イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

名月雲なく光る -2019年7月期アニメ総評&ベストエピソード-

・はじめに
この記事は、2019年7~10月期に僕が見たアニメ、見終えたアニメを総論し、ベストエピソードを選出していく記事です。
各話で感想を書いていくと、どうしてもトータルどうだったかを書き記す場所がないし、あえて『最高の一話』を選ぶことで、作品に僕が感じた共鳴とかを浮き彫りにできるかな、と思い、やってみることにしました。
作品が最終話を迎えるたびに、ここに感想が増えていきますので、よろしくご確認を。

 

スタミュ -高校星歌劇-(三期)

ベストエピソード:第12話

それでも、”次”を描くためにはこの話をやるしかなかった。

スタミュ -高校星歌劇-(三期):第12話感想まとめ - イマワノキワ

 というわけで、10月期最終回一番乗りはスタミュであった。その始まりからして難しいアニメだと思っていたし、同時に期待するものを果たしてくれれば非常に面白くなる、とも思っていた。
コンテンツを取り回していくのは、いつでも難しい。積み上げられた物語とキャラに思い入れを懐き、愛情(と銭金)を預けてくれる旧来のファンの顔色だけ見ていては、物語は停滞し死んでいく。一瞬一瞬を常に全力疾走、今後のことを考えず突っ走ってきたスタミュでは、なおさらのことだ。
二期での揚羽との対峙、鳳先輩を思い出にし得たラストステージで、星谷(と彼を主役とする物語)にはかなり、伸びしろがなくなっていたと思う。これに”華桜会”という立場への注目、複雑な感情と社会性への理解(とまではいかなくても、難しさの認識)を足して、『最上級生としての星谷』の物語を始める。
三期はそのための足がかりであり、四季世代はその要請から追加された、作品には表向き存在していたが、描かれることのなかった”脇役”だったのだと思う。

この最終話をベストに挙げるのは、キャラクターをそんな物語の都合に突き合わせ、凡人の至らなさ、主役たり得ない情けなさをわざわざ描いたことへの自覚と報恩みたいなものが、最後にドバっと爆発したからだ。
僕は創作であろうと、生み出された命とその物語には誠実に向き合って欲しいと思う。同時に創作はあくまで創られたもので、面白くなるよう都合で転がるものだとも思う。この相矛盾する要求をどう乗り越えていくかは、一話一話の物語でも、それを繋いだシリーズでも、分厚いコンテンツ全体でもとても大事なことだろう。
三期は自分たちが、四季世代を脇役に追いやりつつ、主役が新しい物語を獲得するためには彼らの無様さ、主役から光を”恵まれる”ことでしか変革できない惨めさに、嘘をつかなかった。自分たちの世代ではどうにも動かせず、鳳世代ほど激烈な関係性を星谷世代とも持ち得ない、半端な乱入者でしかない四季の世代。
彼らが何も自由には出来ない星屑だからこそ、ずっしり重く抱えた感情と非・感情。四季の一見無私な優しさが、その実一番身近にいる存在を蔑ろにする冷たさと直結している悍ましさも、逃げずにしっかり書いた。

四季世代は三期の中心にいながら、誰も勝者になれなかった。敗北者である自分自身を認め、ぶつかり合う未来へ踏み出そうとしたところで、彼らの舞台は終わる。それはとても残酷で、”主役”を引き立てる脇役の本懐ともいえる。
彼らが”主役”たり得ないというメタ的な事実を、創作の内部でもしっかり認識させること。それが必ずしも情けないだけでなく、人間の真実に嘘をつかない重たさと実直さ……星谷世代にはもしかしたら描けない”美しい醜悪”であったと堂々吠えたことが、僕がこの最終話を好きな理由である。
どんなに至らなかろうが、彼らはそこにいた。それぞれが抱いた熱い思いが、誰かの幸福に繋がらなかったとしても、それは嘘ではなかった。
その惨めさと輝きをちゃんと書いたことが、星谷世代の”次”を整備した四季世代に報いる、最大のラブレターであったと思うのだ。

正直、第5話、ならびに第9話と悩んだ。物語燃料が尽きたようでいて、その実語っていない既存キャラを、四季世代のエゴイズムを鏡にして照らしていく。掘り下げていく。
三期もう一つのミッションは見事に成功していた。3期を見ることで、特に南城と辰己は別格の魅力を放ったと思う。栄吾も。
そういう物語を、脇役たちが間違えまくっていく敗北のドラマの間にしっかり盛り込めるのは、自作への観察眼とドラマを組み立てる腕前が高い証拠だ。
それでもベストには選ばない。どのような事情があったとしても、たとえ”次”への踏み台だったとしても、この三期は四季達の物語だった。
アクターとして、何を演ずるか。星谷達”主役”が存分に悩める物語の主題から遠ざけられ、華桜会運営と捻れた友情に振り回された。演技者としての四季世代が見える描写は、巧妙に排除され、問うべき課題とはなり得なかった。”脇役”とはそういうことだ。ビックリするほど残酷だ。

その残酷に、作者達は自覚的だったと思う。
残酷だからこそ書けるもの、手が届かないからこそ燃え上がる思いに、凄く冷酷に、同時に真摯に向き合って物語を紡いできた。
この最終話は、その集大成だ。僕は星谷くんが好きだし、彼を主役とするスタミュも好きだ。そっちが本道で、”次”に繋がるのはそっち、というのはよく判るし納得もする。
その上で、四季達が舞台から降りるこの最終話が、彼らの物語だった三期のベストだ。そう断言することで、僕はようやく四季たちを蕩尽したいち視聴者として、ようやく彼らに顔向けできる気がする。

”我ら、綾薙学園華桜会 〜NEXT STAGE Ver.〜”が、スタミュアニメのラストナンバーになるのか、新世代の幕開けになるかは分からない。終わるかもしれないし、終わらないかもしれない。
だが、四季達の懸命な間違いを真実活かすためには、彼らが必死に戦った業とか執着とか、(張子の虎でしかないけど)社会とか外部とか、そういうものとも向き合う三年目がやっぱり必要だと思うし、星谷たちが四季世代から何を学んだか、彼らの物語の内部で描いてくれないと始まらない。
だから、なかなか難しいとは判っていても、やっぱり”次”を見たくなる。この先があってこそ、四季達の物語が存在していた甲斐もあろうと思う。
だから、四期第一話を見るという夢を、僕も諦めないこととする。
待っています、楽しみです。

 

・彼方のアストラ

ベストエピソード:第1話『PLANET CAMP』

”第一話”に必要なモノが全部ぶっ込まれて、なおかつよく交通整理された構成がそれをスマートに食べさせてくる。

彼方のアストラ:第1話『PLANET CAMP』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 彼方のアストラは素晴らしい物語だったし、素晴らしいアニメ化でもあった(のだろう、と思う。原作未読なので、こっちは確言できないけど)
SF、ジュブナイル、ミステリ、サバイバル……様々な要素を貪欲に盛り込みつつ、それを手際よく視聴者に見せ、食わせ、消化させる。相当な難事をスルリと(思えるよう、水面下の努力をきっちり消して)こなし、物語に没入させる。
そういう”巧さ”を”楽しさ”のメディアとして、あくまで従属的な位置において、熱く強くうねる青春の群像、押し寄せる驚異と大量の謎という本命を伝えるために、冷静に使いこなす。
過剰なクオリティに酔うわけでも、技巧に走って熱量を忘れるわけでも、思いを伝えるための技術が未熟なわけでもなく、創作と娯楽に必要な要素全てがバランス良く、高いレベルで維持されていた。

そういう総合力の強さが一番発揮されているのが、この第一話だと思う。作品が視聴者に”挨拶”するタイミングで、しっかりこの物語が、キャラクターが、どういう顔をしているかを見せる。
これはあまりに当たり前で、同時にとても難しい第一話の仕事だ。なかなか、果たそうとして果たせるものではない。
しかし”彼方のアストラ”アニメ第一話は、その難事をしっかり乗り越えた。
自分たちが何を描くのか。その主役となるキャラクターはどういう欠点と魅力を持っているのか。物語が疾走する舞台は、どんな危険と興奮を秘めているのか。出だしを見れば、それが全部入ってくる。

そこで作品への信頼感を作ってもらえたからこそ、その後ドシドシ押し寄せるドラマと謎にかじりつき、前のめりで見れた気もする。
『このお話に期待しても、スカされることはない!』
そういう確信が得られる第一話と、それを裏切らないその後の展開。とても幸福な視聴体験だった。いいアニメだったなぁホント…。

 

 

・ギヴン

ベストエピソード:第6話『Creep』

だんだん見えてきた真冬の”情”と個人史をしっかり補強する、良いそぞろ歩きだと思った。

ギヴン:第6話『Creep』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 ギヴン……最高に良かった……(終わり)

ってのも良くないので。何を描くか、よく考えよく筆を執ったアニメだと思う。
大人世代の不穏を静かに煮込みつつも、メインはあくまで高校生たちの真っ直ぐな恋と音楽。過去に囚われた少年と、運命に出会った少年の衝突が生み出す”音”を背骨に、しっかり物語を立てていた。
切ない詩情を的確に切り取るべく、全体的に背景とレイアウトに凝って、タイミングを見計らって綺麗なものをしっかり出していたのがとても良かった。僕は綺麗なものを見るのが、汚いものを見るのと同じくらい好きなのだ。
ノイタミナ初のBL!』と大々的に貼られたけども、ホモセクシュアリティのえげつない部分はそこまで表に出ず、音楽と青春の爽やかストーリーとして飲みやすい展開だったのも、よく考えられていたと思う。
いやまぁ、ネトネト地獄絵図は過去と未来にタップリ広がってんだけどさ……その泥が周囲を包囲しているからこそ、真冬と立夏の爽やかな童貞恋愛(ただし、一名既に経験済み)が際立つ構図だったとも思う。

お話は唯一洋楽の引用サブタイトルではない第10話”冬のはなし”をピークに据えて組み立てられ、実際物語のパワーとしては圧倒的にあの話が凄い。あそこのライブをどう成立させるかから、見事に逆算で話を組み立て、エピローグの余韻も心地よく、豊かに流していった。
歌の力、演出と作画の力。動員できるものを全て使い倒して描かれたクライマックスを、素直にベストエピソードに推そうかな、と思ったけども、やっぱりこの第6話が好きだ。だから、これがベストだ。

それはBパートの青い散歩で、初めて真冬と出会えた感じがしたからだ。彼が何を秘めて、何を抱えて歩いているのか。そこから見える世界はどんな息遣いなのか。それが判ることで、作品に前のめりになれた。
思い出をなぞるようなな歩みは、けして焦らない。由紀の残影はけして亡くならないけど、その寂しい独歩だけが世界の全てではなく、広い余白が確かにある。そこには真冬以外の人がいて、由紀の不在以外のものがあって、彼が立夏と出会って掴むだろう未来の予感が、静謐な青い死のなかで確かに揺らめいていた。
『このアニメ、面白くなるな』という期待と確信は、第1話で真冬が立夏の胸ぐらをつかんだときに手に入れていた。控えめな天使のように見えて、野獣のような獰猛さを隠している少年だと、ちゃんと予感できた。
ただその予兆が解決されるためには、とても静かなこのおはなしを待たなければいけなかった。あの青い歩みを一緒に歩くことで、彼が縛り付けられている冬の重たさ、夏の美しさを一緒に吸い込むことが出来たと思う。
そういう追体験にしっかり時間を使って、しっかり仕上げられるアニメは優秀だし、幸福だ。そういう下準備があるからこそ、”冬のはなし”の爆裂もあるのだ。その作用と、そんな細やかな仕事に感じ入った自分を忘れたくないな、と思う。
だから、この地味な話数がマイ・ベストである。

 

・荒ぶる季節の乙女どもよ。

ベストエピソード:第9話『キツネノカミソリ

どちらが世界の真実なのか。人生は晴れ間の昼か、薄暗い夜か。

荒ぶる季節の乙女どもよ。:第9話『キツネノカミソリ』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 荒乙は凄く良く出来たアニメだった。パッションとテクニックのバランスも良かったし、キャラクターとドラマを俯瞰で操りつつ、ちゃんと主観でも親近感と慈しみを持って、体温を殺さずに最後まで走りきった。
『俺達、このバカどもが好きなんだ…』って思いが、ちゃんと伝わってくる群像。それぞれの恋と性、青春と文学がドアホに走り回り、要所要所で良いワードチョイスが唸り、詩情と下品が入り混じって立体感を生む。
岡田麿里の作家性が、文学的ラグランジュポイントを見つけられたお話なのかな、とも思う。エゲツないシモネタや露骨なバカさもあるんだけども、絵本奈央の柔らかなデザインがそれを適度に薄めて、表層的な毒の強さを適度に殺せていたと思う。
なんだかんだすげーロマンチストだし、詩人気質な人なので、恋愛と青春と文学に真っ向勝負を挑み、ファンタジーやバトルや過剰な心の闇をあえて切捨てたこの作品は、すごく素直に『良いところ』が伝わったと感じた。親世代へのルサンチマンをうまーく軽視できたのもデカいかなぁ……三枝の書き方見ると、やっぱ無視はできないんだろうけど。

集団制作の中で個人がどれほど響いてるかは、なかなか判断難しい(とはいえ、漫画原作とシリーズ構成は”要”であろう)ところだが、映像作品としても強いことばを活かす所、語らずに見せて考えてもらう所、歌を活かすところと、演出に多様性とメリハリがあった。
抽象的な構図で魅せるシーンがかなり巧く、繊細な矛盾をタップリ抱え込んだクソバカの悩みに、視聴者がシンクロする助けになっていたと思う。結構バロックなカメラワークが多いんだが、違和感よりも『異常なものを素直に食う』ための補助として機能してたのは、使い所が上手かった。
群像を複雑に取り回しつつ、過度に衝突や離断させず、”箱”を共有する同志として束で描くバランス感覚も良かった。個人と集団、その両方が同居する不思議とかけがえなさを、作中はっきりと明示していたのもグッド。
群像劇としての熱量が、個人が自分と世界を見つめる物語を加速させる。一人でいることにしっかり悩んだから、みんなでいるかけがえなさにも気付ける。
性愛の清濁、混沌とロゴス、大人と子供。色んな矛盾をどっしり腰を落として扱ったこのお話でも、一人でしかなく、しかしみんなでもある人間存在への洞察は大事な部分を占めていた。

そこら辺の矛盾がギシギシと軋み、次の物語の準備をする。なにか充実した答えが出たように思えた瞬間、厄介ごとの種が芽吹く。そのリズムとテンポがしっかり生きていたのは、このアニメが熱量を保てた大きな理由だ。
文化祭と真夜中の学校占拠、その間にあるこの話数は、一見”箱”の中で平穏にまどろんでいる集団が、その実決定的に個別な悩み(あるいは悩みの不在)に切り分けられていて、それが何も解決していないことを示すクレバーな話だ。
満たされたものと、まだ終わっていないもの。世界は本当に多彩な色合いがあって、摩擦もすれば衝突もする。それをひっくるめて飲み込めるようになって、初めてセックスを許された大人になりうる。

そういう結論に達するための不穏な足場を、サスペンスを的確に楽しませる意地の悪いテクニックも含めて、凄くこの話らしいエピソードだな、と思う。学校のスタンダードからはじき出された(けど、傍からみりゃ結構青春してる)バカどもが悩む、生っぽい性と愛と友情。ただの仲良しこよしじゃいられない、肥大化し成長してきた自意識と、やっぱり仲良しでいたい純粋さの同居。
それが最初から最後まで貫通していたことが、爽やかな読後感と描ききった満足感の足場にあると、僕は思う。それは凄く技量と情熱がないと出来ないことで、それおウィ地番示してるのはこの話かなあ、と思う。
あと僕もーちん推しなんで、ずーっとマスコットだった彼女のエゴと個性がビュルっと飛び出して、ドンドン身勝手でイヤな女になってくこの話がすっげー良い。
全員主役なら、アタシも便利で純朴な”天使”やり続ける必要はねぇ、ってことだよな…?
全くそのとおり。平等な群像劇ってのは、そういうことだ。(その清濁併せ呑む平等感が、”男”という属性を持つキャラにはミロ先と泉以外あんま適応されない、かなりジェンダー記号論な話であること含めて、俺は好きよ)

 

からかい上手の高木さん2
ベストエピソード:第12話『夏祭り』

劇的なるものは、全て流れ行く日常の中にその種子を眠らせているわけだ。

からかい上手の高木さん2:第12話『夏祭り』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 ”2”であることに甘えていない続編は、やっぱり面白い。そう思わされる”2”だった。自分たちの作品の何が強くて、12話の物語を積み重ねたことで何が生まれたのか。しっかり考えて、変化したスタッフワークも乗りこなして、一見『いつもどおり』に見える特別を、一手ずつ積み重ねていく。
実は高木さん2は映像表現として相当に”1”と変わっているし、そういう変化をしなければ”1”をもう知っている視聴者は『なんか高木さんっぽくない』と感じただろう。微細な、しかしよく考え抜かれた変化を積み重ねなければ、”2”は”2”たり得ない。そういう残酷なルールをしっかり飲み込んで、リフレインと変化を重ねていく旅路を、しっかり走りきってくれた。

そういうシリーズなので、どの話数も素晴らしい。おんなじことやっているように見えて、しかし凄く考えられた技芸が随所にあって、学ぶことが多かった。クローズアップの狙いすました多様が、シリーズを貫通する柱になってたり。高木さんが”1”ではなかなか見せない、”負け”覚悟の接近を見せたり。
その上で一話選ぶと、いつものスタンダードをあえて変奏し、一本繋ぎのロマンティック・シチュエーションでどっしり描ききった第7話、そして最終回になる。学校行事なんだけど特別さのある林間学校を活かし、二人だけの甘酸っぱい思い出を星に託した7話はマジで最高である……が、あえて最終話を選ぶ。

いくつか良いポイントはあるんだが、前半いつものように滑り出すからかい勝負の描写が、後半の超エモクライマックスにしっかり繋がっている構成の妙味が良い。それは当たり前の繰り返しの中に、強く輝くものを埋め込む作品全体のトーンを、見事に1エピソードに凝集した書き方だ。
縦に深いだけでなく、横幅広く青春の輝きを見せたのも良かった。木村が見せた友情の咆哮は、恋だけが世界の全てではなく、他にも良いものがたっぷりあるという前向きな希望、風通しの良さを最後に突きつけてくれた。
僕はこの作品、児童の思春期を凄く精妙に切り取って、甘酸っぱくも綺麗に描ききっている所が特に好きだ。子供たちがそれと気づかないまま身を浸す、とても大事な時代。ユートピアになるしかない青い季節を、ノスタルジーの視線だけでなく、今まさにそこにある者たちへの祝福をしっかり込めて描ききる。
そういう事ができたお話が、激しい祝福を花火に乗せて最終話描きれたのは、とても幸福なことだったと思う。良いアニメ、好きなアニメです。ありがとう。

 

・まちカドまぞく

ベストエピソード:第2話『スポ根ですか!? 万物は流転する』

闘いすんで500円を借り、電車に乗り込むまでのじっくりした動き。眠気に誘われて暗闇の終点まで流されてしまう時の、どっしりとした睡魔。

まちカドまぞく:第1話『優子の目覚め!! 家庭の事情で今日から魔族』・第2話『スポ根ですか!? 万物は流転する』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 物語に体重を預ける瞬間ってのは人によって違うと思うけども、僕は第二話の電車のシーンが”それ”だったので、ベストエピソードは第二話である。
正直第一話はあまりにも桜井汁が濃くて、『このハイテンションのまま、ありふれた日々の愛おしさを掘り下げられないまま進んでしまうのではないか!?』という疑念があった。それを乗り越える形で、”日本一のしっぽ感情表現アニメーター”岡本監督のしっとりとしたトーンが活きた。
作品全体を貫通するシュールな面白さ、ダイアログの知性に負けない笑いのセンスは、やっぱり桜井弘明だからこそだと思う。とんでもないベテランを堂々引っ張ってきて、その個性を暴れまわらせつつ作品を壊さない。どんなに個性が出ても”まちカドまぞく”にする。
そういうトータル・コントロールが、自分のコンテではときおりはみ出るところはご愛嬌か。好きだなぁ……。

ダークでヘヴィな背景をしっかり設計しつつ、それを跳ね除ける『いかにもきらら的な日常』の価値を上げる。ジャンルで既に積み上げられているものに甘えず、一個一個手びねりで表現を作り上げていく姿勢は、本当に素晴らしいと思う。
アニメスタッフもその努力に敬意を評して、ハイテンションに血管を切らせ、シュールと情報量で画面を覆い尽くしながらも、ときめく場面はしっかりときめかせ、可愛いシーンはちゃんと可愛く仕上げた。
そういうリスペクトと分別があればこそ、各スタッフの個性が存分に暴れまわり、色彩豊かな楽しさが踊るアニメにもなりえていた。無軌道と制御、重さと軽さ。矛盾しそうな要素をしっかりコントロールして、”まちカドまぞく”という箱にしっかりパッケージできていたことが、色んなものをたっぷり楽しんだ満足感、清涼感に繋がっている気がする。
このスタンスの日常系は見ていて楽しいし、キャラクターや世界観への愛着もしっかり湧き上がった。是非にも二期を見たいアニメである。いやー、面白かった。

 

・グランベルム
ベストエピソード:第12話『マギアコナトス』

水晶が報われずに倒れていくのは、ドラマとしても文脈としても必然なのだが、僕はやっぱり満月の献身に向けるのと同じ視線を、”悪魔”に向けたい。

グランベルム:第12話『マギアコナトス』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

グランベルムが終わった。断言しておこう。大傑作である。
魔術を軽薄なモチーフで終えずに、その思考法、世界認識法まで彫り込んでテーマに据えたこと。相矛盾するものの相互侵犯と合一という、魔術的な認識をアニメのビジュアルの中にしっかり落とし込んだこと。それをドラマと一緒に駆動させ、しっかり物語として駆動し得たこと。
アニメオタクとして心揺さぶられるだけでなく、オカルトマニアとしても非常に鮮烈な視聴経験が出来て、ありがたい限りである。極大と極小が渦をまき、お互いのしっぽを噛む。個人の理由なき願いだと思われたものが、大きな宿命と絡み合いながら展開していく。
巨大なダイナミズムを転がしながらも、群像が抱くちっぽけな願いと愛憎は蔑ろにされることなく、気合の入った顔面描写とロボ戦のあわせ技でドカドカとこちらを殴りつけてくる。興奮と冷静が絡み合いながら、鋭い刃で見ている側を切りつけてくる。
そういう体験がノンストップで襲い来る、素晴らしいアニメ、素晴らしい物語、素晴らしい魔術書だった。

そういう話なので、ベストエピソードは悩む。全話、と言いたいところだし、特に目立つものをピックしても、魔術的に地上を描く筆の冴えでいい挨拶をキメた第二話、グランベルムに賭ける少女の思いが初めて具現する第5話、アンナ・フーゴ最後の悲喜劇を存分に踊らせた第7話、満月が辿り着いた境地をエモーショナルに燃え上がらせる第11話、全ての結論が出る第13話と、とても選びきれない。
その上でこの話数なのは、袴田水晶が”判る”エピソードだからだ。
同時に、グランベルムがわかる話でもある。長い糸に操られる人形が、それでも人間になってしまう哀しみと強さを追う物語。それが、グランベルムなのだと思う。

袴田水晶という”悪魔”の解釈、把握、活用は非常に正統で、オタクメディアでここまでカッチリやってるのはとても珍しいと思う。
試練者として創られ、一千年その責務に勤労する、怠惰なる誘惑者。人間の可能性がいつか自分を打倒する日を夢見つつ、神の人形であるが故の圧倒的な実力が、その重責を降ろさせない犠牲者。それでもなお、勤めを果たすことを諦めきれない勤勉者。
人形は、作り主に純粋な忠誠を果たし、その願いを反射する。満月が人形であったことが、そして人形を超えたことが新月にとっての救いであったように、水晶が当初の製造目的を超えてプリンセプスであることを望み、しかし果たされなかったこと、人間が魔力を超越しそれを破却し得たことは、マギアコナトスにとって救いだったのだろうか。
そんなことを脳裏に転がしつつ、袴田水晶という人形もまた、強すぎるエゴを抱えてなお、主を裏切れない人形の悲しさと強さを持った、もう一人の主人公だったと判るこの回は、作品最後のピースをはめる大事な話であるし、彼女のことを知りたかった僕に欲しい物をくれた回でもある。
悪辣に詰り、貪欲に喰らう。悪魔的所業の奥に何があるのか、僕はずっと知りたかった。そこに”悪役”だからというシンプルな答えと、複雑に乱反射する人間性を同時に見せてくれたことで、僕は彼女とこの作品のことを、もっと好きになれた。
そういう回がちゃんとあって終わるってことは、お話にとっても物語にとっても良いことである。非常に面白く、好きになれるアニメであった。ありがとう。

 

・ロード・エルメロイII世の事件簿 -魔眼蒐集列車 Grace note-
ベストエピソード:第5話『最果ての槍と妖精眼 In the world of mages, it doesn't matter who did it, or how.』

二世がウィルズを必死に止めたのは、自分自身過去と英雄の世界に引き寄せられる自分を自覚して、先に旅立ってしまうウィルズにある種の羨望があったかあらこそな気はする。

ロード・エルメロイII世の事件簿 -魔眼蒐集列車 Grace note-:第5話『最果ての槍と妖精眼 In the world of mages, it doesn't matter who did it, or how.』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 フェイトのアニメで、一番食べやすかったかなぁ、と思ったりした。
根源を巡るデカいバトルを扱わなかったり、ヒトデナシ集団時計塔にあって、”人間”だからこそ劣等生の規格外品になってしまう連中を率いる、熱血教師の物語であったり。超常をあんまぶん回さず、体温と肌触りが僕らに近い場所に、お話があった感覚がある。
無論デカいスケールで大きな概念をぶん回す話も好きなんだけども、どうにも過去を振り切れないまま、現し世に取り残されて幻影を追い続ける凡人達のアレソレには親近感と哀れみが湧いてきて、凄く自然に体重を預けてみることが出来た。

それは無論、楽しく見れるよう色々工夫してくれた結果であり。前半のオリジナル六本で『こういう世界、こういうキャラ、こういう話ですよ』という予告と期待をしっかり作って、”原作”を長尺で回す後半にしっかり繋げたり。
レイアウトとポジション移動で、キャラの心理的優劣や内面がしっかり見える画面構成を丁寧に積み上げてくれたり。(ここら辺、”やがて君になる”でも冴えてた加藤監督の強みかなー、と思う。要所要所のあおきえい力だとも感じるけど)
どうにも”今、ここ”にいる自分に自身が持てないまま、しかし”今、ここ”にいる自分を構成する他者にしっかり愛着を持ち、それに報いようと前を向いてもいるキャラクターの逡巡とか。
スケールが(Fateコンテンツの中では比較的)小さめな利点を活かし、掌でギュッと握りしめられるサイズ感を大事に進めてくれたことが、作品を間近において愛でるような距離感を生んでくれた。とても面白かった。

この身近な鮮明さは、『彼方にある栄えに、強く惹き付けられる犠牲者』というモチーフを幾度もリフレインさせて、主人公コンビのシャドウを幾度も出したのが大きかったと思う。
皆、何か遠くにある星に惹き付けられて、美しいから手を伸ばす。でも、それはあまりに強すぎる光で、近づきすぎれば焼けてしまう。初代”Fate”でセイバーと志郎(あるいは桜と志郎、桜と凛……とにかくSNはそういう関係性が随所に埋め込まれている作品だ。そういうエッセンスをしっかり汲んでリスペクトしたのが、食べやすい理由かもしれない)に見えた、美しくも危うく儚い距離感。
それが事件簿でも幾度も、相手を変えながら繰り返され、相互に反射し合う。魔眼蒐集列車ではカラボーやヘファイスティオンが担当している部分だが、一番鮮明なのはこの回のウィルズかなあ、と思うのだ。

妖精眼を持つがゆえに運命を捻じ曲げられ、あまりに美しいものに手を伸ばして消えていく。征服王の幻影に導かれてここまで来て、それに引っ張られて消えてしまいそうな危うさと同居する二世が、辿り着けない一つの結末。
人をやめてしまうのも、幸せの一つの形なのではないか。そう思わせる魔的な美が、現臨する妖精界にしっかり宿っていたのも良い。魔眼の表現といい、作品の土台を支えるファンタジーをしっかり、ハイクオリティに仕上げていたのはこの作品のとても良いところだ。
ウィルズの結末があればこそ、そこに接近しつつ跳ね除け、聖杯戦争以外の物語を己の戦場と定めた二世最後の決断も、より鮮明に届く。過去は美しい。この世ならざるものは、美麗に人を誘う。それでも、”今、ここ”に選び取った生き様を否定できないなら、前に進むしか道はない。
そんな当たり前の、凡人の矜持に満ちた物語をしっかり走れたのは、魔の魅惑がどれだけ危うく甘やかかを、奇妙なさわやかさで語ってくれたこのエピソードあってこそと思うのだ。好きだなぁ、この話。

 

戦姫絶唱シンフォギアXV
ベストエピソード:第13話『神様も知らないヒカリで歴史を創ろう』

あれをラストのラストに持ってきたのは、マジで二億兆点。その答えが全てなのだ…

戦姫絶唱シンフォギアXV:第13話『神様も知らないヒカリで歴史を創ろう』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 お話は始まることも続くことも奇跡だが、終わることもまた奇跡だ。特にキレイに終わるってのはコンテンツが続けば続くほど難しく、要素は複雑化し、物語は絡み合い、テーマはだんだん見えなくなっていく。カタルシスが強ければ強いほど完成は麻痺し、より味付けの強い”今まで通り”を求めていく。
シンフォギアも例にもれず、そういう歩みをたどった。否、迷走は平均点よりも更にひどいかも知れない。あんなグダグダ、あんな逆戻り、あんな説得力のなさ。いろんな瑕疵を認めつつも、それでも最初に見た輝きと、ずっと続けても失われない煌めきがそこにあるから、僕はシンフォギアを好きでい続けた。

終わってみるとAXZから分割二クールだといえる、シンフォギア最終章。意識して煮え切らないシリーズ。最後に爆発させるために意識して埋め込まれた煮えきらなさ、要素の不足さえも、こうして気持ちよく終わるためには必要だったのだと思う。
そう。AXZからXVへの連作は、『シンフォギアとは何なのか。何を生み出し何を取りこぼしてきたのか』をよく問うた物語だったと思う。それは設定面もそうだし、キャラクターを構成するクエストの問題もそうだし、自作含めた過去作へのオマージュもそうだ。
アニメを構成する全領域でやりきってないことを洗い出し、新たに問うべき問題、リバイバルさせるべきテーマとモチーフを掴み直す。それが物語を加速させるように、適度に配置し高速でぶん回す。
XVのハイテンポはまさに『僕が待ち望んでいたシンフォギア』そのもので、見ていて非常に楽しかった。これくらい後ろを考えず、一瞬を全力で真っ直ぐ突き抜けるパワーに惹かれて、僕はこのシリーズを見始めたのだ。だから、最後にそれが帰ってきたのは……最後だからこそそれが取り戻せるのはとてもいいな、と思った。

この感覚は悪役たる訃堂とシェム・ハ、そしてノーブルレッドが頑張ってくれたおかげだと思う。AXZで八紘兄貴との関係を平らにしておいたおかげで、残った最後の障害としての訃堂、それに巻き込まれ乗り越えていく風鳴翼の弱さと強さの描写は、画竜に点睛を与えた。
既に強くなった奏者をリセットしない意味でも、『弱さという強さ』を敵サイドで初めて背負ったノーブルレッドの存在感は大きかったし、それがシェム・ハに完全怪物化されて『強さという弱さ』に相転移する第11話は心地よい不意打ちでもあった。『まぁこんなもんだろう』と展開を先読みし、ナメてたところを遥かに上回られると、物語はとても強い快楽を与えてくれる。
余りに気持ちのいい裏切りなもんで、ベストエピソードは第11話にしようか悩んだ。『怪物になんてなりたくなかった』という銀狼の慟哭も、非常によく刺さったしね。生きるためにガングニールを取り込み、神殺しの怪物になってしまった響の歪鏡としても、ノーブルレッドはとても優秀なキャラだった。

しかしその上で、僕は最終話を選ぶ。スケールのデカさとテンションの高さも理由の一つだけど、やっぱりラストシーン、最も小さく最も難しい断絶の呪詛を祈りとともに乗り越えて、可憐な恋に二人で踏み出す”答え”を堂々出したことが、とても素晴らしいと思うからだ。
恋になれば偉いというわけでもないし、同性だから尊いというわけではない。友情も敬意も憎悪ですらも、強い感情にはそれぞれの輝きと意味がある。しかしその上で、立花響と小日向未来が恋にたどり着かなければ嘘になるというのならば、それをちゃんと書くのはとても大事だ。
そこに辿り着けるように、未来さんの体を則ってラスボスを貼り、その小さな呪詛をあぶり出したシェム・ハさんはいい仕事したなぁ、と思う。最初で最大の敵であるフィーネが身に宿した愛という呪いを、彼女のシャドウたるシェム・ハさんが表に出して、ちっぽけな主人公(にんげん)がちゃんと伝えて、共有して終わる。
そういう構成の巧さ、主役の影としての悪役の使い方の力強さも合わせて、XVは、シンフォギアは本当によく走り、よく終わった。終わってくれた。今まで積み上げた歴史にしっかり目配せしてくれたことも嬉しいけども、父なる存在の卑しさと尊さ(ここら辺、金子さんの血が滲む部分だなぁ、と思う)も含めて作品のど真ん中を、一番自分らしい筆でちゃんと走りきってくれたことが、何より嬉しい。
良いシリーズ、良いアニメ、良い物語でした。ありがとう、シンフォギア

 

鬼滅の刃
ベストエピソード:第1話『残酷』

メイン敵であろう”鬼”が一度も画面に写っていないのに、炭治郎と禰豆子、そして義勇さんの人格がグイグイと迫ってきて、『この話を見ろ!』と肩を掴まれた感じだ。

鬼滅の刃:第1話『残酷』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 ”鬼滅の刃”は、特にお気に入りのアニメとなった。UFOTABLEが持つ、アニメ全領域での強さを最大限にぶん回して、ハイクオリティが踊り狂う仕上がり。それが一切息切れせず、26話ずっと続くタフさ。超常の力が行き交うバトルの興奮と、美麗なエフェクト。見事な音響と美術。
そういう方面から評価していくと、ベストは間違いなく第19話『ヒノカミ』であろう。全編に満ちた動きと熱量は最高の一言であり、テンションの上がり方、長い戦いが決着するカタルシス、主人公の秘めた血が覚醒する勢いが混ざり合って、非常に力強い。
それを分かってなお、この第一話を推すのは、やっぱり作品がしっかりと挨拶をしてくれる”第一話”の特別さと同時に、僕がこの作品の魅力を(どちらかと言えば)”静”にもとめているからだと思う。

この第一話に、目に見える”鬼”はいない。鬼舞辻無惨は唐突に現れて、当たり前の幸福に満ちていた家庭をぶち壊し、炭治郎と禰豆子を不幸のどん底に落とし込む。唐突な残酷に戸惑う暇もなく義勇さんが現れて、”鬼滅の刃”という運命が転がりだしていく。
そんなスタートが印象的なのは、静かだからだ。大正時代の、里山の生活。吐く息も白い雪山の静謐。そういうものが派手さなく、着実に進んでいく。昨日と同じ今日、今日と同じ明日が積み重なるはずの炭治郎の日々が、ちょっと歯車をズラして家の外で一夜を明かし、彼は一人生き残ってしまう。
そういう運命の残酷さが、抑圧された筆致で丁寧に積まれていくことで、この作品が非常に特別な運命を描くと同時に、人間全てに共通する普遍を描くのだ、ということが見える。当たり前にあるはずのものが、続くはずのものが断ち切られる”残酷”に巻き込まれてなお、鬼となった妹と生きていかなければいけない兄の、特別で普遍的な強さ。
それを試す義勇さんの存在感もまた、叫びはあっても静かだ。多分雪に囲まれたシーンセッティングが、激情と鮮血を映えさせつつも静かに吸い込んで、落ち着いた運びを可能にしているのだと思う。

そういう第一話で、僕は何に出会ったのか。やはり、竈門炭治郎に出会ったのだと思う。当たり前の幸福の中で微笑みながら、唐突に運命を断ち切られてなお、悲嘆に溺れるのではなく、明日を掴もうとする非凡。家族を素手で埋葬する時見える、あかぎれの手。
後に強さと慈悲を兼ね備え、カルマにまみれた世代の祈りをも背負っていく主人公の人格は、この段階でよく見える。闘いに闘いを積み重ねるのではなく、闘いの中で人間を描こうとする静けさが宿った話だということが、”鬼”が顔を見せないこのお話から、既に感じられた。
そうやって出会うことが出来たから、僕は”鬼滅の刃”に前のめりになれたし、その期待は裏切られることはなかった。過剰に叶えられすぎて、『あ、もうちょいスピーディーにやってくれても良いんですよ……』と言いたくなるシーンもあったが、それはそれだ。とても楽しかった。
劇場版に続いてくれるということで、またこの反響と評判では二期もある……だろう。まだまだ炭治郎と仲間(と敵)の物語を、このハイクオリティで見てみたい。そういう気持ちになれたのは、やはり出会い方が特別良かったからだ。そういうのは、アニメを好きになるうえでとても大事なのだ。

 

・キャロル&チューズデイ
ベストエピソード:第14話『The Kids are Alright』

抱擁も握手もない、生まれたときから出会えなかった親子に相応しい、冷たく儚く温かい物語だ。

キャロル&チューズデイ:第14話『The Kids are Alright』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 キャロル&チューズデイが終わった。総評は……なかなか難しい。思いっきり共鳴し楽しむことが出来た人の意見も、ノリきれず瑕疵が目立っている人の意見も、両方納得できる気がする。(まぁ後者は、長くて結構難渋なこの物語にわざわざついていかず、MB辺りでドロップしてる気もするが)
僕個人としては楽しかったし、納得も結構出来ている。アンジーのブルーズがなんとか枠内に収まってギリギリで落着したのと、なんだかんだ”Mother”が良い曲としてお話と演出を組み上げれたのが大きい。終わりよければ全てよし。昔の人は良いことを言う。

とは言うものの、キャロチューはそこまで明瞭な答えや結論を出さずに終わっている。火星の抑圧と地球移民差別は物語内部でもまだまだ続いていくだろうし、キャロチューとアンジーはあくまで新人でしかなく、そのキャリアは始まったばかりだ。
歌はなにかの切っ掛けにはなるかも知れないが、あくまで歌でしかなく、世界のすべてを変えうる力など持ち得ない。強制送還されたアメルは遠くにいるし、ダンはあくまで仮釈放の身だし、顧問の独断とはいえ経済活動として気象破壊テロルに加担したヴァレリーの再出発は大変だろう。
一見何かがまとまったようで、その実何も変わってはいない。しかし変化の兆しは確かに歌によって起きていて、それを激発しうる特権は主人公にしかない。キャロチューが起こしうる変化というのは、非常に小さく、なおかつスペシャルだ。
物語は、僕らの心のなかで続く。
最後に作品が出してきたメッセージは、この煮えきらなさと強く呼応しているように思う。ポピュリズムと表現抑圧とナノセコンド取引と感情のビッグデータ。今っぽいネタを貪欲に取り込み、火星のファンタジーに覆い焼きしたこの話は、確実に僕らを取り巻くリアルへと視線を向け続けている。
このお伽噺で描いたものの結末は、今まさに進行中のあなたの人生という物語で描かれるのだ。だから、この物語を忘れないで欲しい。
そんな綺麗でとても貪欲な語りかけが成立しているかは、受け取った人が決めることだろう。凄く難しい投げかけだと思うが、そういう場所を目指して物語を編み上げたことはとても偉い。僕はそういうアニメが好きだ。

その生っぽい姿勢が嫌いだ、って人は当然一定数以上いるだろうし、生っぽさを切り取るにしてはヌルいって思う人もそれなりにいると思う。こういう書き方をしている僕はどっちかと言えば後者で、もうちょいキツく生っぽさを入れ込んでも良かったかな、と思ってはいる。
キャロチューはシリアスでリアルな問題に接近しつつ、そして当事者として波を被りつつも、二人が二人でいる奇跡によってその波をうまく乗りこなせてしまう。第1話で出会えた時点で決定的な変化は既に終わっているのであって、残りの時間は既定路線を順当に(下がり調子もひっくるめて)サクセスするだけ、という見方も出来るだろう。
平たくいえば、キャロチューの(表面上の”底辺からの成り上がり”に反した)黄金の歩みは、そこに強くシンクロできない資質を持つ視聴者には、時に退屈なのだ。

アンジーがたっぷり身を浸したブルーズに、主役も入り混じっていたほうが面白かったのにな、と、無責任に思ったりもする。
阻害、絶望、断絶、離別。人が生きる以上必ず覆いかぶさる波風、当たり前の憂鬱から守られている……ように見える主役。物語に甘やかされている……ように見える主役のサニー・サイド・アップは、正直僕には乗り切れない。アンジーモンペ勢になったのは、そういう理由もある。
孤独と絶望と反抗と愛。そして死と別れ。ブルーズがたっぷり詰まったアンジーの山あり谷ありは、やっぱりとても面白い。彼女のどん底人生にシンクロして奥歯ギリギリ言わせながら来週の放送を待った体験含めて、ここ迄アニメのキャラに前のめりになれたのもなかなか久々で、それだけで作品を見てよかったな、と思ってもいる。

その上で、僕がベストに選ぶのはキャロルのお話である。彼女が父と別れるお話だ。そこに号泣はなく、抱擁もなく、淡々と朝の街を歩いて別れていく。
その抑え込んだ映像詩学が圧倒的に美麗だ、というのは、ベストな理由の一つである。大胆に引いたカメラ。じわじわと開けていく朝の静寂。静かに温められていく過去と感情、そこから立ち上る匂い。大泣きに泣くほどに、あるいは怒り狂うほどにお互いを知り得ない親子の、それでも繋がった感情に嘘がない綺麗で静かな、プライドのある別れの描画。全てが良い。

でもそれだけじゃなくて、ここでキャロルが人生のシャドウサイドを静かに歩ける主人公なのだと見せれたことが、どれだけ作品のバランスを取り直せたか、という構成上の仕事もまた、大きい。
考えてみれば、キャロルは難民上がりのストリートキッズで、不安定な職に付き、自分の機嫌も知らないまま生きている。人生の陰りは十分以上彼女に伸びていて、それでもなおナチュラルに屈折せず、ありのままの自分とありのままの世界を愛して、チューズデイと出会う黄金を待ち得る人間だったのだ。
そんな善良さ、徳の高さは彼女の美点であっても、欠点ではない。ナチュラルな善人を創作の中で描くのはとても難しいけど、このエピソード(と、アメル=エゼキエルを巡るいくつかのノスタルジック・ロマンス)で彼女が抱えるブルーズが見えたおかげで、このアニメはパーフェクトな聖人がその徳目を”恵む”お話ではなく、なんとか善良であろうとする少女がより善い場所にたどり着くお話に為り得た気がする。

アンジーがキャロルの”Mother”に(ある意味)救済されるのは、当たり前に降り注ぐ沢山のブルーズを当然のように受け止め、プライドとパワーのある少女として生き延びてきたキャロルあってのことだし、長くのたうった人生地獄道を時に誰かの手を借り、時に誰かの手を借りないことで這いずって生き延びたアンジー自身あってののことでもある。
そんなふうに、色んな生き方をしている少女たち、非少女たちの生き様が交錯して、発生した火花が何かを変えていく。薄暗い影を影と思わず、ずっと光輝ける存在もいる。ナチュラルに輝いているように見えて、そこには当然ブルーズがあって、それでもなお輝こうと頑張っている、あるいは輝けてしまう生き方というものがある。
父と一緒に青い闇(あるいは光)を歩くこの話があることで、主人公のそういう性質はすっと僕の中に入ってきた。この体験があればこそ、かなり極端に明暗の別れるW主人公体制を、アンフェアだとは思わず見れた気がする。

もう一人の主人公チューズデイも、第18話で失恋を背負って、少し大人びた表情を見せる。それを確認することで、彼女もまたブルーズを背負いつつ走る少女なのだと納得もできた。(両方コンテが板村智幸な辺りに、僕のツボをぶっ叩くなにかがあるんだと思う)
まぁMBで性格最悪のストーカーに悪意叩きつけられて、スターのキツさを肌で思い知った時点である程度以上ブルーズは満ちていたかな、とも思うが。シベールをあんだけ魅力的に彫り込みながら、クソストーカーのスーパーエゴとして刑務所に叩き込んで終わらせる所が、このアニメらしい贅沢さだなぁ、と思う。
”母”と向き合う特大のブルーズは、”Mother”制作に忙しい(なんとも皮肉だなこの構図!)チューズデイではなく、スペンサーが背負う物語となった。チューをフッた(自覚すらないところに、そもそも勝負に立ててすらいない初恋の未成熟、甘酸っぱさがあるわけだが)カイルが、スペンサーの相棒として社会正義に切り込み、また”母”への絶望と希望に反発/共鳴する所が、なかなかに因縁深い。
その重さに当事者として向き合うことなく、”Mother”が動かすべき巨大な空気を変動しうる特権。お兄ちゃんが頑張ってくれたおかげで、自分がなすべき”音楽”だけにナチュラルに対峙できる安全圏。
それもまぁ、そうなるべくしてなってる、チューズデイなりの生き方なのかなぁ、と僕は結構納得している。自分が諦めた”音楽”のど真ん中にいる妹に、存分夢を走ってもらうためにスペンサーが、意識して背負った重荷でもあろうし。

僕は間違えまくって、ナチュラルでいることも難しくて、サニーサイドを歩いてる自覚が全然ない人間だ。だからスペンサーやアンジー、タオやダリアの重たさ、暗さに思わず共鳴してしまう。
でもサニーサイドを二人で歩いているように見えるキャロチューだって、当然陰りは背負っている。それが影の住人(こう言ってよければ多数派衆生)のように、人生を引っ張る引力足り得ないのは彼女たちの幸運であり、特権であり、そうあろうと決めてそうあり続けるように生きてる努力の賜物だ。祝福こそすれ、羨んだり恨んだりするたぐいのことではない。
彼女たちはそうであり、世の中にはそうではない人も当然沢山いて、でもそこには通じ合うものがあるのだ。それを問答無用にぶっ刺せるのが”歌”なのかなぁ、などとも、終わってみると感じる。その鋭さに期待を込めて、製作者はこのアニメを”音楽”の物語にしたのだろうか。 

思いの外、光の双子と影の孤児は分断されておらず、コインの表と裏のように裏腹だったのだと思う。
アンジーは最後に、なんでキャロチューが嫌いなのかを言葉にする。無邪気で満たされた幼年期が、もう終わっているブルーズを思い知らされるからだ。
でもその輝きがあってこそ、影の中の微かな光を掴み取ることも出来る。クリスタルが言った『時代の陰りに屈することではなく、あくまでポジティブなメッセージを出すことこそクリエーターの本懐だ』というのは、多分このアニメを作った人たちの本音なのだろう。
そういう物語は、サニーサイドをナチュラルに歩ける主人公を主役に据えることでしか生まれ得なかった。そういう物語に説得力を出すためには、シャドウサイドを傷だらけで歩くアンジーの物語を、その横に添える必要もあった。
でも、サニーサイドだって暗がりと混ざり合う。陰りの中にだって、光は届く。そのことを予見的に描いているこの話があって、アンジーが人生のブルーズを噛み締めて、ママもタオもいない世界でそれでも歌おうと決めたラストに重たさが出るのだと思っている。
キャロチューがナチュラルに発する闇からの光がなければ、アンジーは再出発のステージには立ち得なかったんじゃないかな、やっぱり。そういう人を導きうる特権は、世界にないよりあったほうが良い。全然良い。

僕はあの終わり方が好きだ。プライドがあるし、アンジーのタフさに敬意を払ってくれた。少女三人、全員恋に敗れているところも良い。恋の成就だけが、世界を現在進行系で続けていく燃料ではけしてないのだ。
人生という物語は続く。このSFアニメがあぶり出しにしたリアルの問題を思い浮かべる時、そして僕の中に突き刺さったこのアニメの”先”を考える時、音楽はいつでも鳴り響くだろう。

そんな幸福な共犯、現在進行系で続く物語が成立しうる要は、僕の中ではやっぱりこの話数にある。
青い朝焼けの中の、幸福で寂しいブルーズ。それを見たから、『ああ、色々あったけどいいアニメだったな』と思えるのだ。
だから、この話数がベストである。