イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

アイカツ!劇場版感想

・劇場版アイカツ! 大スター宮いちごまつり
二年間の長きに渡り続けてきた星宮いちご主人公の物語、その最終章として選ばれたのはスクリーン。
というわけで、劇場版アイカツ! 遅ればせながら鑑賞してきました。
これからネタバレ全開で感想を書きますので、見ていない方やネタバレを気にする方はご注意願います。

 

 

1)総論
大きく一言でまとめると『星宮いちご編最終回』として、『大空あかり編予告』として、申し分のない出来でした。
アーティスト映画としても、みんなで頑張って何かを作るお話としても、キャラ萌えアニメとしても、恋愛映画としても、世代交代の物語としても、とても気の利いた仕上がりになっていました。
各要素がお互いを引き立てる相乗効果もしっかり生まれており、豊かな読後感を残す映画になったと、大きな満足を見終わって感じました。


2)アーティスト映画として
見ていて一番意外だったのは、思いの外アーティスト映画として、しっかりとした出来だったということです。
見る前は美月といちごの間にある情念のお話か、各キャラの見せ場をたくさん作ったファンアイテム的な映画になると思っていたのですが、一人のアイドルがライブステージを作り上げ、観客を飲み込み、大切な個人に思いを届けるまでを丁寧に、そして強く描写した映画になっていました。
星宮いちごはアイドルという表現者なので、彼女のステージの説得力をお話の説得力にそのまま繋げる構成は素直だし、パワフルでもある。
それを実現するためには尋常ではない苦労があるわけですが、例えばステージ上での観客のリアクションを積極的、かつ個別に描写して取り入れるとか、ステージの巨大感を強調したカットを入れるとか、細かい仕事を一つづつ積み重ね、観客をスクリーンの内側に引っ張り込む努力が成されていました。

僕が一番引き込まれたのは、ステージが始まる瞬間にスタジアムがVRに包み込まれ、一瞬の闇から舞台が出現する演出です。
あれはアイカツ!世界のステージが持っている魔力の表現であると同時に、真っ暗な映画館でスクリーンを見ている観客に、もう一度『作品の中に入る』感覚を体験させる演出でもある。
映画館に入って映画を見ている以上、そこは日常から89分隔離される特異な状況であり、そのオン/オフスイッチを作品内部でもう一度入れる演出は、暴力的な共感を以って見ている観客を殴りに来る、素晴らしい描写だったと思います。
DVDであのシーンを見た時、どういう刺さり方をするのかは気になるところです。

"輝きのエチュード"という曲が産まれるまでの過程に時間を使ったのも、アーティスト映画として堅牢な構成になった大きな理由だと思います。
劇、踊り、衣装。
いろいろな表現を貪欲に取り込んでいくいちごのステージですが、その核となるのはやはり歌であり、『そこに込めたメッセージで神崎美月を動かせるか、否か』が物語のサスペンスの中核を担っている以上、その製作過程を重点的に描いたのは、映画の中に一本の太い芯が生まれる良い流れでした。
何かを作り上げていく物語では何か一つ、手に取れる成果物が欲しくなるわけですが、この映画においては"輝きのエチュード"がその仕事を為し、多岐にわたるお話をまとめる仕事を担当しているわけです。

もう一つアーティスト映画として良かった点は、衣装が遅れて届く一連のシークエンスを、VIP席の学園長とらいちの会話で〆させた所です。
らいちという目の肥えたアイドルファンですら、学園長が言うまで『カードが届くか届かないか、危ないところだった』ということに気づかず、いわば安心して騙されていたわけです。
演者たちの焦りをカメラに捉えつつも、最後に観客サイドに画面を戻すことで、見せてはいけない焦りを隠しきった彼女たちの腕前、プロ意識が強調される、いいシーンだったと思います。


3)花音さんについて
ゲストキャラである花音さんの扱いも非常に巧く、彼女とのファースト・コンタクトシーンは『アイカツ!システムに頼らない、生身のソレイユも人を魅了するアーティストである』『シンガーソングライターの街角弾き語りという、いわばアウェー環境でも評価に値するパフォーマンスが出来る』と、表現者としてのソレイユの強さを観客に説明するシーンになっていました。
彼女はアイドルというジャンルには詳しくないので、ジャンル補正の切れた生身の星宮いちごがどの程度なのかを見せる物差しも担当していて、『作品の中で登場人物がどの程度なのか、解りやすく見せる』という劇作の基本を、しっかり踏まえた見せ方をしていました。
この映画はいわば一年目・二年目のアイカツ!最終回であり、そこまで付き合った好意的な観客目線で仕上げても良い所なわけですが、そういう甘えは無かったように思います。
限られた時間の中、丁寧に『星宮いちごがどんな女の子なのか』『どんな表現者なのか』という説明を積み上げ、結果として登場人物の行動に首を捻る局面が非常に少ない、スムーズな展開を生んでいました。

花音さんがアイドル門外漢なことは、『みんなの為に作る曲ではなく、特別な誰かのために作る曲が、結果的にはみんなの心に届く』という正解に、スムーズに辿り着く効果も生んでいます。
アイカツ!世界は優しい世界なので、『特別な誰かを選ぶ』ということ、『ファンに支えられているアイドルが、みんなを切り捨てる』ということは、踏み込みにくい領域です。
しかし美月さんに対するいちごの思いは、花音さんが指摘したように恋にも似た圧倒的な熱量を持っているわけで、それは恋愛と同じように『誰か一人を選んで特別視する』ことでしか掬いきれない。
それを無意識に感じ取っていたからこそ、アコースティックVerの"輝きのエチュード"にいちごは首を縦に振らず、違和感を感じ続ける。

アイドルとして『みんな』を蔑ろにする事は出来ず、かと言って『特別な誰か』に届けたい初期衝動に嘘をつくことも、表現者として出来ない。
このジレンマを『シンガーソングライター=アイドルカツドウの外側にいる存在』であり『大人の女性=スターライト学園という環境/十代という年齢の外側にいる存在』でもある花音さんは、的確に言語化しまとめ上げていきます。
『特別な誰かを選ぶ』ことと『ファンを切り捨てる』ことはイコールではなく、むしろ『特別な誰かを選ぶ』ことで『ファンの明日がより良く為る』ような表現が行えると、優しく示唆する仕事は、アイドルカツドウの外側にいるゲストキャラクターにしか出来ないでしょう。

此処で出した答えは物語のクライマックス、完全版の"輝きのエチュード"を披露する前の口上で、もう一度繰り返されます。
あそこで星宮いちごが述べていたことはアイドルの存在意義に関するかなりストレートな答えであり、アイカツ!というアニメが丁寧かつ意図的な操作を加えているとはいえ、アイドルをテーマに描かれている以上、立ち入らなければいけない答えでもあります。
そこにしっかりと、これ以上ないほど真っ直ぐな回答を突きつけたことは、作品全体の到達点として良かったと、僕は思いました。


4)みんなで何かを作る話として
今回のお話は『星宮いちごとゆかいな仲間たちが、頑張って一つのステージを作る』お話でもあります。
元より沢山汗を流すアニメではあるのですが、今回彼女らはとにかく事前の準備を決死にやる。
曲を作り、振付を考え、衣装を新調し、銭勘定もアイドルがやる。
その過程を笑いを交えつつしっかり見せることで、『"輝きのエチュード"が美月に届き、引退を撤回する』という結末の説得力が強化されているわけです。
学園でパフェを食べるシーンに代表されるように、努力だけではなく感謝の気持ちをこれでもかと観客に見せることで、誠実なキャラクター達に好感を抱ける構造になってるのも、TV版の良いところをそのまま引き継いだ印象でした。

キャラクターが多いこのアニメでは、観客が推してるキャラの数も多く、要求される活躍の量も多い。
過剰なまでに掛かる負荷は同時に多人数の出番を要求するので、自然いちご一人ではなく、仲間たちの見せ場も生まれ、観客の満足度も高くなりました。
今回の映画は見せない・語らない部分での描写が非常に鋭く、例えばマリアちゃんがヘリで出てくるまでの匂わせ方だとか、あかりちゃんが美月にしたであろう説得だとか、省略を活かした演出が映画の水気を絞っていました。
これだけ人数が多いと割り振る尺も少なくなるわけですが、映す所と映さない所を良く選別し、目配りの効いた配分が為されていたと思います。

いちごの一番の理解者であるあおいがプロデューサーという立場に付き、一歩引いた位置から見守っていたのも、映画の軸を考えるといい構成だと思います。
あおいといちごの話はTV第50話で完璧に完成しているわけで、『星宮いちごと、神崎美月と、大空あかりの物語』である映画版(それはメインビジュアルとラストステージのメンバーを見れば判る)に於いては、あおいがいちごを『持ちすぎる』と上手く行かなかったでしょう。
あくまで背中を支え全体を調整する立場として、見事なバイプレイヤーっぷりを発揮していたあおい姐さんは、映画の隠れた立役者でした。

見せ場という意味では、女の子の話なのに、男の子の格好良さが尋常では無いのが良かったです。
最低限の出番で最高の効果を上げた瀬名くんは言うに及ばず、生徒を信頼して長時間見守り続けるジョニー(飲み物の変化で時間経過を表す演出は、パンチが効いていて良かったです)、お話が終わった後いちごがどうなるかを確定させた太一くん。
けして主役ではないのですが、要所要所をビッと締めるいい仕事でした。
らいちはらいちなので、まぁしょうがねぇ。


5)神崎美月について
こっから個人的な思い入れが強い筆になりますので、キモくても許してください。
今回の映画は神崎美月が『アイカツ世界の天井』から正式に降りるお話でもあります。
物語の必要上常に強く、正しく、負けない存在でなければならなかった神崎美月が、どれだけそこから降りたかったのか。
それは映画で唐突に語られたのではなく、作中で最初から見せられていた要素です。
神崎美月は王者として画面に映っていたけれども、常に寂しく、辛く、苦しかった。
それでも背筋を伸ばし、ぶっ倒れても立ち上がって『アイカツ世界の天井』を努めるからこそ、神崎美月は美しいわけですが。

しかし美月さんが抱えている、アイドルカツドウに対する誇りと愛着は、安易にドロップアウトすることを許してくれない。
それを的確に表現したのが、今回の「譲るのではなく、奪われたかった」という台詞だと思います。
一期から時に憧れの存在として背中を見せ、時に深夜に偶然を装って助言をしていたのは、自分自身を奪いに来る資質、奪われても悔いのない愛着を、星宮いちごに見ていたからだったわけです。

2WingSとの戦いでクッキリした勝敗が付き、自分を理解してくれる夏樹みくるという半身も手に入れ、101話段階で神崎美月は自分を終えることを決意していた。
アイカツ世界の天井』から人間に戻ることを、自分に許すことにした。
その間我慢していたこと、『もし人間になれたら』という夢と願いが、あの膨大なToDoリストに篭っていると考えれば、あのシーンは笑えると同時に身を切るほど切ないシーンでもある。


同時にそれは恐怖からの逃避でもあって、いざ運命の切断面に立ち向かうとなるとしり込みする神崎美月の資質は、みくるがオーストラリアに旅立つ前でもそうだったわけです。
そこに真正面から飛び込んできたあかりちゃんが即座に『大空』呼びになっているのもむしろ当然という感じですが、ともあれ『神崎美月も人間である』というのが、今回声高に叫ばれていたメッセージなのは、疑問を挟む余地のない所です。
映画の美月さんはとにかく臆病で、等身大の背中を精一杯伸ばして、アイドルとしての自分の葬式に挑もうとする一人の少女なのです。

これは例えば第41話『夏色ミラクル☆』のスターアニス夏合宿で、第47話『レジェンドアイドル・マスカレード』でぶっ倒れた時に、もしくは第99話『花の涙』ラストのみくるとの抱擁で既に仄めかされていた事実なのですが、その都度『アイカツ世界の天井』として正しいさを取り戻し、非人間的な強さで自分を鎧い直し(もしくは、鎧い直すことを強要され)て来ました。
それは自分を奪う存在として星宮いちごがまだ不十分であり、『アイカツ世界の天井』が要求する苛烈さに、星宮いちごは耐えられないという判断と、常に背中合わせです。
"大スター宮いちごまつり"という表現を見ることで、美月さんは譲るのではなく奪われることをようやく認め、その上でアイドルカツドウを続けることを決意します。

それは『アイカツ世界の天井』ではない、『ただのアイドル』神崎美月の価値を認めることでもあると、僕は思います。
美月さんが感じていた不安の中には、トップアイドルという立場から抜け出た時、自分には何が残るのか分からないという不安も、確実にあった。
なにしろ、物語が始まった時から神崎美月は『アイカツ世界の天井』であり、それ以外の神崎美月は(仄めかされてはいても)描写されていないのですから。
今まで自分を支えていた硝子の階段から降りた時、残るのは虚無かもしれない。
夏樹みくるという、自分の魂をまるごと支えてくれるような半身を手に入れても残る、根源的な不安。


それを吹き飛ばしてくれたのが星宮いちごのステージであり、"輝きのエチュード"という曲でもあったわけです。
たとえ世界で一番のアイドルでなくとも、アイドルカツドウは、アイドルカツドウを続けている神崎美月は"良いもの"であると確信できる。
「みんなの明日をより良いものにしたい」という綺麗なお題目はしかし、あの曲を聞いた美月さんと(作中と劇場、二重写しの)観客に取っては圧倒的に真実であり、『ただのアイドル』はそういう綺麗なお題目を、真実に取り替える力を持っている
それを納得させるためにアーティスト映画的な描写が活きているし、いちごから美月への濃厚な感情(作中の表現に準じて『恋愛』と言ってもよいでしょう)が表現の底を支えてもいる。
この相互作用が、『神崎美月の人間宣言』という一大事件を支えているわけです。

僕はかつて、二期アイカツ!最終盤の展開を『"神崎美月が負ける"話としては十分だが、"星宮いちごが勝つ"話としては正直足らない』と書きました。(http://lastbreath.hatenablog.com/entry/2014/09/21/072803
今回の映画は、心情としても、いちごが持っている表現力の表現としても、『星宮いちごが神崎美月に勝つ話』として、申し分のない内容でした。
二年間かけた星宮いちごの成長物語として、そして不器用な女王・神崎美月が玉座を降りるまでのお話として、まこと見事なエンドマークでした。


6)大空あかりについて
星宮いちごと神崎美月の物語、『過去のアイカツ』を終わらせるだけではなく、今現在物語の中心にいる大空あかりの物語を埋め込み、『これからのアイカツ』をも視野に入れているのが、今回の映画の豊かなところです。
かつて神崎美月の背中に憧れて走り始めた星宮いちごは、見事成長し『アイカツ世界の天井』を奪いました。
それは同時に、かつて美月が見せていた背中を、いちごが見せなければいけないということでもあり、それを見つめているかつてのいちごこそ、あかりちゃんなわけです。
ここら辺は、作中でも非常に明確かつクリアに台詞で説明されている所ですが、最後のステージの並びを見ることで一番ハッキリ見えるのが、とても良いですね。

今回の映画で良かったのは、あかりちゃんが憧れの星宮いちごの背中を見つめ続けるだけの置物ではなく、自分の地位が略奪される瞬間に怯え逃げ続ける美月さんを追いかけ、捕まえるという大切な仕事を任され、果たした所です。
既に各々の得意分野で功を成し、成すべき仕事がある既存のアイドル達は、無責任にステージを離れられません。
未だ立場のない未熟なあかりちゃんだからこそ、『美月さんを捕まえ、引っ張ってきて、勝負を成立させる』という一番大事な仕事が出来るのは、逆説的かつ順当な展開です。
(とは言うものの、練習の描写を見るだにダンサーとしての出番が幾つかあったようで、そこは主におとめが埋めていた感じですが)

三年目のアイカツは一・二年目とは明確に異なり、作中人物に克服すべき課題と、克服するための武器がハッキリと描写されています。
あかりちゃんの課題は頭の弱さ・要領の悪さであり、武器はがむしゃらな行動力と勝負所での直感だと、これまでの1クールで演出されていました。
今回美月さんを見つけえたのはその武器、ひたむきで真摯な行動なのであり、彼女がいなければ『過去のアイカツ』は終わらなかった。
そういう大事な仕事を今の主人公に託すことで、この映画は世代交代の物語としても、素晴らしい出来になったと思います。

ステージが終わった後、誰も居ないアリーナに『これからのアイカツ!』を担当する三人が映るシーンで、この映画は終わります。
空っぽの客席はつまり、これからこの三人が此処を満員にするまでの物語が展開されるという、一種の予告でもあります。
今回いちごが美月に追いついたように、あかりもいちごの背中に憧れて走り続け、彼女なりのやり方で追いつく。
『過去のアイカツ』の総決算をするだけではなく、『これからのアイカツ』の見取り図も見せてくれる構図は、やはり圧倒的に豊かです。
今回見せた未来の見取り図を、TV三年目がどう実現していくのか、とても楽しみになります。


7)まとめ
『劇場版アイカツ! 大スター宮いちごまつり』は、様々な要素を貪欲に盛り込みつつ、物語として背筋を正した真摯な作りと、明確なテーマ性、情感豊かな表現によって、大きな実りを実現した、素晴らしい映画でした。
良く出来た過去の総括というだけでも、未来の予感を封じ込めたこれからの物語というだけでも、過去と未来を繋ぐ現在の話というだけでもない。
流れていく時間、変化・成長していく人々の姿、受け継がれていく憧れの背中を、一つのステージを完成させる過程を誠実に映すことで、フィルムに切り取っていました。
良い映画でした。