在を、見もしなければ聞きもしない。
そう『大人』を指弾した帆高自身が、過去作の主人公をもしかしたら殺し、確実に沢山の幸福が沈んでいる東京の声を聞いていない。
その身勝手は、RADWIMPSのアガる音楽にも誤魔化されることなく(というか"大丈夫"の歌詞は、エゴの地獄を丁寧にすくい上げている)フィルムに焼き付いています。

それでも、それを選ぶしか無い。
それでも、それを語るしか無い。
そういう切実さがあって、この結末なのなぁと僕は納得してしまったし、そこにファンタジーデートムービーの表皮で隠しきれない生臭い同時代性を感じ取ってしまった。
だから、いい映画だな、と思います。


(その上で、僕は帆高の決断を肯定はできない。
長い梅雨が世界の雰囲気とシンクロし、作品への没入感を後押ししたように。
京都で起きた事件が、個人の決断に社会を巻き込みすぎると何が生まれるかを、あまりに生々しく突きつけてきた。
『俺のために死ね!』とガソリンで吠えた容疑者が、果たして何を背負い、何に追い込まれ、あるいは何から耳を塞いだのかは、今後調査と裁判が進展する中で見えてくるものであり、今何かを語るもんじゃない。
だから容疑者と帆高がどれほど重なり合ってるなんか、なんも言えないけども、ただ『世界殺し』の決断が何を生み出したかという重たさ、生々しさの一点において、主人公がなした決断は絶対に肯定できない局面に、僕は置かれている。

あの美しい崩壊の風景の下には、帆高と同じように誰かを愛し、陽菜と同じように本当はただただ生きたかった百万の人がいる。 
そこへの想像力を投げ捨て、水(あるいは火)を社会に投げ落とすことで何が生まれるかを、僕はどうしても想像してしまう。
それが可能なくらい、この映画の微細な表現力は世界の形を的確に切り取っていたし、各々の命の息吹を感じ取れた。
だが、帆高はそれを信じられなかったし、帆高が突き出す個人的な幻想を、資本経済と警察秩序は顧みもしなかった。
それは『まぁそうなるだろうな』というシリアスな重たさと生々しさ、不都合なリアリティを確かに宿していた。

だが、それでも。
だから重要なのは、どうやったら帆高に銃と拳ではなく、信頼を届けることが出来たかということで。
『オカルトキチガイが、勝手に突っ走って迷惑かけたよwww』と、透明なカメラでネタにすることが破局を防止しないことは、同じくこの映画にしっかり切り取られている。
錆びついた踊り場から飛んだ帆高が、愛と生にたどり着いたのか、失楽して死んだのか。
殺されたのは個人か、世界か。
殺されるべきなのは、個人か、世界か。
かつてMinoriセカイ系ブームの真ん中にもいた監督が、『世界に生きる価値なしッッッ!!! 死んだとしても、人は生きるッッッ!!』と本気でぶっ込んできたのは、クリエーター個人史としてなかなか面白いところか。

ラストに投げ込まれる苦い疑問符をを口の中で転がしつつ、どうすれば『これ以上奪われることなく、与えられることもなく』という切実な祈りを受け取り、まだ"こちら側"に体重を預けられるのだというかすかな光を共有できるのか。
どうすれば、世界に確かに存在しているはずの歩み寄りを信じて、『世界か個人か』の二択ではなく、まぁまぁマシなオルタナティブで/を繋ぎあえるのか。
今は疑問でしかなく、ずっと答えなどでないかもしれないけども、それは今後も考え続けなければいけないだろう。
そこが一番、このアニメで納まりが悪いところだと個人的には思う。
答えが出ない問いを最後に投げて終わるのは、エンタメっつうかアートよね、やっぱ。
それでもエンタメとしてスカッと消費できちゃうルックの良さで、全体貫通できるところが『"君の名は。"以降』の新海誠の怖さかな、とも思う。

この()でくくった文字列を書いて残すべきかは凄く悩んだけども、やっぱり書いておこうと思う。
作品読解とはそこまで関係のない話なんだけども、同じアニメーションという"場"で凄く悲惨に相反してしまった、同時代性の呼応に、僕は凄く名状しがたい感情を抱いている。
これをどう評していくべきかは、まだまだ全然形にならず、考えると頭が焼けるように、土砂降りの雨の中のように乱れて苦しい。
考えすぎと言われようが、それでも考えずにいられなかったことを、目汚しながら残しておく。)


自分が見たものと、実際にそうであるものの境界線は思われているより曖昧だとしても、見つけたものに対する語りに熱が入りすぎました。
映像表現としてはライティングとレイアウトがあらゆる局面でほぼ完璧にコントロールされており、明暗と立ち位置、境界線に注視すると、全ての情景が有機的に組み上げられています。
色恋に関しては"先輩"である凪が、クソ童貞(であり、捧げられる巫女として処女でもある)帆高より『高い位置』を取って恋愛指南をするサッカー場のシーンとかは、その後『後の義兄』としてフラットな視線で交流する動き含めて、非常に鮮烈です。

相手と心の距離がある時は、しっかり間合いを明けて間に敷居を作る。
間合いが詰まった後は、みっしりとした水のような一体感と多幸感で情感を作る。
雨というフェティッシュに多層な感情を載せて、時に銃弾のように激しく、時に窒息するかのように重苦しく使う。
晴れ間を露骨なカタルシスとして使いつつ、それを否定することで物語が終わる……んだけども、自分の範囲だけを小さく短く照らす祈りのジェイコブズ・ラダーは、最後に描く。
圧倒的に美麗な背景に、じっとりとドス黒い感情も含めてキャラの情感がしっかり宿り、クオリティに負けない饒舌が生み出されていたと感じます。

どっちかというと下層より、子供よりで、水のツケを払わされる贄の側に近い編集プロダクションが半地下で、帆高に水葬される東京を半歩先んじて水に沈む所とか、やっぱ良いなぁと思う。
あそこに刻まれた柱の傷も、みんなみんな水に沈むのだ。
そうして手に入れた光のほうばっかり向いて、僕ら雨を打ち払うものの事情も哀しみも聞き入れないのなら、そんな世界はいらない。
たとえ優しい夢を一瞬見せてくれた場所だとしても、愛する人のため死ね。
異常な生活感を『守らなければいけない理由』ではなく、『殺してしまったものの名残』として使うのは、表現力のエグい使い方だ。
最後に、少し大きく綺麗になってしぶとく復活し、居場所がない帆高最後にして最初の"ホーム"になってる所含めね。

こういう無言のメッセージを精妙に作りすぎた結果、ストーリーのバイタルパートを大胆に切り飛ばし、色々つながらねぇふんわり感が宿ってしまっているのは、人によっては悪罵ポイントだと思います。
しかし自分は奇っ怪に作品と共鳴してしまって、えぐり取られた部分をなんとなくの想像で補ってしまう思い入れがもう生まれてしまっているので、『だから0点!』とは言えないのよね……。
最初の占い師への取材が、大体の展開と結論をしっかり"占ってる"所とか、結構好きな運びよ。
そこに預けるにしては、扱いが軽いかもだけど。

じっとり生臭い性搾取のオーラがあらゆる場所にあって、それが性別ではなく年齢と立場にムンムン漂ってるのは、隠微で良かったです。
ポップなおっぱい視線でからかってたら、バスローブを脱いだ陽菜がもう生者じゃないことを確かめる痛みに直結する所とか『オラ夏休みで映画見てる中高生、安心できるポイントだと思って体重預けっと足払いだぞ!』と言わんばかりの意地の悪さで、最悪に最高でした。
ヒロインのセックスを窃視する立場だと思わせておいて、むっちゃ何度も象徴的強姦されまくる帆高のスタンスとかも。
そこから反逆するために掴み取った鉄砲も、魔法の力で落ちた雷鳴も、全部銃刀法違反でクソ社会にクソ前科ツケられる仇になってくんだもんなぁ……"わが手に拳銃を"とは行かんかったね。

30分毎に『陽菜との出会い』『幸福の破壊』『決断』『死せる世界とともに』と、話の潮目が大きく変わるデカいシーンがしっかり配置されてる時計の使い方とかも、いい塩梅だなぁと思います。
30から60分にかけての多幸感がホント心地よくて、クソみたいな社会に軒並み裏切られ、全てが上手く行かなくなっていく前振りとしてイヤってほど機能してる所とか、情感の繋ぎ方としてはなかなかスマートだとも思う。


他にも『水に包まれたセカイは"ビューティフル・ドリーマー"、雪と静寂に包囲された東京は機動警察パトレイバー 2 the Movie"で、押井守のファンムービーなんじゃないの』とか、『三葉がバイトした輝く夢の新宿を切り取る『高い視線』と、歌舞伎町のどす汚れた欲望と孤独を切り取る『低い視線』で立体視される、東京の都市論』とか、いろいろ喋りたいこともあるけど。
なかなか不思議なお話でした。
ほんといろんな感想が出るアニメだと思うし、自分が見つけたものは相当キチった電波受信だとも思うけど、そういうモノを感じてしまったのだからしょうがない。

自分たちを排除し守ってくれない、既存社会を維持するために死ぬ意味なんて、どこにもない。
世界を殺せ。
テロルとエゴイズムの危うさ、醜さを美麗にクローズアップしつつ、叛逆の物語として突っ走ったこの怪作を、僕はやっぱり凄いと思うし、面白いとも思います。
好きか、と言われると難しいし、よく出来てると言ってはいけない気もする。
それでも、凄い切実なものがみっしり詰まった、体温と血流のある映画だと思いました。

僕がここで語ったものにどれだけ妥当性があるか、確かめる意味でも。
あるいは単純に、いい映像にどっぷり浸る意味でも。
もしくは社会現象の舳先に立ってしまった男が、"次"に投げつけてきたとんでもない爆弾を身に浴びる意味でも。
ぜひ映画館で見てみてください。

 

・19/07/24追記

個別のシーン読みに夢中になりすぎて、全体像に関して思う所を抜かしていたので補足しておく。
このお話は個人VS世界の闘いであると同時に、非モダンVSモダンの話でもある。
資本経済、法秩序、社会構造。
フランス革命以降のモダンが帆高を包囲する中、モダンはその意味と行動原理を一切彼に伝えない。雨ばかりの世界に往年の輝きを取り戻すべく、お前らを差し出せ、としか言わない。

モダンが当然視している価値と権利が、世界に切り離された非モダンには一切届いていないし、説明も接触も(届く形では)果たせていない。そういう絶望的な断絶は、子供たちが大人と半大人に接触(あるいは離脱)していくなかで、マニアックな解像度と体温を込めて幾度も描かれる。
当然の繋がりではもはや追いつけない無理解に、三人きりの子供たちは追い込まれてしまっていて、その決断が東京を水に沈める。モダンの象徴たるビル街も橋も資本経済も、死体と一緒に水底に沈んでいる。

カメラは水死体を描かない。
そこで新しい形で作られた交通、生活のしぶとさと輝き、水に沈んだ東京の魔的な美しさを切り取る。それを新海誠が隠蔽したかったのか、はたまた描かないことで際立たせたかったのかは、新海誠ならぬ僕には分からない。
だがそこには、不在の死体が確実に眠っている……"眠っている"というきれいな表現はやめよう。腐敗し、唐突に何も見ず何も聞かずに日常を切断された理不尽に、誰も届かない怨嗟を溜め込んでいる。(僕らはあの地震、あるいはあの地震、もしくはあの台風やあのテロリズム以降、そういうモノを身近に見ているし聞いてもいるはずだ。たとえあなたが『この夏、一番の感動……』としてこのアニメを蕩尽したとしても、現実のあなたから外延する現実にそれが起きていた事実を否定はさせない)

それが作中で描かれようと描かれまいと、個人の決定による社会殺戮はそういう生臭い外辺を生み出すし、帆高のラブストーリーはその重たさを多分背負いきれていない。
エモで押し流しきれないもの、押し流してはいけないものはおそらくあると、僕は思っている。思っているからこそ、描かれない水死体が気になるのかもしれない。

 

ムー的オカルトを戯言と切り捨てる世界で、永遠に続く雨は科学的な装いを整えられ、東京は無力に水没していく。
中世的魔術領域に接合し、残酷に前に進むと同時に後ろに下がりもした非モダンは、モダン・トーキョーを征服したのだ。
そのからくりを知っているのは世界でたった二人で、己の罪を告白したところで、帆高を包む優しい個人も、彼をかつて切断し三年後無関心に接続し直した社会(ツギハギを当ててなんとか駆動する、駆動してしまうモダン)は、かつて彼をアスファルトに押し付けた法暴力を行使し、彼を大量殺戮者として断罪はしてくれない。

法秩序が正常に機能し、あるべきものがあるべき場所に戻る可能性もまた、天上の冥界から降り注ぐ水(死の逆流)によって破綻したのだ。
あるいは、当たり前に営まれる擬モダンな水没東京の当然の秩序から、オカルティックな二人は切り離された、とも言えるし、一瞬の晴れ間を呼び込む生贄の痛みと同じように、他人が抱え込む個別の世界律など、巨大なモダンは気にせず、ズタズタになろうが駆動する、とも言える。
どちらにしても、世界の形を決定的に作り変えたとしても、彼らはモダンの外辺に置き去りにされた非モダンとして、世界の裁き≒秩序回復から遠い場所に置かれる。そこに置かれるのが望みだから、自分のためだけに祈って世界は壊れたのだ……と言うほど、多分帆高は自分の祈り(=他人への呪詛)の意味に目を向けていないが。
その獣的な盲目が、むしろこのアニメのいいところだとも思う。

そういう孤立と殺戮を選び取り、他者に満ちた社会に押し付けるにしては、帆高は世界と対話をしない主人公である。正確にはポジティブな対話をしていても、その後に身分証提示と捕縛術と手錠の形でやってきたネガティブな対話の方に目が行って、自分がモダンの一部になれる可能性を切り捨ててしまった。
もうちょい人の話を聞いて、世の中の仕組みを考えていれば、別の道もあったろうに。
そういう高所からの物言いは、非モダン領域に追放された(自分からモダンな"島"に窒息されるのを拒み、逃げ出した)彼にはもう通じない。

 

この作品の構造的欠陥とか情緒的不道徳を、自分の中(に反射する、作品の表皮)に確認しつつも、僕が"天気の子"に一定以上評価をしているのは、その切羽詰まった愚かしさ、新海誠デザインではない『醜悪な貧困』は映画館を抜け出した世界の中に今、みっしりと埋まっているだろうし、そこにアプローチできない大人=東京=モダンの無力さは同時代的だな、と感じたからだ。

笑顔で食べるが、レディメイドで栄養バランスもあまり良くない食事とか。
陽菜がそれを"温かい食事""みんなで楽しく食べるもの"として調理する、涙ぐましい努力とか。
本当に寄る辺なく冷たい、雨の中の居場所探しとか。
物語のバイタルパートを切り捨ててでもなお彫り込みたかった、『美麗なる貧困』の圧倒的な質感。

その量的爆発は不実で不確かな語り口を乗り越えて、非常に生々しくシリアスなものを切り取っている。(それを新海誠が狙って、作品世界をプロットではなく情景で満たしたのか。はたまた映像作家としての欲望赴くままに、アンバランスで穴だらけの映像物語を組み上げたかは分からない。)

ただ結果として、怪物的な美麗さと繊細さに満ちた『美麗なる貧困』が、帆高のクソみたいな無理解と断絶に言外の説得力と時代生を与えてしまって、『あ、ありうるな』と僕が思わされてしまったのは事実だ。
そこまで押し込まれてしまったのなら、ある程度以上は作品に土俵を明け渡さなければいけない。この話が好きな自分を認めなければいけない。
だから、全体的には好感度の高いトーンで感想を書いている。

 

同時にモダンの無力を描くのならば、それこそ近代小説が置い続けてきた個人と社会の対置、個人史が生み出す一人称的現在と未来のあり方は、その古臭いスタンダード構成をしっかり借り、腰を据えて描くべきだったと思う。
過去に何かがあって、現在に絶望していて、未来に何かを選び取る時間的連続体としての帆高は破綻している。
彼が何故島を出たのか、大人と指切りすることを拒む頑なさがどこから来ているかは、作品を見ても分からない。
決断に至るルートは『解ってくれ!』という作者のエゴ(あるいはエモ)を担保に叩きつけられ、共鳴できる人は丸呑みし、出来ない人は全部吐き出す構造になりかねない。
ここら辺は作品論的非モダンってところでもあり、『既に語るべきものは語り尽くされてんだから、みんなおなじみの物語は省略してもイイっしょ』というサンプリング世代の語り口だとも言える。
『お前らみんな、お約束は分かってるな!』と作品の省略は呼びかけるが、それにレスポンスできないローコンテキストな観客は、一体どのようにして欠落を補えば良いのか。爆エモ背景とRADWIMPSの曲か。

 

どれだけモダンが非化されたとしても、亡霊のようにその文法は世界を支配し、タガの外れたアナーキー(水没東京の穏やかな日常の中に、おそらく確かに存在し確実に増加しているだろうもの)の到来をギリギリで止めている。
帆高の周辺の世界はそれを確信して少女と少年に無関心(であったと、最終的に帆高は受け止めた)であったし、スクリーンを抜けたこの現実に置いても、そう確信して切り捨てられるものに無関心になり、あるいは無関心にされている贄が山ほどいる。
モダンはその内側で当然と利益を感受する日向の住人が思うより遥かに、人身御供を前提とした中世的世界だったのだから、『元々狂っていた』のだから、過去に帰還するのは当然の成り行き……と、作中人物なら語るところだろうか。

それがギリギリのせめぎあいであることを、この映画は上手く切り取ってしまっていると思う。モダンは僕たちと握手しない。
それが当然であると信じ、身分証をしっかり発行してもらって、その永続に奉仕する人たちだけを方舟に乗せて、洪水の中に僕たちを置き去りにしていく。その断絶は、もう決定的に開ききってしまっている。
タニタしながら、本当は自分たちの足元に死体が埋まっていることを知ってるくせに、キレイめな繁栄を復活させて、晴天のモダンをお前らだけが謳歌し続ける。
そんなモダンの生贄たち、非モダンに隔離された中世的存在が、『死ぬならお前らが死ね!』と叫んで世界(に満ち満ちた、自分と同じように生きている他者)を殺す自由をこの作品が祝いでいるのか。その直前で対話しなければ、世界はこう落ちていくと見せたいのか。

これもまた、よく分からないところだ。その両方であることを、なんだかんだモダン価値観の輩として自分を規定している僕は願っている。
そこまで世界と他人と自分に絶望もしたくない。

 

小説版"天気の子"のあとがきで、新海誠は『映画は教科書である必要はない』と書いている。
その非教科書性を僕は、分離が世界中に満ち、確実に今後広がっていくだろう世界について語るテーマとして見とった。他の人は、当然他のものを見るだろう。

放送室から世界にアプローチして、火によるモダン社会の崩壊を防いだ"君の名は。"から、無理解と暴力に拒絶され、それでも伸ばされた手を跳ね除けて水による大量殺戮を呼び込んだ"天気の子"へ。
あの東京は"君の名は。"フィーバーの水葬であり、けして(モダンにおいて)一般的な価値観にすり寄れない、新海誠自身の手による『"新海誠"殺人事件』なのかもしれない。

だとするなら、いかにも『この夏、一番の感動をあなたに……』的な大量の広告と、山程のタイアップと、様々な消費活動に紐ついた商品構成を尻目に、相当に"君の名は。"っぽくない作品を作りきった……そしてあろうことか、そんなモダン資本主義的欲動を乗り倒して、よりマスに届く位置に作品を押し込んでしまった制作陣の手腕は凄まじい。

新海誠は、この作品を"若い人"に見てほしいそうだ。
モダンと非モダンが断絶した街に踏みつけにされ、追い込まれていく姿。三人の子供の共同生活に満ちた、幸福の皮相を被った悲惨と確かにそこにある幸福。断絶の果てにある一つの決断と、崩壊した世界の重さ。
『そこが、君たちが今いて、今後も晴れることのない"雨の世界"だよ。誰かを生贄に捧げて晴れさせる道も、それを見逃す不誠実も、これを見終わった君たちには許さないよ』と、ずっしり腹に突き刺すように。
あまりに苦い重たさ、ファンタジっくな恋物語に包んだ現在進行系の地獄絵図を飲み込ませるために、『売れる映画』のカワを徹底的に、本気で被る。
そんな物語的テロルをこの映画の配給に見るのは、新海誠を信頼し過ぎか、あるいは信頼しなさすぎな見方だとは思う。

ただ確実に、この映画を見たあと、いかにも"君の名は。"な気持ちにはならないだろう。
踊り場を超えた先には、みんなが幸福にいられる社会ではなく、決断と破壊が待っていた。
それはスクリーンの向こう側の、気楽に消費できる嘘っぱちであると同時に、それを鏡に現実に無限に続いていく、答えも終わりもない『こちら側の物語』、その反射でもある。

眼を瞑って無いものにしていたグロテスクに気付かされえば、イヤーな気分にもなる。
僕みたいに。
そして、みんなイヤーな気分になればいいと思う。

スカッと現実を忘れたいから入った映画館で、『2000円払ってこの映画を見れるオメーは、もうコイツラになんにも言えねぇし届かねぇんだよ!』と顔面殴られるとか、ホント勝手だなぁと思う。
でも、いい作品ってのはそういうもんだし、そうあるべきだと思う。
『"天気の子"の新海誠』が次に何を作るか(作らせてもらえるのか)が、僕はとても楽しみだ。

 

・19/07/25 さらに追記
"君の名は。"においては飛騨という外辺を生贄に、東京がその外辺から悲劇を蕩尽する構造だったものが、その物語の続きとして救済されたはずの東京を水に沈め、悲劇(しぶとい人間の営みがあったとしても、世界を生贄にしても許されるエモがあったとしても、被災当事者からの免罪符が倍賞千恵子声で与えられたとしても、それは間違いなく悲劇だろう)の中枢へと位置づける。
"君の名は。"で多分一番良くない、無神経(に見える)な東京中枢主義を、その主人公たちが守った世界の崩壊で以て蹴り飛ばす自作批評(というより自作溺殺)一つとっても、まぁ『"君の名は。"の新海誠』は彼自身の手でぶっ殺されたと思う。
『瀧出そうぜ! そして奴らが隕石落下から守った平穏な東京、東京の平穏は水底に沈めようぜ!』と言い出したのが誰かは判らん(おそらくは新海誠本人だとは思う。こんだけの犯行計画、生み出した本人以外に思いつかないし実行も出来ない)けども、まぁ凄い"君の名は。2.0 -さらば、君の名は。-"であった。