文豪とアルケミスト 第2話・第3話『桜の森の満開の下 前編(上下)』を見る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
歯車に閉ざされ図書に満ちた、文豪たちの清潔な監獄。
潜書者達の新たな戦場は、桜と女が折り重なる、堕落と孤独の錦絵図だった。
自作に囚われた坂口安吾を巡り、交錯する文豪たちの想い。散華の果てに、君、何を思う…。
という感じの、無頼派新解釈の前後編であった。ひと繋がりのエピソードは、今後もこのようにまとめて感想を書くようにしたい。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
いきなり状況を転がし、物語を勢いよくスタートさせた第1話を補う感じで、設定説明もなされ登場人物も増え、『ここから本番!』という充実感のあるエピソードだった。
同時にこのアニメが文豪と文学に対して行う”読み”がどのようなものか、何をすくい上げ何を切り捨てるのかが感じられるお話でもあり、そこに自分がどう向かい合うかを問われている感じもある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
現状、文アルアニメの”読み”はなかなかに楽しい。納得する部分も多々あり、当然うなずけない部分もある。
そこを捏ねくり回してまとめ上げ、自分なりに噛み砕いたものを書いていくのも、また面白いことであろう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
文学を読んで『作者の言いたいこと(あるいは、自分が見たいもの)』をまとめる作業は、エピソードや言行を解体・再構築して人物を『このような人だ』と同定する作業に、奇妙に重なる。
しかし自分が見ているものをこそ、存在の全てだなどと思い上がるのは愚かしく、また正しくもない。僕等の限定された認識力と伝達力は、必ず何かを取りこぼす。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
それはつまり、誰もが必ず何かを掴める、ということでもあろう。そんな蟷螂の斧を信じてなければ、わざわざ電子の海に言葉なんぞ流さない。
文豪とされる一人間が、己を取り巻く時代と現実から何かを受け取り絞り出した、文学の精髄。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
それを読み解体し再構築して作られた、ポップなフィクション…を視て、自分が把握できる範囲での”文豪”と重ね透かして己の見つけた絵図を問う。
文アルアニメを見て僕が乾燥を胃うのは、中々に多層な営為だ。
かのような多重のメタ構造は、二話前半で意識的に言及されている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
当世風の美青年に擬せられた”彼ら”は、あくまで文豪当人の影法師であり、魂でしかないような存在である…と、”猫”は言及する。
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出口もなく、肉に伴う快楽も恐らくない清潔な檻に復活せしめられた、実在体の影。”文学”なる不確かな織物に投射される、特定の解釈の結晶体。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
それを、近代文学一つの開始点とされるだろう”吾輩を一人称にする猫”が監督しているのは、なかなかにハイコンテクストな状況だと思う。夏目先生はまだかね?
カンダタのように檻を這い上がり、落ちてなお死なない愚者達。彼らの頭は”歯車”で封じられ…つまりは必然的に、芥川龍之介の遺稿を思わせる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
彼を自死に追い込んだ、様々な妄想と苦悩は、ぼんやりと空を覆い、”どこか”へと出ようとする文豪たちを閉じ込めている。
彼らは”ここ”でしか生きられないし、ここで生きている限りは死ぬこともない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
それは死んで途絶えた文脈をどこか別の場所へと接合して、新たな人生を(あるいは作品を)生み出す自由がないこと…戦士としての生き方以外許容されていないことも意味する。
己がオリジナルの記憶と情念を(必然として部分的に)引き継ぎつつも、当然完全なコピーではなく戯画化された模造品でしかないこと。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
それを自覚しつつ、”ここ”においては彼らは唯一絶対の存在として個別に生きてもいて、『文豪とアルケミスト』という新たな作品を、己の闘いで書けもする。
志賀と島崎の間に交錯する鋭い火花は、恐らく”新生”と”或る阿呆の一生”に刻まれたバチバチを反映しているのだろうけども。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
”それ”が彼らを関係付ける唯一の糸だったか否か、というのは、相当に分厚い考察を求めるネタであろう。
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二人の文豪は、世に出た衝突以外の”私”生活においてどう接触し、どう交流し、何を交わしどう思ったのか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
学としての”文学”はそのくらいの調査は要求するものだし、この作品もまた、そこら辺を調べた上でなお、バチリと火花を散らせたものと思う…こととする。
アニメの制作状況もスタッフの個人的誠実さも、いち視聴者として甘受する僕には知り得ないことなのだが。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
プロとして言葉を世に出す以上、そのために必要な足場は固めていると信頼するところから始めたほうが、相手を侮らず、己を蔑さず作品に向き合えて、多分良いのだ。これは個人的なスタンスの話
しかしそこら辺の文脈というのは、24分の放送で伝え切るにはあまりにも複雑に過ぎて、当然省略される。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
少なくともエンターテインメントにおいては、くっそ面倒くさい文学オタクが、その残滓を拾って勝手に納得したり、憤慨しておけばいい部分だ。そこら辺をゴニャゴニャひっくり返すのも、僕は好き
とは胃うものの、一瞬のクスグリをおろそかにしないマニア気質がないと、物語という編み物は思わぬ所からほつれたりもするもので。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
何気ない描写の中に、スルスルとディープなネタを仕込んでいくオタク仕草には、個人的には好感と信頼を覚えるところだ。仲悪いからなぁ…文豪連中。
太宰と芥川は、見える星と掴めない星についてロマンティックに語り合う。オーロラが揺れる天に、仮想体でしかない彼らは手を伸ばし、しかし実感を伴って触ることはできない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
それが”まだ”なのか、それとも永遠の宿命なのか。
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それはとんと、分からないままだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
”芥川龍之介”は自分の記憶がないと、太宰に語る。その瞳は青い。侵食者と同じ色であるのは、恐らく分かりやすい伏線であろう。
この文学的ヴァルハラにおいて、芥川だけが特権的に、自作を介し得ない空白を有している。
僕は読解の道具として、主にテキスト理論を使うので、作者本人すらも書かれたものの”本質”なるものを定義できないと、思っているけども。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
文豪の亡霊をイタコして、『先生! どんなつもりでこの話書いたんですか!』と聞くわけにはいかない、間接的に読むしかない僕等。
芥川だけは、自作をそれと同じ立場で読むしかない、ぼんやりとした不安に包まれているわけだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
そういう意味では、『”メロス”は佐藤春夫への裏切りと信頼を、フィクションだからこその救済に委ねた作品だ』と、一人称でもって特権的に語れた太宰のほうが、作家先生っぽくはある。
あらゆる場所に墜落と救済のモチーフが重なるこの話で、太宰は常に芥川に守られ、救われている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
しかしそこに奇妙に漂うノイズは、その(風通しのいいホモセクシュアルすら匂わせる)師弟関係が、見た目通りではないことを暗示してくる。
これ、芥川先生相当不安定だな…。
かのように”読める”存在を救世主のように描くのは、泥に溺れる未熟な太宰の視点に読者をシンクロさせ、後の展開で太宰と僕等にショックを与えるための仕掛け…な気はするなぁ…。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
OPとEDで暗示されているのは、確実に芥川の堕天と救済であるし、第一話の反転がクライマックスに来る…か?
ここら辺は後の展開を楽しみに待つとして、今は無頼派たちの巨大感情絵巻である。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
詩人と文学者のカテゴリーに弾き出され、安吾に求められていないと拗ねる中也の感情がデカすぎて思わず笑ってしまうが。良いわよ…アタイそういうの好きよ…
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”桜の森の満開の下”に呼ばれなかった中也と島崎は、物語の外部から作品を読解していく。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
満ち足りた無理解と、それをこじ開けていく”女”という異物。出会うことで不幸は始まり、知ることで楽園は閉じていく。
タイトルは”桜の森の満開の下”だけど、実質”堕落論”じゃねーかな…。
なにしろ幻想的な原作なので、島崎の言うように読みは読者に投げられて、その意味合いも多彩である。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
しかしお話を読み切って意味を定位するためには、たった一つの確かな解釈、というものが必要にもなる。
中也と島崎の語り合いは、短い時間でそれを確保するための補助線として、内部の冒険を助ける。
彼らの読解を聞いて、『ざっけんな! 安吾はそんな気持ちでこの本書いてねー!!』と吹き上がる視聴者は、まぁあんまいないだろう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
というか、アニメーションと文学、趣味の母数を考えると、読んでいる層が恐らく少数派だ。このアニメは、それを前提に作品を読み、作品として読まれる必要があろう
2話48分という限られた時間の中で、ドラマとしての”桜の森の満開の下”の筋立てと、そこに作者が込めたテーマ性と、潜書者として再生された”坂口安吾”がそこに囚われた心境と、それを見守る仲間たちの思いを刻んでいかなければいけない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
なかなか大変な作業であるが、上手くやっていると思う。
置いてけぼり組の”読み”を補助線として、太宰と芥川は書き換えられた物語を体験していく。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
無頼派としての共鳴か、太宰は巨大すぎる桜に言いようのない不安を感じ、孤独の影に怯えて背を向ける。それは”坂口安吾”が、このお話で感じた空白だ
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瞳の全てを覆い尽くしてしまうほど、巨大な異物感。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
太宰は(非常にモテた彼らしく)”女”ではなく"桜"を瞳に焼き付けるけども、安吾≒山賊にとって世界を書き換える衝撃は”女”からやってくる。
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殺し、奪い、食らう。人間性を欠片もなく投げ捨て…というか最初から知らないからこそのある種の聖性に、安吾は圧倒され…しかしそれで終わらない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
山賊は異物たる女と出会い、繰り返される殺戮の戯画に揺れながら、最終的に異物と一体化出来ないまま、己を桜へと散らしてしまう。
あれだけ焦がれた美しく満ち足りた堕落も、それを破綻させる他者も、両方掴むことも出来ないまま、不安な世界にあり続ける。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
坂口安吾は理想的な堕落に山賊(≒自分)を置きつつ、それを分断する孤独と不安を、どうにも逃れようのない一つの本性として刻んでいる。
それが”桜の森の満開の下”、”本来”の筋立て…と、読んで良いものか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
書かれたテキストは歴史とか文脈とか、また別角度からの読解とかで様々に編み直されるもので、僕がこうして書いた読み(あるいは文アルアニメが読んだ読み)を当然、絶対化はしてくれない。読む行為は、いつでも不安定で不安である
それはさておき、太宰の大ピンチはやっぱり芥川先生の降臨で防がれ、彼らは潜書者として『正しい読み』に作品を…自作に飲み込まれた作者を導いていく。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
己の被造物に膝を屈し、メタ的視点を奪われ筋立てを書き換えられる、哀れな犠牲。
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それを文字通り、高い所から見通す読者の視点と、フィクションの内部に切り込んで書き換える、作中人物の特権。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
それが太宰と芥川にはあり、彼らは同じ”作家”の領域まで、親愛なる坂口安吾を引っ張り上げようとする。
文豪が本に喰われた状態は、創作を成り立たせる階層構造が壊れた状態、とも言えるか
そんな物語世界の外側で、ヨロヨロと傷ついた体を引きずり、織田作之助は献身的に、同胞のために再び戦場へと向かおうとする。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
文豪酒場”ルパン”で語り合った、まこと面白き文学者たちの青春。その喪失が、安吾を縛ると。
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それは46年当時には知り得ない、ひどく脆い崩壊前夜の記憶である。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
皆等しく泉下に旅立った後だからこそ、後腐れなく”キャラクター”になれてる文豪たちは、自分がたどった歴史もまた、後出しで知ることが出来る。
置いてけぼりにされた寂しさを、二度と味合わないために。
異物たる”女”の言うままに、繰り返される殺戮戯画に身を投げる安吾の弱さ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
それを知ればこそ、織田作之助は幾度も書に身を浸す。まこと尊く、献身的でホモソーシャルな関係性である。
さて、ここである。
異物として女を斬る今回の物語、文豪の細君たちは影も形もない。
彼らが既婚者であり、あるいは婚姻関係から外れた女達との関係がその作品、その人格に多大な影響を及ぼしている…異性だからこそ影響し合うような”女”を、乙女を対象として再構築されたこのロマンスは丁寧に排除する。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
”桜の森の満開の下”を、女という異物が聖なる堕落を壊す物語と読み直すのなら。
そこには津島美知子も山崎富栄も宮田一枝も梶三千代も(なんなら、晩年の安吾を大きく変えた坂口綱男も)、いておかしくはないじゃあないか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
いや、判る。
そんな枝葉を描写されても萌えないし、男男巨大感情を描く上でそういう”外側”は邪魔だし、つーかそういう話じゃねぇし。
エンタメとして成立させるためのある種の単純化として、その存在を後景に下げられた”女”たち。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
彼女たちが作品を汚す”鬼”として安吾に切られたのか、はたまた別の形で顔を見せるのかは判らぬけども、今回の闘いを制したのは無頼派達が”ルパン”で築いた、確かな絆であった。
例えば樋口一葉とか水野仙子とか宮本百合子とか三宅花圃とかが、”文豪”としてこの世界に降り立つことは、恐らくないだろう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
そういうキャラクターは、多分お商売としても訴求力がないし、男と男の巨大感情と因縁が渦を巻く物語の”純度”視たいのを下げる。
それは作品として一貫性のある一つの決断で、同時にそうして選び取った『女の不在』が、いつかとんでもない角度から作品を突き崩す…かもしれない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
それは一応この物語を読み通してみなきゃ、さっぱり分からない…もしかしたら部外者たる僕が勝手に思い込んでいる違和なのだ。
女なる異物と邂逅し、交流し、交接し、影響された存在としての文豪の側面を、男と男の物語としてシェイプされたこのお話は掬いにくい。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
そういう構造が、自然と追いついてきてしまうことを、鬼化した”女”を殺す闘いは、(少なくとも僕の眼には)強調してきた。
生き残ってしまった孤独を抱え、聞えるはずのない死者の声を、再生された亡霊だからこそ受け取って、織田作之助は二刀を手にする。異物に圧倒されるよりも、同質なる無頼派に帰還することを決断する。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
かくして、本筋通り花は散った。
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物語を書き換え、文豪の人間的な震えを増幅・支配してきた”鬼”の姿を、安吾はサングラスに写す。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
芥川先生は彼らを『ただの人間』というけど、その言葉にはどんな意味合いが込められているのか?
激化しそうな気配もある、現実での検閲への牽制?
正しく読むも汚すのも、人間たる読者次第という視線?
もしくは、人を鬼と見るか人と見るかも、認識一つという心理主義的な解釈か。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
それとも、再生された人間たる自分に、青い光が宿りかねない危うさを冷ややかに見据えているのか。
個人的に、結構大事な台詞だなー、と感じた。
書を汚すものは、どこから来るのか? そこまで彫り込むのかな?
とまれ、取り残される寂しさを酒に溶かしつつ、中也が待つ図書迷宮へと、文豪たちは帰還する。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
安吾が創作に迷った孤独を、中也は”現実”で抱えているという対比構造は結構好きである。”坂口安吾”に深く刻まれたルパンに、中也はいないのだ。
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『それもまぁ、仕方ねぇな』と飲み下す酒は、堕落するべき身体を持ち得ない魂を酔わせるのか?
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
ある意味フーコー的な匂いすらする、『体に良くないもの』と文豪の描写は、煙管を吸わない芥川先生に、影を伸ばしている。
魂だけの存在が、(少なくとも坂口安吾的な意味での)堕落に、どう身を浸すか
歯車に閉ざされた奇妙な空間は、戦いを終えた充足と、それで覆いきれない不安を残したまま、静かに揺れている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
その中枢として特権化されている芥川先生が、一体今後どう揺れるか。
やっぱ『眼目はここッ!』と、作品が語っている感じはするなぁ。太宰くんも大変だ。
というわけで、坂口安吾を読む前後編、大変面白かったです。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
物語構造にダイブするパートも良かったですが、その外側で不自然なる再生を果たした文豪たちの、それでも火花を散らす感情と切実が上手く描けていて、なかなかヒリヒリしました。中也の感情がデケェ。
己を死に至らしめたぼんやりとした不安に、白紙の記憶でもって苛まれる芥川先生にフォーカスすることで、あくまで多重に模造品でしかない”文豪”たち、それを主役と取り回す物語にしっかり向き合う姿勢も、ジワリと匂ってきた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
かーなりメタな話になるんじゃねぇかな、と思っている。楽しみだ。
ただただ”敵”をぶっ殺しておしまい、という話にはならなさそうな気配もあって、さてどういう方向に舵を切り、何を描いて何を取りこぼすか、今後が楽しみである。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月26日
個人的に気になった”女”の不在が、今回限りのものか、はたまた作品全体を貫通するか。
それ含め、次回以降も楽しく視続けたい。