イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』感想

遅ればせながら、ヴァイオレット・エヴァーガーデンの映画版であり完結編を見てきたので感想を書く。
TV版放送から二年、傷ついた少女がたどり着いた一つの結末として、あの美しい世界の流れ行く時をしっかり切り取った、とても良い作品だった。
傷、変化、痛み、癒やし、職業、戦乱……。
"ヴァイオレット・エヴァーガーデン"が歩いてきた旅路をしっかりまとめ上げ、映画版独自の表現・テーマ性も出ていたと思う。
残酷に過ぎゆく時の中、それでも生きて咲いてしまう花々をなぜこの作品がモチーフとしてきたか、しっかり答えを出したエンドマークであった。
TVを見られた方、良い映画を見たい方、おすすめです。

 

 


というわけで、ネタバレバリバリで語っていくことにする。
TV版では決着しなかった少佐とヴァイオレットの現在、そこから続いていく未来と精算される過去をまとめ上げ、良き自動人形の物語をしっかり決着させる、素晴らしい完結編であった。
作品が扱ってきた戦争の傷、そこから立ち上がる人間のタフネス、流れ行く時間の残酷さと優しさ、それを超えて繋がりゆくものが、劇場版の尺のなかでしっかり語りきられていたと思う。
少佐との恋が成就したロマンスとしての手応えも、この物語が終わる大事な材料であるけども。
なによりもそこも含めて、戦場で見いだされ戦い傷つき、戦後に救い出され学び働いてたどり着いた、ヴァイオレットの"今"が決着したことに、僕は大きな安堵と感謝を憶えている。


この物語は時間をめぐる物語だったのだな、というのが、映画を見終わったときの感想だった。
国土と人間に大きな傷を追わせた戦争が、過去になりかけている(が、傷はふさがっていない)時代から物語は始まる。
ヴァイオレットは人間的な社会生活を何も知らない状態でホッジンズ社長に見いだされ、ドールという職業に就く"ために"学び、就いた"ことでも"また学んでいく。
もぎ取られた両腕は二度と生えてこないが、彼女の銀腕はしっかりタイプライターを打ち、遠く離れてしまった者たちの思いを、時間に取り残される子供への願いを、優しく靭やかに代筆していく。
そうして社会に、自分と同じく……そして全く異なった人生の傷と喜びを受けて進んでいく人と交わることで、彼女は変わり……そして変わらない。

瓦礫からディートフリートに見いだされ、ギルベルトに下賜されたときの、野生の獣のように澄んだ瞳。
従順で純粋な番犬のように、少佐の敵を食い散らかし、少佐のために傷を追った熱烈。
もう彼女の腕が人の命を奪うことはないが、戦場でなお輝いていた彼女の特異性と美質は、時が変化を生んだとしても残り続ける。
彼女はずっと、ヴァイオレット・エヴァーガーデンだ。
そして彼女を名無しの獣から、"ヴァイオレット"という名前のある存在に変え、似合う少女になるよう祈りを込められたことが、彼女を形作った。
社長の厚意、同僚とのふれあい、仕事で手に入れた学びと成長。
そういうものは自動人形たるヴァイオレットの"今"を形作っているが、彼女の根源を作ったのは、彼女の名前というアイデンティティを最初に与えた少佐であろう。

彼女は港町ライデンを代表して海への讃歌を書くほどに、ドールとしての技量と実績を評価されている。
それは海を越えて、ギリシャの風漂うかつての敵地でも、海に消えていった男たちを悼む言葉として朗々と流れていく。
人々は死者を忘れることはなく、ヴァイオレットも市長から兵士として褒め称えられてなお、殺戮者としての自分を表に立て、戦火を栄誉とすることを拒む。
それでも人々は、死人のように止まった時を生きることは出来ず、何かを成し遂げ、喪われた痛みへ絶えず視線を向けながらも、自分の人生を生きていく。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンは、かつての孤児でも猟犬でももはやなく、立派な職業人、戦争のトラウマに自分なりのケリを付けた元兵士、麗しい女性として、立派に成長している。
そうなるよう彼女を支え、教えたのは、彼女が触れ合う様々な人々。
多種多様な花が美しく画面に溢れかえるのは、そんな人の世の在り方を物言わぬ花弁に込めて描写するkためかもしれない。


かえって、今回のヒロインとなる少佐の時間は止まり続けている。
腕と眼を奪った傷が癒えても、彼の心は罪悪感に満たされ、戦争は終わらない。
彼が身を置く島の人々が、深い傷を受けてなお(それこそ敵国たるライデンの讃歌を、弔いの言葉として使うくらいに)力強く立ち上がり直している只中にいても、彼の時間は動き出さない。
それはヴァイオレットが彼女の物語で紡いできた出会いと学びを、彼がせき止めてしまっているからだ。
それくらい、彼にとってヴァイオレットの傷と痛み、戦場で自分が奪ったものの傷は大きかった。

戦後も職業軍人として責務を果たし、TV最終盤では時計の針を戻すようなテロルに屹然と立ち向かったディートフリートに比べ、少佐は人殺しに向いていない。
それがたとえ、大事な誰かを守るものであったとしても、自分の銃弾が誰かの大事な人を奪い続けた事実、そのために自分の大事な人を兵器に変えてしまっている事実に、心が耐えられない。
それでもブーゲンビリア家の責務を背負い、兄が背を向けた陸軍人として闘い、殺し続けてきたわけだが、ヴァイオレットの両腕を奪い、自分の心身を抉ったあの闘いで、彼は壊れてしまった。
時間を先に進め、傷を受け与えてもなお生きていても良いと納得するエネルギーが、完全に尽きてしまった。

思えばヴァイオレットも、第1話冒頭では止まった時間の中を生きている。
その痛ましさを引き受け、衣食住を用意し技術を学ばせ職場を与えたホッジンズ社長や、その他色んな人の手助けがあって初めて、彼女の時間は動き始めたのだ。
そういう繋がりがなければ人の時間は簡単に止まってしまうものだし、しかしそうならないよう……生き続けるよう様々な努力を、人は成し遂げていく。
ヴァイオレットがドールとして、あの美しい世界を駆け抜けて積み上げた物語は、そういうモノを描き続けてきた。
彼女自身が代筆者として、誰かの心を後に残し、誰かに繋いでいく助けをしてきた。
誰かの時計を動かす行為が、ヴァイオレット自身の時計も動かしてきたのだ。

少佐も、そのようなつながりと善行から隔たっているわけではない。
彼は隻眼片腕の蟷螂として深く傷つきながらも、島の子供に学びを与え、未亡人たちの仕事を楽にするレールウェイを作り上げている。
そんな彼を島の人々も受けているし、静かに手を差し伸べてもいる。
しかし本名を名乗らない(名乗れない)島で、彼は孤独なまま静止し、傷を癒やす機会はやってこない。
今回の物語は、ヴァイオレットの生物として進み続ける時間と、少佐が静物と閉じ込めてしまった時間がふれあい、動き出すまでの物語と言えるだろう。


ここで面白いのは、戦中・戦後と伸びていく二人の時間は大きくジャンプし、デイジーがいる"遠・現代"まで伸びていることだ。
デイジーの祖母アンがヴァイオレットから何を受け取り、どれだけ彼女の支えとなったかは、TV版第10話を見ていれば既に判っている。
それはTV版で進んでいく"今"を更に越えて、子供から少女へ、そして女へと育っていくアンの歩みを追いかける、ロングレンジの物語だ。
その推進力を映画に取り込むように、デイジーはドールという職業が過去になった未来、手紙ではなく写真、ランプではなく電灯が家庭を照らす時代を生きている。

一瞬クローズアップにされる電灯スイッチ一つで、時が行き過ぎ技術が発展したのだと……ヴァイオレット達ドールの物語が終わっているのだと分からせるのは、TV版から面々とキャラクターを取り巻く世界、そこに満ち溢れた衣食住を異常な完成度で描き続けた、この作品の強さだと言えるが。
デイジーもまた、ヴァイオレットが寄り添った数多の人々のように、両親への愛、祖母への敬意と哀悼をうまく言葉に出来ず、すれ違ってしまう少女だ。
そんな彼女が色あせた写真とともに、古びた(しかし宝物のように丁寧に扱われ、時を越えて形を保った)手紙に導かれて、広い世界へと足を進めていく物語が、ヴァイオレット達の"現在"と並走して語られる。
デイジーの"今"とヴァイオレットの"今"は、取り巻く技術は変われど同じように、人のままならなさとしなやかさ、それを支える繋がりに満ちて、複雑な色彩で流れていく。
そこには断絶があり、邂逅があり、傷と学びと変化がある。
ライデンの道路をコンクリートが覆い、自転車ではなく自動車が満ちるようになっても。
人の根本的な在り方は変わらない。

それを書くために、ヴァイオレットの生きた時代が博物館に収められた"未来"を、作中に盛り込んだのかな、とも思う。
時を超えてなお、普遍的に人を悩まし救う思いの不思議を書くためでもあろう。
2つの"今"の中で、デイジーは家族を探し求め、ヴァイオレットは恋に出会い直す
そのどちらも強い価値があると見せるために、手紙と写真……そして伝説のドールを称える切手という、思い出を焼き付けたメディアが多数顔を見せる物語が、幾重にも重なっていくのだ。

旅路を終えたデイジーは、家族への言葉を素直に文字に綴り、「そういうものがあった」とすら知らなかった自動手記人形という職業に、体温のある想いを向けるだろう。
それは時を越え、死すら越えて過去に血肉を宿す、作中もう一つの奇跡だ。
実を結ばぬ時代の徒花などではけしてなく、確かに人の営みに寄り添い、言葉にできない善なる思いを届けてくれた人々の生きざまが、未来へと繋がっていくという証明。
少佐と出会い直し、ヴァイオレットの物語が終わってなお続く、人生の不可思議をより鮮明にするためのもう一つのカメラ。
それが、デイジーの歩みなのだと思う。


少し話がずれるが、デイジーが歩く"今"は否応なく変遷する時代、入れ替わっていく技術を冷静に切り取りつつ、そこに宿る人の業と想いは変わらないことを、強く強調する。
外伝映画の段階で電波塔がライデンに立ち、ドールという職業が儚く消えていく予感を焼き付けていた作品は、手紙が電話に、あるいは写真に取って代わられる未来を、より鮮明に切り取っていく。
第1話でホッジンズの燃える心を反射するように、ライデンの夜を照らしていたガス灯は電灯に切り替わり、ガス燈夫の老人は寂しそうに自分を追い出す時代を見つめている。
『時は流れ、人はそのただ中にいる』というテーマは、生活を彩る技術文化の変遷によって、物言わぬ形でも補強されていく。

しかしそうして移り変わっていくものも、人の心を形にし繋げていくという、道具の本分に変わりはない。
アイリスが自分たちの仕事を奪うと睨みつけていた電話は、手書きの手紙では到底間に合わない命の刹那に、少年最後の思いを届ける大事な仕事を果たしてくれる。
止まった時間の中前に進めない弟のために、ヴァイオレットが魂を込めて書き上げた手紙をディートフリートから少佐に届けるのは、少佐自身が作り上げたレールウェイだ。
ここら辺、外伝後半における"バイク"に似たものだと思うが、道具的存在は時代の変遷でその形を変えつつも、あくまで健気に人の思いをすくい上げ、それが伝わる助けとなってくれる。
それは誰かの代理として手紙を書く"自動手記人形"という職業が、ある意味道具的側面を持つこと……そしてかつて猟犬であり今人形であるヴァイオレットの人格が、誰かに寄り添う道具的側面を強く宿していることと、連動した視点のように思う。

彼らは人の便利に作り上げられるが、それを正しく使えばこそ人は思いを伝え、より善く生きることが出来る。
ヴァイオレットのちぎられた腕の代理となった銀腕は、好奇の視線を集めつつもしっかり機能し、銃の代わりにタイプライターを打ち、彼女を戦後社会に適合させていく。
その微かな不調が、ドールという職業、ヴァイオレットというアイデンティティを揺るがすことになる再開の前兆として、作中抜け目なく描写されているのもまた、面白いところであるが。
道具的存在である人間と、人間的存在である道具はともに、時間的変遷の中で形を変え、しかしその根底にあるものは変わらない。
人が善き存在であるための仲立ちとして、彼らは寡黙に役目を果たし続ける。
その静かなる忠誠に敬意を果たす意味でも、この作品は様々な道具をポジティブに切り取り、重要な仕事を幾つも任せてきた。
ある意味、技術史的な視座が強く宿ったロマンスと言えるかもしれない。


そんな道具的人間、人間的道具であるヴァイオレットはしかし、名前と祈りを少佐から受け取り、戦場を生き延びて職業を手に入れて、ただ命令に従う存在ではなくなっている。
それを強調するのが、"商売敵"たる電話が偶然拾い上げたユリス少年との仕事であり、ブーゲンビリア家への墓参りであろう。
彼女は誰の命令でもなく自分の意志で、自分を許し受け止めてくれたブーゲンビリアの母へと墓参し、花を手向ける。
そこには少佐の代理という意識もあろうが、何よりも彼女自身が母に救われ、感謝している気持ちが宿る。
彼女は少佐と出会ったときの命令を待つ猟犬でも、傷を受けてなお闘う闘争の人形でもなく、仕事を果たす中で自分を作り上げ、『愛してる』も少しは分かるようになった一人間へと、大きく変化している。

彼女のアクティブに動く時間は、営業時間外にかかってきた仕事を『より善いドール』として引き受けさせ、お菓子の空き缶にためた小銭で、ライデン最高のドールを雇用させる。
それはホッジンズ社長という"父"の定めた規範から、職業人として女として飛び出す瞬間でもあろう。
彼女はユリス少年の代筆を『自分の仕事』として、自分でルールを定めて引き受けることで、物語の中成長した確固たる自分を強く示す。
兵士としてドールとして、数多の生き死にに立ち会ってきた彼女は、死が絶対的に引き裂いてしまうものと、それを越えてつなぎ合わせるもの、両方を既に知っている。
自分がその銀の腕で何を為せるか、ちゃんと判っているのだ。
だから、杓子定規な規程を都合よく捻じ曲げ、『自分の仕事』としてユリス少年最後の思いを、代筆していくこととなる。

彼がいよいよ息絶えようとする瞬間、ドールとしての職責を果たさなければいけない瞬間、彼女は少佐のいる島に遠く離れ、仕事を果たすことが出来ない。
しかし彼女が選び取った『自分の仕事』は、少佐に拒絶された痛みに崩れ落ちそうになってしまったヴァイオレット・エヴァーガーデンを引き止め、誇り高き一人間としての表情を取り戻させる。
彼女は一人ではなく、思いを引き継ぎ仕事を果たしてくれる仲間もいる。
リュカ少年をサイドカーに乗せ、街を走り回ってくれるベネディクトがいる。(外伝に引き続き、にぃには子供の守護聖人だよ……)
死病に喘ぎつつ、父母と幼い弟に決死に言葉を残そうとするユリスの言葉を、涙をこらえ届けようとするアイリスもいる。
そうして思いを届ける仕事の責務と尊さを果たしてくれるのならば、手紙を自分が書くことだけが、『善きドール』の為すべきことではない。
そう思えるほど豊かな繋がりは、彼女が自分の時間を動かし、ドールとしてライデンの街を、広い世界の様々な場所へと歩き回ったことで作られた、彼女を支える土台です。

どれだけ少佐への思いが強烈に、ヴァイオレットに突き刺さっているとしても。
その存在があまりに大きいとしても、ヴァイオレットは少佐から離れ、戦場から生存して立派な仕事を果たしてきた。
最初は規範を言われるまま真似するだけだったかもしれないけど、自分の言葉を手紙に宿し、他人の心と触れ合う中で時間を先に進めてきた。
そういう事実をリュカ少年との仕事……とその破綻、その再生は、崩れかけたヴァイオレットに教えるわけです。


それはつまり、ヴァイオレットが孤独に痛みを抱えたまま、それでも必死に生きて紡いできた13話のTV放送、一つの特別編、一つの外伝……僕らが見てきた"ヴァイオレット・エヴァーガーデン"が、その物語の前で停滞する過去へと彼女が取り込まれるのを、防いでくれた、ということです。
ここまで積み上げてきた物語は、無駄じゃなかった。
今までの全てがあったから、主人公は前へ進める。
物語が大団円を迎えるために、絶対必要な感慨を、少佐との交錯と並走して進むユリス少年との"仕事"は、力強く作り上げてくれます。

そこが、とても良いなぁ、と僕は思いました。
ホッジンズ社長が『少佐は俺が殴る!』と、見てる僕の心を(いつものように)代弁してくれたのに『私が殴ります』とタフな冗談を返した時、『あ、"ヴァイオレット・エヴァーガーデン"が返ってきた』と思えたのですよね。
小娘のように泣きじゃくるヴァイオレットも当然嘘ではなく、彼女がドールとして必死に働けるその根源を思えば当たり前ではあるんですが、しかしじゃあ、様々な場所へ旅して他者に寄り添い、その言葉を拾い上げてきたヴァイオレットの歩みは、全部嘘なのか。

そうじゃない、と作品は言います。
彼女が街を代表して讃歌を捧げるほどの名声を手に入れたのも、他人の気持ちに寄り添える優しい人になったのも、自分で仕事のルールを定めしっかり果たす大人になったのも、僕らがその一歩一歩を見てきたのも、何も嘘じゃない。
だから、彼女は選び取った仕事を思い出すことで、何者でもない少女から"ヴァイオレット・エヴァーガーデン"へと帰還し、少佐への手紙……代書家である彼女が彼女自身のために書く唯一の手紙を残し、止まったときから抜け出ようとする。
その毅然とたくましい歩みが、僕は凄く"ヴァイオレット・エヴァーガーデン"だな、と思った。
深い傷と後悔を受けてなお、人が共通して持つ強さを花開かせ、誰かの助けを受けて誰かの助けとなって進んでいく、リハビリテーションの物語らしいな、と思った。
完結編でそういう思いを抱けるのは、とてもありがたいことです。


彼女が"現在"たるライデンへ帰還する歩みを、ヴァイオレットの手紙を受け取った少佐は戦場という"過去"からようやく抜け出して、海中の抱擁でせき止めます。
それは過去への帰還ではなく、傷のなめ合いでもなく、お互いようやく対等に(ヴァイオレットちゃんのほうが立派だがな!)向き合えるようになった二人が、新しい時間を先に進めていくためのビッグバン的衝突なのでしょう。
その時ヴァイオレットは泣きじゃくって、あれだけ上手く使えていた言葉を喪ってしまっている。
少佐はそれを補うように、必死に言葉を探し、言葉よりも強いものをその片腕で抱きしめ、掴み取っていく。

ヴァイオレットは既に、ドールとして歩む中手に入れた力強さで少佐に寄り添い、言葉は幾度も重ねた。
なら、今度は少佐が歩み寄り、言葉を尽くし言葉を超えていくべきシーンなので、あそこで少佐だけが前に出るのは正しいと思いました。
つーかヴァイオレットの献身と純情を思うと、どんだけ少佐が歩み寄っても足らねー……すみれの花言葉は謙虚と誠実、貞節と愛だ。

ヴァイオレットは様々な人の時間や固まってしまった心を、その指で代弁し先に進めてきたわけですが、彼女最後の仕事は最愛の人の時間を先に進め、自分がかつて囚われていた戦火から踏み出させることなわけですね。
それは彼女の単独行ではなく、結婚によって終わる旧時代のロマンスでもなく、ライデンのドールではなくなってなお、彼女は人を繋げる仕事を立派に果たして、切手というメディアに伝説を刻む。
戦場でひどく残酷に出逢った二人の運命は、戦火にその体を刻まれ心を凍てつかされてなお、新しい形へと変化しながら進んでいくわけです。
それは彼女たちの肉体が倒れ伏し、虚しくなったとしても消えない。
博物館に、記念切手に、彼女たちが触れ合った様々な人の記憶に、書き記した手紙の中に、しっかり残っていく。
そういう変化と連続を、ヴァイオレット・エヴァーガーデンという少女の人生史を通じて書く物語だったのかなと、見終わって感じました。


そんな彼女の再生に、強く関わりつつ主役としての物語を与えられなかったホッジンズ社長が、完結編でかなり重く扱われたのは、彼が好きな視聴者としてはありがたいことでした。
いや実際、彼はマジで偉いわけです。
血縁でもない、一回見かけただけの戦災孤児を自分の仕事場に引き取り、後見人として学びの場を与え、常に気にかけ一緒に食事も摂る。
傷ついた戦闘人形でしかなかった彼女が"人間"になり、少佐との新しい時間を動かす奇跡を成し遂げたのは、確実に彼の助けが大きいと思っています。

彼にとって、ヴァイオレット・エヴァーガーデンとはどんな存在だったのか。
無謬の善人であり後見人でもある彼はその内面を語らないわけですが、彼もまた戦争をくぐり抜けた傷追い人であることを考えると、外伝でイザベラが雪の中妹の手を取って誓った"復讐"の象徴でもあったのかな、と思います。
あまりに沢山の人を不幸にした戦争に、自分たちが負けていないこと。
社長にとって郵送業とは、そういう決意の表れでもあった気がするわけです。
哀しみと痛みの中でうずくまって時間を止めるのではなく、否応のない変化すらも微笑みながら乗りこなし、人がより善く幸せになれる場所として、"仕事"をやり抜く。
それが、ホッジンズ社長の"戦後"であったと思う。

そういう彼が成し遂げた"仕事"は、そこから離れたエリカが社を離れてなお自分の人生を力強く歩いているように、会社というフレームには収まらない。
ヴァイオレットを思い、時に過保護に守ってきた時間が終わっても。
美しい花火を思わず、『ほらバイオレットちゃん、花火が綺麗だね』と届けようとして、その不在に喪失を思い知らされても。
社長が親身にヴァイオレットに寄り添い、一緒にいてくれたからこそこのお話は終わるわけです。

この映画で誰に感情の足場を乗せるかは人によるのでしょうが、既にオジサンである僕は社長のヤキモキと誠実に深く心を寄せながら、作品を見ていました。
結構な数の人が、彼を感情の足場として作品に入っていったと思います。
ヴァイオレットちゃんの誠実と健気に心を揺らし、時を止めた少佐の強情に苛立ち、彼女が雨の中泣きじゃくるなら、ともに濡れて側にいてあげる。
TV版でそうであったように、社長は僕らがやってほしいこと、言ってほしい言葉を必要なタイミングでやり遂げてくれる、いいキャラです。

そんな彼がライデン(これまで描いてきた"ヴァイオレット・エヴァーガーデン")に戻る船に一人取り残され、ヴァイオレットが自分の足で少佐と向き合う決断を果たすことで、この映画は終わっていきます。
美しい花火の中描かれる、隣にいつもいた少女の喪失。
感情をホッジンズに寄せるよう創られているからこそ、あのシーンで彼が感じた寂しさと、それを補って余りある充足はたしかに力強く、視聴者に届く。
それが、"ヴァイオレット・エヴァーガーデン"が確かに己を語りきって終わっていく……美しいフィナーレの中遠くに離れていく事実を、じんわりと胸に届けてくれる気がしました。

彼女はCH郵便社という宿木を離れ、新たな"今"を少佐と紡ぎあげるべく、遠い島で暮らしていく。
でもそこに至ったのは、社長を始めとする様々な人が彼女に優しくして、色んな事を伝えたから。
"良き自動手記人形"となるよう規範を学び、立派に仕事を果たし、自分でルールを定めるまで見守り、育んだから。
そうして巣立ちの時を迎え物語が終わっていく瞬間を、どうにも言葉にできない寂しさ込みで美しく祝福してくれるライデンの花火は、とても美しかったと思います。
その焦点がホッジンズ社長にあたっているのが、僕は嬉しかったですね。


未達だった物語を完遂する、という意味では、ディートフリート大佐もまた、美味しい立ち位置をもらっていました。
TVシリーズでは弟を奪った戦争への憎悪、その走狗としか思えなかったヴァイオレットを正しく見れなかった大佐ですが、最終盤で"良き兵士"としての奮戦を見て、弟と自分が押し付けてしまった罪を受け止めたことで、一人間としてのヴァイオレットに向き合えるようになっています。
それは彼自身が、終戦時から動いていなかった時を先に進める切っ掛けともなり、沢山の悲劇をはらんでギクシャクしていたブーゲンビリア家にも、微かな救いをもたらしていきます。

大過ぎる父への反発から海軍に籍を置き、弟に家の重責を押し付けるように生きてしまった過去。
名前のない猟犬という重すぎる手土産しか、職業軍人をやり抜くには優しすぎる弟に与えられない不器用。
お互い生きていれば、それを正す時間も与えられたのでしょうが、戦火は弟の時を止め、大佐の時間も憎悪と後悔で凍りついてしまった。
ヴァイオレットはTVシリーズで、自分の中に深く突き刺さった少佐という存在、その不在に苦しみつつ乗り越えていきます。
それに手を貸すことで、大佐もまた(弟より一足先に)時間を進め、今を生きる道へと踏み出したわけです。

とは言っても生来の不器用はなかなか埋まらず、ヴァイオレットと憎悪を引っ剥がした付き合いをどう行えばいいか、色々戸惑ってしまう。
そんな彼のままならなさ、それが人を傷つけると気づいてちょっとずつ変わろうと、その隣にヴァイオレットがいてくれると良いかなと、ほんのり思っている甘やかな気配が、なんとも可愛かったです。
少佐という存在はヴァイオレットにとって大きすぎるわけで、大佐というオルタナティブが恋路を揺らすことで、ギリギリ恋のサスペンスが成立してた、って部分もありますか。

ホッジンズ社長にとっては戦友でもある少佐の手紙を、大佐に預けて調べてもらうことで物語は島へと移り、ヴァイオレットは大きすぎる過去、動かない時間と対峙することになる。
物語は基本ヴァイオレットの健気な慕情で進んでいくわけですが、島へ向かう歩みは戦士たちが喪われた友と再開するための歩みでもあって、結構重層的なんですね。
大佐もまた、ヴァイオレットと訪ねた過去の思い出が詰まった船で思い出した感情、押し付けてしまった重荷を引き受け、微かな恋の予感を振りちぎって弟に手紙を託すことで、ブーゲンビリア家を背負う新しい未来へと、漕ぎ出していくことが出来る。
色んな人の思い、色んな関係性があの島で結節して、色んな人が決意を込めることで時間が進んでいく物語は、引き裂かれた恋が成就すると同じくらい、生まれかけの恋を諦めることでも完成へ近づいていく。少佐とヴァイオレットには出来ない角度からの光を色んなキャラが物語に投げかけてくれていて、大佐の色濃い描写はその一角として……また彼自身の完遂されるべき物語として、しっかり描かれていたと思います。

 

そしてもう一つ、物語の外側でも否応なく進む時間、痛みを込めつつ生きていく我々の物語が、この作品には投射されています。
外伝の感想では最初に書きましたが、19年7月18日の放火事件を経て、この作品は公開されました。
『作品は物語単独の命と尊厳を持っており、それを生み出す現実とは切り離すべき』という原理を僕は支持するものですが、しかし同時に、人の営みと繋がる形でしか物語は生まれず、挫けるかもしれない厳しさを乗り越え世に問われることはありません。
コロナ禍という予期し得ぬ世情も手伝い、延期しつつ公開されたこの物語を、『京アニ復活』の文脈だけで読むのは、作品に真摯に向き合えていない態度だとも思います。

しかし流れ行く時の残酷さ、深い傷にうずくまって時間を止めてしまう人の業と、それでもなお、開き散ってまた咲く花で画面を埋め尽くしながら、一少女の成長、それが取り戻し変化させた青年の人生の物語を完成させた歩みには、どうしてもそれを生み出した場所の焼尽と再生を思ってしまう。
あんな事が起こると思って、この物語を作ったわけではないのは、時系列を冷静に見ても、この物語に思いを寄せるいち視聴者としても、判っていることです。
しかしこのお話が捉えた人間の普遍……流れていく時間の中で、時に弱く時に力強く己を作り直し、支え支えられて進んでいく花々の美しさは、作り事の枠を超えて作り上げた人達、受け取る僕らに戻ってくるような気がします。
そうなるほどの美しさと強さで、作品を作り上げてくれた、ということでもあるでしょう。

この作品をなにかのトロフィーとして凍らせてしまうべきでないことは、作品自身が語っていることです。
時は流れ、傷は癒える。
そうならないことも当然ありつつ、それでもより善い明日に向かって人は進んでいってしまう。
京都アニメーションという制作集団も、例えば大阪のアニメーションDOを吸収合併しながら、Freeの完結編とか、ユーフォの最終章とか、メイドラゴンSとか未だ見ぬ新作とかを世に問うために、様々に闘っています。
この映画はそんな営みの一つの結節点であり、様々な人が頑張って作った"ヴァイオレット・エヴァーガーデン"がしっかり、これ以上ないほどに美しく終わる物語でもあります。

この先に来るであろう京アニの物語もまた、多分力強く美しい。
そう信じさせてくれる良い映画、良いアニメーションであったことに、僕は凄く強い感謝と敬意を、どうしようもなく特別な感慨を抱いてしまいます。
作品をただ作品として見る、怜悧で正統な批評家の視座とはズレてしまうけども、でもやっぱり京都アニメーションのファンとして、この映画が僕に届いてくれたことは、とても嬉しかった。
とても豊かで暖かな、"ありがとう"であり"さよなら"であり、"また、いつか、必ず"であった。

そんな個人的な感慨を最後に綴って、この感想を終わりにします。
とても面白かったです、ありがとう。