文豪とアルケミスト ~審判ノ歯車~ 第6話・第7話『地獄変 前後編』を見る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
”小説の神様”志賀直哉の顕現が、図書館に波紋を引き起こす。
明るく楽しい料理対決から、突然の黒変へ。”地獄変”の呪いに囚われた芥川を救うべく、太宰と志賀は本へ潜る。
批評者もまた、燃える覚悟を秘めて己が言葉を…
そんな感じの、ゆるふわキャッキャエピソードかと思ってたら志賀が燃えた!! 文アルアニメ折り返しである。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
いやー…前編と後編の落差で耳キーンなったが、文豪を取り巻く厳しいルール、”書く”ということ(それはつまり”読まれる”ということだ)にまつわる業と救いを、志賀の遺灰で刻む話となった。
志賀は六話で登場し七話で退場する、”地獄変”のためのゲストといえる。彼は大小説家としての顔をほぼ掘り下げられず、芥川龍之介の批評者として、強烈な印象を残す。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
この操作は、色んな意味で示唆的だと思う。
志賀直哉が、作家として語るべき価値のなしとは僕は思わないし、文アニも当然言っていない
むしろ”小説の神様”としての存在感をバックボーンに、芥川を秘めた迷妄に落とし、鋭い批評で真実をえぐり、燃え盛る残影として太宰と芥川に消えない傷を残す、デカい仕事をやってのけた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
『僕が芥川先生を一番理解ってるんだぁ!』と、血迷ったアムロみてぇな事吠えてた太宰よりも。
志賀はより深く芥川を読み、自分の発する言葉が何を砕き(何を再生させるか)意識した上で批評を行っている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
それは”批評”という営為が十分文学足り得る、という、作品が扱うジャンルを拡張するためのドラマでもあろう。
”月に吠える”で詩人を文学に取り込んだのと同じく、批評家もまた文豪たりうる。
そういう多面性を確保するために、志賀直哉は”小説の神様”ではなく”芥川龍之介の批評者”として、自らは小説を書かなくとも”読む”という鋭意の鋭さでもって、文学史に己を刻み込める”文学者”として、闘い燃えていった気がする。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
適切に読むこと、話すことは、時に書くことよりも厳しい。
批評的営為に求められる公平さと愛情を”志賀直哉”は理解していたし、自分の読んだ”地獄変”を、それを生み出した芥川龍之介に届けるために必要な対価を、己を燃やすことで支払ってもいる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
それは物語の主役として、芥川真実の救済者として今死ぬわけにいかない太宰が、(まだ)払えない高値でもある。
志賀は安全圏ではなく、火の粉が飛び自分が燃え死ぬ文学の(あるいは人間の)最前線で、厳しい言葉を投げた。放たれた矢がが戻ってきて自分を刺す公平性から、逃げることはなかった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
その堂々たる生き様と死に方は、今こうして感想書いてる自分としても、襟を正される思いで受け止めたい。
『批評はしたが、消えてほしくはなかった』
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
人の心をざわつかせる真実を、あえて投げかける。言わずでも良い言葉、なくても良い悲劇を、どうしても発せずにはいられない切実さ。
志賀が芥川にぶつかっていった激しさは、つまり芥川が”地獄変”を書かざるを得なかった熱量と同価であり…
書くものも読むものも対等に、命を燃やしお互いに言葉で切り結びながら、己と己の書くものを善くしていける…と示すために必要な、”志賀直哉”の燔祭であった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
そこには”網走まで”も”城の崎にて”も”灰色の月”も…小説家・志賀直哉はないけれど。
しかし、非常に”志賀直哉”な話であったと思う。
前半は文豪ちゃん達が存分にキャッキャするゆるふわエピソードであり、実篤先生のキャラを見せたり、太宰がグギギする悋気を描いたり、のんびりと進む。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
顔も声もないまま、文豪の世界を律する”神”たるプレイヤー…アルケミストの話でもある
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第1話の犠牲者であり、芥川先生に救済された幼子としての顔が強い太宰は、志賀と芥川の親しい距離感にハンカチを噛む。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
その空回りと情熱の強さが、呼ばれてもいない”地獄変”に切り込む片割れに説得力を与えているので、コミカルながら大事な話である。お前ほんま未熟やなぁ…。
志賀亡き世界で、未完成な太宰治と不安定な芥川龍之介が、どう生きていくか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
それが後半戦に長く響くように、文豪たちが輪郭をスケッチしていく”アルケミスト”の存在も、ある種の予兆として書かれているのだろうか?
ここら辺は、後半を見ないとなんとも言えん。
酒と女とドラッグに溺れ、人生持ち崩したダメダメ野郎どもの巣窟である文豪長屋。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
食の快楽を求め続ける彼らが、女郎屋ではなく田畑に漕ぎ出す姿には、奇妙なおかしさがある。それは史実で”新しき村”を生んだ、実篤のおかしみでもあろう。
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愛憎と欲得が渦を巻く図書館の、空気を抜くべく農作勝負。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
注射器と筆くれぇしか持ったことのねぇポンチ集団・無頼派も、文豪DUSH!に勤しみ、倫理に厳しい実篤先生にお小言を食らったりする。
そのほのぼのとした、時間を超越したやり取りが、再生された彼らの鬱屈を晴らすのか。
ゆるふわ農作日記は『こうであれば悲劇など生まれ得ないけど、作品が執筆された初期衝動、果たすべきテーマを停滞させてしまう展開』であり、後半で芥川が囚われる娘との日々と、静かに呼応している。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
イケメンで可愛い文豪たちは、死地に赴き文学を復興する使命を帯びて、わざわざ再臨させられている
しかしこの新たで…多分いびつな生にも生きる喜びはあり、個人個人の意志と欲望、感情がある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
アルケミストが時間を操ることで捏造される、楽しい日々。それに溺れ、安楽に生きる権利もまた、文豪戦士たちにはあるだろう。
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(史実の影、いびつなギズモでしかない”文豪”がやっぱり、作品の只中を生きていると見せるための大事な補助線ではあっても)、しかしその平穏は、このアニメのメインテーマではない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
剣を握らず、エプロン付けて楽しく生きていることが、書が黒く焚されている世界での、文豪の存在意義ではない。
というか、仲間に包まれて楽しく暮らす生の喜びを甘受するためには、自分達の存在を根本から規定する”文学”を防衛するしかなく、戦って燃えて死ぬこと含め、書に潜る物語をやりきるしかないのだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
人が出会い、ぶつかり、解り、死んでいくドラマ。”志賀直哉”が二話かけて刻む、起伏のある物語。
その緩急自体が、”芥川龍之介”が史実において、またこのアニメの中で思い悩む、筋書き重点のあまりに文学的すぎる苦悩に、一つの答えを出している気もする。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
非現実の空想で描かれる、現実よりも色の濃いドラマツルギー。小説を…文学を覗き込む読者が求め、傷つき、救われる大事な足がかり。
それが捨て去るべき夾雑物であるのならば、なぜ志賀は死ななければいけないのか、ということにもなろう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
志賀と太宰の対立は、ゆるい番外編で解決していく…ように見えて、芥川の胸を焼く青黒い炎によって、本筋に帰還していく。
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農作対決においても、”芥川龍之介”の記憶がない…作家として自作をどう感じ、どう”批評”していたか確たる事が言えない芥川は特権者であった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
”月に吠える”の不条理に飲まれず、そこを打破する夢の受信者であったような特権は、彼を孤立させる。ゆるふわな平穏では消えない炎が、日常を燃やす。
そこには文学史に刻まれる作家・芥川龍之介の苦悩がある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
作家としての業に己を燃やした、驚嘆しつつも引き込まれる”地獄変”の面白さ。
それがいらないのではないかと、己の腕を切り落とすかのような言葉を谷崎が受け、今なお残響する論争。
文学的な、あまりに文学的な。
図書館の日々を楽しみつつ、どこかアンニュイな気配を漂わせていた芥川先生の姿は、俯瞰で見てる僕らは知っていて、太宰の主観には見えていない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
太宰は理解っていない。
そう思えるように、彼が芥川に救済されてしまった第一話から、物語は編まれている。
太宰が信奉し寄りすがる”芥川”という蜘蛛の糸は、絶対無敵の”小説の神様”などではけしてなく、苦悩に儚く揺れ、隠された特権に孤独を噛み締めている、とても人間的な存在である。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
志賀はそこに目を向けて、太宰はまだそれを見れていない。そういう対比が、地獄の中で鮮烈になっていく。
志賀の批評に太宰は憤るけども、批評されている芥川はその痛烈をこそ待ち望んでいるという、寂しいすれ違いが”地獄変”の前傾にはある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
織田作之助の地獄に呼ばれなかった、中也の嘆き。
全ての存在を受け入れつつ、犀星のみを待ち望んでいた朔太郎のエゴ。
そこら辺とも呼応する描写だ。
この片恋の切なさは、自分が潜れない戦場で、自分以外の文豪(あるいは彼が背負う”文学”そのもの)に身を投げて死んでしまった遺品だけを受け取り、泣き崩れる実篤先生にも通じている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
全体的に、片思いのガソリンで動く話だと思う。エグいなー…好みだけど。
太宰が”批評家”志賀を敵視するのは、批評行為が己をさらけ出さず、安全圏から作家だけを焼く偏見(あるいは、社会一般の”常識”の体現)からだと思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
どーせ自分を切り裂くこともなく、他人の尻馬に乗ってるだけだろう?
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そういう視線を、太宰が志賀に剥ける苛烈な敵意は具現化しているし、稲妻に身を焼かれつつも”芥川”との対話を求める勇姿は、それに反論もしている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
批評家も、また己を業火に焼くのだ。
そういう”文学”の横幅をしっかり見据えて、アルケミストは二人を”芥川”と出会わせ、”地獄変”に沈める。
ここで二人が対峙している”芥川”は、”地獄変”に飲まれ客観性を失った”芥川”ではない。図書館で文豪戦士として、奇妙な日常を共有していた”芥川”とも、また違う存在かもしれない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
芥川龍之介個人としての記憶と価値観を保持し、自作と自分がどう評され、何を書いたか憶えている存在。
『本当の芥川龍之介』と、今回地獄に迷った”芥川”が分裂していることは明白だが、作中唯一の真実として『本当の芥川龍之介』がまた存在しているかは、先を見ないと分からない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
…まどろっこしい書き方を要約すると、侵蝕者たる”芥川”と文豪たる”芥川”が、主客逆転して存在してると疑ってる。
実在人物のギズモでしかない文豪戦士の、そのさらなる因果たる、汚染された文豪。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
リアルとフィクションの多層構造に置かれているこのお話に、投げ込まれる一つの疑問。
”芥川龍之介”というミステリを追う旅路は、真実なるものの不確かさ、虚像が有してしまう体温を強調してくる。
今回の潜書もまた、そんな旅路の一つである。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
見たものしか書けない、書かない。そんな誠実なリアリズムこそが、フィクションに命を与えうる。
芥川が囚われた檻は、体験した事実を虚構に圧縮せざるを得ない、作家の業も切り取る。
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より優れた虚構を作るために、わざわざ精算な現実を引き寄せる転倒。起きなくても良い悲劇を、わざわざ物語に刻む意味。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
”地獄変”を読む時、否応なく読者(あるいは批評家)に去来する疑問を、今回の潜書は掘り下げていく。
わざわざ、戦う必要とかあるのか?
志賀はそれに迷いなく”応”と答え、太宰も芥川先生とのゆるふわライフに愛着しつつ、文豪戦士の本分を思い出し、物語を断ち切る方向に舵を切る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
それには、”走れメロス”に迷い、芥川の太刀筋に助けられ正した記憶が響いている…気がする
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太宰は第1話で、自作を歪め自分を歪められる当事者となった。それを切り裂き、自分を取り戻す手助けをしてくれた芥川が、同じ迷いにとらわれている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
その無念が、満ち足りて幸せで…何も起きない物語から脱却し、鮮烈なる悲劇へと道を正す決断を、太宰に与えた気はする。未熟だけど、主人公だねぇ…。
批評家は命がけで、自分の思いを証明していく。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
正しはしたが、消えてほしかったわけじゃない。むしろ燦然と永遠に、人類の営みに刻まれるべきものだからこそ、己の言葉で刺し貫く。
真実の厳しさを求める芥川のマゾヒズムに呼応する、志賀の清廉苛烈なるサディズム。
その帰結点として、炎の中に己を燃やし尽くす献身がある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
芥川はそれを筆写し、地獄絵に刻む。
残酷で個人的なリアルを、どうしてもフィクションに刻まざるを得ない業。それを顕にする、起伏ある物語。
有史以来、『物語る動物』が悩み、刻んできた普遍。
それを前に、文豪たちは立ちすくむ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
芥川の涙は、地獄すら観察し筆耕してしまう、作家としての浅ましさに流れるのか。
太宰が立ちすくむのは、反発していた志賀が自分よりも強く、”芥川龍之介”を求める激しさに気圧されたからか。
あるいは、文豪から生み出された文学から、更に再生産された彼らは…
己を焼く炎を前に、足もなく立ちすくむしかない文字たちと同じように、受動態の宿命を有しているからか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
色々思うところはあるが、志賀は燃え、二人は生き残る。生存者たちの傷が、これからの闘いにどういう残響を残すか。
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楽しみである。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
掴めぬオーロラに反射した青黒い炎は、”芥川龍之介”を巡る事件がまだまだ終わっていないことを示す。
己が身を持って”地獄変”を完結させた志賀の、思いと言葉がどれだけ”芥川”に刺さっているかを、今後の物語は問われる。
ヌルいこと吠えてたら、志賀の代わりにぶっ飛ばすぞ…。
図書館の天井を塞ぎ、文豪に戦士以外の生き様を許さない歯車が、太宰の鎌にも志賀の剣にも付いていた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
それは誰かのための闘いに動員される、奴隷剣士の焼印…とも思っていたが、”遺品”としてすくい上げられる仕草には、少し違う匂いもある
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文学史(あるいは人類史)という巨大な装置に組み込まれた、書かすことのできないメディアとしての文学。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
それが侵され砕かれる中、再生された”文豪”の生は、必然的に断片的にしかなりえない。
女はいないし、堕落の種は遠ざけられているし、作品を全部は読まれないし、なぜか武器握って戦ってるし。
ポップカルチャー、あるいは物語製品としての立場が要求する様々ないびつさの中で、しかし”文豪”たちは生きているし、つまりは死ぬし、彼らが生み出す独自の物語もまた、独自の息遣いを持っている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
歯車しか残らない、影法師の消滅。
志賀の焼滅が残したのは、しかしそれだけではなかろう。
僕らがこの、上下動があまりに激しいエピソードから感じ取った形のないもの。それと同じものが、文豪たちにも刻まれ、人間としての彼らをか得ていくのか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
志賀が己を燃やしてなお消えない、”芥川”を包む青黒い炎を読み解き、突破する…適切に”批評”するための武器として、遺された歯車は機能するか。
そこら辺を見守りたくなる、ある戦士の死、ある批評家の物語であった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
やっぱ史実を借り受けてお商売している歪さ、文芸と消費財のキマイラである己自身と、そこに繋がる”文学”の今と未来を、このアニメは苛烈に見据えている感じがする。
面白い。とても面白い。次回も楽しみ。
しかし前回の現実エピといい、”瞳の中に囚われた事象が、見る側を決定的に捉える”演出が繰り返されるな…。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
見ることと見られること、書くことと読まれることが相互侵犯的で、アクティブで危険で特別な行為なのだ、と魅せたい演出…なのかな。
今後も顔を出すか、出すならどう使うか。個人的注目。
追記 ”未来成仏うたがひなき 恋の手本となりにけり” 近松、曽根崎心中。
文アル追記。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
心中は”心中立て”の略で、相手を思う心を証明する究極系として、一緒に死ぬ事になる。
史実において幾度か心中を試み、軒並み失敗してきた太宰。彼が炎を見つめる先では、志賀がこれ以上ない芥川への、文学への”心中立て”に成功している。
この再生でも、彼は己の心を立てるための死地に向き合いきれずに終わるのか。志賀が証明したものを背負って、それを更に先に進めていくために新たな生を使えるのか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月8日
どっちにしても、その中心にあるのは”芥川龍之介”以外にはありえない。
死に切る以外にも、”心中立て”の方法は沢山あると思うが、さて
追記 『芥川はなぜ死んだのか。文学営為は作者を絶望せしめるのか』という、100年近く解かれていない大難問に、自分たちなりのアンサーを返す話にもなってくるのかなー、と思ったりもする。
ここで鏡の中に写るもう一人の”芥川龍之介”に、なんらかデジャブを感じていたわけだが。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月9日
”歯車”あるいは”二つの手紙”で芥川はドッペルゲンガーを登場させている。
自死に帰結する彼を”殺す”存在としての二重影は、歴史に刻まれた”芥川龍之介”も焼きたがるのか。
ドッペルゲンガーらしく、その微かな影のみを描写され続けている”青い芥川”が真実、どういう存在であるかの種明かしは、おそらく後半を引っ張る大きなネタになるだろう。
それは書かれた物語は誰が活かし、誰が殺すかという、文学殺人事件を問うことにもなると思う。
作者が悔いて殺せば、自作は死ぬものなのか。
そんな苦悩とは遠いところに投げかけられ、誰かを苦しめ誰かを救ってしまった言葉は、生産者の手を離れ自走するのか。
その時、独立した残影は作家と同じ顔を持ちつつ、同じ記憶は持ち得ないのではないか。
そこら辺を掘るために、今回『芥川龍之介の事件』を志賀に読解させ、批評させ、その燃え盛る誠実を以って解決…させてなお、終わらぬと残影を以て語るのか。
己の影を乗り越え、文豪戦士としての使命と矜持に帰還し得た太宰が、芥川大好き読者としてどう立ち回るか含め、先が楽しみである。