イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

映画”ギヴン”感想

ブルーリンクスレーベルの新作、映画”ギヴン”を見てきた。
TVシリーズの続編として、あの放送では匂わされ語られなかった秋彦と春樹、雨月の複雑な恋の行く末と、音楽に目覚めてしまった真冬の覚醒と成長を丁寧に積み上げ、60分の尺にしっかり刻み込んだ傑作であった。
『TVの話数で二本分、一体何が語れるものか』
そんな不安を全力で蹴り飛ばし、TVシリーズで輪郭だけ見せられ臓物を確認できなかった男たちの恋と憎悪と救済が、圧倒的な詩情と濃度で殴りつけてくるような、力強い視聴体験だった。

恋すればこそ、離れていかなければいけない。進まなければならないのに、諦めきれない。
雨月と秋彦を縛り付ける恋情の糸が、無邪気で清潔で凡庸な春樹を巻き込み、傷つけ、救い変えていく。
そして雨月の楽才が真冬のそれと共鳴し、バンドとして音楽を積み上げ、覚醒していく歩みもまた、力強い希望と優しい切なさに満ちて、見事な”音楽映画”でもあった。
TVシリーズでは使われなかった、生っぽいセックスも適切に使用され、映画でしか見れない物語をしっかり彫り込んでいたと思う。
何よりも”夜が明ける”という名曲の、圧倒的なパワーとメッセージが刻み込まれたライブシーンは、ぜひとも映画館の音響で見て欲しい仕上がりだ。
続編として、ある種の完結編として、新たな恋の物語として、一個の音楽映画として。
非常に素晴らしいものだった。TVシリーズ含め、未見の方には強くおすすめしたい。
以下、ネタバレバリバリで感想を書く。

 

というわけで、待ちに待ったギヴン劇場版である。
前述したとおり、長いとは言えない尺の中で何を見せてくるか不安であったが、そんな杞憂を真正面から切り飛ばす、的確で力強い映画であった。
TVシリーズでは悩める高校生カップルの、音楽と人生の初心者に導きを与えるいい兄貴分として、闇を見せることの少なかった秋彦。
持ち前の明るさ、風通しの良さでバンドを繋ぎ、支えてくれた春樹。
そんな彼らが抱えている危険な予感、秘めたる湿気は暗示はされても主題にはならず、僕は常にそれがどう描写されるかを気にかけ……TVの範囲では描かれなかった。

穴蔵のような、薄暗い雨月との同居。
そこにうっすら陰る性臭と腐れ縁。それはとても真っ直ぐに、死に繋ぎ止められ前に進めない屈折すらも真っ直ぐに走っていった、立夏と真冬の物語では真ん中に据えられない暗がりであった。
しかしそこから匂い立つ人生の矛盾、愛憎の発酵臭はとても魅力的で、いつか描かれることを夢見ていたからこそ、僕はこの劇場版を待っていた。

TV版で『ここには危険で、魅力的なものが埋め込まれている』としっかり明示できたからこそ、秋彦と雨月の危険で純情すぎる距離感の説明を省き、限られた尺を徹底活用して、深く深く人間存在と音楽に潜り込めた、というのも、この映画の強みかもしれない。
解決を待つ和音が、ようやくその真価を発揮したような喜びが、秋彦の兄貴ヅラの奥にある身勝手と残酷、雨月の胸中に宿った凶暴な優しさ、凡庸に苦しむ春樹の痛みが顕にされるたびに、僕の中に生まれていった。
TVで描かれたあのシーンには、そういう意味があったのか。
三人はこういう過去と感情を覆い隠して、”兄貴”をやっていたのか。
過去に遡り、彼らが必死に生きるその必死さを、なんとか隠そうとする無様さすら愛おしく思い返せるような、濃厚な描写。
それは立ち止まらず、激流のように物語を疾走して、色んな人を傷つけ、繋げ、変えて、音楽を生み出していく。
過去と現在と未来が相互に絡み合い、強烈な楽譜を生み出して続いていく心地よさが、物語全体に生きていた。

 

そして同時に、真冬の物語としても非常に強い芯があったことが、僕に意外な喜びを与えてくれた。
由紀を己の言葉で殺してしまい、胸の奥に閉ざしていた歌を新しい恋と、音楽と出会うことで解き放つ。
名曲”冬のはなし”に巧妙に結実する再生の物語が、一つの結末を迎えたその先。
鎖を解かれた楽才という獣が、どうひた走るのか……真冬の”二曲目”はどんな音楽となり、誰に届き、”バンド”はそれ似どう答えるのか。

雨月という、真冬に唯一釣り合うだけの天才性を持ったキャラクターを配置することで、そんな物語は力強く躍動する。
彼のデザインが”黒くなった真冬”に見える所が、魂の深い所で共鳴する二人のミュージシャンをうまくヴィジュアル化してて良いな、と思うけども。
他人の心を思い切り開いてしまえる音楽の才能と、あまりにも哀切な恋に苦しんでいる痛みを、雨月のソロから真冬が感じ取るところから、物語はスタートする。
天才の天才たるゆえんを、理屈抜きで感じ取ることが出来るセンサーが真冬にはあると教えてくれるこの出だしが、恋と同じくらい音楽を大事に見つめ、それが為し得るものの意味、掴み取るための苦しみを刻んだ”音楽映画”としての期待感を、しっかり高めてくれた。

雨月を見つめ、自分の苦しみを超えて誰かのために”夜が明ける”を作り上げ、歌い上げた真冬は、秋彦を音楽と恋の初期衝動へ、雨月をあるべき別れと新たな旅立ち(そしてあまりにも切ない涙)へと、歌で以て押し出していく。
そういう心を歌に乗せれる才覚が、立夏がギターを直しロックに出会わせた少年にはあって、それを目覚めさせたのは、他ならぬ雨月と秋彦だった。
色んな人に支えられ、繋がって自分の苦しさを超え得た少年が、今度は音楽で”バンド”に、出会ったもう一人の自分に、音楽自身に『恩返し』をする物語としても非常にしっかりしていて、僕は聴いていてとても楽しかった。

TV版で真冬が見せたあまりにもピュアな感性、声を塞ぐほどの苦しみと愛が、今度はとても力強い歌になって、誰かに届く。
そういう”報い”みたいなものがこの映画にあったことは、彼のことが好きな視聴者としてはとてもありがたいことだった。
若き天才ミュージシャンの覚醒を至近距離で支え、派手な動きはしないが常に正解を与え続ける立夏も、透明感のある立派なダーリンで、登場するたびに『立派……立派やで上ノ山くん!』って心のなかで吠えてました。
ぶっちゃけ立夏の出番、この映画少ないんだけども、彼が絶対に”間違えない”ことで、間違えまくりすれ違いまくりの年上層の下支えをしっかりやってくれてる感じが、凄くありがたかった。
ただれたセックスと夢の残骸に取り囲まれ、何処にも行けなくなってる大学生カップルに『これが愛の答えだッ!!』と気取らず、しっかり”答え”見せてくれた立夏の存在感は、出番に反比例してデカかったと思います。

 

TVシリーズで見せていたものを活用して、時間を圧縮することで無駄のないテンポを実現していることが、この映画の見ごたえに繋がっているのは間違いない。
TVシリーズでは露骨ヤバそうな暗黒青年だった雨月が、存外可愛いやつで、優しいやつで、秋彦を愛すればこその苦しさに自分も、愛する人も縛り付けてドコニモイケナイ、とても苦しいやつなのだと早めに見せてくれたのは、とても良かったです。
恋のライバルなんだけど、春樹とは直接対面しないんだよなー、雨月。
彼の苦しさを受け止め、”夜が明ける”として結晶化するのは年下の真冬の仕事で、年上世代がどーにも出来ない想いを歌に結晶化させることで、才能の開花、立夏とバンドに出会って成長した人格を見せる立場にもなる。
この話はTVシリーズでは子供だった真冬がの背丈が少し伸びて、自分を支えてくれた兄ちゃん達が素直な子供に戻れるように、重荷を背負ってあげる話だと思うのね。
そして、最初に雨月の想いを語ってもらう立場になることで、その一歩目を踏み出す。

雨月が抱え込んで、秋彦と一緒に縛り付けられている愛憎。
このまま行けば腐っていくだけだと、音楽に操を立てて関係を断ち切ったつもりなのに、肌を合わせる愛おしさ、思いが寄り添う苦しさからは逃れられない。
それは由紀と死別し、思い出の中で語り合うしかなかった(だからこそ、自分を許してより善い関係に溶け出すことも出来なかった)真冬と、似ていて違う関係。
触ることも語り合うことも、セックスすることだって出来るのに、死人よりも心が通わない存在を愛してしまっている苦しさ。
生者としてこの世界にいるのに、冥府の中に囚われているように時間が動かない。
だから傷つけて、離れていって欲しい。自分からサヨナラを言ったのに、諦めることなんて出来ないから。

そんなあまりにも純情で凶暴な思いを、早い段階で見せられてしまうともう、雨月のことを”人間”として見るしか出来なくなってしまう。
同時に誰かが介入しなければ動き出さない時間の重さ、秋彦が向き合い春樹が立ち向かうべき問題の重さも、よく見えてくる。
あの穴蔵の中で、雨月が結構素直に真冬に向き合い、色々喋ってくれたことが、この映画を真剣に見る大事な柱になってくれたと思うわけです。
ここら辺、TVシリーズで培った不信感を凄く気持ちよく、的確に裏切る運びでもあって、むちゃくちゃ計画的に話作ってるなぁ、とも思った。

僕が雨月好きなのは、彼が恋と音楽で音楽を取って、だから苦しんでいるところです。
才能を持つものとして、音楽を愛するものとして、自分を腐らせる秋彦の愛に溺れるわけにはいかなかった。
そういう”正解”に気づいてはいても、でも諦めることなんて出来なくて、素直になることも出来なくて、ただただ苦しい恋を続けている。
でも楽器を捨てて、秋彦に恋するだけの人間にはなれない。音楽が好きだから。
そんな音楽への真摯な愛があればこそ、真冬もその苦しさに共鳴したって部分は、かなりあると思うのですよね。天才は天才を知る、というか。
不器用な二人が不思議な繋がり方をして、それが停滞していた恋を動かす契機、全てを救済する歌が生まれる足場になるあのシーンは、作品全体を支える大事な足場だったと思います。

 

んで、そんな雨月が恋する秋彦がまー悪い。超悪いやつだよ! 誰だよコイツを良い兄貴分とか言ったのは!! はい俺です。
実際ね、高校生組の悩みに寄り添い、バンドを導く頼りがいのある姿も、けして嘘ではないと思うわけです。
むしろそういう頼れるイメージを頑張って維持しようと、ダメな部分を抑え込み、後輩の前では突っ張ってたのがTV版なんだと思う。
でもそんな男も音楽に破れ、恋に裏切られ、隣りにいても繋がれない男への思いに、死ぬほど苦しむ一人の人間なわけです。
そういう気配をチラチラ匂わせていたからこそ、それが前面に出てくる映画を待ち望んでいたってのはある。

それにしたって、女にしゃぶらせたまま電話に出るわ、春樹強姦するわ、その時『俺のこと好きなくせに、なんで拒むの?』とか言うし、マージ最悪なんだがッ! ぶっ殺されなかっただけありがたいと思いなッ!!
大学生組のただれて重たい関係性は、映画という舞台でダイレクトにセックスを書くことでしか明瞭にならなかっただろうから、このお話を映画まで引っ張ったのはある意味正解だったかなー、と思います。
セックスを扱いつつその描画が奇妙に清潔、かつ的確だったのも、この映画が良いポイントの一つです。
ベッドシーンには明け透けな生命力と詩情があって、生々しさを刻みつつも、うまく性の臭気を屈折させて見せる演出力もある。
勃起したペニスの代理品としてぶっといビール缶を描き、吐き出される精液の暗喩として雫を画面に満たすのは、夜の匂いが濃厚に染み付いた裏向きの映像詩学として、かなり好きな画面づくりでした。

秋彦はセックスを知り、煙草を飲み、酒を煽る”大人”です。
でもその擦れっ枯らしが、彼の根源を忘れさせて、素直な行動を阻んでいる。
雨月が他人とのセックスを見せつけた(それもまた、離れられない苦しさから生まれた決死の身悶えなんですが。お前は本当に生きるのが……愛するのがヘタクソだな雨月。LOVEだぜ……)ことで暴発した思いは、春樹への甘え、性器と愛を用いた暴力へと転じ……その暴発が、停滞していた時間を動かし始めもする。
『何かを変えたいけど、何も変わらない』と苦しんでいた雨月が投げつけた最悪のボールは、秋彦を最悪の方向に動かして、その変化が奇妙に、彼らの世界を変えていく切っ掛けにもなります。
この『最悪が不思議と、善に繋がっていってしまう』感じというのは、荒れ果てたセックス、歪みきった純情を真ん中に据えた映画版特有の味かな、と思ったりもします。

身勝手と可愛げを二刀流で構えた、憎みきれないあんちくしょう、、梶秋彦。
それに振り回され傷つけられるのが、天性のお人好し・中山春樹です。
年の上では最年少なのに、人間の複雑さにあんまり見識がなくて、しかしその穏やかな凡庸さがバンドを繋ぎ、人を癒やしたりもする『フツーの男』
彼がバンドの中で一番”出来ない”自分に悩んでいたり、あるいは雨月の才に打ちのめされた秋彦の屈折を知らないまま「器用貧乏」とか言ってしまったり、彼もまた”良い兄貴分”から離れた人間的な欠落(と魅力)を、この映画では見せてきます。

自分勝手で暴力的で……”男”な秋彦に対し、春樹は髪の長い”女”としての属性を強調し、蹂躙されながら物語に流されていきます。
彼は面倒見が良く、都合も良く、思い悩んでも何かを決断できない”女性性”(あくまで””付きであることは強調しておく)を押し倒されて、春樹は秋彦に純情を踏みにじられるわけですが、その対応として彼は”髪”を切る。
『失恋して断髪』という、あまりにステレオタイプな”女”の仕草はしかし、彼の中の怒り、秋彦の苦しみを預けられていない苛立ちを表に出す、変身の儀式として機能する。
春樹は髪を切ることで、短髪の秋彦へ……彼が背負う”男”へと接近していくスイッチを押した、とも言えるかなぁ。

『普通に怒っている』春樹に対し、秋彦は『家がない』とすがりつき、奇妙な同居が始まる。
それは家庭に居場所がなくなり、雨月の隣に滑り込み、恋が破綻しても抜け出せなかった苦しさを、”家”という箱に求めていたから出てくる行いだと思います。
溢れかえるエゴイズムと苦しさをぶつけられるのも、日常を共有する中それを癒す相手に選んだのも、女に逃げて汚れた姿を見せたくなかったのも、やっぱり春樹なわけです。
雨月だけが世界の全てと追い詰められているように見えて、親友であり恋人にもなりうる男は秋彦の心にズッポリ深く入っていて、甘えと暴力をぶつける対象として、特別に選び取っている。
春樹が怒りつつも秋彦の甘えを受け入れ、同居してしまったのは、そういう人間のどうしようもない寂しさ、それを抱きしめてやることで続く未来に対して、感覚が鋭い人だからな感じはしますね。
善人なんだよなぁ……凡人と自分を蔑んでいるけども、当たり前の善良さに真っ直ぐ向き合って、正しい行いが出来る時点で特別なんだよ。そして、秋彦はその特別さを(自分にはそういう真っ直ぐさはないからこそ)見つけて、惹かれてもいる。

 

かくして、セックスで傷つけられた恋は生活へとまとまり、静かに変化が蓄積していく。
日常描写と季節感が優れているのは、TVシリーズからこのアニメの強みでしたが、映画というステージで更に、積み重なる日々の美しさ、それが持っている静かな癒やしは鮮烈になっている気がします。
一緒に食べるポテトサラダの味、素直に喜べなかったマグカップ、二人で見上げる花火の色合い、徹夜明けに踊るトンボ。
なんでもない瞬間がたしかに宿している、あまりに鮮烈な人生の色彩を切り取るセンスが鋭く、『ああ、確かにこのような時間を積み重ねれば、止まっていた時間は動いてしまうのだな……』と思わされる、説得力がありました。

春樹と秋彦が花火を見上げるシーンは、雨月との半地下の生活から飛び出した秋彦が新しく手に入れた”家”が、どれだけ風通しが良く、新たな可能性に満ちているかを見せる立派なシーンだと思いました。
蝉の幼虫のように、暗く何も見えない場所で、腐り果てた愛に包まれながら停滞していた二人。
そこから飛び出したことで、秋彦は今まで見れなかった夏の花を、誰かと一緒に見つめることになる。
ここでBGMがないのがまた良くて、映画館の音響と合わせて、彼らが身を置いている現実の震えが肌に伝わってくるわけです。
全体的にBGM抑えめだったのは、人間のどうしようもなさと美しさをないまぜに生き抜く物語の実在感を強調する意味でも、最後のステージをより強く印象づける意味でも、凄くいい仕事してたと思います。

二人の日々は雨月に絡め取られていた秋彦だけでなく、綺羅星のように輝く才能に押しつぶされかけていた春樹も、良い方向へと押し出していく。
『バンドなんだから、下じゃなく前向け!』という秋彦の言葉は、『だーれのせいで重たい感情を下向きに見つめとると思っとんのじゃ!』と突っ込むと同時に、春樹と一緒に日々を過ごし、新たな”家”を与えてもらったからこそ出てくる言葉かな、とも思いました。
立夏と真冬と由紀の関係がそうであったように、出会いと変化は一方通行ではなく、それぞれに染み入って何かを変えていく。
それが結実するのが、ライブ直前の離別であり、”夜が明ける”となります。

 

俺は秋彦が雨月に別れを告げに行ったときからかなり泣きっぱなしだったんですが、それは地下から出ようとする秋彦の歩みが、恋だけでなく音楽とも向き合う誠実さと情熱に満ちていたからです。
挫折をごまかすように、腰掛けでドラムをやっていた。別れきれない思い出に復讐するように、女を抱き続けた。
”ギヴン”が結成される前に、秋彦が身を置いていた腐敗と停滞はしかし、”バンド”の仲間である真冬が覚醒する熱波を至近距離で浴びることで、そして春樹との生活の中で溶け出し、見えないものが動き始めていた。

音楽が好きで、バンドが好きで、それにしっかり向き合いたい。
その気持ちは、舞台袖で別れを切り出した時の雨月と、実は似通っていたんじゃないかと思う。自分の先を行っていた臆病な青年が、心に抱えていたものにようやく追いついたからこそ、秋彦は別れを言い出せた。
楽家としての未来を見据えて別れを切り出した、背の小さな雨月のほうが”上”を見てて、守ってやるふりで束縛し腐敗していた秋彦が”下”を見てるあのシーン、身長差の悪魔的活用でマジ天才だと思いましたけども。
とにかく、秋彦の決断は圧倒的に”正しい”わけです。

でもそれを望んでいたはずの雨月は、別れに荒れ狂い憤る。どうしようもなく愛していたからこそ、望んで恐れていた瞬間への反応として、その身勝手さはあまりにも”正しい”。
雨月にとってヴァイオリンは、自分の才能を世界に問う武器であると同時に、秋彦との絆を証明してくれる絆でもあった。
ロックの世界に”バンド”として漕ぎ出していく秋彦は、ソリストとしてクラシックに残る自分を忘れ、おきざりにしていくのだ。
そういう恐怖が、雨月にはあったのだと思います。

それをねー……真冬の”夜が明ける”が全て受け止め、伝え、突破し変えていくクライマックスが、本当に最高なんですよ。
それは音楽というものが自分の惨めさを顕にし、人を縛り付ける鎖だけでなく、人の心を動かし、よりよい未来へと漕ぎ出すための船として、それを前に押し込む強力な風として機能しうると、立体的に描く瞬間なわけです。
”夜が明ける”は自分の辛さから誰かへのエールを歌えるようになった真冬の産声であり、己の出発点を思い出し生き直すことにした秋彦の支えであり、望みつつ恐れた別れが間違いではないと雨月を肯定する、同志へのエールでした。
そういう複雑で強力でシンプルなパワーを、”音楽”は持ちうる。
そしてそういう、心に届きうる音楽の可能性を真冬に教えたのが雨月だったってことが、あの時奏でたヴァイオリンが雨月自身を救ったということが、僕の心を強く動かしました。
男たちの恋、少年の成長を描く物語は、”音楽”に何がなしうるのかを描く立派な音楽映画でもあるわけです。

”夜が明ける”に背中を押された秋彦は、春樹という”家”に帰還の約束をして、愛おしい思い出としっかり別れるために駆け出す。
『ちゃんと、帰ってくるから』
そう言える男に、暴走と生活を経て梶秋彦はなったわけですよ。ジジイはここでもう号泣です。
俺はヴァイオリンが一番好きで、だからこそお前を憎んで、だからこそ愛していた。
本当ならもっと素直に、もっと昔に伝えるべきだった言葉は、でもセックスと無理解にさいなまれる苦しみを経なければ、世に出ることがない歌だった。
”夜が明ける”と同じく、秋彦が雨月に告げる『アイシテル/サヨナラ』もまた、様々な逡巡と過ち、出会いと苦しみがなければ生まれなかった歌だった。

それを受けた雨月は、毅然とした態度を崩すことなくしっかり別れ、歩き出す。
でもそれは必死の強がりで、今にも崩れもたれかかりそうな体と心を、最後のプライドでなんとか保たせているに過ぎない。
愛していた。だから、離れなければいけなかった。
そう判っていても、愛おしさは胸を焼き、去っていく残影はあまりに眩しい。
それでも、あの少年は『大丈夫』と歌ってくれたから。
それでも、愛おしく憎い男は、絆のヴァイオリンを忘れないまま、先に進んでいくと吠えたから。
俺もまた、『アイシテル/サヨナラ』を告げぬまま、俺の道を行こう。

百万言よりも豊かな沈黙が雨月を守り、秋彦はその誇り高い姿に安心して、春樹という”家”に帰っていく。
その背中に一瞬、未練と愛おしさが滲んだとしても、嗚咽は聞かせない。
その健気な強がりに、ジジイの涙腺は大爆破でありました。泣ける……乾くほどに……。
雨月……お前立派だよ……あの舞台裏で見えていて届かなかった”正解”を掴むチャンスを、愛する男をより良く羽ばたかせるための機会を、震えながらしっかり掴んだってことだよ……。
まじでこの映画で、雨月大好き人間になっちまったからな……新しく、凄く素敵な恋をしてほしいよ……。

 

それは雨月自身が、より高い空に羽ばたいていくということでもあり。
エピローグで世界的名声を掴んでいる雨月を、秋彦が見ない所が好きなんですね。
それは別れた薄情ということではなく、それぞれの空に向かって自分の翼で、愛と憎悪に縛られることなく飛び立てた証明だから。
立夏が由紀のギブソンを直し、真冬に音楽を教えることで、死人を未練から解放し生者に新たな詩を作らせたように。
セックスとネトネトした感情に囚われ進めなくなっていた男たちは、停止した時間から解き放たれ、新しい道に進むことができた。
道は違えど、ありふれて特別で、清らかで薄汚れた恋と音楽の物語が全員に、新しい何かを与える。
TVシリーズと同じ構造であり、また別の年齢、別の人格でしか描けない物語が、シッカリとスクリーンに踊っていました。

出だしでは雨月が挑んでいたクラシックの戦場に秋彦が向かい、招待状を送る立場が真冬に変わり、あの時はその場にいなかった春樹が、愛しい人の”本気”を見つめる。
60分に凝縮された一年の時間が、育て変えたものは同じシチュエーションを最後にもってくることで、より鮮明になります。
兄貴分達が自分たちの幼く素直な衝動に向き合うことで、より良く前に勧めたように。
子供でしかなかった真冬が新しい曲を作り、自分の世界を広げ他人を助けられるようになったように。
死と停滞と離別に満ちた苦しい世界はそれでも前に進み、音楽は何かを為しうる。
そういう力のあるメッセージがラストシーンには強く焼き付き、ネジ曲がった経緯で思いを確かめあった恋人たちは、強くお互いを抱擁する。

ああ、良いラブストーリーであったと思って、エンドマークを見ました。
とても良い映画であり、TV版で見たいと願っていたものが全て見れた、最高の続編でした。
”ギヴン”……素晴らしいアニメです。
ぜひ劇場へ向かい、TVシリーズも見てほしいと思います。
本当に、良い物語でした。

 

追記 『××は実質〇〇』て言い回しは、××も○○もナメた言い回しなので極力避けたいところですけども、しかし作品が置かれた想定消費者層とか、何かを描くために選んだ画材とかの差異はありつつ、優れた創作者が真摯に向き合った結果共鳴してしまう部分というのは、やはりあると思います。

僕が例えに出した劇場版は、主人公がずっと追いかけてきた憧れがステージを降りてしまうかもしれないという状況で、その人のために歌を作っていくストーリーが、話の軸の一つになっていきます。
誰か一人のための歌が、誰にでも届く力強さを得てしまう。
そういう音楽の不思議がしっかり捕まえられている所が、僕が劇場版アイカツ! 好きな所なんですが。

TV版では自分と由紀の歌を歌うことで解放された真冬が、映画では自分ととても似た雨月のための歌を歌い、それが真後ろでドラムを叩く秋彦の呪いも解いていく。
ともすれば行方を見失ってしまいそうな想いを歌に託し、より誰かに伝わるよう磨き上げていくことが、身近な誰かを救い、遠くの誰かに届くこともある。
巨大な感情だけでなく、そういう音楽が持つ不思議な遠近感を真摯に捉えているところも、二作に共通するかなと感じました。

ギヴンはセックスを扱ったからこそ絡み合う感情を強く掘り下げることが出来、アイカツはセックスを遠ざける清廉さがあって色んなものを射抜けたという意味では、間逆な部分もありますが。
人間が人間を求める感情の濃度と分解能は、両者共通して精密で真摯だと思います。

アイカツ! は色んな個性と思いを持ったキャラクターがぶつかり合いながら、自分の道を見つけ、それを交わらせていく物語です。
そこに口づけはありませんが、しかしギヴンが切り取ったのにも負けない魂の血が、強く滲んでいる作品だとずっと思っています。
だから僕は、両方大好きです。

”そこに口づけはありませんが”って書いたけども、それはあくまで肉体的な接吻であり、魂の抱擁、生き方の祝福としてのキスはアイカツ! の只中に花のように溢れています。
そのストイックな身体性も、どっかギヴンの接吻の書き方と似てて、妙な重なり合わせを僕は幻視したのでしょう。

なお、僕の劇場版アイカツの感想は以下のとおりです。
http://lastbreath.hatenablog.com/entry/2014/12/21/181030