イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

映画”シン・エヴァンゲリオン劇場版”感想

シン・エヴァを見てきました。
何を言ってもネタバレになりますので、未見の方は劇場で見てからこの感想を見るといいと思います。
映画の内容とは関係のない個人的な体験なのでここで記すんですが、劇場で見た時に音と映像に乱れがあって、どう考えても演出ではないタイミングのハプニングであり、『サヨナラを言うときですらこういう事になるってのは、まぁエヴァぽい体験だなぁ』と思わされました。
良い映画で、とても面白く、エヴァンゲリオンが終わったことをしみじみと実感させられました。

 というわけで、エヴァが終わりました。

Qから9年、新劇開始から14年、TV放送から26年。
長い長い時間続いた物語を、途中幾度もの中座を挟みながら必死に追いすがって、決死に向き合って、自分たちが何を書いてきたのか、ちゃんと応えたアニメでした。
あの支離滅裂で私小説的(あるいは日記的、夢的)な劇場版がどういうアニメ映画であったのかを、自作で踏まえ乗り越えていくような映画でした。
EoEのオマージュが山程あるんですが、それは全て過去に逆行し孤独と絶望に閉じこもるのではなく、それに傷ついてなお先に進みたいと、進めるべきだと考えたからこその引用でした。

皆殺しのカタルシス、セックスと死をドギツい味わいを何処かに残しつつも、生きて死んでいく人間の営み、絶望してもなお終わってはくれない世界の残酷な美しさに向き合った映画だと思いました。
EoE時点での庵野秀明エヴァンゲリオンが、どうやってもそこに行き着くしかなかった必死さみたいなものを、20数年の年月と経験、ズタズタにされながら掴み取った幾つかの答えを足がかりにして、懸命に超えていこうとする映画でした。
その野望は、映像的な意味でも、ドラマ的な意味でも、キャラクター的な意味でも、それらをまとめ作品全体を通じて語ろうとしたものからも、しっかり叶ったのだと思います。

26年。長い時間です。
終わってほしいなと思いつつ、終わってくれるのかなと疑って入った映画館の中の二時間オーバーは、非常に濃厚な体験として行き過ぎて、あっという間に終わりました。
子供のまま26年囚われ続けたキャラクターたちも、その外側(そして内側)にある造り手の意思も、エヴァを終わりにして別の場所へと旅立っていく。
EoEではバットで殴りつけるような乱暴さで叩きつけるしかなかった(だからこそ本物だと、僕には思えた)『表出ろ!』という罵声が、『俺は出るけど、お前はどう?』と優しく手を引いてくれるような、でもその切実さは衰えていない……というかよりより鋭く、より多くの人に届く形になったのかな、と思いました。
ぶった切るように終わるしかなかった、その癖稼げるコンテンツとして伸ばしたり切ったり貼ったり裏返したり、様々に転がっていったエヴァンゲリオンに、もう一度出会えるおまじないとして”サヨナラ”をしっかり言える、言っているアニメになったと思います。
エヴァは、終わったのです。そして多分、ここからまた始まる。
タイトルに付くリピート記号は、多分そういう意味合いだと思います。

 

具体的に何を言っていくか少し戸惑っているのですが、まず”Q”の話から。

映画”ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q”感想 - イマワノキワ を見ると、『9年前の自分は落ち着いてるなぁ……』という印象を受けます。
それはグダグダ文句言いつつも好きなエヴァを、あの下げ調子の物語で嫌いになりたくない防衛反応を含んでいるとは思いますが、しかし確かにあれは”出題編”でした。
今回の物語を”回答編”として前提にした、伏せ札に満ちた物語。
シンジが見ていない場所で、世界はどうなったのか。人々は何を考え、何を失い、何を守っているのか。
急に生えてきたヴンダークルーが作品に存在する意味も、巻き込まれるだけ巻き込まれてワケのわからないままカヲルくんが死んだ闘いも、人々の冷たい態度の理由も、全てが今回明らかにされるために伏せられていた。
その気配みたいなものを、9年前の自分は結構感じ取っていたのだと思います。偉い。

あまりにシンジに冷たく無理解だった人たちは、そうなるに相応しい重荷を背負って14年闘い続けていたのであり、それを共有しないまま眠り、目覚め、動くシンジに優しくなかったのも、ある程度共感ができるようになっていました。
まぁ9年はネタバラシには長すぎて、思春期のまま時間が止まったシンジくんをビシバシなじる大人たちの世知辛さは、時が経つほど重かった。
自分自身が年を経るごとになかなかキツく、『もっと優しくしてやんなよ……』という気持ちを抱えることになりました。
やっぱ子供には優しくしようよー。(エヴァで言うな)

しかし加持の遺志を継いだミサトが、”破”でシンジの背中を押した(重荷を背負わせた)責任を取るべく、その事情を一切語らないままヴンダー艦長として生き続けたように。
そんな強さをどうにか守るために、息子から距離を取り、サングラスで瞳を封じ続けた事実が、今回分かってくる。
長ーいリハビリを経てシンジくんは、ミサトさんの真実にゆっくり接近していくわけですが、その終極たる銃撃シーンで彼女のサングラスが外れ、かつてそうであった”保護者”に戻るのに対し、実父であるゲンドウは銃弾でバイザーを破壊される、その奥にある虚無と非人間性を暴かれる。
二人が仮面を付けているのには、やはりそれなりに理由があったわけです。

ほぼ全てのキャラクターが未成熟な弱さ、切実な歪みを補完されていく今回の映画で、ミサトさんは加持さんとの間に子供を持ち、ゲンドウと同じく愛する人を失い子供との距離を測りかね、遠くに離れています。
しかしそれでも、他人が存在する世界への誠実さを保とうと、シンジに背負わせてしまった重荷を肩に感じながら必死に戦っていたことが、今回顕にされていきます。
同じアイギアを付けていても、彼女はゲンドウの代用品ではない。(綾波碇ユイの、ソックリさんが綾波の代用品ではないように)

彼女は14歳の同居人/子供/被保護者と『戻ってきたら大人のキス』をする29歳ではなく、自分が立候補し背負うことにした保護責任者としての距離を適切に保ったまま、シンジを襲う縦断をその身に受け、自分の言葉の責任を取ろうとしていた。
内心に渦を巻く愛おしさと弱さを仮面で押し殺しながら、シンジが消えた世界で必死に戦い、力足りず大きく傷つき、それでもなお戦って未来をつかもうとした。
冷たさに甘さが滲む”Q”での態度は、長い眠りから目覚めたまま過酷すぎる状況に放り込まれ、責任を引き受ける人格的成長が伴っていないシンジを、不器用に守ろうとした”親心”なのかもしれません……と思えるように、今回様々な伏せ札が開示されていく。

TV版で加持が消えた後、性的誘惑でシンジと繋がり己を満たそうとした寂しい女は、人類が死んでも生命の痕跡を残そうとした加持の祈りを、戦闘艦へと変えてでも戦っていたことが、今回分かってくる。
でも加持さんの願いと矛盾は打ち捨てられず、ネムノキの種子のような保存ユニットを最深部に残したまま、決戦の後の地球を蘇らせる希望を抱いて、世界に射出されていく。
出口のない皆殺しと特攻にキャラを追い込むのではなく、決戦前に下船したり、仕事を果たして帰還したりする描写……物語が終わった後の世界に帰還する種子の描写が多かったのは、非常に示唆的だと思います。
地面が揺れようと、海が全てを押し流そうと、残ってしまう人の営みと、流れていく時間。
そこに人の意思と世界の不思議があるのならば、定められた絶望に身を投げるよりも、奇跡を信じて捨て身の努力をする。思いを守り、繋ぎ、時に形を変えて必死に生きる。
数少ない未帰還者となったミサトさんは、そんな生き方の果てとして死んでいったのであり、それは一つの生の完遂、ある種の種まきなのだと思います。
僕はガイナ由来の特攻主義がマジで大っ嫌いなので、そこに強めのカウンターがあたっていたのは大変良かった。

 

ヴンダークルー……特にサクラとミドリの存在がQより遥かに強くなっているのも今回の特徴で、ともすれば(EoEがそうであったように)身内以外を完全に排除し、傷の舐め合いで終わってしまう人類最終決戦に、縁も所縁ももなく正当な憎悪を抱くキャラクターとして、大事な仕事をしていました。
第3新東京市関係者だけで話が回ってしまうと、シンジがしでかした罪の重さと落ち着きどころに瑕疵が生まれていたと思うわけですが、恩人であり仇でもある、罪人であり救世主でもあるシンジの矛盾をしっかり表に出し、大惨事の生存者、行き場のない復讐者をちゃんと書いたのは、凄く良かったと思います。
ネルフの外側にも人間は当然いて、シンジが見えていない場所で沢山の人が死んで、別に語ってくれないけど複雑な思いを持っていて。
これが伏せ札だったので、”Q”では様々な人が理由なく、シンジに冷たく見えるわけですが。今回ケンスケを中心に”縁”という概念が大事に使われていて、それがミドリとの間にも生まれてしまって、許せぬ穢れでしかなかったシンジと、彼をかばって血を流すミサトとの壁を壊していく。
彼女にとってもシンジは伏せ札で、恨んで世界を滅ぼした怪物だと思っていれば、憎悪に支配された自分のままでいられた未知を、銃口が揺れる人間の土壇場で思い知らされてしまう。

ミドリにとっても、見えなかったシンジの瞳は対話(暴力含む)を通じて暴かれて、そこに反射する復讐鬼の自分、焼け焦げて何処にもいけなくなっている自分を思い知らされてしまった。
命を守る医療従事者なのに、銃弾でミサトを撃ってしまった(そしてその傷を自分で治す)サクラの矛盾、彼女が嗚咽しながら突きつける人間・碇シンジの矛盾を鏡にして、『もうやめよう、明日のことだけ考えよう』と思える所に、彼女も立ち返っていく。
『乗らせてください』と、静かに頼んでくるシンジをエヴァに送り出していく。
僕らが肩入れする『26年戦ってきた碇シンジ』ではなく、作中に剥き出しのまま置かれているシンジくん……世界を滅ぼしかけ、沢山の人を殺して守った人間を描く上で、ミドリの存在はとても大きかったと思います。

『矛盾の肯定』というのは多分この物語で凄く大きなテーマで、ヒカリがソックリさんに教えるように、人生は辛いことと楽しいことが交互にやってくる、混沌とした現象です。
一貫性があるように思えるものには裏があり、信じれば裏切られ愛すれば失う。
それでもなお綺麗な結末だけを求める危うさに背中を向け、カオスな生世界を傷つきながらも肯定し、ある意味諦めながら前に進んでいくこと。
切り分けられない矛盾こそが人の、世界の、命の実相であり、無矛盾な静寂の中に身を投げていく救済ではなく、あくまで個別に分断されつつ、何処かで縁と思いが繋がる未来を掴み取るために、生まれるはずのない七番目の槍を作り出す。
生まれるはずのないものが生まれるのも、また肯定されるべき矛盾なのでしょう。

あの『プロジェクトX IN ヴンダー』僕は凄く好きで、結局碇の息子に人類の命運を託すしかなかったEoEから、シンジくんをサポートする存在としてのヴィレ(真・ネルフ)が勝利と未来に大きく貢献してました。
”Q”では伏せられたけど、あの船に乗ってる人も乗ってない人も、インパクトで死んだ人も生き延びた人も皆自分の戦いを必死に戦ってて、譲れない思いを抱えて必死に生きてきた。
エヴァには乗れなくても、乗れないからこそやれる闘いを、最後の見せ場と取り出してくるのは、最後の最後で”序”の見せ場、ヤシマ作戦に戻ってきた感じもあって良かったです。
シン・ゴジラ”でもそうだったけど、庵野秀明という人は昭和下町工場的など根性、手作りの奇跡が生み出す物語に凄く取り憑かれていて、人間の勝利としてそれを描きたい願望が強い(強くなった)のかなー、と思ったりもします。
マヤがパリでぶん回す鉄面皮のパワー上司っぷりと、最終決戦での譲れぬ熱量両方が『これだから若い男は……』というセリフで連結され、意味合いが反転してるところとか、凄くお仕事モノっぽいなー、と思ったりする。

 

昭和的な風景へのノスタルジアは、かなり長い時間を使って描かれる第三村での日々に色濃く出ています。
正直最初濃厚なヤダ味(映画版”三丁目の夕日”的な)を感じたんですが、それを分かりつつ自分の原風景を切り出して、全力で叩きつけてきた素裸の勝負っぷりに、見ている内に引き込まれていきました。
何よりシンジくんがガチ鬱でゲーゲー吐いたりモゾモゾ蠢いたり沈んだりしている中、実質赤ちゃんなソックリさんが村の生活で様々なことを学び、人と繋がり、最高にあざといアピールで『綾波は死んだ! もういない! ここにいるのは別人だが、それでも”破”と同じくらい萌えよろーが!!』と、分厚いヒロイン力をおっ立て序盤の主役をやっていました。
ソックリさんが鈴原家の末娘として、田んぼ仕事したり猫を観察したりお風呂入ったり、ご本読んだり挨拶覚えたり飯を食ったり届けたり、戦闘服でしかないプラグスーツを遂に脱いでオババ達のきせかえ人形になってテレたり、とにかく可愛かった。
”Q”ではカヲルくん周辺にしかなかった(のに、爆殺首輪で木っ端微塵にされる)縁が繋がり、前に進んでいく手応えというものを、ソックリさんの成長と愛と死はよく教えてくれました。
彼女が学び育つことが、水辺で過去と虚無を見るしかなかったシンジくんに温もりを伝え、あるき出す契機と支えになっていく描写も、また”縁”なんだと思います。
”Q”では取り戻せない過去の象徴でしかなかった本が、第三村では本来の意味を取り戻し、ソックリさんにとって意味あるものになっていくのも良い。

ヒカリはソックリさんの母として、トウジとケンスケはシンジの父として、ヴンダークルーが差し出せなかった当たり前の生活、当たり前の優しさを手渡していきます。
飯も作ってくれるし、鬱で動けない時も見守ってくれるし、ゲロの始末もしてくれる。
かつて14歳だった子どもたちはシンジたちとは違い、絶望の先でも続いてしまう日常を必死に生きて、何でも出来る大人へと脱皮していく。伴侶も子供も出来て、仕事を手に入れ人の役に立つ。
そういう当たり前にアスカは馴染まない。そこは彼女がいるところではなく、守るところだから。
非日常に身を置き、人の当たり前のぬくもりを拒絶することでしか闘い続けられない厳しさと優しさがアスカにあることが、あのやり取りで見えて僕はとても好きです。
ヴンダークルーも、同じ思いでシンジくんに寄り添わなかった部分、けっこうあるんじゃないかな……。

ソックリさんがネルフを離れ、死に接近しながらも縁を手繰り寄せ、色々知っていく歩みには確かな温もりがあります。オババ達に優しくされている姿を見て、早くも泣いちゃった……。
あの村に満ちている仕事の手触り、距離の近い共同体の最良の部分は、多分にノスタルジーに彩られた『ユートピアとしての昭和』の残照だとは思うのですが、それにしたっていいモノとして描かれ、いいモノとして感じられる。
そこには”寺内貫太郎一家”的な鈴原家があって、頑固親父が飯食わないうつ状態ボーイにキレて、息子になだめられている。
そういう『当たり前の家庭、当たり前の世間』から、ケンスケは少し離れた場所で暮らしている。妻を娶り、子供を作るスタンダードから外れつつも、彼には大事な仕事がたくさんあり、果たすべき責務とプライドがある。
良き家庭人、仕事人、大人として村のスタンダードに適合できたトウジと、そこから遠い場所で暮らすアウトサイダーでありながら排斥はされていないケンスケ(とアスカ)両方を描いたことも、第三村のヤダ味を上手く抜いたのかなーと思っています。
異物を完全に同化、あるいは排除する狭さがなくてもあの村は機能しているし、そこに引っかかるケンスケの異物性こそが、生の領域と死の領域の狭間で未来を観測する仕事を可能にし、村に利益をもたらしてもいる。
トウジが背負う等質性と同じくらい、ケンスケが持つ辺縁性……世間と接点を持った世捨て人感が大事に描写されていたのは、僕には凄く良かったです。

 

戦闘兵器であるヴンダー(が、その実命と祈りの方舟だったことも、今回顕になる布施札ですが)と死の領域であるネルフしか映らなかった”Q”に比べ、第三村には当たり前の生活と食事が山とあります。
それがゆっくり追いかけられたことが、シンジくんがヴィレに戻り、エヴァパイロットとして立ち上がる理由、退けない理由をしっかり支えていて、かなり大事なパートだと思います。
あのありきたりで必死な生命の営みがあればこそ、止められてもエヴァに乗って勝つ理由、勝ってエヴァを降りる理由に血が通っていく。
観念を体験が満たしていく描写、とも言えるでしょうか。第三村がないと、全てが間違えきったあの世界でなお闘う理由に、体温が宿らないと思う。

トウジは医師として出産に立ち会い、猫はボテッと赤児をはらむ。
命が生まれ、続いていく不可思議(ヴンダー)があの村には満ちていて、ソックリさんは不思議そうに、楽しそうにそこに手を伸ばしていきます。
エヴァはセックスの暴力的な側面、汚れた背徳性を全面に出していた作品だと思うのですが、シンジくんが長い旅のはてたどり着いた村には、セックスの結果としてある生殖、それを前提とする人間の営みが満ちています。

ここも、旧作を越えようとした努力の痕跡かなと、僕は感じました。
ある意味潔癖症的に、性行為の刹那性と暴力性に取り憑かれてた視線が、それが生み出す永続の輪廻、生まれて育って番って育み死ぬサイクルの起点として、性=生に凄く落ち着いた聖を見出しているように思う。
それはまぁ考えてみればフツーの価値観で、しかしなんかまぁ歪みきっちゃった彼らと僕らは、そんなふうにセックスを考えるのが難しかったし、今も多分難しいのだと思います。
『だからこそ、普通にセイを描くのだ』と最後の作品で踏み出せたのは、僕は勇気があり、力強いことだなと思っています。

 

シンジくんはPTSD塗れに深く傷つきつつ、適切なケアとアスカの苛立ちを摂取しながら、ゆっくり治っていく。
ヴンダーの戦士たちが差し出せなかった優しさを、大人にならざるを得なかったかつての子どもたちは優しく手渡し、強く支えていく。
そこにユイを見ていたゲンドウに比して、トウジとヒカリは『綾波に似てて綾波ではないもの』を別個の存在として既に肯定し、違いを見とめ様々なものを教えていきます。
戦闘兵器でしかなく、でもそうではありたくないと何処かで思っていたプラグスーツの少女は、一個一個の挨拶に込められた祈りを知り、それを他人に手渡せるようになっていく。

そうして差し出されたDATとレーションを、シンジは片方突き返し、片方泣きながら貪ります。
ソックリさんからの優しさは資格がないと拒絶しても、食って活きる本能は全然死んでくれず、動物でしかない自分の浅ましさに泣きぬれながらも、彼の生へのエンジンは回転しだす。
そのイグニッションとして、14年分マジモンのいらだちを身勝手に叩きつけ、ツンデレと言うにはあまりにストロングな暴力で喉に生命の糧を流し込んだアスカが存在してるのは、なかなか面白かったです。
後の補完シーンでカヲルくんが指摘される、誰かのためと言いつつ自分が救われることを願っているエゴを、アスカは拒絶してる。
あくまで自分のため、一人でしかない孤独が勝手に抱える欲望のために、シンジには生きて欲しい。立ち上がり、かつての自分を救い、未来へ進んでいって欲しい。
そういう勝手な願いを叩きつけることしか、自分たちには出来ないのだと開き直るように、アスカは胸にくすぶるかつての恋を焚き木に、バコバコうつ病患者を言葉で殴り、押さえつけて飯を食わせます。
そこには『もう飯も食えやしねー怪物なんだよあたしゃ!!』という、やけっぱちな絶望、それをわかって欲しいという切実な甘えが滲んでいて、『アスカは可愛いな』と思いました。(26年、ずっと思ってる)
シンジの後を付け回したのはヴィレ軍人としての仕事であり、同時に世界が壊れても消えない思い出の残響でもあったのでしょう。
冷酷さと優しさ、矛盾が同居してるのはみんな同じですね。

ソックリさんの歩み寄りに殻を破られ、シンジくんがようやく対話をした結果……『なんでそんなに優しいんだよ!』と胸から絞り出された絶叫(ここで、差し出された優しさには既に気づいてるのが新劇のシンちゃんだなあと思いますが)。
それに幼く無垢な彼女が『好きだから、優しくする』という、あまりにダイレクトな人間の真実を返したことで、シンジくんはゆっくり、世界と他人に目を開きだす。
父と死別したケンスケの後悔、薄汚れてなお生き続けるトウジの決意。
自分を置いておとなになってしまったかつての友人たちから、優しくも靭やかなものを受け取って、彼の世界が広がり始める。
”Q”の世界が伏せ札だらけなのは、時間を凍結させられチルドレンでいるしかなかったシンジ(達)の世界がそう見えていた結果なのかなと、かなり長く彼の闘病を追うカメラを見て思いました。
それが広がっていくには自分を受け入れ、手を差し伸べてくれる誰かが必要だし、それを差し出せない厳しさに世界は満ちている。
そういうモノを掴まないと、仮面一枚剥げば普通の人間であるヴィレの戦士たちは戦えない。
そんな厳しい前線の後ろにある、戦士たちが心を凍らせて守るべき場所。

そこから届いた手紙にサクラは涙し、ケンスケは最後になるかも知れないアスカの表情を記録する。
日常と戦場は切り離されつつ何処かで繋がっていて、相補性のうねりのなかに、切り分けられない混沌の中にあるわけです。
その世界の複雑さと面白さを、シンジくんは村の日々の中しっかり噛み締めて、戦場に帰る決意を固めていく。

 

その決定打になるのが、円谷幸吉の遺書みてーな頑是ない願いを刻みつけ、愛する人の目の前で死んでいくソックリさんになります。
たとえ仕組まれたプログラムだとしても、彼女は自分の中に湧き出てきた愛と死を受け入れ、シンジに優しくしていく。自分を取り巻き育んだものに感謝しながら、それを置き去りに消えていく寂しさを滂沱と流しながら、何処か”破”までの綾波レイと似たもの(そして違うもの)を生み出していく。
『お前ら銀髪碇くん大好きヒューマン達は、目の前で液体になってシンジの心に永遠に刻まれることしか出来んのかーい!』とツッコんだけども、シンジくんはソックリさんの死を取り戻そうとは思わない。
心に刻み、運命に向き合い、なすべきことをなすために戦場に帰ろうとする。

これはユイの死を取り戻すために全人類ぶっ殺そうとした親父とは真逆の道で、愛別離苦の宿命を強く悲しみつつも、出会えたこと、手渡されたものの意味を強く感じ取り、必死に生きようとする姿勢です。
自分と同じ喪失を刻みつけ、女の屍体で共感ポイント作ろうとする不器用すぎる(つうか有害)コミュニケーションに唖然としましたが、シンジくんはこの段階で、ゲンドウと同じにはならない。
誰かを代用品として求め、身勝手に使い潰したりはしなし、取り返せないものを取り返すよりも慈しもうとする。
その諦めが物分りの良い正義とか善良ではなく、ズタズタに傷つけられた末の再生であることを示すために、ゲロはいたり寝込んだりしてたんだとも思います。よく頑張ったマジ……。

個別の尊厳を持つ誰かを代用品に使う浅ましさは、衝撃のクローン真実が顕になるアスカとか、補完の鍵として使い潰されそうになってくチルドレンとかに、強く反射しています。
皆何処かで奇跡の再来を願って、勝手なイメージを他人に植え付けるけど、それはあまりに危うい希望への耽溺で、やっぱり遠ざけたほうが良いのでしょう。
似ているけど違うなにかの尊厳を認め、一生命、一存在として隣に寄り添って歩いていくありがたさ、清らかさは、やっぱソックリさんとヒカリとツバメの、母子像に一番強く反射しているように思います。
その美しい安らぎに身を預けることが許されていないソックリさんと、その遺志を最後の火種に運命に飛び込むことにしたシンジくん。
守る場所であって生きる場所じゃないと、村のアウトサイドでぶつくさ文句垂れつつ時を待つアスカ。
みなあの美しく懐かしい景色の中で、大事なものを手に入れ失い、その喪失ごと抱きしめてエヴァに戻っていきます。
それは迷って選び取った決断であり、押し付けられる役割や仕組まれた宿命ではない”意思(ヴィレー)”です。

 

 

こうしてモチベーションを回復した途端、テイザー銃がバツンと唸って、一気に場面が切り替わるのがシャープな演出でとても良かったです。
闘う理由、活きる理由、エヴァに乗って闘う理由は、もう十分積まれた。あとはアクションだ!
艦隊戦にロボット戦、クラッキングに槍作り、概念戦闘に対話戦と、まー盛りだくさんで後半も大変楽しかったですね。

”Q”以降ってエヴァの形をしてないフリークスとしてのエヴァがたくさん出てくんだけども、あれはEoEでの綾波レイのグロテスクな偶像破壊の再演であると同時に、足だけになろうが手だけになろうがタフに生きてる存在への、庵野監督の親愛の結果なのかなー、と思ったりする。
2号機も8号機も失ったパーツをサイボーグ化してでも闘う、非常に無様でタフで美しい存在であったけども、異形になって殺し合ってもなお”エヴァ”である不思議な統一感、変質しつつコアを維持する生命のタフさみたいなものが、あのフリークス・パレードには結構反射してる気がする。

決戦前に、マリとアスカがどう考えても白無垢に身を包んで最後の戦場に赴く姿、私室での甘やかでエロティックな距離感が、喜んで良いんだか泣いて良いんだか、よく解んない感慨に満ちて良かったです。
『んー……絶対寝てる……28歳の大人だし』というムード満載に髪まで切らせてる二人が、それを白無垢を祝福ではなく弔慰の衣として受け取る所に、ずっとふたりで戦ってきた時間の重さ、描かれない伏せ札の裏にあるものを感じました。

 

14年間の空白はほとんど描写はされないわけですが、しかしシンジくんが世界とのシンクロを深めていくにつれて想像でき、共感でき、理解できるようになっていく運びになってて、これはこの二人だけでなく、みんなに共通です。
解らない、解りあえないという”気持ち悪い”絶望の中、微かに解り会えるかもしれないという希望と手を繋いで現実に戻っていったEoEの結論から、更に半歩踏み出した歩み寄りが、最終決戦では(そしてその後景たる第三村)ではたくさん書かれていきます。
EoEではシンジが担当していた長尺のモノローグはゲンドウに担当が移り、暴力では解決しない対話を彼自身から世界の果てで持ちかけ、シンジもまた槍を修めて父に向き直す。
その意味は、闘いが踏みつけにする愛おしい場所、ミニチュアの第三村をズタズタにして初めてシンジに分かる。
ああやって槍を修めた瞬間、戦闘ヒロインとして生み出されたシンジくんはようやく、エヴァから降りられたのだ、という感じはしますね。
ピアノ線とミニチュアセットと書き割りをどうしても出さないと我慢できねぇノスタルジーもまた、第三村と同じく庵野監督の業なんだと思うけど、それが原風景として血管流れてんだから、書かないほうが嘘かなー、と思ったりする。
しょーがない、好きなんだから。嫁のマンガのポスターも出すさ。

ゲンドウは世界からの乖離と孤独、自分の望みをつらつらと語っていきます。ユイという絶対の他者と出会い、自分も人間だと思い知らされ、だからこそ喪失が辛く怖かった弱さを、シンジの前に露呈していく。
たとえ世界のルールを書き換えても、死者と再開する奇跡。
それは頭蓋をふっとばされても生存できるバイザーの奥の空虚ではなく、シンジの顔を見て、そこに確かにあったユイの温もりを見つめる、人間の瞳を取り戻すことで果たされていく。
そういう簡単で単純で安楽な奇跡しか人間には許されていなくて、しかしそんな当たり前に人間は気付けないまま、色んな人を巻き込んで世界を殺してしまう。

シンジとのマイナス世界親子喧嘩を、彼は『回り道』と言ったわけですが。
息子を拒絶しエゴを貫く『近道』では得られなかった救済を、対話の中で掴み取っても行きます。
すぐ近くにいるけど気付けない青い鳥を掴むために『回り道』(死傷者マジ多数)をすると……息子と殴り合ったり話し合ったりすると決めた時点で、ゲンドウは世界と自分を見る目、そこにあって見えないものをもう一度見つける視線を再獲得していたのかも知れません。
それが最終決戦の勘所になるんだから、シンジくんがヴンダーに戻る、エヴァに乗る、親父と話すと決めたこと、言って戻ってくる破壊と癒やしの旅路は、必要だったし重要だったよね、やっぱ。

心の電車から降りる扉は半自動です。
出ようと思ってスイッチを押さなきゃ開かない扉から、全世界を食い尽くそうとしたエゴと愛の怪物は降りていく。
それは『すまなかったな、シンジ』と呟いて初号機に食われた終わりより、彼自身にとっても、シンジくんにとっても、納得と救いのある親子の終局だったのだと思います。
まぁ巻き込まれた世界の人達たまったもんじゃないし、そのことは作中何度も言ってて、シンジくんもそこのケジメを付けるために戻っていくだがな!

 

エヴァに取り込まれた子どもたちをバッタバッタと薙ぎ払い、全員エヴァの外側に送り出して終わっていく物語は、まさにエヴァ自身によるエヴァの補完とも言えます。
勝手にフカヨミしてくれる謎情報を山と積んで、なんか奥行きっぽいものを演出するレトリックとしての”補完計画”はまた違った、自分たちが作り上げ、多くの人の心を動かしまた呪った”エヴァ”を、ちゃんと終わらせて開放するんだという意思が、最終決戦には随所に見えました。
EoEではスゲー不幸な目に合わせちゃった連中と、ちゃんと話をして問題点を受け止めて、死んだり殺したりする以外の答えを差し出す展開とも言えるか。

今回の戦闘はEoEの逆打ちだと思っていて、悪の組織ネルフによる人類補完計画を阻止する戦略自衛隊の立ち位置に、ヴィレがなってる。量産型がやってたバクバク捕食によるエヴァ再生もマリとアスカがやりまくる。
実写に下書きにカットアップにメタネタと、EoEでは混乱と切実さに焼け焦げながら使っていた表現技法も、凄く理性的で的確な使い方をされていく。僕あの表現嫌いじゃない……というか大好きなので、今回ちゃんと『これもエヴァなんや! ちゃんと書かんとあかんのや!』とブラッシュアップして再登場したの、凄く良かったです。

結局皆殺しに負け戦に終わったEoEの最終決戦と似通った要素を多数ぶっこみつつ、しかしそこに込められたものは絶望と孤独と諦観、そこに宿ったかすかな希望……が結局”気持ち悪い”に反転しちゃう身も蓋も無さではなく、25年分の人生が生んだ”垢”みたいなものでした。
スゲーでかい地震津波で故郷がぶっ壊れても、無茶苦茶な感染病が荒れ狂って日常が破壊されても、人間飯食って仕事して生きてしまうものだし、生きようとしてしまう。
『絶望程度で、人間なかなか終われない。マジ辛いけど』という監督の実感が、やっぱ一つの答えとして作品を貫通している感じがあるんですよね。
それを映画に焼き付けるまで9年かかったわけだけど、でもまぁ、それもしょうがないなーとは思う。思える映画に、僕の中のシン・エヴァはなってる。なってくれた。

カヲルくんの利他、アスカの寂しさ、綾波の愛。様々なチルドレンの心の根っこに突き刺さった槍を引っこ抜いて、シンジくんはどんどんパイロットをエヴァから下ろしていく。
再生する世界にむけて種を蒔き、未来に向けて希望を繋いでいく。
泣くこと、死ぬことでは誰かの救いになれないと、泣かずに微笑んで皆を開放していく姿は、大人であると同時にすごく純粋で、ようやく彼は14歳の少年に戻れたんだな、という感じもしました。優しくて強い子なんやシンジくんは……。
時間を止めて眠りについたシンジとは、違う時の歩みに放り出されてしまったアスカに『僕も好きだった』と継げて、あの赤い海岸、EoEのエンドマークの更に先に進んでいくシンジくんは、やっぱ大人になったのだ。
カヲルくんが言うようにそれは少し寂しいが(シンジさんに比べ、25年を経てなお、我が身至らぬ情けなさよ……)、良いことなのだろう。

ぶっちゃけ終盤で出てくる専門用語のラッシュはさーっぱり解かんねぇんだけど、カヲルくんがエヴァコンテンツの出口のない迷宮の中で、シンジくんがエヴァから降りれるルートを模索して総当りしてたのはなんとなく分かった。何その副官・加持……イチャイチャしてんじゃないわよ!
自己犠牲のナルシシズムを越えて、カヲルくんは物語の外に出ていく。彼を送り出したシンジくんも、世界の果ての孤独からギリギリマリによって救い出され、パイロットではない自分の物語へと歩きだしていく。そこに犠牲はない。
そういう都合のいい、自分たちが生み出した物語の引力から作品を強引に引っ張り上げる都合のいい神様(デウス・エクス・マキナ)として、敷波・マリ・イラストリアスは既存の物語からエヴァがジャンクションするポイントに、落下傘で降りてきたのかも知れない。
キャラクターと作品世界が背負うろくでもなさ、どうにもならなさ、断絶と無理解……旧エヴァが飲み込まれ真剣に向き合ったものを色濃く書きつつ(書きすぎて”Q”は賛否両論だよ!)、それでも当たり前の幸福と真実にキャラを送り出していくための、物語的横車。
そういう役割を越えて、アスカを大事に隣り合ってくれた彼女の顔と体温も、最後の最後でよく見えたなー、と思う。好きになれて、とても良かった。

結局作品が出した答えはシンジくんが散々苦しんだ後に、色んな人の支えられて世界を広げ、当たり前に大人になって父親と向き合うという、酷くありふれた成長の物語だった。
そこに宿った優しさを、EoEに満ちていた殺気の抜けっぷりを『庵野はヌルくなった』と思う僕がいないわけじゃないけども、でも結局そういうところに答えは戻ってくるしかない気もする。
正直ファンたる僕の頭の中(あるいはもしかしたら、その外側にあるファンダムの中)で凝り固まっていた”エヴァらしさ”に殉じるよりも、やっぱこういう当たり前の結論を必死に掴み取る歩みにこそ、創作の強さというのはあると感じる。
25年。僕たちも変わったし、エヴァエヴァを作った人も変わったのだ。その事実に、ちゃんと向き合った最終作だった。

最後の実写と3D入り交じる駅は多分、そういう到達点の象徴なのだと思う。EoEでは現実優生の対立項でしかなかった虚構と現実が、なんとか手を取り合って前に進めた結論は、『アニメばっかり見てんじゃねー!』ではなく『アニメ見た後は外で遊べ! 疲れたらアニメ見ろ! ゲロは拭いてやる!』な今回らしくて、凄く良いしありがたい。
自分がやったことに、ケジメを付ける。そこから始める。
碇シンジというキャラクターの物語としても、その外側にある作家たちの業としても、このシンはそこを目指し、成功した作品なのだと思う。

神木くんに声変わりし(宮崎監督といい新海監督といい、出会うアニメ監督軒並み狂わせるボーイ過ぎて神木隆之介が怖い)、ネクタイを付け背も伸びたシンジくんはもうチルドレンではない。
彼をエヴァンゲリオンパイロットでなくするために、エヴァじゃなくても価値のあるエヴァにたどり着くために、26年もかかった。
ロボットが闘わない、世界が壊れないエヴァンゲリオンには、もう第26話の学園エヴァに漂っていた都合のいい救済、それを見透かした嘘っぱち感はない。
大鎚で自分の作品をぶっ壊し、『この残骸こそが俺たちの真実だ! これしか出来ねぇ!』という庵野の吠え声を幻聴したあの夏から、もう24年も経ってしまった。
終わっていい頃だし、終わるべきだと思っていたし、終わってもくれた。

それが、僕には嬉しい。終わらなければ、始め直すことも出来ないからだ。
ようやく胸を張って、『エヴァンゲリオンが大好きです』と言えます。
この作品が世に出た今なら、『全てのチルドレンに、おめでとう』はもう、完結しない物語がやけっぱちで出したエンドマークでも、気恥ずかしく揶揄される逃げ道でもなく、ただただ素直で純粋な寿ぎとして、口に出せると思う。

エヴァンゲリオンを好きで、好きだから大嫌いで、でもやっぱり大好きなんだと思い出させてくれて、とても良かったです。

 

・追記 薔薇の名前
第三村の生活を通じて、ソックリさんは自分だけの名前を考え、白紙の自我からは思いつかず、一番好きな人に自分の名前をつけてもらおうと預ける。シンジくんは真摯に考えた結果、『綾波綾波としか思えない』という結論にたどり着き、結局ソックリさんは”綾波”になる。
それは同じであって同じではない、個別の歴史と記憶と体験を持った彼女を尊重した答えだと思う。名前をつけられることで人間は人間になるが、呼び名が同じでも表象するものは変化し、自分を世界に刻みつけるアンカーとなる。そこに真心があればなおさらだ。
そのきっかけになったのが、量産型でしかない自分を象徴するプラグスーツを脱ぎ捨て、裸で人間と向き合う風呂場、縁も所縁もなかったが縁も所縁も生まれてしまった同僚の優しきオババ達なのが、ソックリさんの世界の広がりを示していてとても好きだ。

名付けという行為は過去のゲンドウもやっていて、ユイが死んでしまった後は罰としか感じられなかったシンジ(女に生まれればレイと名付けられていた子)に差し出した時、それは幸福と希望に満ちていた。
ゲンドウは妻との縁である息子と向き合う痛みに背を向け、触れれば傷つけると己を縛ることでシンジくんを泣かせていたわけだが、14年の過酷な日々に練磨されたケンスケ達大人(元子供)の助けを借りて、シンジくんはオヤジのいた場所を南極に行く前に追い抜いていく。
己が幾度も触れ合い、その度消えていった銀色の恋人達の名前を、シンジくんはけして忘れない。同じ”綾波”でも違う生を、恋を、死を抱えて触れ合ったあのこの思い出を、同じ形で取り戻そうとはしない。それは同じであって、同じではありえないことをよく知っている。
ゲンドウと心理空間で対峙する時、砂漠には微かな傾斜がついていて、二人の頭頂は完璧にフラットになっている。
シンジくんはリアルでズタズタにされた傷を他者とのふれあいの中で癒やし、愛しい人との死からも何かを受け取り、帰還したヴンダーの中でカオルくんに出会う。父がいくら望んでも手に入れられなかった再開を、死と弱さを受け入れることで果たしている。

いかにもエヴァ的な電車の中での語りで、シンジくんは父の中にあるイナーチャイルドの背丈を追い抜き、膝を曲げて同じ目線に立つ。加持さんが唯一可能と言っていた肩を叩くか殺すかの選択肢に、”並び立ち、見送る”というオルタナティブを加える。
シンジくんにとって永遠の少年だったカヲルくんも、ループに囚われた超越者の立場から開放され、博愛という名のエゴを指摘され、涙を流す人間に戻ってエヴァから降りていく。
TV第24話以来一種のアイコンになっていたカヲルくんとシンジとの身長差、隔たれていた距離もまた、『あなたはこういう人だ』という名付けを差し出す中で埋まり、そうして理解を得たことでチルドレンは孤独という名前の電車から、半自動の扉を自分で開けて下りていく。
ソックリさんも、避け得ない死を前に己の死に方を決断し、自分がどんな存在であるかを、どんな存在でありたかったかを自分と、生に取り残される愛おしい人に託しながら消えていった。
その死は悲しく寂しいが、ゲンドウを狂わせ全人類を死の淵まで追いやった、永遠の断絶ではない。”破”までの綾波も、そのソックリさんも、カヲルくんも、全てシンジくんの内側で生きて、エヴァに乗って、エヴァから降りる決断をした彼を支え続ける。

『全ては心の中だ、今はそれでいい』


TV版でゲンドウが言っていた言葉を、真実信じきれたのであれば世界は赤く染まってはいなかっただろうが、果たしてゲンドウの犯した大罪と身勝手は、外付けの奇跡に頼らず、息子の真心を借りて再開を果たした彼……電車を降りた彼をどう名付けるのだろうか。

『罪は犯したものが心底から償いたいと願わなければ、意味がない。』

ミサトさんはそう言い、己自身をそこに追い込んだ。矛盾に身を投げて去っていった加持さんを愛おしく思いつつ、それでも生き延びて闘い、息子が生きる世界を残そうと抗った。彼女の罪は、最後の特攻に一人残ったことで贖われたわけでは、勿論ないだろう。
描かれなかった14年、鉄の仮面を付けつつ人であろうともがいた軌跡が、多分あの人の成熟であり、贖罪なのだ。
それは既に果たされていた。あれだけ無理解に見えた”Q”の段階で、寡黙な戦士の表情の奥で確かに、それはあったのだ。
名付けられないもの、名乗らないものも、確かに輝くものとしてそこにある。

いかな名前であっても、薔薇は甘く香る。でも適切に名付けられた薔薇は、より善く薫るとも思う。沢山の名もなきものを、多様な名付け方(名付けないことも含め)で肯定する映画だった。