イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

やがて君になる 八巻完結に寄せての感想

やがて君になる 最終巻を読む。
様々な人、様々な思いと出会いながら変化していく思春期に、非常に誠実に寄り添った一つのスケッチ。
それが自作の積み上げた風景、心情、体温に嘘なく終われたことに、感謝と祝福の気持ちが非常に強い。 終わったので、全体的な感想を書く。
以下ネタバレ。

 

最終巻は『好き』という言葉を二人が交換したところから始まる。
この作品は『ここが終わりでも良い』というピークが幾重にも重なり、その先に積み重なる変化を織り上げ、追いついて追い越していくことで進んできた。
遠い星を追う、果て無き人の歩み。人生という変化の物語。

侑と燈子を通じて、その過程を寿ぐことがこの作品の芯であったのかなと、ラストカットを見て思う。
『ここが終わりでも良い』というピーク(”好き”を人質にとった共犯関係の成立、演劇を通じて”姉”を昇華する学園祭、好きという言葉の真実の交換、その先にあるセックス)を超えて、人は生きる。

その過程に、レズビアンであるという性自認の自覚(と、肌を合わせての確認、確信、獲得)もあるし、憧れだけだった恋という星を胸にいだき、日常に変えていく歩みがある。
それは”姉の死”というマイナスのピークを、時間軸の外側において始まった燈子の”オチ”としては、非常に静かなものだ。

輝く季節を追い抜いて、幸運にも二人は大人になっていく。
大人になれないまま死んでしまった”姉”の、無謬の永遠を追い抜き、色あせながら年を経ていく。
静止する死者と、前に進む生者。
思い出すことはあっても、同じテンポで歩くことは出来ないもの。
燈子は、姉を忘れていくのだろうか?

そういうことはなかろう。
侑と出会ったことで、演劇という生業と向き合ったことで、ようやく写真を公に飾ることが出来るようになった思い出。
それは恋と同じように、星のように燈台のように人生を照らしていく。思い出になったものは、消えるわけではない。

むしろその光と適切な距離を作れたからこそ、『二人はお風呂の洗剤が切れそう』な、当たり前の大事な生活を諦めず、殺さず、嘘をつかずに生き延びていけるのだろう。
そこに、キスもセックスもある。一つの生存形態として”性”を睨みつけ、自分だけの表現型を描きぬいた物語は素晴らしい。

 

このお話の中で、レズビアンも青春も特権化されない。
侑と燈子はそこを駆け抜け、そうなっていくわけだが、それは二人が二人であるがゆえに、あるいは侑が侑であり燈子が燈子であるがゆえに出た結論だ。
ヘテロセクシュアルであること。青春を抜けて(あるいは”つまらない”)大人になっていくこと。

それは作品のメインステージとなった、学園での甘く苦く美しく醜かった、とても靭やかで嘘のない日々と同じように、柔らかな肯定に包まれている。
そして、最終的にその平穏にたどり着くからと、思春期の迷いや、切実な傷から流れる魂の血や、己の恋に悩んだ日々が無駄だとも、無意味だとも描かれない

生きるて流れていくにしろ、死んでとどまるにしろ。
あるいは、侑に出会えなかったら燈子がそうなっていたように、生きているのに静止した死者の代用品として、何処にもいけないままにとどまるにしろ。
それは個別の色彩でそこにあり、全てのものが愛おしく輝く。
星のように、あるいは燈台のように。

その揺蕩う流れ、不可思議で当たり前の人生を、手を繋いで肯定できるまでの物語…他でもない私自身としての”君”になる…なり続ける物語が、このお話であったような気がする。
女性同性愛も、演劇も、嘘も、思春期も、かけがえのない唯一絶対のピースであり、それなしでは侑と燈子の物語は描けなかった

その上で、非常に強烈に”二人”にクローズアップしつつ、その外側に広がる世界の不可思議、百億の人生が複雑に煌めく人生の星空個別の光を、非常に大事にした物語だと思った。
ピークを超えても、物語は続く。死者が去っても、思い出は残る。
それは当たり前すぎる、当然の帰結だ。

でもそれを本当の真実として突き刺すためには、ここまで描かれたドラマティックと詩情、性衝動と純情の全てが必要であり、生徒会と演劇と学園生活とそれ以外を鮮烈に走りきった、二人の歩みが不可欠だった。
そしてそれは、必要なだけ描き切られたと思う。幸福な最終回、最終巻だった。

 

終わってみると、アニメが演劇の舞台にすら登らない、ありふれたデートで終わったのは良かったな、と思う。
無論ここ迄見事な終わりにたどり着いてくれた以上、あの豊穣たる筆致でアニメーとしてほしい気持ちは、背骨がへし折れるほどにあるけども。
それでも、あそこは確かにピークだ。

その先に、やがて君になる私達が、当たり前の生を照らす星星が確かに見える終わりだったのだから、あそこが”終わり”なのは間違いない。
もう一つの媒介でしっかりと描かれた、二人の物語の終わりと続き。そこに繋がるだけの作品理解と適切な表現が、アニメ版にはしっかりあった。

終わってない物語を、どう終わらせるか。
アニメ版はその難題に、『終わらない』という答えを選び取った。
人生は様々な変奏を孕みつつ、一歩間違えばあまりにも深い傷を背負うような過ちをかすめながら、何処かへ進んでいく。
それが何処に転がっていくかは、判らない…

と同時に、優れた物語はいかにドラマが転がり、どう解決して余韻を残すかを、前奏の中に予期するものだ。
この作品はとにかく、暗喩と複層的な表現が巧い。
コマの中に切り取られたもの、セリフの裏側にあるものに目を凝らせば、語られぬ心境も、見えぬ未来も届くように作られている。

そんな原作の魔法を見事に捕まえ、アニメに落とし込んだからこそ、あの水族館は今回の星空に、間違いなく続いているのだ。
可能であれば、描かれて欲しい。アニメであのシーンやあのセリフは見たい。
でも、星のように燈台のように、”終わった”アニメの輝きは、確かに今回の終幕に響いている。
そう感じ取ることが出来たのも、アニメからこの作品に出会い、強い感銘を受けた視聴者としては嬉しいところだった。

 

いい漫画であったし、いいアニメだったなぁと、終わった後幸福に思い返す。
八巻の、今の出版情勢ではそこまで長いとも言えないお話に、嘘はない。
全てがそこにある。

だからこそ、物語の終わりとして順当な幾つものピークを超えて、当たり前に続いていく(やがて大人になる)少女たちの物語が、強い納得と美しさを込めて胸に収まるのだろう。
とても良い恋の物語りであり、青春のお話であり、自分を見つけるための成長譚であった。
完結ありがとう、そしておめでとう。