イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

アイドルマスターシンデレラガールズ 第13話感想

アイドルマスターシンデレラガールズ:第13話『It's about time to become Cinderella girls!』
訳すなら『時は来た、それだけだ』という感じの、デレアニ第一期最終話。
最後の最後まで試練とその克服をドラマの中心に据え、少女たち(と不器用な大男)の到達点をしっかり見せる、大満足のラストエピソードとなりました。
思い返すと、立派なアニメだったなぁ、シンデレラガールズ

群像劇たるこのアニメ、最終話は個人やユニットに焦点を当てるのではなく、CP全体をカメラに収め、この話がたどり着いた場所がどんなところなのかを、余すところ無く見せなければなりません。
そのために用意された舞踏場が今回の夏フェスなのですが、しかし全員にフォーカスした結果ドラマの焦点がボケるという愚策は今回も侵さず、しっかりと軸を据えて話が回っています。
今回の軸は新田美波神崎蘭子本田未央城ヶ崎美嘉、そしてプロデューサーとなります。
まずは彼女たちから見て行きましょう。


『調子の上がったキャラクターを下げて、全体的な不穏さを演出する』というのは、このアニメを貫く強力な演出プランです。
第3話の未央であったり、第7話の卯月であったり、第10話のきらりであったり、『此処が凹んだら総崩れになる!』という危機感を抱くようなキャラクターに不調を背負わせ、メインステージから外す手法は、繰り返し使用されてきました。
主導的なキャラクターの危機を、他のキャラクターが掬い上げることで仲間との強い絆も見せることが出来、個別のキャラクターのお話であると同時に相互の関係性のお話でもあるこのアニメに、非常にあった演出方法だと言えます。

第12話で圧倒的に的確なリーダーシップを発揮した新田さんも、この基本原則に従って、今回下がる役を担当することになります。
光と影で魔法をかけるのがこのアニメの画面作りの基礎だと思うわけですが、出場不可を告げられ肩を落とした新田さんの顔に、サッと影がかかる画面は画面の深刻さを一気に上げていて、とても良い演出です。
視聴者とCPメンバーに第12話で生まれたリーダー・新田美波への強い信頼と、彼女が脱落することで生まれる不安感、それを克服することで生まれるカタルシスは全て一繋がりであり、話数を跨いだエピソードのやり取りが巧い、このアニメらしい盛り上げ方だと言えます。

無論話の都合だけでキャラクターが凹まないように、丁寧な描写を挟むこともこのアニメの強みであり、気合を入れすぎてやや空回りしている新田美波の緊張は、序盤の描写からしっかり伝わってきます。
元々前に出るタイプではない新田さんは、12話で『覚醒』してCP全体の導き手となったわけですが、今までのスタイルと異なる立場は見えない緊張を強い、責任感が強いからこそ強い負荷をかける。
原因と結果を繋ぐ、間の描写をしっかりと挟み込むことで、このアニメは作品全体を支える強烈な図式を、視聴者にあまり気取られないようにすることに成功しています。
無論、キャラクターが作中で生きている人生の描写としてもこれらのシーンは成功しており、ただ作品の設計意図をマスクする意図だけが、新田さんが張り切りすぎている描写の意味ではありません。

(あんま関係ない話なんですけど、『Memories』は曲調、モチーフ、衣装、ダンスの時の表情の入れ方など、色んな部分がWinkへのオマージュだと思ってます。
しかし今回『相方が負傷欠場し、同じチームのメンバーで空いた穴を埋める』という展開が入ったことで、すごく『てもでもの涙』っぽくなったなぁと感じました。
てもでも自体がWinkへのオマージュってのもあるけど、脚本ゆにこ先生だし、佐伯美香のエピソードを盛り込んだ可能性は無いわけじゃないなぁとか……多分考え過ぎ。
色んな事情が重なって、完全バージョンを披露できない不遇の名曲と考えると、アイドルソングらしい物語性が生成されてて、特に好きな曲です)


新田さんが消失した穴は強烈な不安となり、これを埋めるために物語が運動を始めます。
誰かの不在は誰かが過剰に出っ張ることを意味し、『らしくなさ』を『らしさ』に変えることで成長を見せてきたこのアニメにおいては、喪失はあくまで回復するための前段階です。
今回『らしくなさ』を見せたのは、前回ラブライカと対で描写されていた神崎蘭子になります。

蘭子といえば熊本弁であり、『一見欠点に見える個性こそ、輝くための強力な武器』という世界律にしたがって、彼女は彼女のままで周囲と分かり合い、居場所を作ってきました。
しかし、リーダーでありラブライカの半身でもある新田さんの不在は、恥ずかしがり屋の自分を鎧うために中二病的言語しか喋らない、今までのままの神崎蘭子ではけして対応できない緊急事態です。
第12話で新田さんが、顔を叩き笑顔を作ってからリーダーという立場に飛び込んでいったように、蘭子も今回、初めて自分の心を一般的な言語で伝える。
特異な『らしさ』の居場所をみんなで作っていくことも、『らしくなさ』を『らしさ』に変えていくことも、このアニメをスウィングさせる重要なエンジンであり、今回蘭子が担当する物語は後者です。

この変化を魅力的に見せるために、第12話でラブライカが蘭子を挟む形で物語を進めていたのは、伏線であると同時に描写でもあります。
新田さんがダメになった時に代わりにするために、ラブライカ+蘭子は三人四脚を走ったわけではありません。
孤独に悩んでいた蘭子を『出来ない奴』という立場から引っ張り上げるためにはあの一手が絶対に必要だったのであって、その上で今回新田さんが凹み、その穴を蘭子が埋める。
誰かがダメになった時にはすぐさまカバーが入る安心感というのも、このアニメの武器の一つでしょう。

今回蘭子が普通に喋ったことで、ゴシックな世界観を売りにするRosenburg Engelは魅力を失ってしまうわけでは、勿論ありません。
『らしくない』行動をすること、決意をして新しい場所に飛び込んでいくことは、そのキャラクターが持つ魅力を損なうことにはならない。
新田さんがリーダーになっても、杏ちゃんが前に出ても、きらりが凹んでも、それは彼女たちの新しい側面であり、新しい『らしさ』です。
しかしキャラクターが単一の記号しか持っていないような描き方をされていれば、そのキャラ『らしくない』行動はキャラ描写のブレとして捉えられ、変化は魅力とは受け止められないでしょう。
キャラクター達が多様な側面と特徴を持つ複雑な人格なのだと、頑張れることもあれば傷ついて立ち上がれないこともある存在なのだと認識されるように、細心の注意を払って画面とエピソードを組み立てていたからこそ、今回の蘭子の行動は、胸を打つのだと思います。


『ラブライカ出番消失の危機』という派手な損失を埋めた蘭子に対し、城ヶ崎美嘉は目立つことのない、しかし重要な支援者です。
先輩アイドルとして第2話からCPと強く関係し、NGが泡沫の夢を見る直接の原因となった第3話でも、その夢が仇となった第6話でも、美嘉はCPの外側からCPを支える、15人目のメンバーとして活躍していました。
彼女という気持ちのいい先達がいるからこそ、CPの女の子たちが目指すアイドルの世界は善いものであり、頑張る価値がある素晴らしい世界なのだと思えたのは、間違いないことだと思います。

ただ頭上に輝く憧れとして、城ヶ崎美嘉は物語に存在しているわけではありません。
第7話ラストで自嘲気味に言っていたように『部外者』である彼女は、しかしひよっこアイドル集団であるCPの外側にいる先行者だからこそ、CPに足りないものを適宜補ってきました。
ステージ経験豊富で余裕があるからこそ、CP全員が初めて本気で取り組む舞台に彼女たちを送り出し、新田さんの面倒を全て背負う支え方は、美嘉にしか出来ないでしょう。

今回CPは、アイドルという仕事を、憧れではなく当事者としてやり切る、最初の機会に居ます。
第2話で未央が、第11話で李衣菜が見せていたように、ユニット仕事を経験しステージに上るまで、彼女たちの中でのアイドルは常に憧れです。
顔も名前もなくステージを眺めるだけだった、何者でもない少女たちはようやく、この世界で名前と意味を手に入れる寸前まで登ってきたわけです。

そういう状況下で、いかに新田さんが大事でも、ステージを外す選択肢はありえない。
しかし、強い責任感故に体調を崩してしまった新田さんを誰も支えないというのは、あまりに寂しすぎる。
その矛盾を、美嘉が医務室に居続けることで解消してくれている。
第2話・第3話でCPが目指すべきアイドルの高みを教えた彼女が、今回ようやく追い付いてきたCPが憂いなく戦場に飛び出せるように、頼もしすぎる後ろ盾を買って出ているのは、彼女がこのアニメで果たしている役割、魅力を的確に見せる立ち位置だったように思います。

『戦場ドキュメントとしてのアイドル・フィクション』という見せ方は、個人的にはAKBドキュメンタリー映画第二弾『Show must go on』を思い出します。
転がり出したら止まらないフェスの速度、戦闘服のように手早く着替えられるステージ衣装、力尽きて離脱するリーダー。
莉嘉の手際の良い立ち回りは、ベテラン兵士の頼もしさと同時に、有能でなければ生き残れない戦場のハードさを示すものでもあるのでしょう。

 

こうして第一の危機を乗り越えたCPですが、すぐさま次の危機が訪れます。
事前のボードには降水確率0%と書かれていましたが、山の天気は変わりやすく、NGの舞台は突然の雨で中断する。
蜘蛛の子を散らすように去っていったファンは、6話で本田未央の心を折ったステージの再演となります。
このピンチで主軸になるのは、本田未央とプロデューサーとなります。

思い返してみれば、シンデレラガールズ第一期は本田未央の物語であったように思います。
ミーハーでお調子者で、人間関係の視野が広く人を引っ張る元気がある彼女は、第3話で早速緊張感に苛まれ、過大な夢を懐き、第6話での失望に当然のように導かれていきます。
アイドル以外の価値を許していないシンデレラガールズの世界において、本田未央が口にした『アイドルやめる!』という宣言は自分への死刑宣告であり、これを撤回させるために第7話の尺をほとんど使う。
物語の大きな上げ下げは、常に本田未央と一緒にあったわけです。

そして、アイドルの輝きを引き出し、彼女たちの笑顔を糧に自身も成長してくプロデューサーもまた、本田未央との関わりは深い。
群像劇としてのシンデレラガールズを取りまとめる立場であると同時に、自分自身も未熟なアクターとして物語の中心にいるプロデュサーは、作品中最も目立つキャラクターだと言えます。
彼の挫折と成長は勿論、CP全員と関わりあいながら展開する物語なのですが、彼のオリジンが開示され作中最も大きな成長の原因となったのは、本田未央の挫折と再起の物語です。
プロデューサーと本田未央は、お互い傷つけ合い癒やし合いながら、成長の階段を共に登って最終話までやって来た戦友と言えます。


第6話で本田未央が『失敗』と受け取ったステージは実質失敗しておらず、そこには彼女が過大に膨らませたアイドルへの期待と、それに遮られて観客の反応を見落とした彼女の心が存在しています。
心の取りようによって『失敗』を『成功』に、もしくは同じステージにたったラブライカがそうであったように『失敗』を『成功』に変化させる事ができるこのアニメは、多分に心因的というか、心の問題を克服することで全てが快方に向かっていくベクトルを有しています。

今回、初めて視聴者の前に完全な姿で公開された『できたてEvo! Revo! Generation!』には、観客の反応が取り込まれています。
煌くサイリウムの海、ステージを楽しむ人々の表情、活気のあるコール&レスポンス。
それは小さいながらも、第6話のステージでも起こっていたはずの反応であり、少女たちが心を閉ざしたことで見えなかった風景でもあります。
観客の反応がヴィヴィッドに挿入されている、今回の『できたてEvo! Revo! Generation!』と第6話のそれを分けているのは、絶望から回復しアイドルという存在理由に帰還したNGの、心のありようにほかなりません。

しかし、全てが心のなかで起こっているわけでは、けしてない。
心の外側の世界には、頑然としてステージが存在し、それを見つめる観客もまた存立しています。
第7話ラストシーンでNGはもう一度初舞台を踏みなおしていますが、そこに観客は居ません。
それは、島村卯月の、渋谷凛の、本田未央の心のなかでこそ起こっていることなわけです。

翻って今回のリスタートには観客が存在し、彼女たちのアクティングが群衆を動かし、大きな力を与えていることが示されます。
あの時アイドルを辞めなかったからこそ手に入れられた、観客のいるリスタートは大きな力を持って、雨が上がり曲が進行するに従って、まばらだった客席は埋まっていく。
NGが笑顔でやり切ったステージは、人を引きつける魅力を持って世界を変革していく。
それは、心の外側の世界です。

本田未央が観客を見失い、再獲得する物語の中で強調されているのは、『アイドルという職業はアイドルだけで存在するのではなく、彼女たちの輝きを受け取りともに前進していくファン、外側の世界があってこそのものだ』というテーマです。
アイドルとファン、こころと世界は相互侵犯可能な共犯関係にあって、どちらを欠いても上手く行かない。
13話という長い物語を走りきった本田未央が示しているのは、このアニメが捉えている健全なバランス感覚に他なりません。

心を変えることで見えている世界が変わり、行動が変わり、観客に影響を及ぼしていく。
アイドルという立場を手に入れることで、これまで知らなかった世界を学び、自分自身の心も変化していく。
心と現実が相互に作用し、より良い方向に変化していく運動こそ、第3話・第6話・第13話で描かれたNG三回のステージが際立たせいる、この作品のダイナミズムだと僕は思います。


心と現実が相互に影響するからこそ、心のあり方はとても大事です。
第6話でプロデューサーが口にした、正しすぎるがゆえにあまりに残酷な言葉は、一度本田未央を壊しました。
今回プロデューサーは、あの時とは異なる行動を取る。
言葉を選び、ただ事実と真実を伝えるのではなく、それによって傷を受け立ち直る心のことを考えて、本田未央に言葉をかけるわけです。
本田未央が一度『失敗』したステージを取り戻すこのタイミングで、プロデューサーもまた、彼の物語の(一応の)完成を示す形です。

第2話で同じ写真に入ることを拒んだプロデューサーは、現実が見え過ぎている……というか、過去の失敗から現実しか見ないように己を規定していた存在です。
未央の見ていた現実が過大な幻想で変質していたように、プロデューサーが凝り固まっていた過剰な現実主義は、関わるアイドルたちと彼自身の心をも頑なに固定していた。
心的風景も現実的光景も共に重要だからこそ、己を車輪として規定し、アイドルと心で触れ合うことを拒んでいた第2話の彼は、今思い返せば痛ましいし、彼の内側にある真実、大切なアイドルたちとより良い関係になっていきたいという願いを裏切ってもいます。

あれから11話の話数を積み上げて、今回彼はCPメンバー全員と一緒に写真に映ります。
彼の美点であり個性でもある誠実さ、堅実さを損なうことなく、むしろそれを活かしてこのラストシーンに辿り着く事こそが、プロデューサーを主人公とした場合のこのアニメの(一応の)終着点となります。
あのラストシーンはしかし、単独で存在しているわけでも第2話との呼応でのみ存在しているわけでもなく、本田未央との対話シーンで見せた変化があってこそのエンドマークだと、僕は思います。


あの写真がプロデューサーのエンドマークだとすれば、では本田未央のエンドマークは何処なのか。
それは当然、アンケートを見つめるシーンになります。
ようやく履いたガラスの靴を脱ぎ捨てて、裸足で自分たちの行動を見つめなおすあのシーンは、CP全体の到達点でもある。
ですが、『失敗』と切り捨てて『アイドルやめる!』とまで言い切ってしまった第6話のステージが、その実世界を変革していたのだと実感させる流れと、何よりも『アイドル、やめなくてよかった』という言葉を引き出していることを考えると、あのシーンの主役はやっぱり未央です。

第6話から第7話の流れは、物語に強烈な負荷がかかる下げ調子の展開であり、かつ第7話が終わっても溜め込んだ失点を完全には回復できない展開です。
ラストシーンの再起動はあくまで三人の気持ちが起き上がったのであり、アイドルとして必要なステージ上の活躍、ファンに対する強烈な働きかけは、宙ぶらりんのまま終わる。
6話の間宙吊りにされていた、本当の意味での失地回復はNGのステージと、あのファンレターで達成されるわけです。
それはとても強烈な物語的体験であり、快楽でもある。
その真中にいる本田未央が、心の底からプロデューサーに『ありがとう』を言えるのであれば、やっぱりこの話の最も大きな軸、シンデレラガールズ第一期の一番の大きなアクターは、本田未央だったんじゃないかなと、僕は思います。

 

その上で、今回のお話は新田美波だけの、神崎蘭子だけの、城ヶ崎美嘉だけの、本田未央だけの、プロデューサーだけの物語ではない。
今までの物語が少女たち全員の物語であったように、その終わりもまた、全員の物語なのです。
特定のキャラクターに強いフォーカスを当てつつも、例えば蘭子の髪の毛を母親のように優しく整えるきらりであったりとか、計算なのか天然なのか相変わらず謎が残る態度で緊張感を抜く天才・双葉杏であるとか、かつて焦りから劇場を占拠し今は仲間のためにMCを繋ぐ前川みくであるとか、短いシーンの中でキャラクターの魅力をグンと引き出す手腕は、今週も冴え渡っていました。

その集大成としてあるのが、第12話全てをその準備に捧げた全体曲『Goin'』です。
(第12話の感想で振り付けを『Star!!』と書いてましたが、まーこのアニメがこのタイミングで新曲投入しないわけ無いよね、考えてみれば)
合計10回見せられたOPアニメーションで、預言的、もしくはサブリミナル的に高まった期待を大きく上回る渾身の作画であり、シンデレラプロジェクトのひたむきな魅力、可愛さ、活力すべてが詰まったステージだったと言えます。
(OPもしくはEDの尺を無駄に使わず、伏線として機能させる手腕は同時期に放送していた『ミルキィホームズTD』)

丁寧な物語的積み重ねがあってこその感慨ではあるのですが、アイドルマスターシンデレラガールズがアイドルという表現者のお話である以上、彼女たちの身体表現こそが感動の土台であるべきですし、それ以外に説得力を持って彼女たちの到達点を見せることは出来ない。
なので、『Goin'』の仕上がりはそのまま、第1話冒頭では何者でもなかった彼女たちが、顔と名前を手に入れてアイドルとして自分を表現する物語全体の仕上がりを反映します。
表現者たる彼女たちの物語的身体は女の形の中にではなく、ステージ上で躍動する運動それ自体にあるべきだからです。
そして、『Goin'』が見せた表現は、その過大な任務を達成するのに相応しい出来栄えだったと思っています。


そこを通り超えて、物語の起点たる第1話で主役を張っていた渋谷凛も、一応の到達点を見せる。
何の夢も、熱くなれる何かも持っていなかった渋谷凛は、『楽しかった……と思う』という言葉を口にできるくらいには、アイドルに自分を投げ入れている。
しかしその姿勢はやはりまだまだ余裕を残していて、渋谷凛の物語は(本田未央の物語とは違って)これからなんだなぁ、という印象を受けます。

脳がクラクラするくらいに強烈な感情の乱高下をいくども体験させられつつ、『まだまだ未熟』『まだまだ途中』という描写を沢山盛り込み、物語が進んでいく余地を残しているのも、このアニメの特徴の一つかと思います。
あれだけのドラマがあると、ついついキャラクターの持っている欠点(つまりはそれを解消していくことで物語が進展する余地)を昇華してしまうものですが、このアニメは冷静に、必要なだけの変化をキャラに達成させ、厳密に成長を管理しています。
一度達成した成長が巻き戻ることは殆ど無いので、同じことを何度もやっている徒労感や、積み上げてきたことが無駄になる喪失感を与えることなく、キャラクター個人の物語、キャラクターが相互に影響しあって進む全体の物語を、上手くコントロールしているわけです。
今回凛ちゃんが見せたクールで熱くて、中途半端なんだけど達成感のあるあの背伸びは、そういうラインの上に乗っかっている描写なのではないでしょうか。

そういう意味合いでは、やはり島村さんの不穏さというのは13話の物語が終わったこのタイミングでも全然解消されていません。
新田美波の喪失と回復を、NG二度目の初舞台を、『Goin'』の達成感を経てなお、彼女にとってのアイドルは『アイドルみたいです』というものです。
それが、島村卯月がアイドルに抱いている巨大過ぎる理想から生まれるのか、アイドルという夢に辿り着くには小さすぎる自己評価から生まれるのか、それとも別の理由があるのか。
匂わされつつも、一期でそれに切り込むことはありませんでした。
二期では、痛みを伴いつつそこに飛び込んでいくのではないかなと、勝手に考えています。


こうして、アイドルマスターシンデレラガールズ第一期は終わりました。
光と影、レイアウト、左右配置、印象を操作するフェティッシュなど、画面をどう構成するかという根本的な方法論が常に共通しており、作品世界をどう視聴者に伝えるのか、揺れのない確信的な演出プランが感じられるシリーズだったと言えます。
脚本においても、話数を跨いだロングパスが何本も決まっており、物語全体の豊かさ、キャラクターの多角的な魅力構築に成功していたように思います。
非常によく準備され、管理され、構築された、優れたアニメシリーズです。

同時に、ただ客観的・理性的に分析できる要素だけが優れているアニメではなかったです。
キャラクターにも、そして彼女たちが絡みあうことで生まれる物語にも、強い愛情を感じました。
視聴者の大半がぎりぎり受け止められる所までしっかり負荷をかけ、それを克服させることで見えてくる成長物語。
個性の扱いであるとか、心と世界であるとか、夢の意味であるとか、各々のテーマに対する強い情熱。
自分たちがやりたい事を、的確な方法で視聴者に伝えるのだという血潮の感じられる、熱いアニメシリーズであったと思います。

良いアニメでした。
三ヶ月の間を空けて、第二期が始まるようです。
とても楽しみにしています。
ありがとう。