イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

アイドルマスターシンデレラガールズ 二期感想まとめ

とりあえず自分用に。

 一期・二期合わせて22万7000字。我ながらたくさん書いた。コバヤシくんはデレアニが好きだねぇ。

 

 

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd SEASON:第14話『Who is the lady in the castle?』感想

周回遅れでやって来た(俺的)夏アニメのチャンピオン、新たな物語の始まりはかなりゆったりしたものでした。
これまで物語の軸を明確にし、『一体何をやるのか』が分かりやすかったデレアニにしては、やや狙いが薄く見える展開。
しかしよく見てみると、一期の経験によってCPが今いる場所、そこから変化するために必要な新しいアクターの紹介を随所に埋め込みつつ、プロデューサーの背後霊騒動を楽しく見せる楽しい回だったと思います。
まゆも可愛かったし。

今回のお話はCPの面々が達成した成長がどのような成果を連れてきているかということ、それがどのように心地よい場所なのかということを、色々な角度から見せています。
三ヶ月付き合った名OP『STAR!!』をBGMに描写されるのは、CPの各ユニットが着実に仕事をこなし、アイドルとして頭角を現しつつある姿。
物語がはじまったタイミングでは顔も名前もない、ただの傍観者だった女の子たちが、あの時見つめていた『アイドルで埋まった世界』の当事者になっている構図は、彼女たちが達成したものをよく見せてくれています。
そして、あれだけ劇的だった夏フェスを終えて一ヶ月経っているのですから、ある程度以上の成果は欲しくなる。
そういう気持ちに台詞を使わず表情と美術だけで答え、彼女たちの希望に満ちた今を見せてくれる出だしは、このアニメらしい手際の良さに満ちていて、気持の良いスタートでした。

OP明けてアバンで感じたことを、島村さんたちが言葉にしてまとめてくれています。
この『描写の後に台詞で追撃する』スタイルは例えば、夏合宿の狙い新田さんが喋る第12話終盤でも使っているやり方で、喋らなさすぎて意図がわからないことも、喋りすぎて雰囲気が壊れることもない、良いバランスだなと思っています。
出だしで特徴的な演出技法が出てくると、シリーズとしての強みを忘れていない感じを強く受け、信頼感が高まりますね。

この開幕三分ぐらいで『今のCPがどんな感じか』はだいたい説明されているのですが、小さな仕事がみっしり詰まり、バランスの良い充実感に包まれた幸せな現状の描写は、物語のラストまで継続していきます。
今回のお話は背後霊やストーカーを扱いつつもけして深刻にはならず、打ち解けた雰囲気と優しい空気に満ち、女の子たちはずっと笑っている。
というか、あれだけ仏頂面を崩さなかったプロデューサーがとても朗らかに過ごしている。
前川がカフェを占拠したり、本田がアイドル辞めるとぶちあげたりした時のお辛い空気とは、全く異なる雰囲気が『今のCPの感じ』なわけです。


等身大の夢と苦しみを乗り越えてここまで来た彼女たちを知っていると、今回見せられた多幸的な空気はとても心地よく、有り難いものに感じられます。
しかし彼女たちの物語を作るスタッフたちはそこから一歩先に踏み出すつもりらしく、そのために呼ばれたアクターが美城常務です。
彼女は心地よかった今回のエピソードに『全プロジェクトの白紙撤回』という爆弾を投げつけ、このままお話が進むのではないと明確にしました。

常務の意図が何処にあるのかは次回以降明らかにされていくわけですが、彼女自身のキャラクターは今回の描写から少し見えるものがありました。
怜悧で優秀、プロデューサーのネクタイを直すシーンからして独善というわけではないけど、苛烈に状況を変えていくことを恐れない女。
これまで大人役を担当していた部長がじっくりと後ろから見守るスタイルだったのとは、かなり対照的な位置にいるキャラだと言えます。
このアニメは『灰かぶり』を本歌取りしているわけですが、プロデューサーが馬車の車輪と魔法使い(もしかすると王子)を兼任しているように、シンデレラに試練を与える継母たちの役目を重ね合わされている印象も受けます。
彼女が意地悪な継母であると同時に、シンデレラに魔法をかけるフェアリー・ゴッドマザーであるか否かは、今後の展開を待たねばならないでしょうけども。

ともあれ、彼女が今回示された平和で中途半端な到達点を破壊し、新たなステージを強制的に目指させる起点であるというのは、間違いなさそうです。
CPが今いる場所が完全な到達点ではない、というのは彼女たちの仕事風景にも現れていて、学園祭のステージにしても、撮影の現場にしても、おそらく意図的に未完成の骨組みがカメラに映りこみ、完成度の低さを視聴者に示しています。
もし彼女たちが破壊と再構築の余地もない完璧な存在に到達しているのなら、舞台裏を見せるにしてもより緊張感のある見せ方をしていると思うので、今回のどこか緩んだ空気は結構意図的なのかな、などと思っています。

思い違いとディスコミュニケーションからはじまったCPの物語(は、半分くらい本田未央の物語でもあるのですが)を思い起こせば、今回見せられた柔らかな時間は欠けがいなく有り難いものです。
未央が『アイドル辞める!』と叫んだ時、合宿で『Goin'!!!』のフリが完全にキマった時、僕が見たかったのはこういう、みんながお互いのことを判っていて、お互いのことを思いやる風景でした。
その気持を救い上げるように、今回の彼女たちはとても幸せそうで、とても可愛く、素敵だった。
みりあちゃんは相変わらず可愛さの奥にワイルドさを持っていて素晴らしいし、恋バナで浮かれる島村さんは笑顔の天使だけではない魅力があった。
今回(も)良く考えられたレイアウトと芝居で伝わってきたのは、一期の積み重ねの果てに辿り着いた心地よさを否定するわけではないと、同時に今彼女たちがいるのはこの程度だよという、スタッフからのメッセージです。
学園祭のゲストステージをこなし、プロデューサーの周囲に蠢く怪しい影で盛り上がれる現在は大事だけれども、その穏やかな幸せの先にある風景、アイドルとして見る/見せる事のできるより高い到達点を目指していくのが、2ndSEASONの一つの狙いだと、安定感と影の同居する今回の描写は言っていたように、僕は思うのです。


変化の果てに辿り着いた安定だけではなく、安定の先にある変化の予感も、今回はアイドルの姿でたっぷりやって来ました。
渋谷さんは神谷さん&北条さんとの邂逅を果たし、多田さんはロックンロールの神様と出会っていた。
夏樹さんの王子様力が高すぎて、『あれ……俺物語!!見てたんだっけ?』という気持ちになったのは秘密だ。
彼女たちの出会いは確実に今後話を動かす軸になるわけで、双方印象的に描けていたのはとても良かったと思います。

『楽しんでいますか?』とプロデューサーに問われた渋谷さんは、『その途中』であると返します。(あそこのロケがAKB劇場の真ん前なのは、狙ったのか偶然なのかは分かりませんが二次元と三次元が交錯する奇妙な緊張感があって、僕は好きです)
今回見せた変化への予感を、この群像劇の中でも主役的な立場にある渋谷さんが口にしているわけですが、それを受け止めるかのように顔を出した二人の女の子は、なかなか面白い存在です。

渋谷さんは島村さんのようにアイドルに憧れてアイドルを目指したわけではありません。
熱くなれる、楽しくなれるものが何もない日常の中で、プロデューサーと島村さんが一瞬見せた輝きの予感に引き寄せられるように、なんとなくアイドルになった存在です。
明確な目標や憧れを持たない彼女が、気づけば神谷さんや北条さんを惹きつけ、憧れる存在になっているという出会いの構図は、13話分進んだ物語が渋谷さんを運んできた場所の高さをよく見せていて面白い。
今後神谷さん達と触れ合う中で、未来と自分に明確なイメージがなかった渋谷さんが、しかし誰かの憧れ、未来に進んでいく道標になってしまっているという現状が浮かび上がってくるのではないか。
僕はそう期待しています。
しかし、神谷さんは太眉で可愛いな。


にわかロッカー多田李衣菜も、自分の運命と出会っていました。
あの適当な多田さんが真面目に地道にコード練習する姿は、オッサンの涙腺を激しく刺激しましたが、それはさておき木村さんとの出会いもまた、面白い。
渋谷さんが憧れの対象として追いかけられる立場なのに対し、李衣菜ちゃんは口笛とともに颯爽と現れ、利き腕ではないギターを華麗に弾きこなす木村さんに憧れ、追いかけていく立場です。
今後他のキャラクターも新たな出会いの中で変化していくんでしょうが、追いかけられる/追いかけるという対照的な立場を一番最初に持ってきたのは、見せ方の多様性を予感させて凄く期待が高まります。

とりあえずギター褒めまくる木村さんの王子力はとんでもないことになっており、多田さんがロックの電撃に痺れる描写の巧さもあって、とても印象的でした。
まさに一目惚れってかんじですけど、前川お前大丈夫? ギター引けないけど勝てるの? 大丈夫? という気持ちになる。
木村さんサラッとカッコイイことこなすし器も大きそうだし、前川にも優しいんだろうなぁ……そんな木村さんとの差に前川が悩んだりするんだろうなぁ……頑張れ前川!!(妄想で期待高まりまくり前川大好きおじさん)


期待高まる2ndSEASON、その出だしに相応しい、穏やかながら様々な要素を孕んだ、多角的な回でした。
これまでの物語の到達点として見せられた穏やかで内向きで不完全な姿がとても優しかったからこそ、そこに爆弾を投げ込んだ常務の狙いが気になるという、寒暖の差を活かした構成だったと思います。
一体美城乗務は何を考え、何を目指して白紙撤回を言い出したのか。
彼女の投げ込んだ意思は、どのような波紋を起こすのか。
想像できる部分もあるし、想像しきれない部分もあるという、理想的な滑り出しかと思います。
デレアニ二期、待っていた甲斐があるアニメのようですな。

 

 

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd Season:第15話『When the spell is broken...』感想

アメリカからやって来た美城の黒船により、平和で仲良しシンデレラプロジェクトに横槍が入った二期。
前回投げつけられた爆弾が炸裂した後の第二話は、変化に対応しようと藻掻く少女たちと、車輪をやめて足掻くプロデューサーと、完璧で優雅な踊り方を身につけたスーパースターのお話であり、アイドルのルールを知らない魔女のお話。
それぞれ見て行きましょう。

今回のお話は美城常務が投げかけた大胆な構造改革に対し、アイドルとプロデューサーがリアクションを取っていくことで彼女らの現在が見えてくる回でした。
『CP解体』というショッキングな出来事に対応する形で画面のトーンは全体的に暗いのですが、変化に食らいついていく要素、状況を好転できそうな足場が多数あるため、光と闇が半々で配置されたシーンが目立ちます。
このアニメはライティングに状況を語らせるため、何がポジティブで何がネガティブなのか、ビジュアルで把握しやすいですね。

CP代表として物語の渦中にいるNGについては後で触れるとして、NG以外の11人はほぼ束として、一つの意思を持って行動していました。
一期序盤では例えば幼稚な願いを紙に書き付けたり、カフェを占拠したり(第4話)、早とちりから状況を悪化させたり(第6~7話)していたCPのメンバーですが、あの時より具体的で切迫した変化に対し、より落ち着いた対応を見せます。
いつものように『CPの凡人代表』前川が吹き上がっていますが、貯めこんで暴走するのではなく、口に出して周りにたしなめられている辺り、自分の気持と向かい合う術を学習した様子が見て取れます。
『取り敢えず出来ることから』を合言葉に、大人のやり方である企画書を描いてみたり、根城となる地下室の掃除をしてみたり。
感情の起伏を巧く処理できず、気持ちの揺れ動くままに妄動していたデビュー前とは、大きく異る姿が見えます。

第12話でリーダーの地位を揺るぎないものにした新田さんが音頭を取り、未来が見えない中自分たちに言い聞かせるようにレッスンをし、掃除をし、報告書もどきを書く。
それが彼女たちの不安であると同時に、信頼と希望でもあるというのは、掃除前と後の地下室を見れば一目瞭然でしょう。
ダンボールが積み重なり見晴らしが悪かった部屋は、今自分たちに出来ることをこなしていくうちに明るく、整理された状況になっていく。
三角巾とエプロンで武装したCPメンバーはモティーフである『灰かぶり』を再演するだけではなく、自分たちの心境を整理し、心の曇りを出来る限り晴らしてもいるわけです。


遠景に下がったCPに関してはこのくらいでまとめられるとして、クローズアップされる距離にいるNGは、今回一体どういうキャラクターだったのか。
前回強調されたように、完全にひよっこでもなければ完成されたアイドルでもないNGにとって、会社の命令で組織が刷新されつつある現状は中途半端な状態です。
何をすれば再び楽しいCPが再獲得できるかは確信できないが、何かしなけばいけないのは今までの経験から判っている。
そして、何をすればいいか分からなくても、なにかした方がいい。
この認識は、彼女たちのホームであるCPと共通しています。

アンビバレントな状況に置かれたNG(つまり彼女たちが代表するCP)の手本になるのが、今回の主役と言って良いアイドル、高垣楓です。
今回NGの仕事の一つは、楓さんの姿を間近で見て、自分たちが進むべき道を示してもらうことになります。
人生経験的にも、アイドルとしての実力・経験的にもNGより上にいる彼女は、インストアイベントという『小さな仕事』をNGと共有する中で、変化に対し何を行えばいいのか、示していきます。
美城常務の持っている社会的圧力に屈することなく、自分の信じるアイドル像を貫くこと。
ファンにとっての『笑顔』、アイドルにとっての『笑顔』を大事にすること。
楓さんが教えているのは実はこれまでプロデューサーが不器用に伝えてきたことであり、これまで積み上げてきたエピソードが間違いではないということでもあります。

この時、彼女が示している答えに説得力を生んでいるのは、彼女がNGと同じ立場まで下がっていることです。
楓さんはNGが今いる場所、中途半端ながら栄光に繋がる道を先に走りぬけ、アイドル界のトップに経っている先達です。
しかしファーストステージの衝撃を忘れることなく、いつでも初心に帰ることの出来る、NGたちと同じ目線のアイドルでもある。
壁に貼り付けられた初舞台の写真は、NGが噴水前広場で踊った時と同じように、少ない観客の満足気な笑顔が写っています。
そこに縫い止められた二年前の楓さんは、たった9話前のNGの姿でもある。
自分たちが通った迷い道を抜けた先に、今の頼れるトップアイドル高垣楓がいるのなら、NGは迷うことなく今の道を歩いていけば良いと、信じられるわけです。


そして、小さなステージと手渡し会場で感じられるファンとの距離はあくまで現場に立つアイドルの視点であり、会議室から状況を変化させる権力者の視座ではない。
高垣楓がその視点に拘って行動し、常務の誘いを断ったということが、NGと視聴者一つの正解を指し示しているわけです。
『笑顔』を大事にし続けたプロデューサーの言葉、アイドルがいて、スタッフがいて、ファンがいる人間重視のアイドル活動は、けして間違いではないという正解を。

タイトルには『魔法が解ける時』と描いてありますが、楓さんの立ち居振る舞いはアイドルの魔法はそう簡単には壊れないということ、CPがつかみとってきた堅牢な真実を信頼してもよいことを、雄弁に語っています。


答えが示唆、もしくは明示されていればこそ、今回のお話は一切答えのない迷い道を彷徨う話ではなく、要所要所に光が配置されたライティングはそれを強めるためなのでしょう。
『ステージ』という答えが詰まっている場所が底抜けに輝かしく演出されているのは、この見方を後押ししてくれるように思います。

まだ経験も少なく視野も狭いNGにとって、おそらく美城常務の抱いているヴィジョンを共有したり、推測したりする余裕はないはずです。
それは未央の「あんな酷いこと」という言い回しからも推測できる。
この時未央は、美城常務の白紙宣言によって実際に事業が効率化し、何かより良い物が生まれる可能性に気づいていない。
テンパった島村さんを見て、第6話ラストのように感情に振り回されかけた我が身を省み、落ち着く余裕はあっても、『酷いことをする敵』として認識した常務の行動の裏にある理に思いはいかない。
ここら辺の過剰な思い入れは、プロデューサーとも共通するところでしょう。
なので、今回楓さんから示されるのはあくまで『CPの過去は間違っていない』という後ろを確認する答えであり、『CPの未来を間違えないためにはどうすればいいか』という問いは与えられません。
現在のNGに、その問は過大すぎるからでしょう。


集団としてのNGは答えを間近で体験する役目を持っていますが、個別に見ると一人ひとり別の描かれ方をされています。
特に目立つのは島村さんで、『何かしなけばいけない』という状況に『頑張る』という答えしか持っていなかったり、企画書も白紙だったり、具体的な方策や夢の希薄さが見て取れました。
思い返せば彼女の空虚さ、『アイドルになるためにアイドルになった』というトートロジーは第1話から示唆されていたわけで、丁寧に埋めた地雷が危機を前に頭を出したといえます。
たった一人でレッスンに耐え再チャレンジのチャンスを掴んだ島村さんは、とにかく『頑張ります!』しか言わない、言うことが出来ない女の子でした。
第7話でプロデューサーを再起させた前向きな夢も、良く聞けば「ステージに立つ」「CDデビューをする」「ラジオ出演をする」「TVに出る」という、外的な要素の羅列で成り立っていました。
そこに、ファンとしてアイドルを見ていた時の憧れ以上の切迫感、アイドルになって何をどう感じるかという『自分』はない。
彼女の空虚さは一期と同じように、未だ炸裂せざる爆弾なのですが、今回の描写で導火線に火がついた感じはします。
どのように使ってくるのか、楽しみでもあり恐くもありますね。

一方未央は持ち前の思い切りの良さを発揮し、あわや暴走というところで慌てる島村さんを見て、気持ちを落ち着けていました。
第6-7話、第12話と二回も思い込みの激しさで周囲が見えなくなる経験をしてきた本田さんですが、ここまで経験値を積むと流石に学習もします。
彼女の気持ちの強さは短所にも長所にも変わり得る特質だと思うので、今回のように巧く手綱を握ってくれると、安心感が増しますね。
過去の経験に学び、長所を長所として、短所を長所に変えて前進していく姿勢が見えるのは、常務が困難な道を用意している現在、頼もしいところです。

そして渋谷さんは二期になって用意された新要素、北条さんと神谷さんと関係を深めていました。
先輩風をビュービューふかし、不安げな彼女たちを導く様子は立場を変えた第3話の再演であり、こちらも経験の蓄積による成長を感じさせます。
美嘉からサポートを受ける側だったNGが、今度は後輩にサポートする側に回っている姿は、真心のキャッチボールが上手く行っていることを思わせ、凄く好きなシーンです。
渋谷さんのキャラクター性を、この二人がどう深めていくのかはまだまだ分かりませんが、CPの枠が一度壊れなければ出会い以上の関係にならないことも引っ括めて、様々な予感を与える組み合わせではあります。


アイドルの最前線に立つ戦士たちは迷い道で光を見つけていましたが、それを支える裏方はどうなのか。
プロデューサーはプロジェクト解体という逆境にもめげず、可能な範囲で(もしくは少しそれを超えて)喰らいつき、愛するアイドルたちを輝かせるため努力していました。
上司の決定に異を唱え、自分の考えを真っ直ぐ口にする姿は、物語の開始時には考えられない熱さがあります。
アイドルたちが過去に学んでいるように、プロデューサーも変化しているとよく分かります。

自分が身を置くシステムのルールに反せず、自分の意志を表現し実行するためにはどうしたらいいか模索する姿も、今回のアイドルと共通しています。
何かと感情を暴走させがちなアイドルとは反対に、プロデューサーは感情を押し殺しすぎて失敗してきました。
しかし今回は、誠実な杓子定規さはそのままに、取りうる手段すべてを使って美城常務に自分の気持を伝え、状況を変化する努力をしています。
意志と社会とのバランスを、より適切な形で取る方法を、今回プロデューサーとアイドルは模索しているわけです。
それは、そのバランスが破綻して様々な問題が生まれてきた一期に比べて、着実に成長した姿でしょう。

パフォーマンス担当であるアイドルの企画書が、チラシの裏に描かれていることからも判るように、彼女たちはシステムに意志をすり合わせるスペシャリストではありません。
彼女たちはあくまでアイドル、自身の『笑顔』によってファンを『笑顔』にする、感情表現のスペシャリストです。
対して今回、プロデューサーは美城常務のつっけんどんな態度にめげることもなく、会社組織の中で許されている手段を駆使して、状況を変える努力を適切に続ける。
意志と社会性のバランス取りを要求される状況の中、お互いがお互いを必要とし、相補的に支えあうCPのスタイルが見て取れます。
適材適所というか、プロデューサーはそういう存在というか、どちらにせよ裏方としてやれることをやり切っていて、やっぱ僕この人好きですね。(唐突な告白)


これまで見たアイドルとプロデューサーの苦闘は、美城常務の提案が引き起こしたものです。
僕らが好きなデレアニの物語は、作中の人物もまた愛着を持っているものであり、それを崩す美城常務は、未央の言葉を借りれば『酷いことをする』悪い人です。
本当にそうなのでしょうか?

彼女の視野が完璧ではなく、まるでかつてのプロデューサーのように感情の表出が適切ではないのは、楓さんとの対立を見ても分かります。
小さなステージからトップアイドルまで徒歩で這い上がってきた楓さんにとって、アイドルとは採算性だけで評価されるビジネスではなく、感情を持った人間を相手にする表現手段であり、コミュニケーションです。
『見ている未来が違う』という別離の言葉は、未来だけではなく過去と現在、楓さんと彼女の後ろに続く全てのアイドルが感じているステージの熱狂を、美城常務が判ってくれていないという抗議でもあるわけです。

対して異業種からアイドル事業に飛び込んできた常務にとって、ステージはとても遠い場所です。
現場の熱気や緊張感、ステージアクティングだけが生み出す濃厚なコミニケーションは無味乾燥な収支報告にまとめられ、切り捨て可能な数字に成り下がっている。
それが『間違い』であり(どのような形にせよ)改善しなければいけない状態なのは、楓さんがNGに見せた『答え』の陰画だと言えます。
アイドルの反対側に立つ(ように現状思える)常務にとって、アイドルに向けられた『答え』は自分にとっての『間違い』の指摘なのです。


しかし常務が目指しているもの、組織としてのアイドルを再編成し、可能な限りアイドルを高みに登らせるという目標自体が間違っているのでしょうか。
常務の決断は苛烈だし、有無をいわさぬ強引なものですが、システム内部の正当性に従って提出されたプロデューサーの対抗案を、圧力で叩き潰すようなアンフェアな人物ではありません。
そこら辺は、今回ラストのヒキ、『対案を速やかに出してこい』という条件に完璧に従って提出された企画書に、常務がどう対応するかでさらに見えてくるでしょう。

アイドルは経済活動であり、美城という企業体のバックアップ、そこで働く沢山の人々の有形無形の努力が結集して出来上がっているという事実は、これまでもたくさん描かれてきました。
アイドルがアイドルの力だけでステージに立つのが思い上がりだというのは、例えば第3話の、第6話の、第13話のステージ描写の中で、このアニメが真実味の篭った舞台裏を描いてきたことからも分かります。
それを可能にしているのは、美城常務が代表するような、怜悧な企業の論理だと思います。
そして、常務のいない一期の論理で進んできたCPが微妙な弛緩の中にいるということ、常務の振るった大鉈があながち間違いでもないということも、前回示唆されている。
つまり、今回楓さんがアイドルの『正解』を見せたように、常務側の行動にも『正解』が含まれているのではないかと、僕は感じたのです。


無論、常務の行動は視聴者にとって手放しで協調できるものでもなければ、作中の人物にとってもそうです。
CP内部のアイドルやプロデューサーだけではなく、その外側にいるアイドルや社員にとっても、感情を数字と切り捨てる常務の方針は戸惑い、受け入れがたい決定だというのは、今回執拗に描写されていました。
彼女のロジックは、登場した今の段階ですでに瑕疵があるものとして描かれている。

その上で、僕個人としては彼女が代表している社会性の正しさ、人間が生み出した共同体のルールの中で適切な行動を取る意味を、ないがしろにしてほしくはないです。
ただ感情を滾らせるだけでも、それを押し殺して過剰な正しさを押し付けるのでもなく、二つの立場のバランスを的確に取ることで素晴らしい結果が生まれるというのは、これまでこのアニメが描いてきた沢山のエピソードに共通する、一つの真理でしょう。
ならば、表面化した彼女の瑕疵を彼女自身が認識し、今回楓さんが出しNGが目撃した『答え』、『笑顔を大事にすることは間違いではない』という事実に、少しづつ歩み寄って欲しいなと、僕は思うわけです。


今後常務がどのようなキャラクターとして描写され、どのような物語的役割を担うかは、一視聴者である僕には分かりません。
僕達が強く感情移入するCPメンバーに困難を与え、それを克服した時のカタルシスを準備する舞台装置、最終的に赤熱した靴を履いて躍らされるような『ただの悪役』になるかもしれない。
強い感情と適切なシステムが合わさって生まれる奇跡に気づき、頑なな自分を変化させる(それこそ、僕の大好きなプロデューサーやアイドルたちのように)キャラクターになるかも知れない。
そのどちらになるかは、断言はできません。

ただ、これまでこのアニメがかなり効果的、かつ意図的に要素を配置し、適切な意思を込めて画面と物語をコントロールしてきた以上、今回散見された『答え』と『間違い』が今後の物語の中で意味を持ってくると、僕は期待します
だって、色んな女の子の複雑な魅力をしっかり伝えてくれてきたこのアニメがせっかく投入したキャラクターが、一面的なキャラだとは思えないし、思いたくもないじゃないですか。

 

アイドルにとっての『正解』、プロデューサーにとっての『正解』、常務にとっての『正解』。

色んなモノが感じ取れる、激動と対応の二期第二話となりました。
意地悪なように見える継母は、一体どんな人物で、どのくらい変わることが出来るのか。

お互いの『正解』をちゃんと見て、ちゃんと伝えて、より良い場所に進んでいくことは出来るのか。
次のお話がとても楽しみですね。

 

 

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd Season:第16話『The light shines in my heart』感想

プロジェクト外のアイドルたちと交流していく二期、三話目はウサミン星人の崖っぷち。
第5話、第11話に続いて『CPの凡人代表』前川みくが前面に立ち、安部菜々という三重くらいにキャラ作っている先輩に体当りしていくことで、アイドルとキャラクターに切り込んでいく話でした。
もちろんユニットの戦友・多田李衣菜とも絡んでいるし、346の色物軍団全体に光を当てる側面もあって、相変わらずお話が捉えるレンジが広いですね。


今回のお話の軸になっているのは、何と言ってもウサミン星人安部菜々と、猫キャラアイドル前川みくとの交流です。
味付けの濃い『キャラ』という鎧を着こまないとアイドルが出来ない凡人二人ですが、美城常務が打ち出したバラエティ縮小路線を前にして、取る態度は大きく異なります。
素直にうさ耳を外して『安部菜々』に為ってしまうウサミンと、そんなウサミンに噛み付き、『キャラを維持して欲しい』という自分の気持をぶつける前川。
二人の間にはもちろん年齢というギャップがあるのですが、それとはまた別の違いが存在しています。

それは『負けることへの慣れ』です。
今回のお話、『先輩アイドルの立ち居振る舞いを見ることで、今の自分達がやりたいことを見つけていく』という骨子は前回と共通です。
しかしその立場は真逆で、全アイドルの頂点として美城常務に見初められていた高垣楓と、痛々しいウサミン星人安部菜々とでは、天と地ほどの開きがあります。
高垣楓のスマートで勝者然とした態度に比べれば、安部菜々の日常はみすぼらしくて情けない、負け犬の暮らしです。
アイドルの頂点から正解を見せた前回と、アイドルの底辺から正解を見上げた今回は、対象関係にあるエピソードなんだと思います。

今回、安部菜々を捉えるカメラはひどく残酷に、彼女の無様な姿を入れ込んでくる。
10代と同じ運動をすれば体が悲鳴を上げ、住んでる場所は六畳一間のアパート、うさ耳外せば誰も自分だと気付いてくれない、アイドルの負け犬。
これは第5話において前川が追い込まれた状況と似ていますが、安部菜々は『全然仕事が無い、あっても我慢してやらなければいけない仕事』を受け入れ、着実に真剣にこなしています。
安部菜々は(前川とは異なり)、良くも悪くも大人なのです。

『負けることへの慣れ』を体に刻みこんである安部菜々にとって、ゲームショーステージでのウサミン再降臨は「最後の仕事」でした。
しかし前川にとっては「まだまだこれから」であり、「会社が何を言っても、自分のやりたいキャラで行く」ことは無謀な賭けでもなんでもありません。
会社から押し付けられた終わりを表向き素直に受け入れる安部菜々と、他人の決断にずけずけと踏み入り自分の気持を真っ直ぐにぶつけられる前川。
既に幾度も失敗したものと、これから失敗し成功していくものの差は、今回のお話を回す大きなエンジンになります。

無論、差異だけではなく合同も重要な要素であり、自分を曲げてキャラを外すか、会社に逆らって自分を貫くかという悩みは、二人に共通しています。
若さを武器に突進した結果、閉塞した状況をぶち破る前川も、ウサミンと同じように悩み、負けかけている。
プロデューサーの後押しもあって前川は菜々とは違う選択を取るわけですが、キャラを武器にするもの同士、悩む姿は共通し、連続して描写される。
前川にとってウサミンは未来の自分で、安部菜々にとって前川は過去の自分なのです。
とても似ていながら異なる二人が、くっついたり離れたりすることで今回の話は進んでいきます。


相反する要素が重要なのは二人の関係においてだけではなく、キャラ個人の描写においても同じです。
今回のエピソードで描かれるウサミンは負け犬ですが、まだ諦めきっていない輝く負け犬です。
ウサミン星で起床するシーンではトレーニングのための教本がいくつも映っていますし、コーナー撤退を告げられた後も「諦めたくない」と地団駄を踏んでいる。
何回怜悧な現実に夢を蹴飛ばされても、アイドルから撤退しなかった安部菜々の姿も、今回の話はしっかり写していました。

そして、安部菜々のあきらめの悪い部分、バラエティ番組の崖登りのようにギリギリでしがみついている夢の姿を、前川はすごく素直に見つめている。
前川にとって、ウサミン星人は皮肉でもなんでもなく憧れのヒーローで、いつか為りたい未来の自分です。
だからこそ、圧倒的に白々しく浮き上がった空気の中でもミミミン、ウサミンコールをやることが出来る。

そうやって前川に届いているのなら、たとえ安部菜々本人がウサミンを信じきれなくても、ウサミン星人のキャラは本物なのでしょう。
前回楓さんがNG(とCP)に『お客さんを大事にアイドルやっていい』という『正解』を見せたように、今回ウサミン星人はその無様に輝く姿を前川に見せることで、『キャラ付けてアイドルやっていい』という『正解』を届けたわけです。
楓さんというアイドルの頂点、『勝っている』ものだけが正しいのなら、それは常務が346のアイドルを追い込んでいる理論と同じ戦場にあります。
今回ウサミンという『負けている』存在に『正解』を言わせることで、CPが邁進するアイドル像は天井と底辺の二箇所から光を当てられることになり、勝ち負けを外れた場所で価値を手に入れました。
そういう意味で、第15話と第16話は対照的でありながら相補的でもある、二つでひとつの話が気がします。


そして、両面的なのは前川も同じです。
前川は自信満々を装っている割に臆病者で、その癖大胆な行動に出る気持ちの強さがある、多面的なキャラクターです。
その不安定さが良くない方向に発露するとカフェを占拠するわけですが、今回は第5話とは対照的に、プロデューサーが先手先手を打って状況をリードし、より良い方向への発露へと導いていきます。

お話の中盤『猫キャラじゃなくなったみく』を想像し、『論外論外』と切り捨てた迷える前川に、プロデューサーが電話をかけてきます。
ウサミンが安部菜々として立たざるを得ないステージ、ウサミンが『負ける』場所を見学するよう誘う電話が呼び水になって、前川は迷いを振りきって物語に帰還します。
第5話では状況を混乱させていた濃厚な感情のエネルギーが、今回はあの時迷惑をかけたウサミンを奮い立たせる起因になっているわけです。
これは、前川が持っているカルマが変化したわけではなく、そのカルマをどう活かすか、他者であるプロデューサーが考え、手を差し伸べ状況を変化させた結果だと言えます。

自分勝手に突撃し続けているように見えて、前川はずっと迷って、ずっと悩んでいる。
冷えた観客席に飛び込んでウサミンコールをする時、前川は猫耳をつけています。
弱気な自分をキャラ付けでけしかけている前川にとって、猫耳がただの装飾具ではなく、アイドルを続けるために絶対必要な鎧であり武器であるというのは、一期でこれでもかと描写されていました。
今回のエピソードでも、プロデューサーが会社の方針を伝えた時、猫耳が落ちている。
弱気な気持ちを猫耳で蹴っ飛ばして、完全にアウェイな空気に一人飛び込んで、あこがれのヒーローに声援を届ける勇気を絞り出した結果が、あのウサミンコールなのでしょう。

そして、傷を受けることを恐れない、もしかしたらかつての自分に似ているかもしれない女の子からの声援を受けて、安部菜々はウサミンに変わる。
前川があの声援に込めた気持ち、前川を後押しした人たちの願いを間違えない優しさも、安部菜々の強さです。
結果、誰にも認識されなかった『安部菜々』はみんなを笑顔にする『ウサミン』としてステージを成功させ、お話は良い方校に向かいます。
『キャラを付けることはいいこと』という『正解』を見せて前川(とCPとそこに合流したバラエティ軍団)を奮い立たせる結末ですが、同時に『ウサミン』ではない『安部菜々』をファンが見てくれない状況はそうそう変わりません。
そういう残酷な二面性を無言で織り込んでいるのは、結構好きな終わり方でした。

 

話の主軸は兎と猫でしたが、この二人を支えるサブキャラクターが二名います。
一人はCPの内部ユニット*の戦友、多田李衣菜
断固キャラを維持する前川に対し、多田さんは第11話のように激しくぶつかるのではなく、信じて待つという態度を取ります。
そこには、約4話の時間を経て変化した、二人の関係性が見て取れる。

*を結成したばかりの二人であれば、やれネコミミ外せ外さないと、元気にやりあっていたでしょう。
しかし今回多田さんにとって重要なのは、前川がキャラを外すか否かではなく、だから以前のような頭ごなしの否定はしない。
常務の方針に逆らうことで前川と自分がが傷を受けること、それに対し前川が覚悟が出来てるか否かということこそが、多田さんにとっては大事なのです。
前川が自分を曲げずに猫耳を続けるのであれば、もしくは決意を持って外すのであれば、どちらの選択も李衣菜にとっては価値のあるものです。

付ける付けないではなく、そこに込められた覚悟を問題にする関係性は、信頼がなければ生まれません。
コンビを結成して、サマーフェスやそれ以降のアイドル活動を一緒にくぐり抜けてきた日々が、前川を信じてあえてステージに行かない李衣菜からは感じ取れます。
あそこで李衣菜まで場面に出ていたら、お話がスッキリとまとまらないという事情も引っ括めて、今回の多田さんの描写はスマートかつ説得力があり、良いものでした。


もう一人の裏方は、アイドルの頼れる味方プロデューサーです。
控えめな出番の中でキャラを印象的に見せていた李衣菜とは異なり、プロデューサーは物語の大きなうねりを導きつつ、前川へのアシストを決めるという目立つ立場にいます。

二期全体のお話は、美城常務が打ち出してきた路線にプロデューサーが対向することで進んでいます。
前回から演出をまたぐ形で、今回冒頭に提出された"舞踏会"の企画案が許可され、『これさえ通ればお話がうまく行く』というゴールラインの設定がなされました。
『取り敢えず、自分たちにできる事』を合言葉に部屋の掃除などしていたCPメンバーですが、この描写がなされたことで、一つの方向性を得ます。
今後、CPメンバーは"舞踏会"が成功するためには何をしたらいいのか考え、答えを見つけていけばいいわけです。
今回前川が見つけた『アイドルがキャラ付けするのはいいことだ』という答えも、この方向性の中にあります。

前川発案の『ヴァラエティ軍団取り込み』が成功したことで、CPは人数が増え、"舞踏会"を成功させれそうな気配は濃くなりました。
梁山泊というか戦略SLG的というか、辺境に気骨のある異才たちが集っていく展開は、やはり胸が踊ります。
そういう空気が漂うのも、冒頭で企画を通し『"舞踏会"の成功』という(ひとまずの)物語的終着点を設定したことが、強く影響しているでしょう。


このようにお話全体の調整では主役を張っているプロデューサーですが、エピソード全体を貫く感情の物語では、あくまで脇役に回ります。
ウサミンに憧れるのも、前川に勇気をもらうのも、あくまでアイドルであり、裏方であるプロデューサーではありません。

立ち位置をしっかり弁えた上で、彼女たちの気持ちが的確に伝わるよう場所を用意したり、輝く舞台をドンピシャのタイミングで整えたり、トス上げ役としての手腕は鮮烈で見事でした。
第7話で渋谷さんが『迷った時に、誰を頼ればいいか判んないなんて、そういうのもう、イヤなんだよ』と言っていましたが、アイドルにとって何がより良く、より輝ける選択菜の香を的確に(そして控えめに)示すプロデューサーの姿は、あのどん底から這い上がって辿り着いた境地を感じさせてくれました。
二期のプロデューサーは一期の経験を的確に活かし、自身と熱意と誠実さを持って動いていて、やっぱ凄く好きですね。

 

追い込まれつつも道を見つけたアイドルたちに立ちふさがっているのが、美城常務です。
今回もヴァラエティ部門の縮小を打ち出し、スター性の確立を目指して方向を転換させました。
誇りを持ってキャラを貫くウサミンと前川に対立する、意地悪な存在。
本当にそうでしょうか。

『単純な悪役』とするには常務が物分りが良すぎる、というのは、第14話からずっと続く一つの問題です。
『正しい』主人公側に敵対し、障害を用意し、嫌な気分にさせた後スカッとぶっ飛ばされる『単純な悪役』の仕事をするには、常務は理性的で懐が広い。
勝っても負けても自分に利がある所を強調しつつも、プロデューサーの企画を承認し、CPが『勝つ』ゴールへの線引をしてくれました。
権力を利して企画を潰すでもなし、CPの理想を頭ごなしに否定するでもなし、常務は話がわかる人です。

かといってCPの理想に共感するでもなく、彼女は彼女の考えを強権に押し通します。
『私には私の考えがある』と言いつつも、それを的確に表現できない彼女の行動は、振り回されるアイドルだけではなく、命令を受けて振り回す社員の側にも共感されていません。
ヴァラエティ軍団に首切り通告に来た社員たちも、彼女たちから離れればメガネを外してため息を付き、『嫌な仕事』だと吐き捨てる。
常務の方針に逆らうウサミン復活も、現場ではノリノリで受け入れられ、ベストなタイミングで演出が入ります。
つまり、美城常務は『単純な悪役』を努められるほど、強くもないし悪くもないのです。

これを中途半端と見るか、はたまた『単純な悪役』を超えて物語的役割を果たす布石と見るかは、今後の展開次第でしょう。
どうしても常務に目が惹きつけられて、『このキャラクターの話がもっと見たい』と思ってしまう自分としては、後者のほうが面白いですが。
また、『単純な悪役』が立ちふさがる展開は無印の13話以降で961プロが担当していたので、毛色を変えた物語を作りたいのかもしれません。

一期を考えると、プロデュサーの見せかけの誠実さが反転し、臆病さと不信感に変わったのが六話です。
無論『何かを達成するまで』のお話だった一期と、『何かを達成した後』のお話である二期は、同じ尺の使い方を当てはめられないでしょう。
しかしこれだけ多数のキャラクターを扱うこのアニメで、常務の動き回る尺を簡単には用意できないのも事実。
そろそろ美城常務が何を考え、何を大事に思っているのかハッキリと明言する形で知りたいですけど……彼女がどんなキャラクターなのかは、もう少し腰を据えてみないとわからないのかもしれません。


彼女が打ち出した『アイドルへの幻想を復活させる』路線は、自分的にはいいカウンターだなと思います。
CP目線(もしくはプロデュサーの一人称)では楽しく親しく明るいアイドル活動が至上のものとして描かれていますが、それとは別の視線、高嶺の花として君臨し、憧れの視線を集めるアイドルというのも、価値のある在り方のはずです。
346プロが前者の在り方だけを重視し、プロ意識と実力が要求される後者の在り方をないがしろにしていたのであれば、常務の主張はむしろ当然と言えるでしょう。
作中の状況として実際どうなのかは、客観的な視点での描写が少ないので判別しきれませんが。

その上で、『高嶺の花』以外のアイドルを切り捨ててしまうことは、『首を切られるアイドルたちがかわいそう』という感情論以外にも、多少問題があると思います。
このアニメが遠景にしている現在のアイドル界は、『バラドル』という言葉が死語になるほど、アイドルが卑近な笑いを担当することが当たり前になり、親しみが持てないアイドルは支持を得にくい世界です。
アイドルが『高嶺の花』だった時代から多くの時間(小泉今日子の『なんてったってアイドル』を軸にするなら30年、山口百恵の引退を軸にするなら35年、歌番組とヴァラエティーの融合体である『ザ・ベストテン』を軸にするなら37年)が過ぎ去り、ただステージに出てきて素敵な歌と圧倒的な踊りを披露するだけで、アイドルがアイドルとして受け入れられる時代は遠くにあります。
アイドルも人間(的)で、ファンと同じように汗し涙する人間なんだと知ってしまった視聴者にとって、完璧な幻想はもう抱けないでしょう。
良かれ悪しかれ、過剰に情報を供給することが基本戦術となっている現在、情報という水を制限することで成り立つ『高嶺の花』は、育てることがとても困難なアイドルだと言えます。
あり得る姿はアーティスト系アイドルとして、パフォーマンスの完成度を一つの『キャラ』にする形(例えばPerfume……とは言うものの、彼女らも親しみやすさは前面に出してるしな)か、世界観を完全に作りこんで『高嶺の花』という幻想を共犯的に共有していくか(例えばBABYMETAL……両方アミューズだな)、どちらにしても相当な印象操作と世界観構築が必要な、『難しいアイドル』だと思います。

また『キャラが付いたアイドルが見たい』というニーズがあればこそ、現実でも作中でも様々なキャラ付けのアイドルがいるわけで、常務の方針は顧客の要望を切り捨てた、企業主導が過ぎる施策だとも言えます。
かなり無理がある常務の方針ですが、『強すぎない、悪すぎない』という常務の描き方を鑑みると、意図的に明けた穴という気もします。
地下に追いやられたCPが、そこを突いて『勝つ』こと前提の弱点といいますか。
どっちにしても、前回楓さんが『ファンと一緒に進むアイドルは正しい』、今回ウサミンが『キャラのついてるアイドルは正しい』と出した『正解』に反する動きをしているので、立場的には悪役……なんだろうなぁ。


個人的な好みを言えば、美城常務の描写はもう少し濃厚にしてくれたほうが、物語的立ち位置がはっきりと見えてありがたいです。
無論『原作にいねーキャラの描写太らすなら、アイドルの出番一秒でも増やせ』という主張もあるでしょうし、さじ加減はとても難しいでしょう。

しかし彼女が(プロデューサーと同じように、僕にとっては)視線を引き付けられる引力のあるキャラであり、物語的にも要の位置にいるように見えるのは、確かなことだと思います。
その存在感に相応しい、ある程度の妥当性や内面を、そろそろ見たいなぁと僕は思います。
誰かアイドルが『常務の言ってることは一理ある』と言うと、グッと分かりやすくなるけど……現状CPにカウンターを当て続けている『悪役』に寄り添うアイドルは『悪役の仲間』になっちゃうわけで、難しいかなぁ。

 

主役、脇役、敵役。
様々な立場の人達が入り乱れつつ、アイドルとキャラの問題に一つの答えを出し、前川みく安部菜々の絆を描写し、彼女たちを支える人々の肖像を切り取った、多層的なエピソードとなりました。
これでアイドルの頂上と底辺、両方からの描写が出来たわけですが、これに続くエピソードとして何を用意してくるのか。
気になるところです。

 

 

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd Season:第17話『Where does this road lead to?』感想

 

・目次
1)はじめに
2)大まかな構造
3)城ヶ崎美嘉の憂鬱
4)靴と足のモチーフ
5)常務と部長
6)プロデューサーの国盗り
7)赤城みりあの幸福と憂鬱
8)城ヶ崎莉嘉の幸福と憂鬱
9)凸レーションと携帯電話
10)衝突する城ヶ崎姉妹
11)Bパート開始
12)莉嘉の発見
13)みりあと美嘉とお姉ちゃん
14)城ヶ崎姉妹の幸福な結論
15)まとめ

 

1)はじめに
行き先定かならぬ道を手探りで歩いて行く少女たちの成長譚、17回目の今回は凸レーション+城ヶ崎美嘉の物語。
メインアクターは第10話と同じ顔ぶれなんですが、あの時主軸だったきらりをサブに下げ、代わりに美嘉を問題の当事者として押し上げる構成を取っています。
『大人と子供』『お仕着せと自分の服』という印象的な対比を巧く使いつつ、三人のメインキャラクターが抱える個別の葛藤、共通の問題を丁寧に描くことで、CP全体、アイドル全体、人間全体を視野にいれるような、立派な話になっていました。
あくまで扱うのは城ヶ崎姉妹とみりあ姉さんの悩みながら、リフレインと象徴を効果的に演出することで、結果としてより広くより遠いところに届くテーマ性を手に入れています。
可愛くて、面白くて、ホッとして暖かい。
エンタテインメントとして、本当に素晴らしいエピソードだと思います。


2)大まかな構造
それでは、まず今回の話しのおおまかな部分をさらっておきます。


今回のメインアクターは赤城みりあ城ヶ崎美嘉城ヶ崎莉嘉の三人です。
彼女たちはそれぞれ、自己の持つイメージと、他者の持つイメージにすれ違いを抱え、『モヤモヤ』を解消できなくなります。

『姉』として母に甘えられないみりあは『大人であることを要求される子供』
無様なスモックを着せられる莉嘉は『子供であることを要求される子供』
ギャルキャラを捨ててキレイ目で売ることになった美嘉は『大人であることを要求される子供』

それぞれ、他者が自分に要求する社会的イメージと、自分が持ち、達成したいと願う自己実現のイメージが食い違う状況にあるわけです。
ここで全くバラバラの問題を背負わせるのではなく、『姉/妹』という共通タームを巧く使い、『大人/子供』という視点一つに絞り込んだのは、見事な作りだと思います。
みりあと美嘉が公園で共感したのも、ただ『姉』という立場が共通していたのではなく、『大人であることを要求される子供』の辛さ、自己イメージと他者視線のズレを共感できたからでしょう。


それぞれが抱え込んだ『モヤモヤ』は巧く解消されないまま進み、住環境を同じくする城ヶ崎姉妹は衝突します。
上手く行かない状況はしかし、『モヤモヤ』を素早く感じ取った年長者(みりあには美嘉、莉嘉にはあんきら智恵かな)の助けにより好転していきます。

莉嘉は杏ときらりの問答を聞くことで『何を着ていても自分は自分、外部からの押し付けも変化させられる』と気づきます。
みりあは美嘉とデートをすることで『子供』でいたい欲求を満たし、『姉』の辛さを共有することで母に歩み寄り、より良い関係を築きました。
ここで単純に年長者=助ける側としないのは第10話と共通であり、みりあをデートに誘って閉塞した空気を変えた美嘉は、みりあの胸の中で泣くことで気持ちを一新し、莉嘉が手に入れた気付きを自分のものとして、押し付けられたキレイ系を自分らしくアレンジします。
こうして三人が抱えていた問題は解決され、事態は物語開始時よりもより望ましい状態に落ち着きます。


こうしてまとめてみると、『大人/子供』という共通点を取り出しつつ、その根底にあるのは『他者/自己』の間にある対立/融和だということがわかります。
莉嘉がアレだけスモックを嫌うのは、同級生に『大人』であると証明するべく意気込んだ直後に、あまりにも無様でグロテスクな『子供』の象徴を強要されたからでしょう。
美嘉がキレイ系で売ることに忌避感を覚えるのも、それがカリスマギャルというこれまでの彼女、他人に認められ自分も誇りを持っていたイメージを、全て捨て去ってしまうからでしょう。
達成したい自己イメージと、正反対のイメージを他者が要求しており、それを投げ捨てられない事態が彼女たちの『モヤモヤ』の根底にあります。

ここで重要なのは、『自己イメージは無条件に正しくて、他者からのイメージは即座に悪いものだ』という単純な図式を導入していないことです。
みりあにとって『姉』であることは、母に甘えられない辛い立場であると同時に、『お姉ちゃんになったんだよ!』と胸を張りたくなるような、誇らしいイメージでもある。
『姉』であり続けることで自分の大事な人により良い成果を与えられると判っていればこそ、みりあは物分かりよく、『大人』らしく振る舞い続け、結果心のなかの『モヤモヤ』を増大させていくわけです。

まだ10代である彼女たちは、楓さんのように自分が正しいと思うイメージそのままに振る舞う自由はありません。
違和感を感じつつも美嘉はキレイ系の撮影をすっぽかすことはしないし、莉嘉だって嫌々ながらスモックは着て、リハーサルもやる。
自分たちを取り巻く他者の集合体あってこそ、自分自身も存在できるという社会の基本的なルールを、彼女たちはちゃんと理解しているわけです。
『ロックンロール!!』と叫んでお仕着せと社会的責任を脱ぎ捨て、社会の外側に飛び出してしまうことも一つの解決策なのでしょうが、それがもたらす破壊の大きさも十分知っている少女たちは、あくまで現状のまま巧くやる方法を求めています。
しかし、他者は自分を分かってくれないし、それをいきなり望ましい形に変えられる力も彼女たちにはない。
責任感と自分らしさのジレンマが、それぞれ別の形で発露し回転することが、今回のお話を前進させるエンジンになります。

紆余曲折を経て、少女たちは自分なりの結論に到達します。
みりあならお母さんに歩み寄り『姉』という立場を自発的に背負っていくこと。
城ヶ崎姉妹は押し付けられる衣装を脱ぎ捨てず、自分の納得できる形にアレンジして着ること。
それは彼女たちの迷いと、それを通じて手に入れた貴重な現状認識の結果選びとった、他者と自分の距離感どころです。
それを妥協ということも出来るのでしょうが、今回のお話が持つ精神的・社会的なバランスの良さを見ると、和解という言葉のほうが似合う気もします。

 

3)城ヶ崎美嘉の憂鬱
それでは、実際の映像の流れに沿いつつ、時々時間を先取りしたり、戻ったりしつつ作品を見ていきます。


お話はまず、美嘉が強要されている変化について触れます。
カリスマギャルとして世間に認められている彼女は、常務が打ち出したキレイ目路線への変更を余儀なくされ、強いストレスを感じています。
焦りを込めて体をいじめるレッスンルームは、当然のように薄暗いですね。

ここで美嘉周辺のスタッフが彼女に寄り添わず、常務の方針に言われるがままなのは、地下室から反旗を翻したプロデューサーの唯一性を、巧く強調していると思います。
常務は見た目ほど暴君ではなく、適切な手順で意図を伝え、結果を出していれば反乱すら許容してくれる、話のわかる君臨者です。
が、美嘉を取り巻くスタッフには文字通り顔がなく、常務の方針に従うばかりで、美嘉のやりたいこと、達成したい自己イメージに気を使う様子はありません。
一期でも部外者と自分を任じ、CP内部では手の届かない仕事を担当していた美嘉らしいスタンスだと思います。

意にそぐわない方針を美嘉が受け入れるのは、自分の肩に可憐と奈緒、二人の未来がかかっているからです。
第2話でNGをバックダンサーに抜擢したように、城ヶ崎美嘉は既に成果を出した優秀なアイドルであり、だからこそ自分勝手に動きまわるわけにはいかない。
しかし責任感から引き下がれば、自分の誇りであるギャルキャラを捨て、他人の押し付けてくるイメージを受け入れることになる。
開幕一分経っていませんが、既に社会的責任と自己イメージの対立は、美嘉を通じてお話の真ん中にそびえ立ちます。

路線変更の結果、ギャルを捨てた美嘉は街に溢れかえり、彼女は『綺麗だけど遠くに行ってしまった』存在に変わります。
自分を曲げて手に入れた栄光が、美嘉に与えるストレスこそが今後の展開を回す燃料になるので、アバンの段階で美嘉の変化を終わらせておくことは、残り二人のお話をスムーズに展開させる事前準備です。
ともかく、開始一分でお姉ちゃんは『モヤモヤ』した状態に追い込まれます。


4)靴と足のモチーフ
OP寸前、擦り切れたレッスンシューズがアップになりますが、今回は靴を使った演出が多用されています。
もともとこのアニメは足が喋るシーンが異常に多く、例えば13話ステージ後の裸足であるとか、常務に全てを奪われた後での二期の素足であるとか、一期OPでのガラスの靴であるとか、口ほどにモノを言う足たちが演出の軸になっています。
美嘉のレッスンシューズはもちろん、彼女が追い込まれている立場、そこに辿り着くまでの苦労を見せるフェティッシュです。

それ以外にもプロデューサーの踵のすり減った革靴や、みりあのスニーカー、莉嘉の革サンダル、常務のハイヒールなど、今回はとにかく靴がよく映りました。
Pくんの苦労を靴で写すことで、莉嘉が彼に頼らない理由付けがクリアになるため、あのカットは物語全体の交通整理をするシーンだと言えます。
今回の問題解決のキモはあくまで当事者である少女たちが自分で気づき、自分で変化させていくことにあり、プロデュサーは前面に出てはいけない構成になっています。
なので、苦労している様子をコンパクト、かつ効果的に描写して、しっかり舞台裏に下げることが大事になります。

みりあは莉嘉と異なり、スモックは素直に着るし、子供扱いされることそれ自体にストレスは感じていません。
いわば自然体で他者の視線を受け入れているので、履く靴はプレーンなスニーカーです。
番組レギュラーが決まって嬉しい気持ちを表すように、彼女の足はどっしりと地面を踏みしめ、着実に前に進みます。
しかしそんな彼女でも戸惑い悩むわけで、美嘉に悩みを打ち明けている時は地面に足がつかず、ぷらぷらしています。
そんな彼女が大地を踏みしめ、スニーカーで一歩を踏み出すことで美嘉を背負う『大人』になる一連の流れは、足がよく喋るシーンだと言えます。

美嘉を抱きしめた後、みりあは三回目の母との対話に望みます。
これまでの二回は靴下を履いて襖の前でじっと待っていたみりあは、今回裸足のまま母に歩み寄り、顔の見える位置で対話をします。
『自発的に他者イメージに接近することで、より望ましい結論に辿り着ける』というシナリオテーマを、セリフや説明よりもはるかに雄弁に語る歩みだと思います。
裸足であることが気負いのない自然体と同一視されるのは、シリーズ共通の演出ルールな気がしますね。

靴の描写で一番気になったのは、実は常務のヒールだったりします。
三人の中で最年長である美嘉も『大人』の立場を表す記号としてヒールを履いていますが、常務のそれは10代の生易しい背伸びとは別格の、そそり立つプライドそのものです。
"Star!"の歌詞を借りるなら『慣れないこのピンヒール 10cmの背伸び』が常態化した彼女のそれは、果たして魔法をかけて素直にしてあげないといけない背伸びなのか、それともただアイドルと彼女との距離を指し示しているだけなのか。
高いヒールで自分を持ち上げている常務が、素足で地面を踏みしめるシーンは来るのか。
そこら辺は今後の展開で見えてくるところでしょう。

 

5)常務と部長
美嘉のキレイ系路線を成功させ、改革に弾みをつけていた美城常務ですが、その周囲には無味乾燥な書類があるだけで、部下もアイドルもいません。
一期はプロデューサーとアイドルを後ろで見守るだけだった部長が、例外的にちょっかいをかけている状況。
この後多田が自分たちを『レジスタンス』に例えることからも判るように、少なくともCPに取って常務は悪者です。
これはアイドルだけではなく、『現状を快く思っていない』と明言したプロデューサーも同様です。

しかし部長は親身に声をかけ、『もう何度も言った』性急すぎる改革への苦言を繰り返します。
年長者である部長にとって、常務は地位の垣根を超えて正しい道に導くべき、危うい存在なのかもしれません。
ぶっつけ本番でバックダンサーを努めようと、初舞台の人が入らなかろうと、ジーっと見守っていた部長が目を見開いて相手をしていることから、部長にとって常務はプロデューサーやアイドルたちよりも、自分を出して付き合わなければいけない相手です。
CPメンバーやプロデューサーがこの役割を担わないのは、常務の計画が持っている危うさや一分の理を理解して人間的に接近してしまえば、現在準備中の逆転劇が別の方校に進んでしまうからでしょう。

現状ほぼ唯一の理解者である部長の助言をはねのける形で、常務はおそらく初めて、自分の行動理由を言葉にする。
成果優先主義はこれまでも繰り返されてきた彼女のやり方ですが、それが目指すべき目的、彼女が達成しなければいけないと認める価値は、『美城という名前に相応しいアイドル』です。
会社の名前を文字通り体に刻んでいる彼女にとって、美城は夢をかなえる舞踏会場ではなく、それ自体が大きな格を持つ優先的な価値であり、アイドルも、そして多分自分自身も進んで奉仕するべき存在なのでしょう。
いわば、アイドルという中身よりも美城という外側を重視する視線であり、『心からの笑顔』を至上の価値とするCPとは、対立する行動理念だと言えます。


個人的に気になるのは、常務が重視するアイドルの外側、美城という名前はけしてマイナスなものとして描かれていない、ということです。
第2話で後のNG達が探検して僕達に体験させてくれたように、美しいお城はとても素敵なところで、夢を見るのに十分な魅力を持っています。
そしてそれは魔法のように存在しているのではなく、プロデューサーや部長が頑張って維持してきたからこそ、なんとか維持できてきた場所です。
新人アイドル集団であるCPの快進撃も、無論彼女たち自身の笑顔の輝きが大きな力であることは認めた上で、伝統と格式ある美城グループのアイドル部門という後ろ盾があってこそというのは、けして否定出来ないでしょう。

今回美嘉に『押し付けた』ように描写されているキレイ系路線も、ファンの増加という喜ばしい結果を生んでいるし、自分の真実に辿り着いた美嘉によりより魅力的に変化させられました。
それは美嘉個人の覚醒の結果でもありますが、同時に常務の『押し付けた』新しい可能性が無ければ辿りつけなかった境地でもある。
アイドルの外側があればこそ、アイドル個人の内側が存立できるという相補的な関係は、結構冷静に描写されているように思えるのです。

問題があるとすれば『外側だけ』を極端に重視する常務の姿勢であり、これは前回キャラ付けを全面的に否定し、前々回楓さんに過去を捨てさせようと迫った時と同じ、極端な姿勢です。
部長も常務の改革それ自体を否定するのではなく、その性急さと狭い視野に苦言を呈しています。
一極に偏った見方が幸福な結果を呼ばないのは、例えば第6-7話だとか、穏やかな描き方ですが第11話の*の対立だとか、シリーズ全体を貫通する価値観だと思います。
そしてそれは、過度に常務を敵対視し、彼女の計画がもたらした様々な副次的効果を切り捨ててしまっているCPの現状にも、適応可能な価値観ではないでしょうか。

個性や自分らしさといった『アイドルの内側』に寄った価値観をCPは持っており、現状その正しさが前面に出て、組織や会社主導のイメージ戦略といった『アイドルの外側』を重視する常務の価値観は、隙のある危ういものだと描写されています。
CPが常務に『勝つ』流れに説得力があるよう造られているわけですが、常務の描写が確実に孕んでいる正しさ、『外側』を重視することもまた間違いではないという感覚を、巧く取り込んでの勝利。
常務を見ていると、そういうバランスの良い結論を、ついつい期待してしまうわけです。
『味方』である部長を常務のマッチアップ相手に選んでいるところからも、単純な悪役として使い潰す以上の含みをもたせているというのは、過剰な読みでもない気がするんですけどね。
無論、僕が常務すきすぎてどーにか彼女の良い所を探しているのは否定しません。

 

6)プロデューサーの国盗り
『敵』のロジックが公開されたら、『味方』の現状を描写するというわけで、前回引き込んだヴァラエティー軍に続き、仲間を増やすCPが画面に映ります。
プロデュサーが革靴の踵をすり減らして集めたのは、346選りすぐりのニンフェットたちであり、部署の枠組みを超えて協力体制を作っている描写は、前回から継続されています。
ただでさえ登場人物が非常に多いアニメなので、CP外のプロデューサーの描写は思い切って省略し、対抗勢力をCPのプロデューサー旗下に一本化するというのが、基本的な方針なのでしょう。
まゆのPが描写されたのはまだ常務就任前で戦争が始まっていなかったのと、彼女の過剰な愛を描く上で絶対外せなかったからでしょうか。

新田さんが言葉にしているように、プロデューサーが大変そうなのは明暗の激しい画面を見ていれば伝わってくることです。
忙しい描写を入れることでプロデューサーが舞台袖に引っ込む理由を付けるというメタ的視線を差っ引いても、CPの反抗が上手く行くためのコスト描写として、十分な仕事を果たしているように思えます。
頑張ってないで偉業が成し遂げられても、偉業の値段自体が暴落しますからね。

ハードな業務をこなしながら笑顔を作り、アイドルに心配させないように務める姿は、車輪を任じていた一期前半から大きく変化したプロデューサーの心象を感じさせ、頼もしいものです。
同時にここまで負荷が強調されると、その負の側面が破裂するための前準備かなと疑いたくもなりますが、この導火線が何処に繋がるかは先を見ないとわからないでしょう。
爆破するなら、同じように長く埋めている伏線である島村さんが不調になるのと、同じタイミングかなぁとかなんとなく思っていますが。

 

7)赤城みりあの幸福と憂鬱
出だしからストレスを貯めこむ美嘉に対し、子供二人はレギュラー番組も決まり、心はウキウキです。
しかし好事魔多しとはよく言ったもので、反乱の狼煙になるはずの『とときら学園』を境に、子供たちのムードも暗いものになって行きます。
みりあの場合は仕事ではなく、あくまで家族と自分の間の個人的な事情が、彼女の憂鬱の原因になります。

CP最年少として時にあどけなく、時にワイルドに振る舞うみりあの姿からはあまり想像できませんが、みりあには生まれたばかりの妹がいて、母親はその世話にかかりきりです。
せっかくレギュラー獲得という楽しい出来事を共有しようとしても、お母さんは妹の相手で忙しく、自分に向き合ってくれない。
それでもわがままを言わず、社会が良しとする『姉』という立場を受け入れるわけですが、その表情は前向きというには程遠い、曇ったものです。
この母親とのすれ違いは三回同じ構図とレイアウトで繰り返され、みりあが感じている『モヤモヤ』とその解消を強調していくことになります。
美嘉の広告が映るシーンもそうなんですが、同じセッティングを繰り返す演出が今回は特に多く、同じ場所・同じ状況であるがゆえに強調される変化が見えやすい回だと言えます。


キレイ系路線にしっくり来ない美嘉や、スモックを着たくない莉嘉とは対比的に、みりあは要求される『子供』らしさは素直に受け入れ、自己紹介リハーサルも無難にこなします。
家族との関係の中でも、お母さんに胸の『モヤモヤ』をぶつけてスッキリする『子供』らしさよりも、自分の胸に仕舞いこんで待ち続ける『大人』らしさのほうが目立つ。
しかし勿論彼女は11歳の『子供』でもあって、社会の因果を含んで『大人』らしく立ちまわることを、全て納得し完璧に立ち回れるわけでもない。

肉体的年齢としては『子供』寄りだけど、内面的には早熟な『大人』らしさが目立ち、しかし『子供』らしい自意識が皆無ではない。
みりあの中に閉じ込められている複雑な『大人/子供』らしさはみりあだけではなく、今回の主役三人全てに共通する対立です。
美嘉も莉嘉も、周囲の要求する『大人/子供』らしさと自分のやりたい『大人/子供』らしさの間で危ういバランスを取りつつ、そしてそのバランスを崩しつつ、今回のお話を前に進めていく。
そこに『大人=善/悪』『子供=善/悪』という、単純な図式はありません。
今回のお話の中の『大人/子供』らしさとは、一つのパーソナリティの中に多様な側面が、多様な在り方で存在しうる、複雑な個性です。


これは第10話で、それまで『大人』として『子供』二人を引っ張っていたきらりが遂に崩れそうになった時、きらりを支える『大人』の役割を受け持った逆転劇と、良く似た構図を持っています。
さらに言えば第6-7話における本田とプロデューサー、第16話における前川とウサミンのように、それまで一般的な『大人/子供』らしさが要求する役割に従っていた人間関係が変化し、前に立っていた人間が後ろに下がったり、上に立っていた人物が下に回ったりするエピソードが、この作品には多い。
今回三人の主役に秘められたダイナミズムは何もこのエピソードだけではなく、作品全体に流れる通奏低音だとも言えます。

その上で、第10話ではあくまで『二人の子供』として描写されていたみりあと莉嘉の持つ『大人/子供』らしさを個別に描写し、それぞれの個性を掘り下げていく展開は、第10話ではやりきれなかった視点からの物語だと言えます。
CPの中でも『子供』としてまとめられがちな二人ですが、それぞれ人格の発達度も違えば、価値観も違う。
それが彼女たちがたどる物語の違いとしても現れているわけで、今回と第10話を比べてみると、同じキャラクターを扱いつつもかつてとは違うお話を構築できている、正しい意味での発展形だと言えます。
掘り下げるべき差異をしっかり受け取る意味でも、みりあの中の、そして城ヶ崎姉妹の中の『大人/子供』らしさが『自己/他者』にとってどう受け止められるかに注目するのは、有意義な見方だと思います。

 

8)城ヶ崎莉嘉の幸福と憂鬱
みりあとは違う子供、城ヶ崎莉嘉もまた、レギュラーが決まってウキウキで帰ります。
街を占拠する美嘉の看板は彼女にとって誇らしく、つい立ち止まって見つめてしまうほどです。
莉嘉にとって城ヶ崎美嘉は最も身近な『大人』であり、こうなりたいと願う強烈な自己イメージの源泉なので、より年上の路線をひた走る姉の姿はポジティブで、憧れと興奮の対象でもあるわけです。
しかし視聴者はキレイ系路線に納得がいっていない美嘉の姿を既に見ているわけで、姉妹という一番近い『他者』とのすれ違いが、この段階で迫っていることに気づくわけです。

学校でもレギュラー獲得を自慢し、どう考えても美嘉が好きすぎる同級生男子に張り合う形で、セクシー派カリスマギャルであると証明する約束をします。
しかし『大人』の基準を『林間学校でたくさんカブトムシを取る』という、素朴過ぎる指標においている莉嘉は、自分が思うほど『大人』ではありません。
というか、ほんとうの意味で『大人』らしいのであれば、男子の挑発は受け流し彼らと張り合う必要もないはずです。
年下のみりあが持っている『大人』らしさ、黙って自分の欲求を飲み込む聞き分けの良さは、莉嘉にとっては縁遠いものなのです。
余談ですがこのシーンで見せた12歳の感情表現は非常に優れた表現で、第4話のビデオ撮影、第10話できらりにおんぶをせがむシーンと合わせて、相当子供が好きでよく観察している(隠語)スタッフがいるな、という印象を受けました。


これが最大限発露するのが『とときら学園』のリハーサルであり、スモックという無様なお仕着せを飲み込むことが出来ず、リハーサルの切れ味も悪いです。
9歳の仁奈ちゃんですら『せっかくもらったこのお仕事、頑張るでごぜーます』と割りきり、『大人』な態度をとる中、12歳の莉嘉だけが仕事を完遂出来ない。
みりあが母との関係の中で『モヤモヤ』し始めたように、このタイミングで莉嘉も『モヤモヤ』を開始します。

これは勿論、学校でした約束が影響を及ぼしているからで、友だちに見せると約束した『大人』な姿、こうありたいと願う自己イメージとは真逆の衣装を強制されたからです。
スモックとは強制された『子供』らしさの象徴であり、他者が莉嘉に望むイメージと、『お姉ちゃんみたいにセクシーでカッコいい大人の女』という莉嘉の自己欲求とは、正反対にある衣装です。
ここで莉嘉が受けた屈辱と『モヤモヤ』を絵面一発で納得させるためには、スモックという極端な衣装はベストな選択であり、ただやり過ぎ感あふれる笑いを提供するために園児服を着せているわけではないのです。
勿論、無印アイドルマスター第15話であずさ達が着ていたスモックへの、作品を超えた目配せという意味合いもあるでしょう。

番組スタッフという『他者』から幼稚園児レベルの『子供』であることを要求されてはいますが、美嘉自身が目指すものは性成熟を果たした『大人』です。
しかし理想と現実のギャップを受け入れられず、上手く立ち回れない態度そのものは『子供』的であり、みりあと同じように『他者/自己』『大人/子供』という属性は、莉嘉のキャラクターの中で複層的な描写になっています。
スモック一枚にしても、それを脱ぎ捨てて『こんな仕事できない!』とわがままを言う『子供』らしさだって、莉嘉の選択肢としてはありえたはずです。
しかし彼女はそうしない。
この次のシーンで判るように、『大人』に憧れる『子供』らしい莉嘉は同時に、強い責任感を持ち、簡単に仕事を投げ出さない『大人』らしさも兼ね備えている『子供』なのです。

 

9)凸レーションと携帯電話
上手く行かなかったリハに、蘭子の付き添いで多忙なプロデューサーは顔を出せません。
連絡は携帯電話を通じて間接的に行うことになるわけですが、ここで凸レーションは三者三様の表情を見せています。
最年長のきらりは莉嘉の変節にかなり早い段階で気付いていて、プロデューサーと電話で話す機会を率先して作っています。
最年少のみりあは手を伸ばして電話をねだり、自分がどれだけ頑張ったのか、大好きなプロデューサーに素直に伝えています。
これは、母にして欲しい行動の代償行為なのかもしれません。

そして、背伸びしようにも踵のないサンダルと、姉に憧れて付けたネイルを見つめる莉嘉の表情は冴えません。
みりあから携帯電話を渡されても、『バッチリだった、余計な心配しないで』と嘘をつきます。
不安げなみりあをピースサインで黙らして、通話は打ち切られる。
みりあもきらりも莉嘉の変調に気付いていますが、Aパートは事態は悪化する一方であり、このタイミングでは『モヤモヤ』を払う有効手は打てません。
プロデューサーはあくまで舞台袖で待ち続け、『モヤモヤ』の解消はアイドルが担わなければいけない状況が強化されていきます。

これは後々の発言から判るように、自分たちCPの立場向上のために走り回るプロデューサーの負担を少しでも減らし、自分たちで何とかしようという莉嘉の『大人』らしさの発露です。
第7話で『あの人、何考えてるか判んない』とバッサリ切り捨てたのと、同じ相手にする配慮とは思えませんが、それだけプロデュサーとの関係が変化したということでもあります。
第10話でも、CIはプロデューサーに頼ることなく、独力で危機を乗り越えピンチをチャンスに変えていました。
その成功体験が莉嘉の自信に繋がっているからこそ、ここでプロデューサーには頼らないという選択をした、とも見れます。

上手く行かない状況を説明するように、電話の後のシーンではリフレインが続きます。
帰宅し現状を母に伝えようとするみりあの言葉は妹の泣き声で遮られ、離れていく母を『うん、大丈夫』と『大人』の対応で見送ります。
その表情はさみしげで、全くもって『大丈夫』には見えません。
一回目の母との対話に比べ、感情をこらえている様子が強くなっています。

 

10)衝突する城ヶ崎姉妹
同じ状況を反復することで、変化している状況を強調する演出は、美嘉にも用いられています。
レギュラーが決まってウキウキした莉嘉が電話をかけた時と同じように、美嘉も広告の前を歩いていきます。
あの時はオレンジに輝いていた世界は、今は夜闇に包まれて暗い。
『ライティングは極端に心象を反映する』という、この作品の基本法則が徹底された演出です。

街を埋め尽くすキレイ系な自分の姿は、名前もないギャルが言うように『綺麗だけど遠い人』として、美嘉には映る。
違和感を飲み込んで『しょうがないじゃん、アイドルは遊びじゃない』と自分に言い聞かせる美嘉の足元は、紅いヒールで背伸びをしています。
『わがままなんて言ってらんない』と『子供』っぽい自分を押し殺して、仕事に徹する『大人』として振る舞おうとする美嘉ですが、その考えを信じ切れるほど彼女は馬鹿でもなければ賢くもない。

逡巡の果てに出た結論は『でも』です。
『子供』である自分を隠して『大人』らしく振る舞う決意に対し、『でも』という逆接の先にあるものはあくまで言葉にされません。
この段階で美嘉にあるのは違和感だけだからです。
常務が代表する周囲の他者が押し付けてくる『大人』っぽさには、耐え難いほどの違和感がある。
『でも』それを具体的にどう発露し、どう迷惑をかけない形で自己イメージを実現すればいいのか、分からない。
アバンから抱え込んでいた美嘉の『モヤモヤ』はどんどん大きくなり、『でも』どうやればそれが晴れるのかは分からない状況です。


『モヤモヤ』を大きくしているのは莉嘉も同じで、ベッドの上で大好きなカブトムシの人形を抱きしめつつ、ため息混じりに煩悶しています。
あんなに嬉しかった『とときら学園』の台本は乱雑にベッドの上に捨て置かれていて、素直に受け入れられない気持ちを表現している。
美嘉と同じように『でも』どうしたらいいのか分からない状況で、莉嘉が頼るのはやはり憧れの姉であり、『お姉ちゃんだったらどうするんだろう』という気持ちが口をつきます。

暗い姉の部屋(ライティングによる心象表現は継続中)を確認したところで美嘉が帰宅し、莉嘉はいつもの様に抱きつきます。
しかし『モヤモヤ』を極大化させ、心身ともに弱り果てている美嘉はいつもの様に妹を受け止めきれない。
肘を抑えて引き剥がし、廊下に預ける形になります。
これまでのお話の中で、何かというと飛びつき抱きつき受け止めてきた城ヶ崎姉妹を知っている身としては、異常事態が進行中だとハッキリ判る描写です。

自室で荷物を置く美嘉に対し、廊下に座り込んだまま莉嘉はグチり始めます。
自分も扉を越えて部屋の中に入って、姉の側に行かないのは、抱きついた後に一度拒絶されているからでしょうか。
莉嘉のグチは意にそぐわない『大人』っぽさに苛立つ姉の立場を無視し、無垢で一方的な憧れを押し付けるものです。
同時に美嘉も、意にそぐわない『子供』っぽさを強要される妹の悩みを、『そんなこと』と一蹴している。
蓄積したお互いの『モヤモヤ』が仲良し姉妹の気配りを押しつぶして、どんどんすれ違っていく対話は『今お姉ちゃんが着てるみたいな、大人っぽいのがいーい!』という莉嘉の言葉で臨界点を迎え、美嘉は強い言葉で妹を拒絶します。
『気に食わない服でも我慢して着ろ。アイドルやるなら本気でやりきれ』と莉嘉を叱る言葉は、同時に美嘉自身に言い聞かせているような響きがある。
笑顔になれた時代のポスター、目の前で閉じる扉が、ギクシャクした現在を強調するシーンです。


このシーンがこのエピソードのストレス最大値なのですが、心に傷を残すいがみ合いという印象は、そこまで受けません。
一つには、美嘉が受けているストレスの強さが効果的に表現され、文字通り妹を受け止める余裕もないほど追い詰められている状況が、視聴者に理解されているからでしょう。
『まぁ、しょうがないかな』という感想を抱ける程度には美嘉は弱っている姿を見せていて、それは第3話でみせた『頼れる無敵の先輩アイドル』という役割から、城ヶ崎美嘉を開放する描写でもあります。
こうして既存の役割から外れた姿を見せることで、キャラクターの複雑な内面が視聴者に届き、より近しい存在として感じられるのは、間違いないことだと思います。

もう一つは、美嘉があくまで莉嘉の『姉』であることを放棄しなかったからだと思います。
『そんな気持ちなら、アイドルやめちゃいな』と当たり散らしはしても、自分がどういう気持で妹が憧れる服を来て、どれだけ『モヤモヤ』を貯めこんでいるのか、ぶちまけはしない。
事ここに及んでも、美嘉はあくまで莉嘉の『姉』であり、自分の事情を押し付けるのではなく、相手の事情を聞いてやる『大人』な立場を崩せない/崩さないわけです。
そこにはこれまで積み上げてきた関係への愛おしさ、精一杯の背伸びともいうべき挟持がある。
最後の一線を維持し、『頼れる無敵の先輩アイドル』としての自分をギリギリ崩さなかったことが、ストレスの掛かる状況下でも美嘉を信じられる、大事な足場になっています。

同時に、『姉』であることをやめられなかった美嘉は、心の『モヤモヤ』を誰にも預けることが出来ず、溜め込み続けます。
莉嘉は頼れるお姉ちゃんにグチればいいけど、頼られるお姉ちゃんは誰にも頼ることが出来ない。
この状態は『姉』であり続けようと自分を押し殺すみりあと強く類似しており、この類似が後半、みりあと美嘉を強く結びつけていく重要な足がかりになります。


11)Bパート開始
それぞれの『モヤモヤ』が最大化されたAパートが終わり、解決のためのBパートが始まります。
まずは主人公三人の簡単なスケッチが挿入され、各々悩んでいる様子が描写される。
あれだけウキウキと見上げた姉の広告は今の莉嘉にとっては複雑な印象を与え、電車の中で幸せそうにはしゃぐ女の子を、みりあは浮かない表情で見つめています。

この時みりあの背筋は伸びきっていて、足はまっすぐに地面を踏みしめている。
公共の場では相応しい態度を取るという『大人らしさ』を一人でも維持できているわけですが、ほんとうの意味で納得はしていないので、表情は晴れません。
楽しそうな女の子が、お母さんと一緒にお話をしていることも、みりあの憂鬱の原因かもしれません。


一方トレーニングウェアに身を包んだ美嘉は、揺れる気持ちをコーヒーに乗せて呟いたりしています。
今回は水面や鏡、窓ガラス、広告など、直接的にキャラクターを写すのではなく、クッションを一つ入れて反射・屈折させて見せる演出が非常に目立ちます。
常時街を占拠する美嘉の広告を筆頭に、常務が部長に信念を告白するシーンも窓ガラスに向かって喋ってますし、『とときら学園』の楽屋にも鏡がありました。
このようにクッションを入れる演出は他の話でも見られるので、今回特有のものというよりは、『心象=ライティング』や『足が喋る』といった、シリーズ全体の演出ラインに乗っかったものでしょう。
過負荷が極限化し莉嘉を受け止めきれなかった美嘉ですが、『姉』として常に弱者に気を配ってきた彼女の目はまだ健在で、『モヤモヤ』したまま椅子に座っているみりあを、目ざとく見つけます。

今回の話はかなり丹念にストレスケアされた物語で、『モヤモヤ』が最大化された状況はAパート終了からこのスケッチまでの約30秒しかありません。
美嘉がみりあを発見しデートに誘うのと並列して、CPの仲間が莉嘉の事情を聞き出し、事態は高速で良い方向に転がっていきます。
思い悩む時間が少ないのに、彼女たちが達成した変化に爽快感がちゃんとあるのは、『モヤモヤ』を貯めこむ過程が丁寧に構築されていることと、三人が相互的に関係し、『モヤモヤ』を加速させたり、解消しようとして失敗したりする描写が、間に挟まっているからでしょう。
『モヤモヤ』が限界点まで貯まる前段階、Aパートの上げと下げが丁寧に構築されているので、鬱屈した描写が少なくとも、少女たちの貯めこんだ『モヤモヤ』は十分伝わってくるわけです。

そしてキャラクターの感じる鬱屈が伝わっていればこそ、美嘉がベンチに座るみりあを見つけ、状況が改善しそうな予感が見えた時、強く期待をする。
この『モヤモヤ』して、本来のみりあちゃんや美嘉姉や莉嘉ちゃんの良さが全然出ていない状況がぱっと晴れるという感情が、話の構築から半自動的に導かれる。
効果的なスケッチだと思います。

 

12)莉嘉の発見
ため息混じりでCPの扉を開けた莉嘉は、凸レーションリーダー・きらりとCPメンバーに向かい入れられます。
ケーキを用意し、わざとらしくはしゃいで楽しそうな空気を作る三人ですが、莉嘉はあんまり乗れない。
気を使っていることを悟られてしまう年長三人も、『もしかして、気使われてる?』と口に出してしまう莉嘉も、スマートな『大人』らしさとは縁遠い、ぎこちない『子供』です。
しかし戦友の不調にいてもたってもいられず、なんとか会話する場所をつくろうとするメンバーの気遣いは『子供』には出来ないわけで、そういう場所を造らなかった結果どんどん事態が悪化した第6-7話の反省を活かしている意味合いも含めて、ケーキを持ち出してきた三人は『大人』でもあります。
主人公三人だけではなく、脇役たちもまた『大人』と『子供』の中間を複雑に彷徨う存在です。
それにしたって、極力莉嘉と同じ視線で歩み寄ろうとする三人組の聖人っぷりがやべぇ。

この時三人の気遣いをありがたく感じつつも、それだけでは気分を晴れやかにし、状況を好転させるスタートを切れない莉嘉の姿は、とても良いなと思います。
『姉』という状況を飲み込んでこらえているみりあと比べても、自分の気持を巧く整理できない莉嘉は『子供』です。
三人の真心も、ケーキを用意して莉嘉を待ち構える労力を判っていながらも、それだけでは前に進めない気持ちを、莉嘉は抱え込んでいる。
それは、現在の状況を吐露しても変わりはしません。


状況を改善する一発は意外なところから飛んできて、衝立に隠れた杏が足からにゅっと出てきます。
彼女はあらゆる状況に縛られない自由人、アウトサイダートリックスターなので、こういう状況をかき回すのは得意中の得意です。
何者にも束縛されない存在である以上、当然のように裸足です。
結局CIの仲間と同じ場所にいるあたり、杏ちゃんは目立たないけどさびしんぼうなのかなぁとか思ったりもします。

この後杏ときらりの間で交わされる『衣装』にまつわる会話を聞くことで、莉嘉は状況改善の気付きを得て、自発的に世界を変えていきます。
最初は『他人』事として硬い表情をしていた莉嘉が、どんどん話に引き込まれ、『自分』の問題としてあんきら問答を受け入れていく表情の変化は、見事な演出でした。
自分の抱え込んだ『モヤモヤ』はあくまで自分自身のものであり、誰かが肩代わりして片付けてくれるものではないというのが、この回の基本方針なのでしょう。
同時に、自分の世界だけに閉じこもっていても改善のきっかけは得られず、三人全員が『他者』と対話することで変化のきっかけを得ています。
これまでネガティブに描かれていた『他者/自己』の関係が反転し、ポジティブな相互作用が見えるこのシーンは、エピソード全体が陽転する重要なシーンになります。


そのきっかけとなったあんきら問答は、『衣装』にかまけてエピソードテーマ全体をまとめ上げる、中盤の要です。
『何を着たって自分は自分なんだから、服なんてなんだっていいじゃん』と言い切るきらりは、『他者』からのイメージを気にかけず、天才的な『自己』を押し通すことで社会に居場所を手に入れた、特権的な存在です。
対して『自分の好きなお洋服着ると、心がハッピハッピになるにぃ。それで、自分らしく工夫してオシャレすると、もっともーとハピハピになるんだにぃ』と反論するきらりは、バカでかい身長を可愛い服で覆い隠し、少しでも威圧感を減らすにぃにぃ語法を選びとった、『他者』の気持ちをとても大事にする女の子。
二人の立場は正反対ですが、それ故仲が良いのでしょう。

この時注目したいのは、『自分』主義の杏ちゃんは『他者』の存在を無視しているわけではなく、『他人』重視のきらりも溢れ出る『自分』らしさを殺しているわけではない、ということです。
第9話を見ても判るように、杏は求められる自分を瞬時に判断し、必要な『衣装』を即座に用意することのできる天才であり、『自分』を貫くだけではなく『他者』の要求をも乗りこなす、両立的な立場を取っています。
きらりが常に周囲の状況に気を配り、『他者』が何を考えているか、『ハピハピ』なのか気にしている人物なのは見ていれば判るわけですが、同時に彼女は隠しようのない巨大な『自分』を(身長的な意味でも、可愛くなりたいという欲求としても)持っています。
きらりにとってオシャレで大事なのは『自分がテンションアップアップになれる』ことだと、今回言葉にしていますしね。

杏ちゃんはバラエティ出演をニートキャラで押し通しても良かったし、きらりは可愛いにこだわらず、高身長に見合った魅力を選択してもよかったわけですが、二人は『他者/自己』それぞれのイメージの間にあるバランスを取る道を、既に選択したわけです。
二人は『他人に見られる自分』『他人に見せたい自分』にそれぞれ『自分』らしい解答を既に用意しているわけで、いわば今回の主人公三人が悩んだ問題を、先取りで解決しているキャラクターだといえます。
それ故、彼女たちの問答が莉嘉の問題を解決する、重要な一擲となるのです。
共感こそが問題解決の最重要ポイントになるのは、この後のみりあ-美嘉も同じですね。

 

13)みりあと美嘉とお姉ちゃん
年長者としてみりあの中の『モヤモヤ』を見抜き、立場を同じくするものとしてセンター街デートに繰り出す美嘉。
きらり+CIのぎこちない気遣いに比べるとスマートなやり口で、流石頼れる先輩という感じを受けます。
公園でのターンオーバーがあまりに鮮烈なので忘れがちなのですが、みりあの状況を見切ってデートに連れ回したのは、あくまで年長者の美嘉です。
スマートでクレバーで優しいお姉さんの姿が頼もしいからこそ、みりあが美嘉を抱きしめるシーンの威力が上がっている、とも言えるでしょうか。

カラオケ、コスメ、プリクラ、喫茶店にウィンドーショッピング。
みりあにとって美嘉が用意してくれたデートコースは、8歳という年齢差をフルに活かした、お姉さんっぽくて楽しいものだったと思います。
莉嘉が感じた『気を使われている?』という引け目は多分、公園についた時のみりあには縁遠いもので、だからこそ18分間貯めこんできた『モヤモヤ』、『姉』であり『大人』であることの辛さを吐露していきます。
電車の時とは違い、みりあの靴はブラブラと所在なさげに揺れています。

みりあの告白を受けて、美嘉もまた『姉』であることの辛さを共有出来ると自分の体験をさらけ出し、みりあの傷に歩み寄ってくる。
誰にも言えず一人で抱え込んでいたはずの傷を、自分をデートに誘ってくれた優しい人が同じくしてくれたという気付きは、みりあの気持ちを一気に軽くします。
杏ときらりの対話を聞いた時と同じように、みりあの表情が劇的に変わる。
この『心に何かが届き、全てが開放されて真実に辿り着いた時の表情』はもう一度、美嘉の問題が解決するときにリフレインされます。

リフレインといえば、二人が座っている椅子には手すりがあり、同じ場所に座っていながら気持ちを完全には共有できていない距離感を、視覚的に示しています。
美城の中庭で話していた時も、第1話で島村さんと凛ちゃんが話していた椅子も、第7話で凛ちゃんが座っていた椅子も、全て手すりが付いています。
同じモチーフを的確にリフレインすることで、演出は単独の『点』ではなく、より強靭な『線』に変わります。
1回のエピソードの中で『線』を作るリフレインも、エピソードをまたいで『線』を作るリフレインも、両方が惜しげもなく投入されていることが、今回の話が豊かな物語になっている、大きな理由ではないでしょうか。


『お姉ちゃんって辛いよねー!』と声を合わせ、自分たちが同じ傷を持った仲間だと強く共感した二人は、その辛さを共有しようと持ちかけます。
年長者であり『大人』である美嘉にとって、この提案はみりあの辛さを自分が受け止める、一方的なものです。
しかしみりあにとってこの『お姉ちゃん同盟』は年齢を超えた相互的な連帯であるべきで、美嘉も『姉』として辛いのなら、自分に頼っても良い。
このズレは美嘉が『大人』であることを強く自分に任じ、素直な『子供』でいたいという心底を覆い隠している故に発生しています。
二人を繋いでいるのは『大人/子供』という差異ではなく『姉』という合同なので、みりあの『お姉ちゃん同盟相互論』が論理的にも心情的にも真実です。
『大人』は我慢しないといけない、後輩やスタッフを背負って仕事をしている自分は頑張らないといけないと、ずっと耐えてきた美嘉にとって、その真実は遠い。
逆に言えば、『お姉ちゃん同盟相互論』に辿り着いたみりあはこの瞬間、『大人/子供』という区分を超えたのです。

『アタシは辛いことなんてなんにも……』とみりあの境界侵犯を拒絶しようとした美嘉を、美嘉自身の心が裏切り、意図しない涙がこぼれていきます。
楽しいデートで心がほぐれたのは、みりあだけではなくホスト役の美嘉も同じだったのかもしれません。
目の前で自分を守ってくれる『大人』が泣く、傷を見せる。
これは第11話できらりが遂に折れた時と同様な状況であり、みりあはその時と同じく、正しい行動を取ります。
手すりを乗り越えて美嘉の前に立ち、『姉』のように抱きしめるのです。
美嘉が座ってみりあが立つことで、身長差≒年齢差が逆転してるのも、第11話と同じ演出ですね。
暗かった世界に電灯が付いて、問題解決の流れが更に加速していきます。


美嘉と触れ合うことで『姉』であること、『大人』でいることを、『他者』からの強要ではなく『自発的』な欲求として受け入れたみりあは、三度目の母との対話に挑みます。
前回二回は闇が迫る時間帯でしたが、今回は突き抜けるような朝の光の中での対話です。
変化はそれだけではなく、前回までは扉の前で待っているだけだったみりあは、裸足のまま母に歩み寄り、母の仕事を肩代わりします。
それは公園で美嘉に歩み寄り、『姉』の辛さを共有した経験あっての成長です。

みりあが自発的に近寄ったことで、お母さんは初めてみりあの顔を見、妹も三回目にして泣き止みます。
ここでお母さんが言った『ありがとう、みりあ』が自分はこのエピソードの中でも一等好きな台詞で、凄く報われた感じを受けました。
無論このエピソードは全体的に演出の粒が立っていて、心を揺り動かされるシーンがたくさんあります。
しかしCP最年少ながら自分の中の『子供』を常時押し殺し、三人の主人公の中でもしかすると一番『大人』だったみりあが、一番言って欲しかった言葉を一番言って欲しい人から貰えたこのシーンは、僕にとって特別刺さる形をしている。
心の底から『良かったなぁ』と思えるシーンがあるのは、『出来が良い』という評価を一歩飛び越えた、情緒のうねりを引き起こす作品なんだと思います。

 

14)城ヶ崎姉妹の幸福な結論
杏ときらりの言葉によって真実を手に入れた莉嘉は、意気軒昂とブーツで自転車を漕ぎ、仕事場に向かいます。
ここでの移動が自転車なのは、自分の足を使いつつも、一歩ずつという段階を飛び越えた疾走感を出したかったのかな、などと思いました。
あんきら問答が起こした発想的飛躍は莉嘉にとってまさにEurekaであり、アルキメデスじゃないですが走り出したいほどの衝動を引き起こしているのでしょう。
その上で、莉嘉は自分の欲望をただぶつけに行くのではなく、『お仕事頑張る』ため、衝動を制御しより発展性のある形に消化させるために、自転車を乗りこなすのでしょう。

莉嘉が見つけた答えは、『他者』が押し付けてくる『子供』らしさの象徴を脱ぎ捨てることではなく、それを受け入れた上で『自己』が望む『大人』らしさと融合させ、着こなすことでした。
スモックを着ているからといって『子供』でいる必要はなく、見えないオシャレという『大人』らしさ、『自分』らしさを前面に出して構わないという結論は、杏ときらり、ケーキを用意してくれたかな子と智恵理がいなければ、辿りつけなかった結論でしょう。
何よりも、ずっと背中を追いかけ続けた自慢の姉がいてこそ莉嘉は背伸びを望んでいるのであり、二人の信頼関係は自己紹介直前、何かを確かめるように莉嘉が姉を見つめるシーンでよくわかります。

今回、莉嘉の物語の中で重要なフェティッシュになっているのが、ネイルです。
オレンジ色に飾られた指は、姉の影響下にいる『子供』の自分でもあり、姉に追いついて『大人』になりたい自分でもある。
気に入らないスモックを着て下を向いた時も、あんきら問答をため息混じりに聞いている時も、莉嘉は大人びた指を見つめ続けている。
一回目の自己紹介では隠していたネイルを、二回目では魅せつけるようにギャルピースで目立たせているのは、こうなりたい『自分』を『他者』に共有してもらう勇気の象徴のように、僕には思われました。


妹の堂々たる態度と、『だって、私は私』という言葉を受け取って、美嘉も他の二人同様自分の中の真実にたどり着きます。
アバンから約22分間、長い隘路でしたが、やはりアップで表情の変化をしっかり捉え、『他者』の言葉を支えにして『自己』を実現するための妙案にたどり着くという描写は、ここでも徹底されています。
美嘉が『他者』の思いやりを受け取るルートは、CI+きらり→莉嘉→美嘉 と 美嘉→みりあ→美嘉 という二つあり、お話全体が彼女の発見と決断に集約するように構成されているため、最後に来るのはむしろ必然といえるでしょうか。

作中最大の価値である『笑顔』が主人公たちに戻り、時計の針が進んだところで、アバンから悩まされてきたキレイ系路線を、ようやく美嘉は乗りこなします。
『他者』に要求される『自分』らしさを投げ捨てるのではなく、『自分』の信じる『自分』らしさを勇気を持って表現し、『他者』に受け入れてもらうこと。
キレイ系衣装とメイクをしたままギャルなポーズをバッチリ決めた美嘉の結論は、着ている衣装が『子供』らしいスモックと『大人』っぽいキレイ系と正反対なのに、妹のそれとそっくりです。
莉嘉を飛び石にして、あんきら問答が美嘉をより良い方校に導いていることがわかります。

最後に美嘉がたどり着いた境地、新しい広告を二人で写真に残し、今回のお話は終わります。
これまでは笑顔で退治することが出来なかったこともあった広告、『他者』の見る『自分』ですが、お揃いの服を着た姉妹は笑顔でそれを見ている。
『なんたって私は、カリスマJC・城ヶ崎莉嘉の姉だからね』という言葉は、『自分』が認識する『自分』を大事にするだけではなく、妹という『他者』が誇りに思う『自分』を自己認識の核とした発言であり、ずっと悩まされてきた『他者/自己』の対立が美嘉の中で解消したことを示しています。
三者三様の迷い道は綺麗に整理され、皆が穏やかな笑顔を浮かべている姿をスケッチして、クレジットとなります。

 

15)まとめ
これまで二期はあまり出番のなかったアイドル(14話のまゆ、15話の楓さん、16話のウサミン)を取り上げてきたわけですが、今回は城ヶ崎美嘉という一期で活躍したアイドルをあえて取り上げ、彼女の持っている弱さと強さを掘り下げる回となりました。
CPからは赤城みりあ城ヶ崎莉嘉という二人の子供がピックアップされ、これまで束で扱われがちだった彼女たちが持つ、個別的な弱さと強さに光が当てられました。
『看板』『母との対話』『靴』『反射する自我』など、演出面での繰り返しを効果的に使い、お互いの『モヤモヤ』もその解決も影響力を及ぼし合う、見事なエピソードだったと思います。

『お仕着せとオシャレ』『大人と子供』『他者と自己』。
一見対立する二項を平等に取り上げ、それが相補的な関係にあること、両者の的確なバランスを取ることでより実りのある行動につなげることが出来ることを印象的に見せたテーマの扱い方も、豊かで魅力的で、とても面白いものでした。
大上段にテーマを叩きつけるのではなく、10代の少女たちの小さな、しかし真剣な悩みの中で活きた描写に変えていたことが、やはり何よりも素晴らしい。
物語が持っている力を再確認するような、立派なエピソードだったと思います。
良いアニメーションでした。

 

 

アイドルマスターシンデレラガールズ -2nd Season-:第18話『A little bit of courage shows your way』感想

女の子たちの迷い道くねくね、今回はゆにこ先生が場外までかっ飛ばした、Candy Islandの二回目裏。
第9話で描かれたCIの関係性を時に批判的に、時に発展的に膨らませつつ、杏&きらり、智恵理&かな子にあえて分断させることで、CIが現在抱える問題点を全て表面化し、解決の糸口を付けるお話でした。
ネガティブな要素から目を背けず、『道化には道化の、負け犬には負け犬のプライドと戦い方があるはずだ』という信念に基づいた、太い描写が展開され大満足。
ともすれば不快になってしまいそうな要素を扱いながら、キャンディや江戸切子といった綺麗なフェティッシュを巧く使って、ムードとテーマをまとめ上げる手腕が本当に素晴らしかったです。


お話に立ち入る前の前景として、お話全体での智恵理とかな子の扱いについて触れておきます。
僕はこのアニメに傷があるとしたら智恵理だとずっと思っていて、それは彼女がほぼ単一の役割、『負け役』以外の場所から出ることが出来ていなかったからです。
チエルはほぼすべての状況で、人見知りで自己評価が低い『出来ない』子でした。
前川が反乱を起こした時も、、バラエティー番組でも、合宿でも、夏フェスでも、智恵理の担当は涙目になってごめんなさい、と言うことでした。
無論それはキャラクターたちが対面している問題の大きさを視聴者に伝える大事な仕事ですし、智恵理という人物が中々成功体験を積みにくい、難儀な性格をしていることからでもあるでしょう。

しかしこのアニメはキャラクターが持っている一見した印象や表面的な人格、基本的な物語役割を一歩踏み越えた、意外だけど納得もできるような側面に光をしっかり当て、多角的な描写をすることで登場人物の魅力を引き出しせるアニメです。
CPのお母さん役のきらりも傷つくことがあり、子供であるみりあや莉嘉も誰かを受け止め、明るく元気な本田未央は時に空回りし、猫キャラ前川は暴走したりマジになったり忙しい。
そういう両面性をスムーズに飲み込ませる技法があり、尺を多面性の描写に使う設計があればこそ、視聴者は彼女たちを単機能的な人形ではなく、作中で息づく人間だと認識できている。
そのような立体的なキャラ描写に強い魅力を感じている立場としては、智恵理の掘り下げ方は弱く感じるわけです。

無論これまでのお話の中で、智恵理はしっかり成長しています。
緊張に弱く人いきれしてしまう性質を飲み込んで、アップダウンクイズではCIの危機を救いました。
しかしあのシーンだけでは、智恵理が『負け役』を脱する描写としては弱いし、その後変化や成長を強く印象付けるシーンも、殆どなかったように思います。
むしろ『負け役』として、集団に危機を持込み場を緊迫させる役割が目立っていた。
他のキャラクターが自分の欠点と長所の折り合いを巧く付け、バランスのとれた人格に向けて一歩ずつ成長する中で、彼女の停滞は僕の目には目立って見えたわけです。

そして、僕は彼女を『負け役』のままではいさせてほしくなかった。
単純に一人の女の子がうまく前に進めないことに苛立っていたのもありますが、このアニメの良い所である多角的な描写が、智恵理を素通りすることで徹底を失い、描写の一貫性に傷がついてしまうように感じたからです。
一瞬でもいいから、確かに智恵理がただ『負け役』なのではなく、そこから一歩踏み出し何者かに変化していく予感を受けたいと、ずっと思ってきました。


対してかな子は『普通の子』です。
島村さんほどひたむきなわけでも、前川ほど真面目なわけでも、杏ほど天才なわけでもなく、智恵理ほど『負け役』なわけでもない。
飯食ってたり作画が不安定だったり、要所要所で可愛かったりするくらいしか物語の中で役割を担えていない、真ん中から動かないキャラクターとして、僕の目には映っていました。
特に失敗も成功もしない『普通の子』がアイドルを続けることが出来るのは、何故なのだろうか。
『普通の子』にもそれぞれ個別の悩みと弱点、乗り越えるべき傷があるはずなんですが、そこに触れるエピソードは、これまでのお話の中にはあまりなかったと思います。

もちろん優しくてお菓子が好きなかな子の柔らかな感性が、CIに潤いをもたらしていたことは否定しません。
あの子がいればこそ抜けた空気、くぐり抜けられた試練は、当然たくさんある。
その上でなお、もう一歩踏み込んだ描写、三村かな子が持っている特有の何かが見たいなと、ずっと思っていました。


所属メンバー三人中二人が掘り下げきれていないのは、担当回だった第9話が、双葉杏とバラエティー番組の回だったことと、無関係ではないでしょう。
杏ちゃんはあらゆる状況を乗りこなす天才であり、第9話でも迫るトラブルを器用に解決し、CI全体を成功に導いていました。
その反面、かな子と智恵理は引っ張ってもらう傾向が目立ち、最後のクイズで智恵理が一ついいところを見せても、『CIは双葉杏のユニット』という印象が拭えなかった。
杏ちゃんの天才性は見ていてとても面白い要素なのですが、それにかなり頼ることでCIというユニットが存続できていると、僕の目には映ったわけです。

今回のお話は、あえて『出来る』杏と『出来ない』智恵理・かな子を切り離すことで、『CIは双葉杏のユニット』という印象を打破しにかかりました。
智恵理とかな子は何が出来なくて、その解決としてどう立ち回り、どう再び失敗し、そこからどう立ち直って何を見つけ、どんな価値を生み出せるのか。
第9話では掘り下げきれなかった二人の特質を、丁寧に追いかけて描写しています。
杏もきらりとのコンビ『あんきら』として、バラエティ番組が持つ負の側面に切り込み、キャラ売りが二人に与えている傷について語ってはいますが、軸足はどちらかと言えば『出来ない』組、智恵理とかな子に乗っかっているように、僕は感じました。

智恵理もかな子も、根は善良で真面目ながら、それ故に間違った方向性の努力を推し進めていくキャラクターとして描かれています。
巧く話そうと焦るあまり他人の顔色も、周囲の状況もわからなくなってしまう智恵理。
『食べる』という個性を切り捨てた過度なダイエットにより、体調を崩してしまうかな子。
自分の個性の御し方を知っている『あんきら』と対比すると、不器用でがむしゃらな努力を二人は続けます。
(個人的には、ダイエットを『デブだから』という体型的な理由ではなく、『気が緩みやすいから』という心の問題に持っていったのは、ソフトで良い操作だなと思います)

それは結果的に自分と他者の笑顔を失わせ、幸福な結果を呼ばない努力です。
しかしそうして、『出来ない』ヤツなりに必死に誠実に努力したからこそ、プロデューサーは作中初めて強く自分の意見をアイドルに伝え、幸子は発破をかけに来たのではないか。
『負け役』である智恵理、『普通の子』であるかな子が持っている強さというのは、むしろその不器用さにあるのではないか。
そして素直さと優しさがあればこそ、様々な人の助力を素直に受け入れ、肩の力を抜いて新しい成功をつかむことが出来たのではないか。
彼女たちの奮闘を追いかけた今回の描写を見ていると、そういう気持ちになってくるのです。


智恵理が第9話で見つけた『カエルさんのオマジナイ』を、今回プロデューサーは禁止します。
『カエルさんのオマジナイ』は他者をどうでも良いと切り捨てることで自分を保つ緊急避難であり、そこに頼り切りになっていては、新しい成長はやって来ないからです。
そもそも江戸切子の中身に目を向けず、お愛想と取られた最初の挨拶は、外側だけ保って内容を考えない、無軌道な努力によって生まれた強張りです。
『カエルさんのオマジナイ』は智恵理を笑顔のない、誰も幸せにしない場所に閉じ込めてしまうと、プロデューサーは考えたのでしょう。

同じように、きらりから貰った飴を手渡しすることで、食事を取らず自分を追い込めば問題が解決するという思い込みから、かな子を開放します。
きらりに対する思いやりの返礼として貰った飴が、かな子の窮地を救う真心のリレーは凄く胸に響く描写ですが、それはさておき二人への助言に共通しているのは強張りを脱すること、形式に囚われず目的に立ち戻ること、自分らしさに立ち戻ることでしょう。
努力を求めた真剣さや真心それ自体は間違いではないのだから、それを発露させるやり方から力を抜いて、怖くても自分を信じて一歩を進めれば、上手くいく。
その時は、気が緩まない程度に甘いものを食べたり、視界を塞がない程度にオマジナイを使ったりしても、本質が見えているのだから大丈夫。
これが『負け犬』と『普通の子』が見つけた世界への勝ち方であり、アイドルとしてファンを笑顔にする強みだと、今回の話は描写しています。
これは、彼女たちの『負け方』を正面から描写することでしか、けして描けなかったでしょう。

EDにかぶせるように、二度目の江戸切子の取材が描写されます。
緊張がほぐれた二人はようやく店の様子や、職人のオジサンの表情をしっかり見て、自分の素直な興味を言葉にして伝えることが出来る。
『クローバー』や『クッキー』といった、自分の個性を活かした要素を江戸切子と組み合わせて表現し、オジサンを素敵な笑顔にすることが出来る。
『負け犬』と『普通の子』はようやく、彼女たちなりのやり方で『勝った』わけです。
僕はこういう話が、ずっと見たかった。
素晴らしいエピソードでした。


『カエルさんのオマジナイ』禁止は第9話に対する猛烈なカウンターですが、第9話の要素をポジティブに引き継いだ部分もあります。
ライバルとして登場したKBYD、特に輿水幸子の先輩としての顔は、第9話で接触していなければ発生しなかった、魅力的な引き継ぎといえるでしょう。
『CPの外側と接触することで、新しい答えを得る』という二期の基本ラインもしっかり踏襲した、いい演出だったと思います。

強気な自分を演出し続ける幸子が二人にかけた『アイドルは前を向いているものです!』という言葉は、自己評価が低い二人にとっては実現が難しいものかもしれません。
しかしその難しさに飛び込まなければ、二人は一生『負け役』のままでしょう。
困難に挑戦し、折れ曲がったり凹んだりしながら、無駄な努力を重ねながらどうにかやり方を見つけていく時、幸子の言葉は二人の強い支えになる気がします。
最初から前を向ける強さがあるなら、わざわざそれを言葉にしないとは思うので、幸子ももしかしたら『負け役』から這い上がって自分を変えてきた、タフなアイドルなのかもしれませんね。

当たりの強い幸子を時に茶化し、時にソフトにフォローしながら支えている、友紀と紗枝との関係も、凄く良かったです。
今回CIが『杏抜きの二人』という可能性を見つけたように、人間の関係性は不変のものではなくて、色々な可能性がある。
幸子に二人が見せた柔らかな優しさは、いつもはデコボコしたKBYDの新たな側面を見せていて、メインであるCIの関係性変化に説得力を足していたように思います。
単純に、イジりつつも絶対に間違えてはいけないタイミングではシリアスになれる三人の関係が、凄く好ましかったのもありますが。

 

『出来ない』『負け役』の二人は隘路を迷って答えにたどり着いていましたが、『出来る』『天才』の二人にも、二人なりの悩みがありました。
杏ときらりは身長差46センチ(アニメ公式ページキャラクター紹介基準)というギャップが売りのユニットであり、求められるキャラクターを理解した上で、二人は積極的にそれを演じに行きます。
目の前の仕事でいっぱいいっぱいな『負け組』のために、回しやすそうな食べ物のランキングを提案する余裕すら、『出来る』二人にはある。

しかしだからこそ、デカいのとチッコいのというギャップが笑われているのであって、きらり自身や杏自身は見過ごされているかもしれないこと、道化として笑い飛ばされることが自分たちの商品価値であることに、二人共気付いてしまっている。
周囲を見る余裕が無い『負け役』も大変ですが、他者の求めるイメージを敏感に感じ取り、それを演じることすら出来てしまう『天才』たちにも、同じかそれ以上の苦労があるわけです。
杏ときらりは今回、プロデューサーの助けを直接的には借りず問題を解決する、『出来る』二人です。
しかしだからといって、痛みを感じていないわけでも、苦労していないわけでもない。
プロデューサーという直接的なメンター抜きで、二人はどう問題に立ち向かうのか。
これはもうお互い支えあう以外に方法はなく、膝を貸した側が次は膝を借りて休むような、戦友のような『あんきら』の距離感が今回描写されていました。


杏ちゃんは天才なので、自分が抜けたCIが相当危ういことに気付いていて、ずっとソワソワしている。
それで仕事に影響をおよぼすほど『出来ない』わけではないですが、気になるものは気になるし、きらりも敏感に杏の変調を感じ取っています。
きらりの対人的な感覚の鋭さはプロデューサー相手にも発揮されていて、杏が後に言葉にする『デカさいじり』に対する傷を気にかける相手に気を使って、魔法の飴玉を手渡したりしています。
第10話ではメッコリ凹んでいたきらりですが、自分の傷には比較的強く、だからこそCPのお母さんとして色んな子に気を配っていられるのかもしれません。

きらりが投げかけた『素直にならないと、心がきゅーって苦しくなっちゃうよ』という心配をそのまま帰す形で、杏もきらりの傷に触っていく。
プロデューサーがいない以上、ここをケアするのは杏しかいないことを、楽屋でのやり取りの中で感じ取っているのでしょう。
ギャップを笑われる道化であることの痛みを気にする杏に対して、きらりは自分の特長にプライドがあることを明言します。
第10話では縮んでいた身の丈を思い切り伸ばし、でっかい靴やバッグをしっかり強調しながら、大きな自分でも望むまま可愛くあることと、その体が誰かを笑顔にしていることを誇りにしていることを、彼女の言葉で表現出来る。
世間には笑われる自分の身長は、きらりにとっては乗り越えた傷であり、かけがえのない個性として受け入れている段階なのでしょう。
ここのスマートな自己肯定は、上手く行かなくて泣いているかな子や、何を言えばいいのかパニックになっている智恵理とは、分かりやすい対象をなしているように思います。

『杏と一緒の仕事、本当はどう思っている?』という問いかけは、対社会的な問題について尋ねているのと同時に、個人的な関係の確認でもあります。
『心が痛いから、杏ちゃんとは仕事したくない』と言われたらどうしようという、ナーバスでシリアスな恐怖が、この時の杏にはある。
最初の楽屋と立場を入れ替え、今度は自分がきらりを支える立場になりながら、『きらりは、杏ちゃんといるきらりが大好きだよ?』という言葉を貰って、案外臆病で繊細な杏の心はようやく落ち着きます。
この時きらりが見せている、誰かの目に写った自分をこそ誇りに思う心境というのは、前回美嘉が莉嘉に言った『カリスマJC城ヶ崎莉嘉の姉』という言葉とどこか似ていて、話数を超えた響き合いを感じます。


『あんきら』のギャップを笑いものにする、バラエティ番組が持っている歪みが表に出ることは、CPの現状へのカウンター描写にもなっている気がします。
『綺麗』『高貴』といったハイなレイヤーの仕事を常務が積極的に握りこんでいる以上、プロデューサーとCP連合軍が武器に出来るのは、成人女性にスモックを着せるようなロウアーなバラエティが軸です。
様々な個性を活かすことの出来る自由さはしかし、アイドルを傷つける下世話さと背中合わせであり、それは実は既に第9話で嫌というほど描かれていたりもする。
わざとらしく表に出る『仕掛け人』とのやり取りや、アイドル情報誌の紙面を上手く使いながら、CPが使える武器の危うさを巧く表面化していたと思います。

バラエティの下世話さ……というか、アイドルの笑顔を奪いかねない危うさに乗り気でないプロデューサーも、今回描写されていました。
自分たちのやり方が正しいのか悩むことで、より善い方向に是正されていくと思うので、今回これまでの路線にカウンターを当てたのは、描写がより深まる足場になると思います。
疑問を持てば視野が広くなり、こわばった姿勢が解消されてより素直な自分らしさに立ち戻れるってのは、今回も言われてたことですし。

CPの弱さを見せると同時に、常務側の描写にも進展がありました。
『Legend』といういかにも常務好みのコピーで売りだされたのは、フレデリカ・奏・周子というスラっとしたイメージのアイドル。
これが以前言っていた『美城というブランドに相応しい、カリスマ性を持った高嶺の花』の具現だと思うのですが、たしかに衣装や照明はキリッとした印象を与え、自分たちの強みを理解している印象があります。
中身の方は適当なのが二人と、キス魔を装いつつ踏み込まれると脆いのが一人ですが、上手く乗りこなす……のかなぁ。
相当苦労しそうだ。

 

演出全般のはなしをすると、第8話のコンテ/演出を担当した岡本学さんが再登板し、独特の色彩感覚を活かした絵を作っていました。
明暗で心象を見せる演出ラインもバンバン入っていて、インタビューに失敗して帰ってきた智恵理とかな子のいる部屋は、この世の終わりかと思うくらい暗い。
切子屋さんの軒で休憩しているシーンも、問題点を洗いなおしているシーンと、飴をもらって幸子に説教貰って立ち直るシーンとの明暗が、時間経過というレベルではなく明らかに違う。
失敗に終わった第一回目の訪問と、夕映え時の二回目の訪問も、黒白ハッキリと成否がわかれています。
このぐらいクッキリと印象を操作するライティングこそ、このアニメの統一された強さだと僕は思っているので、今回の見せ方は面白かったです。

こっから先は完全に妄想なんですが、なんで今回江戸切子だったんでしょうか。
EDシーンで被せられた描写が分かりやすいですが、切削加工だけでなく焼き出しの段階で手作業をともなう江戸切子は、形や色会い、加工がそれぞれ異なります。
似ているようでいろんな形、いろんな色を持った江戸切子は、しかし統一されない味わいこそが特徴であり、魅力でもある。
工業生産品なら弾かれてしまう歪さを愛でる視線が、江戸切子の価値を作り上げている。
それは『出来る』ヤツ『出来ない』ヤツ、『負け役』に『天才』に『普通の子』と、色々揃って個性があるCI、CPと重ね合わされてんじゃないかなぁと、僕は思うわけです。

これは一切言語で表現されておらず、つまり映像から受ける個人的なイメージでしかないわけですけど、同時にそういう場所に無言のメッセージを込められればこそ、このアニメは叙情的なわけで。
過剰なメッセージを思わず読み取りたくなってしまうほど、このアニメには絵的な魅力があるという感じでしょうか。
最後の場面でとびきり綺麗な硝子たちを場面において、詩情でエピソードを引き締める構成は、ほんとうに素晴らしいと思いますね。


CIについて感じていた不満感、不安感を完全に回収しつつ、『出来る』ヤツ『出来ない』ヤチツ、それぞれの優しさと弱さと強さに思い切りよく踏み込んだ、名エピソードでした。
言葉にしないおもいやり、言葉にしてあげるおもいやり、両方がしっかり描かれていて、見ていて気持ちが良かったです。
そして杏ときらりの距離感描写が『ほんま……ほんまゆに子先生……ありがとう……』という感じで、最高に素晴らしかった。
楽屋でズリズリって寄って来る時の『オマエ、オマエまさかオマエ』っていう動揺は、中々生まれない類の感情だと思います。
はー……いい話だった。
次回も楽しみだなぁ、本当に。

 

アイドルマスターシンデレラガールズ:第19話『If you're lost, let's sing aloud!』感想

シンデレラたちの第二幕、19回目の今回はデコボコイチャイチャユニット*と、ロックンロールの王子様のお話。
二期の基本フォーマットを丁寧に踏襲しつつ、*結成秘話だった第11話をもう一度掘り返し、問題点を浮き彫りにした上で解決したエピソードとなりました。
第14話から埋めていた伏線を掘り返し、多田李衣菜とロックンロールの関わりに決着を着ける話であると同時に、木村夏樹を色濃く描写する回でもあったなぁという印象。


第19話のお話をする前に、二期の基本フォーマットについて少し。
1期のおさらいと二期の予告に時間を使った第14話を除くと、デレアニ二期は

1 交流
CP個人の物語は一度展開しているので、CP外のアイドルとの接触を物語の軸にする
2 対立
常務がかけてくる圧力とそれへの対抗策が提示される
3 深化
過去のユニット回で扱ったテーマの変奏を行い、別角度から光を当ててキャラクターの人格を掘り下げる

辺りを、共通のルールとして持っているように思います。
無論、エピソードごとに適応できるルール、そうでないルールがあるわけですが、今回のお話はこの3つの要素を、ほぼ完璧に満たしています。

それぞれ過去回を浚ってみると
・第15話
 1 交流:高垣楓とNG
 2 対立:アイドルの仕事を数字でしか見ない常務
 3 深化:数の大小ではなく、ファンとの絆がアイドルの仕事の価値であるという再発見(他の話が過去エピソードに別角度から光を当てているのに対し、このお話では価値の再確認というストレートな追認になっている)

・第16話
 1 交流:安部菜々前川みく
 2 対立:下世話なバラエティを潰し、キャラで売っているアイドルを排斥する常務
 3 深化:誇りを持ってキャラを貫くことの価値の確認(実は前川みくの猫キャラは個別で意味合いを持っているわけではなく、第11話で多田李衣菜の持つロックとの対比で描かれていたので、『キャラを被る』ことの意味を掘り下げる初のエピソードとなった)

・第17話
 1 交流:城ヶ崎美嘉と凸レーション
 2 対立:大人になることを強要してくる常務と母親、子供でいることを強要するバラエティスタッフ
 3 深化:第10話では束で扱われていたみりあと莉嘉、それぞれの自意識の発掘(この回では常務だけが意にそぐわない認識を強要してくるのではなく、みりあの母やスタッフも悪気なくイメージの強要を行い、常務=敵という構図が少し崩れてきている)

・第18話
 1 交流:CBYD(特に輿水幸子)とCandy Island&諸星きらり
 2 対立:常務からの圧力はほぼなく、かな子&智恵理が出来ない自分と、きらり&杏が出来る自分と対峙、成長する
 3 深化:第9話で描かれていた、杏が残り二人を引っ張るCIの構図を否定し、かな子と智恵理が自分の出来なさにしっかり向い合い、自分の足で立ち上がるまでを描く(切り離された杏はきらりと一緒に、周囲の認識を乗りこなせるが故の苦悩などを描かれていた。また、常務からの圧力がことさら弱く、外部的な圧力よりも内面的な対峙の方が重要な回)
という感じになります。


こうして並べてみると、毎回ゲストアイドルが出てきて、様々な関わり方でCPのアイドルに影響を与え、過去描写されてきたキャラクター/物語の価値を再確認したり、別の角度から再発見したりする、というおおまかな構図が共通であることが見て取れます。
CPが外部につながらなくてはならない状況は、常務によるプロジェクト一新が起因となっていますが、実はCPメンバーが直接にその圧力を受けることは少なく、ゲスト・アイドルが常務の圧力を受け、CPメンバーがそこから抜け出す手助けをする構図が多いように思えます。
看板に起用されそうになって拒絶した楓さんであるとか、、逆に看板を剥奪されそうになったウサミンであるとか、キレイ系を押し付けられた美嘉姉であるとか、現れ方は様々ですが、常務の起こした飛沫を浴びて、困ったことになるのは共通です。
明るくて素敵な旧プロジェクトルームを追い出され、地下に追いやられた時点でCPにかかる圧力としては十分、ということなのでしょうか。

危機に陥ったゲスト・アイドルとCPメンバーが触れ合い、窮地を乗り越える手助けをすると同時に、過去のエピソードでは気づかなかった自身の願いや魅力に気づいていくというのが、二期のお話に共通するフレームだと言えます。
そういう意味では、個別エピソードいの一番である第15話で、楓さんが華麗に常務からのプレッシャーを躱し、NGから道を教えられるのではなく、逆にアイドルとして大切なモノを教示するお話なのは、面白い例外だと言えるでしょう。
この路線を引き継いだのが第18話における輿水幸子で、彼女は憎まれ口を叩きつつもCI出来ない班を奮起させる、メンターとして機能しています。
第18話は常務によるプレッシャーがお話の軸にならない、非常に例外的なお話なので、楓さんとはまた立場が異なるわけですが。


二期のお話を回している圧力源である常務は、各話ごとに扱われ方がかなり変わっています。
これを一貫性のないキャラクター描写のブレと受け取るか、各話ごとの役割に合わせた描写をしていると受け取るかは意見の別れるところですが、毎回課題を与え乗り越えるべき障壁を演じる『単純な悪役』という描かれ方をしていないのは、こうして並べてみると歴然としています。
アイドルの本質を間違え続ける失敗者としても描かれて(第15話・第16話)いるし、アイドルの別側面に光を当てるプランナーとしても描かれて(第17話)おり、彼女の行動すべてが作中の価値観において悪である、という描かれ方はしていません。
常務が抱える隠し球である『宮本フレデリカ&塩見周子&速水奏』のトライユニットが世界を席巻している描写も、チラホラと見えていますし。

ただ、アイドル側のモチベーションや個性を無視し、自分が良かれと思った行動を押し付ける存在だというのは、これまで一貫している描かれ方です。
バラエティ豊かなキャラクター性を認め、個性を価値として称揚してきたこれまでの価値観とは正反対なこの押し付けが、二期のお話が回転する大きな動因になっているのは、間違いないでしょう。
これに反発したり飲み込まれたり、飲み込まれそうになった所を救済したりすることで、二期のお話は展開しています。
第18話は味方であるはずの『ヴァラエティ番組の嫌味』を杏ときらりにぶつける話で、これが常務が起こした波風に反発する形で強化されたことを考えると、第15話~第17話までの描き方とは正反対の立場から、常務の圧力を取り入れている、といえるかもしれません。
二期から取り入れられたゲスト・アイドルにしても常務にしても、基本的なフォーマットを共有しつつも、その使い方・描き方は(当然)各話ごとに異なり、アイドルの様々な部分に光を当てるべく使われていることがわかります。

 

このような基本フォーマットを踏まえた上で、今回のエピソードを見てみると
・第19話
 1 交流:木村夏樹と*(特に多田李衣菜
 2 対立:ロックの根本哲学を無視した、常務によるお仕着せのプロデュース
 3 深化:第11話では是とされた*の対立性を、ロックという共通要素を持つ夏樹との交流の中で問い直し、再是認する(にわかロッカーである李衣菜が本物である夏樹に憧れるだけではなく、懐きが常務の圧力に反逆する勇気を李衣菜から貰う相補性がある)
という感じになります。

ユニットエピソードの最後を飾った第11話は、猫キャラを重視する前川とロックを(なんにも判っていないにわかなりに)大事にしたい李衣菜が当然のように衝突しつつ、アイドルにかける強い思いを共同生活の中で確認し、そこを足場に差異に価値を認め、違っているからこそ分かり合えるユニットとして*が結成されるまでを描いていました。
二回目の*(というか多田李衣菜)エピソードである今回は、当時是認されてた差異について問い直し、それがほんとうに良いものなのか悩んでいくお話になっています。
違うことの意味を問うためには同じである存在を対比物として置かなければいけないわけで、李衣菜が心奪われるロックンロールの神様、木村夏樹が今回のゲスト・アイドルとなります。

物語序盤の李衣菜はアイドルに関してもロックに関しても適当で、自分が心から望むからではなく、『なんとなくカッコいい』から『他人が褒めてくれる』から『それ』を選択したクソにわかでした。
本田未央の脱退未遂であるとか、*としての活動であるとか、CP全員が一丸となった夏フェスであるとか、様々な経験を経て李衣菜も成長し、いつまでもにわかでいてはいけない、自分が選んだ『それ』に対し『本気にならなければいけない』と、強く感じるようになりました。
それは、常務によるCP解体の危機、近送りにされた経験を経て、更に強化されたのでしょう。
別の言い方をすれば、第2話で既に本気で猫をかぶっていた前川と、李衣菜はようやく同じラインに立ったとも言えるわけです。

第14話で鮮烈に出会った木村夏樹は、『本気にならなければいけない』けどどうすればいいのかわからない李衣菜にとって、ロックンロールそのものです。
木村夏樹のように振る舞えば、自分は選びとった『それ』に本気で向きあい、危機に負けない芯を手に入れることができるという、憧れの存在。
今回の夏樹は、第15話の楓さんや第18話の幸子のような、自分を導いてくれるメンターとしての側面を、強くもっています。


そんな李衣菜の憧れを強く反映するように、今回の夏樹はとにかく格好良い。
後輩をよく導き、知識や技術を惜しげもなく与え、新しい世界を次々見せてくれる、まさにロックスターです。
音楽を自己表現として選んだものらしく、二回もライブシーンがあるのが印象的です。

しかし今回夏樹は、ただ格好良くて完璧な、憧れのスーパースターとして物語に存在しているわけではありません。
まるで恋する少女のように夏樹を見つめる李衣菜にとっては、一切瑕疵のない完璧な存在に見える夏樹も、彼女の目に見えない部分では悩んだり怯えたりしています。
常務が押し付けてくるアイドルバンド企画はとんでもないチャンスですが、同時に一切の自由を奪われ、夏樹にとって一番の価値である『ロックンロール』を無下にされる檻でもある。
檻に入ってうまい飯を食うか、風が冷たいのを覚悟で檻をぶち壊すか、このジレンマに今回、夏樹はずっと悩んでいます。
生活空間を共にしない李衣菜にはけして見えない人間的な傷が、スーパースターである夏樹にも、ちゃんとある。

このように、一見完璧で隙がない存在が持っている弱さを描写し、簡単に天使や神様を造らないキャラクター描写は、このアニメでは結構徹底していると思います。
CP全体を保護するきらりがダメージを追う描写や、頼れる先輩である美嘉の苛立つ姿は、丁寧に描かれてきました。
逆に一期では『負け役』だった智恵理やかな子が立ち上がる姿、本田未央の挫折と奮起、アイドルの底辺街道を歩いてきたウサミンの晴れ舞台など、傷を追ってみすぼらしい人間が輝く瞬間も、ちゃんと描いてきました。
今回描かれた『李衣菜の瞳に映る完璧な木村夏樹』と『木村夏樹の目から見た弱くて迷う木村夏樹』の両面性は、このアニメが大事にしているキャラクターの多角性そのものだと言えます。


多角性が重要視されるのはキャラクター描写だけではなく、李衣菜が抱え込む『憧れ』に関してもそうです。
ロックンロールとアイドルを真剣に考え、『それ』に夢中になればなるほど、ネコミミとのキメラである*は不純なユニットとして、不協和音を強めていきます。
李衣菜がロックに詳しくなり、抑えられなかったコードが弾けるようになるのは夏樹への『憧れ』故なのですが、前川の提案を上の空で聞き流し、ステージ上で接触事故を引き起こしてしまうのもまた、『憧れ』が持っている魔力故なのです。
そして、*の特徴である異質性は、ロック≒木村夏樹に本気になった李衣菜を受け止めきれず、浮気されたら自分が悪いと即座に思い込む系女子・前川みくから本気の解散を提案されることになる。
(楽屋のシーンでネコミミとにゃ語尾を外しているのは、前川の描写に共通する本気度のバロメーターですね)

ロックの純粋性か、*の異質性か。
木村夏樹か、前川みくか。
二者択一を突きつけられた李衣菜はここでようやく、自分がロックに熱中するあまり事態が悪化していたことや、一期(特に第11話)で積み上げてきた絆が切れかかっていることに気づき、*を選びとります。
夏樹が目覚めさせてくれた『それ』への本気を尊重しつつも、相方として選びとり一緒に歩いてきた前川みくと一緒にロックすることを、李衣菜は選択したわけです。

この決断を人知れず聞いていた夏樹は常務の用意した暖かい檻をぶち壊す決意を固め、一夜限りの『にわかロック』ライブを敢行する。
メンターだったはずの夏樹にとっても、自分を純粋に信じ憧れてくれる李衣菜の存在は大きく、導く立場の存在は導かれてもいたわけです。
李衣菜が夏樹に惹かれていたように、夏樹もまた李衣菜とのユニット結成に魅力を感じていたわけで、『にわかロック』ライブは李衣菜だけではなく、夏樹にとっても未練を振り切り選んだ道を真っ直ぐ進んでいくためのケジメです。
こういうシーンを自分から作れるところが、まさにロックスターの面目躍如と言えます。

夏樹と李衣菜の相補的な関係性、『憧れる誰かの瞳に映る自分こそ、誇りに思える本当の自分』という描き方は、今回だけのものではありません。
第16話における前川とウサミン、第17話における莉嘉と美嘉、第18話におけるきらりと杏のように、二期になってそこかしこで強調されている、重要な関係性だと思います。
より善いセルフイメージが、自分が決定できない他者の意思によってのみ作られるという構造はそのまま、アイドルとファンに通じるものがあり、CP内部の完成に重きをおいた一期では重視されなかったこの視線が、常務という圧力を取り込みアイドルとしての貫禄をました二期のCPたちに注がれているのは、結構意図的なんじゃないかと、僕は思います。
作品のテーマとしても、魅力的かつ強靭ですしね、このテーゼ。


李衣菜の後押しを得て常務の提案を蹴った夏樹は、その足でCP連合軍に加入し、『Rock&Cat+ウサミン』が結成されます。
『にわかロック』ライブで縁を切って走りだすのではなく、約束された成功から外れた夏樹がハグレモノ軍団に合流したのは、現在展開されているメインストーリーが、プロデューサーを代表とした国盗り物語であることと、無関係ではないでしょう。
『頼れる仲間を集めて、悪辣で強大な常務を倒せ!』というクエストは、個別のキャラクターとゲスト・アイドルとの物語を緩やかに繋ぐ、大きな縦糸です。(常務の描写がソフトに過ぎて、悪辣にも強大にも感じられないというのは、また別のお話です)

(『ウサミンどっから来たん? 前川推薦枠?』とか『夏樹がロックすることで放り出された、松永さんと星くんかわいそうじゃね?』とかの疑問は、外部メディアであるWeb次回予告とか、MAGIC HOURとか、NO MAKEとかで一応補足されてたりします。
なにぶん登場人物と展開させるべき物語の総量が多く、そこから溢れてフォローしきれない要素が大量にある中で、受け皿としてアニメの外側を最大限利用していると取るか、はたまた24分のアニメの中で勝負するべきと取るか。
難しいところですが、個人的には外付けメディアをフル活用してでも、こぼれ落ちる物語を拾い上げてくれる姿勢は凄くいいと思うし、外側を積極的に活用しようと思わせる魅力も、このアニメにはあると思っています)

ロックスター・木村夏樹という大駒を手に入れたプロデューサーですが、一期の頃に比べると、直接的にアイドルを支えるシーンが減ってきたように思います。
これはゲスト・アイドルを入れ込む二期基本フォーマットの関係上、アイドル-アイドルの関係性が重視され、一期で重視されていたアイドル-プロデューサーを中心に据える余裕が少ないことが影響しているのでしょう。
今回も様子のおかしい李衣菜との会話の場を作るか提案し、前川に『信じて見守ってほしい』と言われていました。
第7話で本田さんが脱退しCPが壊れかけた時、プロデューサーに談判しに来たのが前川であること、それにプロデューサーが答えた言葉が『信じて待っていてほしい』だったことを考えると、なかなか感慨深いものがあります。
導いていたはずの相手に教えられ、気づけば支えられる立場になっているのは、なにも夏樹だけではない、ということかも知れません。
もちろんプロデューサーがCPにとって、このお話にとって大事な存在であることは間違いがなく、コンパクトながら確かな気遣いと変化を、画面の中で起こしているのも事実なのですが。


『味方』の描写はこんな感じですが、『敵』である常務は今回、かなり分かりやすい圧力源として描写されていました。
アイドル個人の顔を見ず、自分の考える最善を押し付けて離反されてしまう流れは、第14話の楓さんとよく似ています。
接触したアイドルほぼ全てに離反されているので、逆に大駒として確保し、推し、それなり以上の成果を出している『宮本フレデリカ&塩見周子&速水奏』をどう慰留しているのか、非常に気になります。
常務側のロジックと実力を見せる意味でも『宮本フレデリカ&塩見周子&速水奏』の描写って大事だと思いますが、何しろ彼女たちのユニット名も明瞭ではない状況なので、あんまり掘り下げることはないんでしょうかね。

実現しかけた『実力派アイドルバンド』(三次元で言えばPRINCESS PRINCESSSCANDALの路線なんでしょうか)は夏樹の離反によって空中分解し、常務は次なる手として『渋谷凛&神谷奈緒北条加蓮』による新ユニットに目をつけていました。
これも二期の出だしである第14話から埋められていた伏線で、夏樹と李衣菜の出会いを今回使ったように、次回以降活性化する感じです。
もしトライアドプリムスが凛ちゃんに『何か』を与えるのなら、それは貴重な出会いを作った常務の行動がポジティブな意味も持つという証明になり、彼女が『ただの悪役』ではない描写を強化することになると思うのですが……さてはて。
正直な話、常務の多面的な描写が演出のブレなのか、狙った多面性なのか、嫌われる悪役を押し付けない臆病さの現れなのか、イマイチ確信が持てなくなってきているので、実際の描写を待ちたいところです。


適当なにわかだった多田李衣菜の変化、*が持っている価値の再確認、木村夏樹という人物の多角的な描写。
まるで恋のようにキラキラと輝く二人の視線を、善い所に落ち着けたエピソードだったと思います。
これで二期でユニット単位でのエピソードがないのがLOVE LAIKAとRosenburg Engelになりましたが、あと二話基本フォーマットを踏まえた変奏に使うのか、はたまたここらで大きな波風を起こすのか。
個人的にはやや影の薄いアナスタシアにスポットを当てて欲しいところですが、どうなるんでしょうかね。

 

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd Season:第20話『Which way should I go to get to the castle?』感想

● 章立て

0)はじめに
1)全体的なお話
2)アナスタシアとLOVE LAIKA
3)渋谷凛
4)New Generation
5)美城常務とProject Krone
6)まとめ


0)はじめに
二期も折り返しを迎えるシンデレラガールズ、今回は秋フェスに向けて激震走る346が舞台となりました。
これまでNG外のゲストアイドルに影響を及ぼしていた常務が、直接的に主人公に食指を伸ばしてきたり、複数のメインアクターが同時に話を進行させたり、色々と潮目が変わるお話でした。
これまで20話蓄積してきた演出をリフレインし、『点』の描写を結んで『線』の演出を、『線』の演出を組み合わせて『面』の物語を想起させるシーンも非常に多く、物語的財産をリッチに使った回だと言えます。
今回は各アクターごとのストーリーを追いかけつつ、お話の全体像を組み上げてみようかと思います。


1)全体的なお話
今回のお話は、二期共通のフォーマットを形式面では大きく離れつつ、物語的目的としては同じ傾向を持っている、かなり特殊なお話だと思います。
前回(http://lastbreath.hatenablog.com/entry/2015/08/26/231012)書いた二期の基本フォーマットをもう一度書いておくと、
1 交流
CP個人の物語は一度展開しているので、CP外のアイドルとの接触を物語の軸にする
2 対立
常務がかけてくる圧力とそれへの対抗策が提示される
3 深化
過去のユニット回で扱ったテーマの変奏を行い、別角度から光を当ててキャラクターの人格を掘り下げる
というものになります。

このフォーマットに従って第20話を考えると、
1 交流:渋谷凛と神谷奈緒北条加蓮、アナスタシアと鷺沢文香・大槻唯
2 対立:秋フェスにCPを強引に引っ張り込み、メンバーの引き抜きも行う常務
3 深化:新田美波に守られてきたLOVE LAIKAを離れて新しい可能性に挑むアナスタシア、トライアドプリムスで初めて自分がやりたいことを見つけた渋谷凛
という感じになります。

第19話がフォーマットを形式・内容共にきっちり守り、*の繋がりを維持しつつ発展させていくお話だったのに対し、第20話は様々な意味でフォーマットを逸脱しつつ、常務からの圧力によって物語が回転し、アイドルの世界が拡大していく二期の内容を、丁寧に膨らませたお話だと言えるでしょう。

今回起きた事件は、これまでの6話の傾向・共通点からかなり変化しており、非常に新しい印象を受けます。
例えば常務の圧力がゲスト・アイドルではなく、CPメンバーに直接ぶつかってきたこと。
一期で到達したユニットやキャラクター性に(別角度から切り込んで批判も加えつつ)帰還するのではなく、手に入れたものを一旦解体することに価値を認め、大きな変化を起こしたこと。
一話で問題点の発掘から解消まで終わらせるのではなく、本田未央のソロ宣言という爆弾を起爆し次週に引いたこと。
二期が始まってから共通していた形式をかなり逸脱し、変化を強調する流れだったと言えます。

同時に、変化の根底にあるのはこれまでのお話と同じく美城常務からの圧力であり、CP外部のアイドルとの交流です。
一期で獲得した暖かい場所を批評的に再検討し、新しい価値を見つけていくという姿勢も、第14話からずっと続くスタンスそのものです。
出来事やキャラクターたちの動きという『外側』は大きく変化していますが、それを導くテーマや価値という『内側』には変化がない、という事ができるかもしれません。


お話自体は、アーニャと凛ちゃんが常務の起こした変化の只中に放り込まれ、悩みつつも新しい出会いに心を動かされ、新たなる挑戦に飛び込んでいくお話です。
いわば、秋フェス準備LOVE LAIKA編と、New Generation編が並列して進行するお話であり、第18話以外は軸を一本に絞って展開してきた二期のなかでも、かなり例外的なお話だと言えます。(第18話はかな子&智恵理軸と杏&きらり軸の二本軸構成)
比較的円満に先に進んだLLと、大揉めに揉めた結果未央がソロデビューを決断したNGという対比的な見せ方は、初ライブの成否明暗が綺麗に別れた第6話を思い出す構成です。

あの時と同じように、本田が泣きダッシュして次回へのブリッジがかかっている……と言いたい所なんですが、未熟なアイドル未満がなんとかアイドル見習いになる一期と、もうアイドル見習いとは言ってられないピンチが襲いかかってくる二期では、当然様々なことが異なります。
同じシチュエーションを繰り返すことは共通点を強調すると同時に、時間的変化や成長といった差異も強調する。
前は駆け下りていた階段を駆け上がり、プロデューサーとも即座に話し合った本田さんだけではなく、今回は過去エピソードからの引用、そしてそれが生み出す差異と合同の反復が、様々な場所に埋め込まれています。
これまで貯めこんできた物語的貯蓄を有効活用する、勝負エピソードらしいリフレインが今回の演出には響きわたっていました。

差異と合同の反復という意味では、常務の描かれ方もグッと踏み込んだものに変わりました。
露骨にCPのネガ(何しろ衣装が黒で統一されてるわかり易さ)であるプロジェクトクローネがお目見えし、彼女が持っている力と理念に、具体的な顔と名前がついた。
それだけではなく、群像主人公であるCPに直接影響力を及ぼしたことで、これまで強調されてきた敵対関係だけではなく、常務が持っている正当性に思いを馳せなければいけない味方の立場に、物語的な足場が変化しました。
こうすることで常務は、その行動や理念に容易には共感出来ないが、しかしただ否定することも出来ない、多角的で面白い存在に変わりました。
『悪すぎず、強すぎず』の中途半端とも言えるこれまでの描き方が、複雑さに意味合いを変えてくる回としても、今回は重要ではないでしょうか。
様々な変化と類似が埋め込まれた今回のお話ですが、メインアクターのお話を追いかけながら、物語に内在する要素を考えていきたいと思います。

 

1)アナスタシアとLOVE LAIKA
では、最初にアナスタシアの物語を見ていきます。
今回アナスタシアはKP参加を打診され、戸惑う中で鷺沢文香・大槻唯と出会い、プロデューサーの助言を受けつつも一人で考え、最終的にKP参加を決めます。
年長者である新田美波の庇護下にあって、そこまで自分を出さなかったアーニャが、自分の意志で『新しい経験』経験に飛び込んでいくこと。
アイドルを始めるという『新しい経験』を選びとった新田さんと、同じ場所に立つためにあえて手を離す選択をすることが、アーニャが今回体験する物語です。


お話の最初に、キレイで目元が涼しい女の子が三度の飯より好きな常務に呼び出されたアーニャは、凛ちゃんと一緒に、KPへの自由参加を迫られます。
『自由参加』というのがミソで、参加すれば常務が正しいと思うアイドルの線路に乗っかってもらうが、参加すること自体はアイドルが決めなければいけません。
第15話の楓さん、第19話の夏樹を考えると、『目をつけたアイドルを扉の前に立たせて、開けるか閉じるは自由にさせる。開けたら囲い込み、閉じて去るなら追わない』というのが、常務の基本方針なのでしょう。
そして新田さんはKPには呼ばれていないので、第6話の初ライブのように、震えた時に手を握ってくれる相手はいません。
参加するのであれば、アーニャは一人で新しい海に漕ぎ出さねばならないわけです。

プロデューサーは過剰な正しさを振り回し、自分の思うようにアイドルを導いた結果崩壊させてしまった過去をもっています。
常務が彼の過去を知っているかはさておき、『自由参加』を盾に横車を押していく交渉戦術は、プロデューサーにとっては痛い所を突かれる形です。
結果、KP参加の拒絶しきれず、アーニャは混乱の渦中に放り込まれることになる。
常務の言うとおり、プロジェクト参加は二人にとって悪いことではないのですが、この段階だとCPにとって常務の申し出は敵の宣戦布告なので、全体的なトーンが暗い。
常務の部屋がブラインドを落としきって光を入れていない辺り、デレアニ(というか高尾統子)演出だなぁと思います。


本丸である地下プロジェクト室に帰ってきても、アーニャは迷ったままです。
ユニットの戦友である新田さんに切り出すこともなく、アドレス帳を呼び出しては消し、信号の変化にも気づかないくらい悩み続けている。
それは多分、常務の提案がアーニャにとって魅力的だからです。
好戦的な雰囲気でまとまったCPから浮いた感じになっているのも、『敵』である常務が見せてくれた可能性を試してみたいという気持ちが、この段階で生まれてきているから。
しかしそれは未知の恐怖でもあるし、『敵』への寝返りでもあるし、新田さんとの一時的離別でもある。
アーニャの心中は複雑で、穏やかではありません。

そういう視線が下に向かわず、看板を見上げる方向に行くのは、20話分の蓄積を感じさせて面白いところです。
このアニメはアイドルの広告で埋め尽くされた世界で、一話冒頭からして『今は顔も名前もない少女たちが、未来の自分たちであるアイドルに埋め尽くされた世界に立ち尽くす』という場面でした。
看板には吹き出しもナレーションもないわけで、内心どんな葛藤を持っていようとも、世間に露出するアイドルはいつも笑顔で、魅力的であり続ける。
強調される看板はそういう、アイドルの外面と内面の乖離なんかも含んでいるのかなと感じています。

今回アーニャが見上げた看板は、常務が何度も肘鉄食らいつつ集めたPKのものです。
4つ開いた『COMING SOON』には楓さんと夏樹・星・松永が入る予定だったのでしょうが、それが流れた結果、アナスタシアの肖像がそこに飾られる可能性が生まれた。
見上げる視線はアーニャが持っている未知への期待とシンクロしているわけで、そこには必ずしも、ネガティブなイメージだけがあるわけではない。
そこら辺は、第17話で城ヶ崎姉妹が見つめたり、見上げたりしていた美嘉の広告と、似通った役割を担っていると思います。


不安と期待で足元が疎かになっているアーニャにぶつかってきたのは、PKメンバーである鷺沢文香と、大槻唯です。
彼女たちと語らうことでアーニャの不安と期待は大きく変化するのですが、積極的かつフレンドリーに話のきっかけを作る唯と、理知的で問題を言語化するのが得意な文香のコンビ打ちでシーンを作ったのは、なかなか面白い取り合わせです。
彼女たちのフレンドリーさは、会話の舞台になるソファを見てもわかります。
何かと間仕切りが挟まることが多いこの作品の椅子ですが、今回は壁になるものが何もない、フラットなソファが選ばれています。

そういう場所でアーニャが手に入れているのは、文香と唯への共感だけではなく、KP全体への共感のような気がします。
『敵』だと思っていた常務のプロジェクト、自分がこれから飛び込むかもしれない場所にはちゃんと顔のあるアイドルがいて、情熱がある。
新田さんがそうであったように(そして今アナスタシアがそうであるように)アイドルに興味が無いまま飛び込み、新しい何かに胸を躍らせる文香がいる。
仲間の意外な側面を見知って、どんどん仲良くなっていく唯がいる。
PKとCPは沢山似ている部分があって、自分たちが20話積み重ねてきたような物語を、そこに所属するアイドルたちはちゃんと持っている。
アナスタシアとPKのアイドルたちは、結構な部分おんなじである。
ソファで語らうことでアーニャは多分、そういう感慨を手に入れているし、それは少なからず視聴者も同じなのではないでしょうか。

唯がキャンディを手渡しているのも、PKとCPの共通点として面白いところです。
第8話で蘭子からプロデューサーに手渡されたマーブルチョコだとか、第11話で李衣菜と前川の間を行き来したキャンディと煮魚だとか、第18話できらり→プロデューサー→かな子&智恵理とバトンされたあめ玉だとか、この作品における食事は強い共感と安心のフェティッシュです。
唯が可食性のものを差し出し、アナスタシアがそれを受け取っているということは、アーニャの中でPKとCPがかなり接近したものとして受け止められ、共感可能な存在として認識されていることを、くっきりと示しているように思える。
アナスタシアの気持ち(と視聴者の気持ち)、お話全体の潮目が大きく移り変わるのに相応しい、説得力のあるシーンだと思います。

この流れを引き継いで、ホームであるCPでも挑戦の持つ意味が話題になります。
前川がどっしりと司会進行役をやってたり、照明が暖色系だったりするのが面白いシーンですね。
果敢にインタビュー仕事に食らいついた結果、CIは小日向のライブにゲスト出演(この時の衣装、各メンバーのフェティッシュが的確に配置された良い衣装だと思います)し、蘭子は第8話で毛嫌いしていたホラー路線の仕事を小梅と成功させている。
「挑戦するのは楽しいから」と笑顔で言い切る蘭子の言葉が、文香のそれとほぼ同じであるのは、CPとPKを重ねあわせる演出プランの延長でしょう。
自室に帰ってから再び星を『見上げ』、新田さんのアドレスを呼び出しては消すアーニャは、しかしまだまだ迷いの中にいます。


そういう迷いを一人で抱え込んでいるとろくな事にならないのは、第5-7話の前川&本田の暴走で学んだCPメンバー。
アーニャも素直にプロデューサーに話を持ちかけ、自分の気持を素直に告白します。
挑戦への憧れと不安、親愛なる新田美波がかつて抱いた気持ちを自分も持っていると、真っ直ぐ目を見て言葉にするわけです。
画面がカッチリ真ん中で分割され、光源が全て右側(プロデューサー側)に寄り、迷うシーンではモジモジするアーニャの足が映るという、デレマス演出を煮詰めて作ったような絵が面白ぇ。

アーニャの相談は、TPと凛ちゃんをどうするべきか悩むプロデューサーにとっても大きな意味を持っていて、このシーンはアーニャの言葉を受け取ることで自分がどうするべきなのか確認し、決断したシーンでもあると思います。
未知の可能性に飛び込み、一期のクライマックスである夏フェスを超える笑顔を手に入れること。
OPである"Shine!!"の歌詞を借りるなら、『新たなヒカリに会いに行』くこと。
一期で様々な辛苦を乗り越え一つの物語を完成させたアイドルたちが、二期で目指すのはそれであり、その背中を全力でサポートするのが、プロデューサーの責務であり、やりたいことでもある。

そういう発見が「笑顔になれる可能性を感じたなら、前に進んでほしい」という言葉になったのだと思います。
これが美城常務と対立した時、彼女が言っていた口説き文句とほぼ同じであるのは、まぁ偶然ではないと思います。
PKとCPが共感を持って重ね合わさる存在であるように、常務とプロデューサーも、不器用さと誠実さを共有する可能性の信奉者、アイドルを舞踏会に上げる魔法使いであると、ここの一致は言っていると、僕は思いたい。
その方が面白いし、僕常務の事好きなので、共通点を活かしてお互い心を開いていって欲しいのよね。(唐突なリバサ私的欲求ブッパ)


プロデューサーと決断を共有したアーニャは、ようやく新田さんに気持ちを伝えるべく、第8話で蘭子とプロデューサーが話し合った噴水に座ります。
やっぱここでも、二人を遮る間仕切りはない。
地下プロジェクト室での会話を立ち聞きしていた描写が入っているので、新田さんがアーニャの決断を共有していることは、視聴者には了解済みですしね。

「一人で決断することがなかった」というアーニャの言葉は作中人物としての実感であると同時に、個別エピソードを与えられず、『LOVE LAIKAの銀色の方』として作中に存在していたアーニャを知る視聴者の感想でもあります。
コンビをあえてバラバラにすることで、一期では描ききれなかった側面に光を当て掘り下げていくというテーマに関しては、第17話のみりあ&莉嘉、第18話のCI、第19話の*と共通する、二期らしいアプローチです。
新田さんは妹分の成長が嬉しい半面、CP最年長にして全体リーダーとして因果を飲み込まなきゃいけないという、複雑な表情してます。
第18話と同じく、どう考えても恋人同士の距離感だってのは言いっこなしです。
妹分、仲間仲間。(リバサ自己欺瞞ブッパ)

このシーンの暗示力は凄いことになっていて、満面のコスモスにてんとう虫、見上げる星と少女漫画力の高いフェティッシュが山盛りです。
色んな読み方が出来ますが、天道虫が空に向かって上がり続ける虫であることは、この後NGが同じ場所を共有した時は横に飛ぶトンボであることを考えても、LOVE LAIKAのポジティブな決断を象徴していると言い切っていいでしょう。
Ladybugだと幸運と愛の象徴か……飛んでった先がアーニャの新天地、PKだと良いなぁと僕は思います。
コスモスに関してはこれまでも何度かあった花の謎かけだと思いますが、花言葉が『調和』なので、より良い未来の暗示だと良いなぁ。
二人は同じ星を『見上げ』、期待を込めて明日に踏み出します。


以上、アナスタシアの物語を追いかけてみました。
第6話と同じように、NGが問題を拗らせる中でLLは現状を冷静に受け止め、より良い方向に進んでいくという展開でした。
同時に新田美波のリーダーシップが花開いた第12話の対になる、『LOVE LAIKAの銀色の方』ではないアナスタシア個人に切り込んだお話だったと思います。
描写を積み上げていった後気持ちを具体的な言葉にする演出のラインも第12話と共通で、至上とわかり易さが同居する、いい手筋だなと再確認しました。
ずっと何かを『見上げ』、新しい挑戦に希望を持って飛び込んでいくアナスタシアを、思わず応援したくなる話でしたね。

 

2)渋谷凛
第20話内部で綺麗にまとめていたLLに対し、NGは波乱含み。
これまでの仲間と新しい可能性の間で揺れる、渋谷凛の物語を追いかけてみましょう。

凛ちゃんもアーニャと同じく、常務に呼び出され、トライアドプリムス結成を打診されるところからお話が始まります。
第13話終盤で世界に登場し、二期では細かく描写を挟んできた、神谷奈緒北条加蓮とのユニットです。
後輩としてNGを尊敬する彼女たちは、第3話のNGと明確に重ね合わされていて、凛ちゃんが憎からず思っている姿は、あの時の美嘉と被る。
入りたてのド新人を美嘉が抜擢したのは心躍る何かをNGに見たからで、TPの名前を出されて言葉に詰まる凛ちゃんもまた、同じ視線を二人に向けていることが分かります。

アーニャがPKにソロで飛び込むこと自体に期待しているのに対し、凛ちゃんはあくまで加蓮と奈緒という人物に引き込まれ、魅力を感じているように思える。
卯月の笑顔を決め手にアイドルに飛び込んだ第1話、夏フェスという天王山を経験してなおこころから楽しいと思いきれなかった第13話と重ねて考えると、渋谷凛は事象ではなく人間に引き寄せられる人格を持っているのでしょう。
卯月があくまでアイドルの外縁部に興味を持ち、CDを出して(もしくはTVに出て、コンサートをして)何をするのかという『アイドルの内部』に踏み込めないこととは、対照的なキャラクターだと言えます。

地下プロジェクト室での作戦会議では、戸惑いを表に出すアーニャに対し、未央に話を合わせる凛の姿が目立ちます。
凛ちゃんの迷いが本格化するのはTPと顔を突き合わせて話し、『Trancing Pulse』という具体的な可能性と出会ってから。
この段階ではアーニャほど、未知の可能性に期待と不安を抱いているわけではないのでしょう。
ここでも卯月が『頑張ります』言ってて、後の空虚な爆心地に繋がる蓄積をやってますね。


あくまで人対人の繋がりを求める凛ちゃんを揺さぶるには、直接顔を合わせるのが最も有効。
下校途中の凛ちゃんを捕まえ、ファーストフード店での話し合いに持ち込んだのは加蓮です。
奈緒は迷いがあるのか視線を下に向け気味ですが、加蓮は真っ直ぐ正面を向いて、グイグイ自分のやりたいことを伝えてくる。
このお話は心理的状況・社会的状況と身体表現が直結するルールを持っているので、迷いなく前を向いている加蓮は運命を開拓することに積極的で、そういう人間にこそアイドルの女神様が振り向くというのも、この作品のルールですね。
しかし奈緒、ハッピーセット注文は如何様あざとすぎるのではないか。
素晴らしい。

『今の自分にはNGがある。TP結成は出来ない』と拒絶する凛ちゃんに、加蓮は怯まず自分の気持を伝え、5時の再会を取り付けます。
これまでのエピソードの中で見えたTPの可能性は凛ちゃんにとって魅力的で、立場や状況を気にせず自分の手に入れたいものを素直に伝える加蓮の言葉に、凛ちゃんは思わず下を向いてしまう。
後輩のはずの加蓮が状況の主導権を握り続けるのは、彼女が持っている『病弱』という属性、リミットを意識せざるをえないからこそ迷いなく走りぬけ、ほしい物を手に入れる貪欲さ故なのかなぁ。
どっちにしても、このアニメで下を向かない奴は強い。

別れた後の階段のシーンは、奈緒と加蓮の間にある気持ちの温度差と、それが埋まっていく様子を視覚的に表した、デレアニらしいシーンだと言えます。
加蓮が階段を先に上がって、自分の中の真実に素直になる大切さを説き、奈緒がそれに追いついて一番高い場所に並ぶという演出は、二人の関係の変化を高低差で表していて、とても分かりやすいと思います。
あまりにグイグイ行く加蓮について行けなかった奈緒ですが、ここで加蓮の気持ちを知り、自分も同じ感情を抱いていると共感して追いつくことで、二人は対等な状態を手に入れ、水平な視線を共有することになります。
今後凄い勢いで悩んでいく凛ちゃんとは対照的に、奈緒と加蓮はお互いの気持が通じ合う理想的な状況にこの段階で到達しているわけです。
気負いがない素直なシーンなので、ローファーの踵は低いですね。


迷いのない二人に惹きつけられ、凛ちゃんはレッスン室にやって来ます。
二人の『Trancing Pulse』を聞いた凛ちゃんは第1話クライマックス、卯月の笑顔を見た時と同じ表情をする。
彼女をこの物語に引き込んだ運命の出会いと、ここでの出会いは同じ重さを持っているわけです。
曲名と同じ衝動を感じた凛ちゃんは思わず曲を口ずさみ、未来のトライアドプリムスは素晴らしいハーモニーを奏で始める。
重なった音楽は心からの笑顔を生み出し、顔は自ずから前を向き、レッスン室には初秋の夕暮れが満ちる。
全力で『TP結成は良いぞ!』というメッセージを伝えてくる、ポジティブなシーンです。

凛ちゃんが歌に入り込むと特別なことが起こることのは、第3話のレッスン室での描写。
内なる衝動が思わず歌になってしまうのは、第7話でアイドルと決別した後の自室での描写にそれぞれ繋がっている印象です。
このレッスン室での描写はこれまで積み上げてきた渋谷凛をフルに活用している感じがあって、『点』が『線』に、『線』が『面』になるような、立体感のある演出が活きていると感じました。

ここで凛ちゃんの自然な『笑顔』を見たことでプロデューサーは思い悩み、モヤモヤを抱えたままアーニャのストーリーに入っていきます。
彼にとって、アイドルの自然で最高の『笑顔』は最高の勝ちであり、しかし常務に可愛い凛ちゃんとアーニャを預けるのは不安で、自分が見つけて輝かせてきたというエゴイズムがないわけでもなく。
様々な矛盾がプロデューサーを惑わせている状態は、アーニャの相談を受けていく中で止揚され、彼は果たすべき使命と気持ちに気づいていく。
今回のお話は複数のキャラクターがお互いの物語に入り込み、影響を及ぼし合って変化していくというデレアニの基本構造を、より強調した造りになっていると思います。

 

3)New Generation
『とにかく実際にやってみて、そこで感じた印象を最優先に進んでいく』というレッスン室での描写は、渋谷凛がどうやってここまで来たのかを、整理する意味合いも持っています。
アイドルのことなど何も知らないけど、心を動かされた人物に片手を引いてもらって、とにかく飛び込んでみる。
そこで感じた心の動きや痛み、楽しさや辛さを正直に受け取って、前に前に進んでいくことで、アイドルとしての立場が後からついてくる。
心という自分に一番近い場所からアイドルを始めている凛ちゃんは、歌い、踊るという身体表現を通して初めて、自分が何をするのが良いのか直感できる性質を持っています。
そうである以上、周囲に配慮した『今の自分にはNGがある。TP結成は出来ない』という過去の気持ちは、実際に体験してしまったTPの楽しさと可能性には勝てないわけです。
自分の気持を感覚するのに身体表現を必要とするのは、つまり凛ちゃんがアイドル(アーティスト?)であるべき、大きな理由でしょう。

凛ちゃんの性質を浮かび上がらせることで、NGの他のメンバーの性質も見えてきます。
未央は人間と人間が組み合わさって出来上がる社会の、ちょうど繋ぎ目を重視している子です。
誰かがリーダー役をやらなければ状況が回らないから、そして自分が認められ褒められたいから、「リーダーだもんね」という言葉で自分を奮い立たせ、社会的要求と個人的欲求を巧くすり合わせようとする、コミュニケーション強者。
無論完璧には程遠くて、気持ちと立場のバランスが崩れると暴走してしまう癖があるのですが、それでも彼女の目線が個人と社会のバランス取りに置かれているのは事実でしょう。

対して卯月は、別け隔てのない優しさと、アイドルへの中身の無い憧れを持っています。
凛ちゃんのように自分の中から湧き出る衝動と、それを素直に受け止め優先する価値観があるわけでもない。
未央のように鋭い人間関係的視力を持っていて、困難な状況で何をするべきか即座に気づく感性があるわけでもない。
かつては無条件の優しさで凛ちゃんをアイドルの世界に引き込み、迷えるプロデューサーを立ち上がらせていた卯月ですが、この局面で強調されるのは、彼女の空疎さです。

これは今回初めて強調されたわけではなく、例えばとにかく頑張るしかなかった第1話の塩漬け状態であるとか、プロデューサーを立ち直らせつつもその実アイドルの外側しか語っていない第7話であるとか、あれだけの夏フェスを成し遂げておきながらアイドルの実感が無い第13話であるとか、一期の要所要所に埋め込まれてきた、大事な要素だと思います。
それを踏まえた上で、心を貫いた衝動に素直に、アイドルの内側に飛び込んで喜び手に入れてくる凛ちゃんの本性が今回描写されたことで、卯月の空疎さはこれまでにないほど際立った。
それは光が強く当たれば、影も濃く、長く伸びる現象に似ています。
第7話ではNGを飛び出した凛ちゃんが影、崩壊の危機を救った島村さんが光だったわけで、時間と状況の変化で立場が入れ替わることも、このアニメの基本ルールに則った流れでしょうか。

卯月の中身の無さはプロデューサーにとってもアキレス腱で、今回常務に煽られていた『自主性を尊重する』やり方は、アーニャのようにやりたい何かを突き詰めて考えたり、凛ちゃんのように迸る衝動が内から沸き上がってくるアイドルにはとても有効です。
しかし、笑顔という武器とアイドルという夢をしっかい持っているように見えても、突き詰めて考えていくとそこに自分の欲求が存在しない卯月の場合、引き出すべき夢が具体性を持っておらず、空転する恐れがある。
『アイドルのやりたいことを、やりたいように』というCPのスタイルは、『新しいことを思いつかない』卯月を掬い取れない可能性があると、今回の描写から見えてきました。
今回圧力がかかったのはアーニャと凛ちゃんなので、現状そこまで卯月は追い込まれていませんが、これまでの描写を見るにとことんまで煮込む問題なのは間違いがなく、そうなった時プロデューサーはどういう対応をするのか。
そういう所まで考えてしまうような照らし合わせが、今回の卯月と凛ちゃんの間にはあったと思います。


かつて加蓮と奈緒が上がりきった階段の途中で、NGではなくTPの曲を聞きながら立ちすくむ凛ちゃん。
『今、自分に出来ることを』という第15話でも掲げていたスローガンに従って、大量の本と映像素材を用意する未央。
そんな未央と自分を比べ、「新しいこと考えるの、苦手かも」と表情を曇らせる島村さん。
三者三様の在り方がもう一度映って、NewGenerationの修羅場が始まります。

『今の自分にはNGがある。TP結成は出来ない』というAパートの状況から、歌と踊りを経由して『TP結成は良いぞ!』となってしまった凛ちゃん。
その原動力になった実感はあくまで凛ちゃん個人のものですし、非常に身体的・内面的な言語化の難しい感覚です。
なので、結構頭で考えるタイプの本田には受け入れがたく、ガン曇りしながら反論していく。
「嫌だよ」と言葉にしてしまう本田の目線が、下方向で固定されっぱなしな辺りに、余裕の無さが伺えます。

新しい何かは、今ある満ち足りた状態のままでは不可能なのか。
これは第19話で、*の二人を襲った問題と同じです。
あのお話では李衣菜は前川との絆を選び、夏樹という新たなヒカリを諦める決断をしていました。(結果として自体はいい方向に転んで、夏樹とウサミンを取り込むことで、*のまま新しい可能性に辿り着いたわけですが)
対して、今回凛ちゃんはTPを選ぶ。
「私達じゃ駄目なの?」という本田の言葉に「分からない」と答える凛ちゃんは、しかしその前に「分からないけど、挑戦してみたい」という自分の気持を言ってしまっている以上、NGを否定してTPを肯定する決断、*とは反対方向の決断を既に果たしている。
凛ちゃんが自分の中の衝動/Pulseに従うカルマを背負っている以上、未央がどれだけ傷つこうが、自分の気持を明言することは避けても、否定はできないわけです。

凛との間にある亀裂が自分一人では解決不能だと気付いた未央は、卯月に話題を振ります。
「しまむーはどう思うの?」という問に、卯月は凛と同じく「分かりません」と答える。
言葉は同じでも背負っているカルマが違う以上、卯月にはほんとうに分からない。
いつものように『頑張ります』と答えないのは、この状況が頑張ってもどうにもならないことを察する程度には賢いからだし、もしかしたら、卯月は言うほど『頑張ります』を魔法の言葉と認識していないからかもしれません。
どれだけ『頑張って』も選ばれなかった第1話前夜は、いつも笑顔で明るい島村卯月の中で、未だ癒えていない傷なのかもなぁと、探しても探しても答えが見つからない彼女を見ながら思いました。


お互いの気持はすれ違い、視線も下を向いたまま一度も絡まない、閉塞した状況。
第6話でデビューライブが『失敗』した時の状況をなぞるように部屋を飛び出した未央ですが、あの時下っていた階段を今度は上り、闇の中に飛び込んでいった当時とは違い、光の方へと走っている。
あの時は立ちすくんだプロデューサーも、二度目の失敗はないとばかりにしゃにむに追いかけ、コスモスの咲く噴水前で話し合います。

美嘉が見守る中で、二人は何を話したんでしょうか。
ここは省略されている部分であり、今回は出した結論だけがドカンと投下される形なので、来週以降明らかになっていくとは思います。
しかし余計な推測をするだに、常務を敵視する姿勢を改め、常務の影響下でTPをはじめる凛ちゃんを認めるよう、話し合いを持ったのではないでしょうか。

未央は常務の路線に非常に好戦的で、ムードメーカーでありリーダーでもある彼女がオフェンシブに振る舞うことで、NG全体の空気が反乗務派に染まっていた部分があると思います。
一期で積み上げてきた順調な成長に横槍を刺されたのは事実ですし、常務の方法論がNGとは正反対なのも、彼女(たち)の反感を買う大きな要因でしょう。
結果、第15話では常務の行動を「そんな酷いこと」と形容し、李衣菜は自分たちを「レジスタンス」と呼び、今回未央は「こんなことで負けてらんない」と自分を奮いたたせる。
未央の世界の中で常務は『勝ち負け』をハッキリさせなければいけない『敵』であり、それが軍事的な言語選択に繋がっているのだと、僕は思います。
そして、その認識がTPの結成を『敵の軍門に下る』と認識させ、頑なな態度の一員になっているのではないか、とも。

並走するアーニャの物語の中で、プロデューサーはアーニャが気付いた世界を共有し、常務の行動に伴う正当性や、『敵』にも自分が担当するのと同じ『笑顔』のアイドルがいる事実に共感しました。
常務の行動への頑なな態度はプロデューサーも同じだったのですが、アイドルの間を走り回り、彼女たちを支えるという職務により、未央よりも先にアナスタシアの発見を共有出来ています。
第8話でプロデューサーと蘭子が、今回はLOVE LAIKAが、お互い歩み寄りより良い結論に踏み出すきっかけとなった場所で、未央とプロデューサーはそういう話をしたんじゃないかなぁと、僕は妄想しています。
少なくとも悪い結論じゃなかったはずだと思えるのは、エピソードを同じ場所で積み重ねることで、噴水前という場所に一種の聖性(もしくはジンクス。ここでは悪いことは起きないという信頼)が生まれてるからでしょうね。


もちろん、凛ちゃんの背中を押せない未央の気持ちは、常務への対抗心だけが生み出しているわけではない。
凸凹道を歩きながら絆を深め、夏フェスという舞台を成功させたNGへの信頼感。
振り回し振り回されながら、気持ちを繋いでいった親友たちへの愛情。
いかに人間関係の視野が広く立場を重視するとはいえ、彼女の行動を加速させるエンジンには、感情という燃料が絶対に必要です。

そして、プロデューサーはそういう未央の気持ちと経験にも、アナスタシアに対してそうしたように、誠実に、強く寄り添ったんじゃないでしょうか。
NGの導き手として、不器用な大人として、未央が気持ちを育むための時間を共有してきた彼は、未央の混乱した内面を受け止めるには、十分かつ適任な存在です。
過去の失敗に怯えていた第6-7話だったら不可能だったでしょうが、未央があの経験を経て成長したように、プロデューサーもまた、もうただの車輪ではない。
それは今回常務の提案に食ってかかり、アナスタシアに自分の気持を真っ直ぐ伝え、第18話では智恵理とかな子に強く禁止を言い渡した彼の姿を見れば、信頼を持って確信できる事実です。

三者三様、闇の中ベッドで迷う姿に第7話の描写をリフレインさせつつ、朝がやってきます。
『かつて大切だったものが、今は乱雑にベッドにおいてある』というモティーフチョイスは、第17話で莉嘉の台本が受けた扱いを、少し思い出させますね。
未央が決意を込めて、少し軽い調子を演じながら言ったソロデビューの中に、どういう感情が込められているのか。
それは来週以降のお話になりますが、不安と期待を感じさせるいいヒキだったと思います。

 

4)美城常務とProject Krone
CP側の主軸二本を見てきたわけですが、今回三本目の軸になっていたのは、ついにお目見えした常務側のアイドル、Project Kroneでしょう。
この物語がアイドルの物語である以上、アイドルを入れるハコたる346プロダクションや、裏方である常務やプロデューサーはあくまで遠景であって、主役はなんといってもアイドル。
常務の理念を具体的に背負い輝くアイドルたちは、僕が想像していたよりも朗らかで、楽しそうにアイドル活動していました。
仲良さそうにしている文香や唯を見てアーニャが感じた意外性は、多分視聴者のものでもあり、このギャップを出すためにこれまで、常務の描写は『悪役』とも『味方』とも取れない、微妙なものだったのかなと思いました。

常務が『いい人』である描写は、初登場となる第14話から既に見え隠れしていて、プロデューサーのネクタイを直したり、悪役っぽい登場と外見だけど妙に話の分かるヘンテコな存在として、彼女はこのアニメに現れました。
以来、例えば無印アイマスアニメの961社長や、プリティーリズムRLの法月仁のように分かりやすい悪事を働くでもなく、ゲスト・アイドルに圧力を加えたり、プロデューサーにキツい当たり方をしつつ、常務は自分の理念に基づいて行動してきました。
『美城の名前に相応しい、高貴な高嶺の花を集める』という行動理念には一分の理がありつつも、一期のプロデューサーを思わせる不器用さでそれをアイドルに押し付け、袖にされる描写が何回も続く。
しかし去るものに拘泥する様子もなく、考えを改めるでもなく、揺るがず自分の考えを進めていくというのが、これまでの常務の描写です。


CPのメンバーは一期でひと通りの試練を乗り越え、一つの到達点として夏フェスを終え、上がったり下がったりの物語的波風を、既に一回克服しています。
物語的燃料が少し少なくなった二期では、一期では取り上げられなかった要素や、一度は是としたポイントを別角度から掘り下げ、埋もれていた問題点に光を当てたりしつつ、プロジェクトを白紙に戻しCPを地下に追いやった常務を『敵』に設定することで、お話が回転していた部分がありました。
一度転がりきったCPの物語をもう一度動かす、いわば物語的梃子として機能するために、CPから見た常務が『敵』だという主観的な視線は、良く描写されてきた。
本田さんの好戦的態度は、その一環といえるでしょう。

その上で、CPからカメラを離し客観的な状況を切り取ってくるのも二期の特徴で、常務の行動に伴っている一分の理、CPが克服しきれていない弱点もまた、しっかり演出されてきた。
第18話でCPサイドの大きな武器になったバラエティ路線の良くない部分を、杏ときらりを通して描写したのは、その最たるものです。
今回見せられた常務側の魅力は、その実結構な確かさで、これまでの各話内部に埋め込まれていたと、僕は思っています。

その上で、このアニメはアイドルのアニメであり、アイドルではない常務に割く尺はそこまで大きくない。
結果、常務が何を考え、何を願って行動しているのかという、一番知りたい部分は踏み込みが足らない印象を受けてきました。
『悪人』『敵』として受け取るには客観性がそこかしこに転がっているし、『味方』とかんがえるには描写が足らない。
これまでの常務をまとめるなら、そういう状況だったと思います。


しかし今回、2つの点でこれまでのフォーマットを崩したことで、一気に常務が何を考え、何を願っているのか見えてきました。
一つは主役であるCPに直接圧力をかけてきたことです。
楓さんやウサミンや美嘉や夏樹といったゲスト・アイドルは、主役にとって大事な存在であることは間違いないにしても、あくまで部外者。
しかし今回、凛ちゃんとアーニャが的にかかったことで、常務のやり方がアイドルに決定権を渡すフェアなものであること、彼女が用意する出会いが新しい挑戦として価値が有るものだと、説得力と切迫感を持って伝わってきました。
部外者の手助けをしているだけでは見えてこない、当事者になってはじめて見える常務の顔が、今回ようやくクリアに見渡せたのです。

もう一つの変化は、常務のやり方がアイドルにどういう影響を及ぼすのか、はっきり見えたことです。
これまでも常務側のコマである周子・奏・フレドリカは画面に映っていました。
しかしそれはあくまで物言わぬ看板であり、彼女たちが実際何を考え、どういう気持で常務にプロデュースされていたのか、伝わっては来なかった。
第18話で内心グラグラと揺れていても、美嘉の看板は綺麗で遠い存在として街を彩っていたように、外部化されたアイドルをいくら見つめても、その内面は伝わってきません。

しかし今回、唯と文香がアーニャに接触してきたことで、血の通ったアイドルの姿が見えてきました。
彼女たちはプロジェクトの仲間としてお互いを尊重し合い、夢を持って新たな物事に挑戦し、楽しい毎日を笑顔で過ごしていました。
それはつまり、主人公であるCPと同じように、『笑顔』を大事にしながらアイドルをしている、ということです。
顔の見えない『敵』だったはずの常務のアイドルは、自分たちと同じように笑って泣いて喜んでしていそうな、素敵なアイドルだったという発見。
これはアーニャとプロデューサー(そしてもしかしたら本田さんと視聴者)の認識を改めるのに十分な発見です。
この落差を作る意味でも、常務の考えていることはよくわからないよう、ぼやかして描かれていたのではないかなと、僕は思いました。

加えて言うと、CPを出てPKに入る二人を敵対的な空気のまま送り出せば、一種の『裏切り者』になってしまいます。
『敵』と思っていた奴らの魅力をしっかり描いて、『敵は実は味方だった?』という疑問と実感を与えることで、アーニャと凛ちゃん(そしてもしかすると本田)への風当たりを弱め、軟着陸させる役割も、今回の交流にはあったと思います。
『相矛盾する要素の止揚』はデレアニにたくさんある基本哲学の一つですが、今回は『敵/味方』の対立が止揚されかかった、と言えるでしょう。


常務の主張に従えば画一的になりそうなKPのメンバーは、しかしCPに劣らぬ個性派揃いです。
テキトーな女高田純次、同じくテキトーな京娘、軽い調子の金髪ギャル、大人を強調する真面目な子供、キス魔を装う純情乙女、そして元書痴。
これに清潔感のあるロシア女子と、元病弱のイケイケと、太眉隠れヲタと、女子高生の概念存在が足されるわけで、とても常務の言いなりなお人形部隊とは思えません。
これまで全く喋らなかったKPメンバーが今回、自分の言葉と体温を持って動き出したことで、彼女たちの個性もまた、今後の物語の中で輝き出すのかなと期待してしまいます。
というか、あんだけ仲良しチームならPKの話もどんどん見たいよ!!

そしてそうなれば、常務もまた自分の頑なさについて考えなおさねばならないでしょう。
どれだけ押さえつけても、346に巣食う有象無象の個性は絶大で、ただ大人しく飾られているだけの偶像になってくれそうなメンバーは、PKにもCPにもいません。
というか文香の言葉を聞くだに、常務はそこまでアイドルに自分の考えを押し付けていないのかもな、とすら考えてしまいます。
どちらにしても、CPが大事に守ってきたそれぞれの個性はPKにもしっかりあって、それを輝かせるノウハウは常務よりプロデューサーのほうが、良く知っているでしょう。
今回プロデューサーが常務の持つ一分の理を知ったように、常務もまたプロデューサーの理念が有する利点を学んで、お互い認め合うようになる(というか、ならざるを得ない)んじゃないかというのが、今回の描写を見て思わず巡らした妄想です。
まぁ僕常務の事好きなので、対立してるより仲良くなったほうが嬉しいッて話なんですけどね。(再びの個人的嗜好ブッパ)

常務のアイドルが思いの外キラキラしていたことで、CPと常務は敵対というより並走可能なライバル的立ち位置なのではないかと、視聴者の中でも意識が変化したと思います。
先ほど例に出したプリリズRLで言えば、なるちゃんたちの願いを踏みにじり続けた法月ではなく、圧倒的な実力と熱い情熱を持ったジュネ様に近い位置に、常務はポジションしている。
となれば、哀しい宿命を背負って飛んでいたジュネ様をなるちゃんたちが救ったような展開もまた、今後あるんじゃないかなぁとか思いました。
無論プリリズRLとデレアニは全く別の作品ですので、同じ軌道をたどるとは限らんわけですけど、個人的な好みや希望も引っ括めて、あえて名前を出す感じです。

 

5)まとめ
新田美波の手から離れ、新しい挑戦と可能性に飛び込んだアーニャのお話。
TPの可能性に魅せられつつ、NGも大切にした凛ちゃんの迷い衝突したNGのお話。
顔と声を手に入れ、ぐっと短になった常務とPKのお話。
複数の物語が相互に影響を及ぼしつつ、次回以降の激変の準備を整えるエピソードでした。

二期は基本フォーマットを崩さないキャラエピソードが続き、正直少しの窮屈さみたいなものを感じていたので、このタイミングで大きく話を動かし、フォーマットから逸脱した展開を要してくれたのは、とても面白く、楽しいものでした。
ずーっと気にかけていた常務の腹の中、彼女が愛するアイドルたちの肖像もしっかり伝わってきて、あのひと好きな自分としては嬉しい限り。
ソロを宣言した本田の真意とは。
可能性に仲間を取られる形になったCPは、一体どんな変化を迎えるのか。
いろいろ気になるヒキもあって、クールの折り返しに相応しい、整ったお話だったと思います。
さー来週からどうなるのか、目が離せんぞ。

 

 

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd season:第21話『Crown for each』感想

本田未央衝撃のソロ宣言で引いた前回から引き続き、New Generationsそれぞれの王冠と、揺れるCPの姿をとらえたデレアニ21番目。
一足先に可能性を見つけてしまった凛、NGに近すぎる自分を自覚してあえて距離をとった未央、そして空疎さを未だ気づかれない卯月。
第8話、第12話の演出、シーンセット、状況に強く自己言及しつつ、一期とは異なるアイドルの姿を捉えたお話となりました。

今回のお話の軸はおもに2つあって、一つはおんなじのように見えて実はバラバラだったNGの内実確認。
そしてもう一つは、NGとLLにヒビが入ったことで動揺する、CPの姿でした。
二期に特徴的な『外部アイドルとの関わりあい』からあえて距離を取り、美城常務が起こした波紋がCPとNGにどういう影響を及ぼしたのかを見せる、リトマス試験紙みたいな話だったかな。


最初にCP全体の話をすると、無印アイマスアニメ第23話にも似た、アイドルとして花が開いてきたからこそお互いの時間が取れない不自由さが、メンバーを動揺させる展開でした。
あの時の春香さんのように、逃げていく団結を掴みとろうと必死にもがく役が前川なのは、まぁ当然といいますか。
いつも元気な本田未央も、最年長リーダー新田も頼りにならない状況下で突破口を開いたのが蘭子なのは、状況の変化を感じさせます。

神埼蘭子は奇っ怪な熊本弁を鎧にすることで、なんとか外界と交流する『持っていない』アイドルです。
コミュニケーションに弱点を抱えていることが負い目となり、第12話では全体曲を巧く踊ることが出来ません。

合宿ではその穴をフォローする形で新田さんがリーダーとして目覚め、状況を改善していきました。

しかし今回、蘭子は苦手なはずの言葉を的確に使って、『自分たちだって過去に新しい何かに飛び込んできたし、それは胸が踊るような素晴らしい体験だった』ということを思い出させます。
常務がもたらした変化にはネガティブな価値しか見いだせないCPですが、これまで描写されたCP内部の共通体験は受け入れれられるわけで、蘭子が自分の体験を語ることでみんなに『思い出させ』ていたのは、有効かつ重要な手筋だった気がします。

今回のお話はNGとCP両方が今何処にいて、何がしたいのかを巧く把握できていない状態から始まり、何らかの『言葉』を見つけて共有するまでの物語です。
蘭子が『冒険』という『言葉』を与えることで、CPは混乱した状況を整理し、現状をポジティブに向かい入れることが出来る。
第8話ではプロデューサーに辞書を作ってもらって、自分の言語に歩み寄ってもらっていた蘭子が混乱するCPに『言葉』を与える今回の流れは、『負け役』の変化と成長を際立たせる展開でした。


蘭子の『言葉』を受け取って、モヤモヤを抱え込まず具体的な行動に移していく提案をしたのは、同じように第12話でダンスを巧く踊れなかった『負け役』の智恵理です。
苦手なはずの『言葉』を使って状況を変化させた蘭子と同じように、引っ込み思案な智恵理も声を震わせつつ自分の気持を伝え、状況を変化させる所まで来ている。
今回のCP周りの描写は、メンバーの増減や常務からの圧力という外的な変化だけではなく、時間と経験がCPメンバーの『らしさ』を大きく変えつつあるという内的な変化にも充填した演出でした。

とは言うものの人格的強者は変わらず強いわけで、『負け役』決死の提案を拾い上げて話をまとめるのは、杏ちゃんときらりだったりする。
この二人の安定感というか、どっしり座って〆るところ〆る感じは流石です。
子供チームが不安そうにすると即膝を折りたたみ、『みんなの問題なんだから、みんなで解決しよう!』という言葉を即ハグという態度で表すきらりのホスピタリティは、流石といったところ。
要点をパパっとまとめて行動まで引っ張る杏ちゃんの天才性も冴えていて、変わった部分と変わらない部分の対比が鋭い回だと思いました。

こうして足並みを揃え、ようやく新田さんの顔を直接見に行くわけですが、当事者であるLLのお話は前回既に上向きになっているわけで、一時の離別をポジティブに捉えて頑張っていました。
あそこまで体をいじめ抜く姿には一種の内罰性というか、アーニャが離れていくことを大人らしく笑顔で受け入れつつも、離れていく不甲斐なさを痛みに変換して穴埋めしている被虐趣味を感じなくもないですが、それは捻くれた読みというものでしょう。
智恵理が思いつき杏ちゃんがまとめたように、LLの分断はみんなで直接会いに行けば解決する問題だったわけです。

 

一方NGの問題は、ちょっと複雑です。
TPとの新しい可能性に心躍らせた凛と同じ場所に立つために、未央は演劇という未知の領域に飛び込み、茜や藍子といった新しい仲間と一緒に『何か』を掴んで帰ってきます。
凛が一足先に登った階段を、一歩遅れて未央が登り切り、同じ目線に立つことで一時の離別を受け入れる。
尺はより沢山使っていますが、前回アナスタシアと新田さんが辿った軌跡によく似た、真っ直ぐな遠回りです。

しかし、NGは二人ユニットではない。
島村卯月は凛のように新しい可能性に胸を躍らせることも、未央のように仲間と同じ景色を見るため冒険してみることもしません。
『TPでやってみたい』という凛の決意には先回りして「いいと思います!」と受け止め、一人になった後はプロデューサーの言うとおり小日向さんとのユニットを結成する。
一人置いてけぼりにされた状況も、二人のように『何か』があるわけでもない空疎さを自覚して自分の武器を問いかけて、魔法の言葉である『笑顔』を受け取って満足する。
勝手に前に進んでしまった二人との距離は全く縮んでいないのに、持ち前の優しさと笑顔ですべてを受け入れてしまった結果、時計の針はいつもと同じようにカチリと進みました。
その歪さこそ、今回製作者が最も強調したかったものなのでしょう。


卯月の歪さは未央の歩みが輝くほど暗く浮かび上がるので、今回の未央はとても頼もしく、強い存在として描かれています。
前回省略された泣きダッシュの後のシーン、噴水での語らいは聞き役のプロデューサーの成長もあって、非常にポジティブで前向きなものです。
本田さん自身は「やっぱ何も出来ない、勢いばっかで、だからしぶりんは……」と言いかけていましたが、何も聞かず何も言わずで飛び出した第6話と比べて、状況は大きく変わっている。
自分がNGを通じて感じた気持ち、大切に思っているものはちゃんと言葉にできているし、プロデューサーがNGを信じて黙っていた気持ちを慮る余裕もある。
20話分の経験は本田未央の中にちゃんと蓄積し、変化を引き起こしています。

積み上げた道が歪んでいなければ真っ当なゴールにはたどり着けるわけで、噴水前での会話は前向きに進み、最終的に未央は顔を上げ上を向きます。
このタイミングで既に、先週のアーニャと同じメンタリティにはなっている。

なので後は、演劇という新体験に飛び込み、凛が感じていたトキメキを追体験するだけというところまで、状況は整っています。
凛と卯月が一緒にいるシーンでは画面が暗いのに対し、本田さんのシーンは照明が明るめなのもむべなるかな、といったところです。

TPとの出会いと可能性に心が動いた結果、新ユニット結成という冒険に飛び込んでいく凛ちゃんは『衝動優先主義』なのに対し、まず演劇という未知の領域に自分を追い込んでから、凛ちゃんが経験したはずのトキメキを追体験しようとする未央の『形式優先主義』は、目端の利く優等生らしい動き方だったと思います。
他にも第7話ラストではなく第13話ラストの成功体験がスタートラインなのは、第6話で「全然人少ないじゃん!」とショックを受けた未央らしいなとか、『じゃなきゃ』『いけない』という義務の論法で話を進めるわりに自己評価が低いところとか、今回は本田未央の細かいところが見えてくる回だった気がします。
『いつも元気な本田未央』が完全に仮面だとは言わないけど、前川のネコミミくらいに外付けだよね、本田さん。


未央にとっては『冒険ならなんでもいい』くらいの選択だった演劇ですが、ガッチンガッチンの初稽古からはじまって、どんどん戯曲の魔力に取り憑かれていく様子が今回描かれていました。
本田さんにとって演技という行為、演劇的に歪められた『言葉』がどれだけトキメく出会いだったかというのは、自分の気持を伝えるためにわざわざ即興劇という形体をチョイスしたことからも見て取れます。
蘭子が歪んだ自分の『言葉』を真っ直ぐな他者との『言葉』に変化させることで状況を改善させたのに対し、本田さんは正直な自分の気持ちを、演劇という特殊な『言葉』に乗せることで伝えていきます。
蘭子が過去の冒険を思い出させたのに対し、本田さんは未来への期待を(少なくとも凛には)理解してもらったことと合わせて、2グループの反応は対比的です。

自分とは違う誰かを、今とは違う時間の中で、こことは違う場所で演じていく経験は、しかし奇妙に今ここにいる私そのものを浮き彫りにする。
演劇(に代表されるフィクション)に本気で取り組み、それが持っている不思議な力に気づいたからこそ、未央は凛の追求に対し「はぐらかしてないよ」と真顔で言えたのでしょう。
フィクションの内部でフィクションの力に言及するこの流れは、個人的な好みにビシっとくる良い展開でした。
遊戯性を通じて気持ちの離れた相手を引き込む手腕は、第12話で新田さんが未央と凛を釣り上げた手際を、少しは意識してるのかな。

台本を持ってからの演出はコスモスが過剰に咲き乱れ、夕日がリアルとフィクションの境界をぼやかす、不思議な舞台でした。
こういう風景の幻想性はデレアニの中で時々顔を出して、ズバッと突き刺さります。
高雄監督の印象主義演出、その真骨頂といったところでしょうか。


TPとちょっと音合せしただけで心が弾みだす感性を持った凛ちゃんにとっては、コスモスの舞台は未央が手に入れたものを共有できる、最高のステージでした。
最初はいぶかしんでいるのに、あっという間に未央の気持ちを感応して台本から目を離す辺り、クールな外面には似合わず感受性の強い子だと思います。
だから演劇との出会いで未央が手に入れたもの、"秘密の花園"に仮託せざるを得なかった偽らざる『言葉』はあますところなく伝わって、階段も登り切ることが出来る。
んじゃあ、あれだけ幻想的なステージでも台本から一度も目を切らず、凛と未央が目と目で通じ合う世界から噴水で残酷に隔離された島村さんはどうなの、という話になります。
つまり、凛に届いた未央の『言葉』は、ほんとうの意味では卯月には届いていないのではないか、という話に。

何度も描写されてきたことだし、何度も指摘してきたことなのですが、島村卯月は空疎です。
彼女にとってアイドルになるということはCDデビューして、ラジオに出て、TVに出演することです。
凛ちゃんのように知らない何かに飛び込んで、心が踊る体験を積み重ねていくことではない。
本田さんのように形式重視ではじめてみて、傷を背負いながら大事な中身に気付き直し、行ったり来たりしながら実感していくものでもない。
アイドルになるためにアイドルになって、アイドルになった後はアイドルで在り続けるしかない島村卯月にとって、NGという場所以外は考えつかない。
だから、『小日向美穂とのCuteユニット』というプロデューサーの素敵な提案には、一も二もなく乗るわけです。


このアニメの主人公(と言っても、もう良いでしょう)たるNGは、表面的なキャラクターの裏側のその更に奥、ネガティブで危うい人格の根っこまで描かれています。
未央ならリーダーぶった態度の奥の脆さ、成功体験を過剰に追い求める強欲、低い自己評価と秘めたネガティブさ。
凛なら冷めた態度の奥にある新しいトキメキへの渇望、それを叶えてくれると希望したプロデューサへの身勝手な失望、場を乱してでも可能性に飛び込む勝手さ。

そして島村さんは、笑顔の奥に隠した空疎さと、それを直視しないための防衛行動。
物語がはじまる以前の段階で、候補生たちがみな諦めていく中『頑張り』続け、それでも選ばれなかった島村卯月は、自分がなにもないことを思い知らされているはずです。
それでも自分に『頑張ります』と魔法(もしくは呪い)をかけ、集団の輪を乱さないよう気を使いながら、アイドルになった実感もなくCDを出しラジオに出TVに出た。
それでも、全てを捨てて飛び込みたくなるような心のトキメキを未だ感じない自分に気づかれないように、凛ちゃんの決断を優しさで機転を制した。
言われてしまえば、そのトキメキを未央のように受け止めなければいけないから、先回りして自分を守った。
階段でのやりとりは、僕にはそう見えたのです。
今回キラキラと輝いた本田未央が残酷に照射したのは、これまで仄めかされてきた島村卯月の影であり、それがあまりにもよく出来過ぎていて生中には破綻しないという真実をこそ、今回のお話は見せたかったんじゃないでしょうか。

今回のようにネガティブな面(もしくはその予感)が強調されると忘れてしまいがちなのですが、島村さんの笑顔と優しさは色んなものを助けてきました。
衝動主義の凛ちゃんがアイドルに飛び込んだのも、島村さんの笑顔にキュンと来たからですし、NGとCPが空中分解しそうになった時にプロデューサーに力を与えたのも、島村さんです。
借り物な上にそれしか持っていなくて、ひどく危うい『笑顔』と『頑張り』だけど、それはもう歴史の教科書に乗るくらい立派なことを十分成し遂げている。
島村さんの笑顔が危機を乗り越えさせたからこそ、その奥にある空疎さに踏み込む順番がやって来たのであって、虚ろな彼女がやって来たことや、何かが生まれているのであればそれはもう空疎ではないという事実は、忘れたくないところです。
空っぽな彼女の感性が揺れ、動き、トキメキに出会って階段を登る日は絶対にくるし、こなければならないと、僕は思っています。

今回蘭子が冒険の価値を『思い出させ』たことを考えると、島村さんの美点もまた、いつか必ず『思い出』されるんでしょうね。


メインアクターは上記のようなお話しを辿ったわけですが、それを脇から支えるプロデューサーは、見守る立場で堪えていました。
二人三脚で前に進んだり、転んだりしてきた一期に比べると、アイドルの足腰が強くなった二期は、こういう立場が多い気もします。
無論ただ見守るのではなく、自分の気持をしっかりと『言葉』にして伝え、CP全体がより良い方向に進めるよう努力する姿は、本田さんと同じような成長を感じさせる。
そういう状況でなお、プロデューサーが方向性を提案しなきゃならないことが、島村さんの異質さを物語っているわけですが。

美嘉は第17話で見せた弱い部分を綺麗に引っ込め、頼りになる先輩としてプロデューサーをさせたり、本田さんの隣りに座ったり、CPメンバーを抑えたりの大車輪。
ここら辺は、部外者だからこそ出来る動きだと思います。
ある意味、物語の初期配置に近い立ち位置に戻ったというか、便利屋の面目躍如というか。
いろんなエピソードを積み上げてきたので、こうして色んな仕事をこなしてもキャラがぶれているという印象よりも、いろんな側面がある人格なのだなという気持ちのほうが強いのは、良いドラマになっている証明な気がしますね。

今回常務とクローネの出番はほぼなかったですが、相変わらず窓ガラスや鏡に反射されて画面に写ったり、会議はしかめっ面だったり、無言の絵面で状況説明をしていました。
PVやEDの楽屋映像ではお互いの視線が一切絡まない(おまけに照明も冷たくて暗い)PKですが、NO MAKEやマジックアワーを聞くだに、CPと同じくらいちゃんと交流してんのよね。
今回の冷たい印象が『常務=敵』という、これまでの二期を貫通するイメージに沿ったものなのか、はたまた別の意味合いがあるかは、秋ライブで分かってくるでしょう。


試金石となる秋ライブに向けて、冒険を受け入れる素地をしっかり作る回でした。
同時にCP最大の核地雷である卯月の空疎さが、どれだけ根深くどれだけ危険かを、しっかり見せる回でもある。
全ての情報を手に入れ統合しうる視聴者=神の目線だとその危うさに気づけるけど、バラバラの体験しか持たない当事者は絶対状況に気づけないという意味では、島村さん周りはサスペンス的な描写ですよね。
そこら辺の視聴者とキャラクターの情報格差がすんなりと飲み込め、『なんでこんなことに気づかないの? バカなの?』と思わないように描写を汲み上げているのは、情緒的であると同時に非常に計算高くもある、このアニメらしいところだと思います。

手に入れたもの、今まで持っていたもの、まだすくいきれないもの。
沢山の手がかりを抱えて、ついに来週は秋ライブ。
対比と相似の奇妙なダンスを踊るCPとPKがはじめて並び立つ舞台でもあるので、新しい化学反応がかならずあるでしょう。
楽しみです。

 

 

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd Season:第22話『The best place to see the stars』感想

第20話から始まった秋フェス編もついに本番、変化とハプニングのステージは無事に大成功。
かつて自分たちがそうされたように、先輩としてPKの窮地を救ったCPを見て、美城常務の頑なな心もほぐれ、ついにアイドルと同じ地平に降りてきました。
『敵』が膝を曲げる形で、二期の話の流れに一つの終わりがやって来る展開でした。

それと同時に、ずっと埋められていた島村卯月の爆弾がついに爆発し、時計が十二時を指して魔法が解ける回でもあった。
巧く踊れなかった女の子、苦しみを貯めこむ女の子、頑張る女の子。
卯月のつまづきを解消するのは、来週以降のお話です。

 

過去の再演・再話をすることで話の奥行きを出すのは、このアニメのシリーズ的な特徴ですが、今回の話しで引用されているのは主に第3話と第13話。
城ヶ崎美嘉のバックダンサーを務めた時は、頼れる先輩たちに押し上げてもらってなんとかステージに立った新人たちが、今回はどっしりと構えた貫禄を披露し、大舞台に戸惑うKPに道を示す回になります。
野外フェスだった夏が野戦なら、地下通路が強調される今回は塹壕戦。
頭を低くして緊張の弾丸をやり過ごす後輩に声を掛け、撃たれて伏した鷺沢さんが復活するまで時間を稼ぎ、もはやアイドル候補生でも、なりたてアイドルでもないシンデレラたちが強調されていました。
総じて、CPとしてまとまるまでの一期、まとまりを崩して冒険した二期を総括するような描写が目立った印象です。

初のソロ曲であり新曲でもある"Nebula Sky"を披露し、会場を青と紫に染め上げたアナスタシア。
それを舞台袖で見守る新田さんの姿は、第13話でアクセル踏みすぎてコースアウトしたことへの、一種の意趣返しでしょう。
あの時は医務室の壁越しに無念さを噛み殺して聞いていたわけですが、今回は自分も相方も万全。
CPとPKに別れたことで少し離れたところから相方の魅力を確認し、新田さんの"ヴィーナスシンドローム"も絶好調です。
ていうか、舞台袖で見つめる新田さんの瞳に宿る恋人オーラ、尋常じゃねぇ。

別れても順調なLOVE LAIKA以外にも、CPメンバーに傷はありません。
新しく加わったメンバーも含めて、ユニットごとに円陣を組み、自分たちを奮い立たせる『言葉』をそれぞれ見つけて走りだす姿には、安定感があります。
緊張に縛り付けられていた第3話とも、襲い掛かってくる慮外の出来事に手一杯だった第13話とも違う、緊張やアクシデントすら楽しめる余裕を持ったステージ。
それは、夏フェスまでの道のりを使って描かれたCPの一体感だけではなく、常務の横車によって揺らぎ、変化し(もしくは変化せず)、新しい冒険を受け入れた二期の物語が、CPにもたらした成果でしょう。
秋フェス終了後の地下本陣で見せたくつろいだ姿も引っ括めて、CPがアイドルとして到達した高みを見せる回だったといえます。
だからこそ、あのシーンで卯月が孤立している演出は刺さるし、物語的な意味が強いのですが。


もう一つ決算されているのは、常務と彼女のアイドル、プロジェクトクローネとの関係性です。
『物分りの良い悪役』『悪すぎず強すぎずな存在』として、第14話から物語を撹拌し、一期とは違った物語を用意してきた常務。
『美城という名前に相応しい綺羅びやかさ』という、常務の理想を体現するアイドル、プロジェクトクローネ。
このお話がアイドルのお話である以上、常務の掲げる理屈の実態は、観客を入れた舞台でアイドルたちがパフォーマンスすることでしか見えません。
云わば彼女たちの初陣がこの秋フェスだったわけですが、勝ち負けで言えば『負け』で初戦は決着が付きました。

第21話EDで見せた絡まない視線そのままに、緊張に飲み込まれてお互いを支え合えず、倒れ伏すアイドル。
高貴さを重視するあまり現場の変化に対応できず、混乱を収集できない司令官
KPが今回見せたのは、順調にストレスを乗りこなしていくCPとは対照的な姿でした。
CP解体という『いやなこと』を掲げて登場し、主役たちを地下に追いやった常務とその仲間たちが成功とはいえないパフォーマンスを見せている以上、それは『負け』でしょう。

しかしCPとPKが敵対関係になく、実は常務とプロデューサーもまた対立ではなく協調と尊重を選びうるというサインは、今回もたくさん出されていたし、二期が始まった段階から提示されてもいました。
緊張に耐えかねて潰れかける鷺沢さん、ユニットの相棒を巧く支えられない橘、混乱を収集できないKPメンバー、的確な指示を出せない指導者。
その姿は第3話で、第6話で、第12話で、第13話で僕達が見てきたCPの姿そのものであり、同じ経験を乗り越えてきた先輩に手を差し伸べられ、そういう危機と混乱を乗り越える勇姿もまた、過去のCPの物語に存在しています。
二期で『仲間』になった夏樹やウサミン、楓さんが『いつかそうなりたいと思う自分』であるのと全く同じように、今回のKPは『かつてそうであった自分』なのであり、CPのメンバーは強い共感を持ってPKメンバーに声を掛け、緊張をほぐしていく。
かつて気持ちを沈み込ませたり、舞台が失敗しかかったり、プロジェクトが解体寸前まで行ったり、いろんな『負け』を乗り越えてここまで来たCPと同じように『負け』、仲間の支えで『負け』続けないでいられるPKのアイドルたち。
その姿は、『アイドルは勝ち負けではない』『必要なのは対立ではない』という、二期で強調されてきたメッセージの再話と言えるでしょう。


特にトライアドプリムスを巡る描写はKPとCPの間にある溝を埋めるもので、"Trancing Pulse"の鮮烈な印象もあって、融和ムードを強調していました。
渋谷凛を中心にしてCPとPKのちょうど中間点に立つTPは、かなり早い段階からCPと交流し、凛以外のメンバーとも面識を深めていました。
舞台裏での円陣にも参加し、既にCPの『仲間』という印象が強い彼女たちは、今回CPとKPの『架け橋』になる存在です。

奈緒も加蓮も今回が初舞台で、緊張度合いは他のPKメンバーと変わるところはありません。
違うのは、メンバーに渋谷凛がいるということ。
アイドルを目指す女の子の笑顔に胸を刺されて走りだしたり、信じた大人が不甲斐ないのでプロジェクトを飛び出してみたり、合宿がギクシャクして上手く行かなかったり、ライブで予期せぬアクシデントがいっぱいあったり。
夢中になれるものが一つもなかった女の子は、半年間のアイドル生活からたくさんの物を学んで、戸惑う後輩を導き、為すべきことへ立ち向かわせる強さを手に入れています。
凛の毅然とした姿に後押しされるように、『出来る?』という問いに奈緒も加蓮も『出来る』と(ちょっと弱々しく)応える。
神谷奈緒北条加蓮が鷺沢文香にならないのは、CPで経験を積み成長してきた渋谷凛がいるからです。
見知らぬ『敵』ではなく、22話見守ってきた『仲間』がPKにいるということは巧く共感を導き、敵味方の境界線を狙い通りあやふやにしていきます。

地下通路から舞台に飛び出す前の緊張を、掛け声の話題でほぐしにかかる本田さんの姿も、新人二人にとってはありがたいものです。
第3話でガッチガッチだった本田を崩してくれた小日向さんの助言を、立場を変えて再話するシーンだといえます。
自分たちを的確に表現し前に進ませる『言葉』を手に入れるというモチーフは、第3話の『フライドチキン』にしても第20話の秘密の花園にしても、今回の円陣にしても、このアニメでは重視される要素だと思います。

こうして気遣いや仲間意識は受け継がれ、今回新人だったアイドルたちもまた、緊張する仲間の背中を支える日が来るのだと、この繰り返しは言っています。
優しい励ましと助力があれば、アイドル(≒人間)は困難を乗り越えられるし、その体験が今度は誰かを支える立場に変える。
そうやって時間は前向きに進んでいく。
それはアイドルという夢の具現を主人公に据えたこのアニメらしい、とてもっポジティブな時間の捉え方だと思います。

世界を真っ青に染め上げる"Trancing Pulse"は出だしのハーモニーの異質性がよく効いて、常務の言う『別格の物語性』を持った舞台でした。
個人的な考えなんですが、凛はCPにいたままでこのステージを捕まえられたか、少し疑問です。
アイドルになるなんて思っていなかった凛ちゃんは、自分がなにをしたいのかという強いイメージを持っていませんでした。
NGという仲間、第6話の危機を共有したからこそ全てを分かり合える、安心できる場所にい続けても、受け身体質な凛ちゃんが"Trancing Pulse"にたどり着いたかは、怪しいところでしょう。
常務の持つ強権的とも言える強烈なイメージと、親しみやすいCPとNGにはない鮮烈さがあってこそ、『敵』の懐に飛び込んだからこそ、『新しい冒険』に飛び込んだからこそ、渋谷凛はTPと"Trancing Pulse"にたどり着いた。
激動の夏フェスを経ても『楽しかった……と思う』としか言えなかった渋谷凛がようやく見つけた『やりたいこと』は、まさにあの舞台にあったのではないか。
僕はそう思いますし、そういう説得力をステージが持っているってのは、アイドルのアニメとして強くて良いことだとも思います。

夢なき主人公だった凛ちゃんが真っ直ぐ前だけを向いて走るレールは、結果としてプロデューサーではなく常務が敷きました。
ある意味到達点とも言える"Trancing Pulse"に飛び出していく直前、しかしプロデューサーは一声かける。
『待ってて』という凛ちゃんの願いに対し、『あなたの、プロデューサーですから』と。
『あんたが私のプロデューサー?』という第1話で発せられた言葉(というか渋谷凛という存在そのもの)に対する、短勁で真正面からのアンサーが出てきたことを考えてても、第13話では終わらなかった渋谷凛の物語は、今回一つの区切りにたどり着いた印象を受けました。


CPの成長に渋谷凛の到達と、描くべきものがたくさんある今回。
PKサイドの描写はやや控えめでしたが、ありすの名前呼びを核に使って関係の変化をコンパクトに描いていました。
相方を支えきれなかったありすですが、この失敗を糧にして、LOVE LAIKAやCandy Islandのような強い絆を育んでいくのでしょう……LLの湿度は見習うと危ないけど。
プロジェクト全体のライフヒストリーだけではなく、ユニット単位でのエピソードの蓄積もいれこむことで、『CPと同じように色々あって上手くいくんだろうな』という方向に想像力を誘導できているのは、尺の省略として巧いところです。

第21話EDでの不安が的中する形で巧く戦場を泳ぎきれないKPのアイドル達ですが、TPの舞台でブリッジを架けた後はCPとの交流も深まり、上手く緊張をほぐしていきます。
鷺沢さんがぶっ倒れる前に手を差し伸べてしまうと、問題と緊張が即座に解決してしまうわけで、"Trancing Pulse"のカタルシスを強める意味でも、CPとPKの終戦はあのタイミングがベストなんでしょうね。
まんじゅうみたいな顔してる杏ちゃんが、異常に頼もしい。

正面から優劣を競うのではなく、PKが陥ったピンチをCPが救出することでどっちが格上なのかを見せる決着方法は、アイドルを悪役にすることのないソフトな決着でした。
CPに対する存在として常務が描写されていた以上、その『仲間』であるPKはどっかで正しくないことの証明として『負け』無いといけないわけですが、今回の『負け』方はNGやCP全体が一度は通った道。
それは『勝ち』にも繋がっている道であり、今回頼もしい所を見せたNGのように、成長の果てにいつかは乗り越えられるという意味で、『負け』ではない『負け』です。
そもそもアイドルは勝ち負けではないと明に暗に言い続けてきたアニメなわけで、常務の『正しくなさ』にケリを付けて話に一応のまとまりを生む上で、ベストな着陸方法だったと思います。


というかむしろ、この落とし方をするために常務を敵としては中途半端な描き方をしてきたまである。
この話はアイドルの話であってプロデューサーの話ではないので、常務のやり方を(それが『正しくない』という結論でも)証明するためにはアイドルが出張らないといけません。
この時常務が明確な瑕疵のある『敵』だった場合、それに乗っかったアイドルは『敵』に共感したか騙されたか、どちらにせよ『仲間』と見るには難しい立場に追い込まれます。
常務のアッパーレイヤーな価値観や高圧的な方法論にも一分の理があって、全てを否定しきれないというどっちつかずの(もしくは中庸的な)描き方を続けた結果、今回PKのアイドルたちがCPに支えられ、導かれる展開はすっと入ってくる。
ちひろが言っていたように、『どの部署でも、アイドルたちの活躍は嬉しい』という気持ちがファンにはあるわけで、融和の可能性が一切ない『敵』(正確には『敵』の味方)として描かれていたら、今回の決着はなかなか難しかったと思います。

一応態度としてはツンツンした姿勢を崩さないものの、今回常務はかなりCPプロデューサーの方法論を学習しています。
部長と一緒に高い場所から見下ろしていた前半から、現場で問題が起きCPの協力で乗り越えた中盤を経て、常務はようやくアイドルのいる場所に降りてきました。
アイドルの横で、アイドルの顔を見ながら進んでいくCPのやり方が、けして悪くはないのだと学習したからこそ、秋フェスが終わった後撮影現場にも顔を出す。
混乱した時にPKが常務を探していたり、撮影現場で凛ちゃんと気さくに話していた所を見ると、常務は思いの外アイドルとの交流はしているのかもしれません。

TPがPKとCPの架け橋になっていたように、常務とプロデューサー両方の方法論を評価し、どうにかお互いの良い所を学習できないか気をもんでいるのが、部長になります。
『お前は常務のお父さんか』とツッコミたくなるくらい、今回も状況を詩的な言葉で取りまとめ、常務の頑なな態度を崩すべく努力していました。
その登場時から融和の種がまかれていたとはいえ、対立構造がなければ今回の和解もないわけで、プロデューサー自身が常務に寄り添っていく展開は難しい。
しかし着地点は勝ち負けや敵味方を超えた場所にあるわけで、常務のキツい態度をなだめて、視聴者とCPサイドに翻訳する立場が二期には必要です。
一気に比べ部長が積極的に動き、常務専属PCとして活発化しているのには、そういう事情があったのかな、などと思いました。
いや、プロデューサーのPLが『一期キャンペーンは自分の話し持ちすぎて、アイドルに見せ場渡せなかった。登場回数を抑えめにするんで、常務を拾っているリソースが多分無いです。部長PLさんのシナリオコネ、常務に固定してくれませんかね』とか二期始まるときに言ったのかもしんないけどさ。(TRPG脳)

 

こうして秋フェスはCPの『勝ち』に終わり、中間考査は無事突破、物語の大トリたる冬の舞踏会への道が開けました。
良かった良かった、大団円だ……とならないのがデレアニであり、これまで丁寧に何度も何度も描写してきた島村卯月の空虚が、ようやく爆発しました。
秋フェスが終わってもNGが復活しないという現実に心が切れたのか、頑張りすぎて『頑張ります!』という魔法が効かなくなったのか、ともかく心身のバランスを崩した状況であり、しかもCPメンバーがその深刻さを真の意味では理解していない。
危険な状態のまま、来週へとお話は続きます。

順調に進んでいく秋フェスの中でも卯月の危うさは幾度か描写されていて、例えばTPを見送った後の浮かない表情だとか、それに気づいてハグしてきた未央を抱きしめきれない描写だとか、秋フェスを成功させた後の円陣で一人一歩引いている姿だとか、最後の助走は十分という感じでした。
それが破裂するのが、自分たちのお城たる地下プロジェクトルームでの離人描写になります。
みんなが一歩踏み出し成長する中で、取り残された自分。
それは前回、TPに可能性を感じて迷う凛と、彼女を理解するべく、自分からNGの外側に飛び出した未央との間に産まれた共感から取り残された描写を引き継いでいます。

あのプロジェクトルームで、卯月は何から取り残されたのか。
それはおそらく、アイドルマスターシンデレラガールズ二期、それ自体です。
凛と卯月とプロデューサーが出会うところから始まり、NGというユニット、CPというプロジェクトが一つのチームとしてまとまって行き、ユニットデビューを果たし、夏フェスというクライマックスを迎えるまでの物語から、卯月が出れていないからです。

一期の物語の中で手に入れた喜び、連帯感、仲間意識を二期では様々に拡大し、変化させ、成長させてきました。
楓さんに現状を肯定してもらったり、ウサミンにキャラを貫く大切さを見せてもらったり、意にそぐわない他人の視点を乗りこなす方法を子供二人と美嘉で手に入れたり、杏べったりのユニットだったCIの関係性が少し変化したり、李衣菜がロックの神様ではなく前川みくとの現状維持を選択したり、悩んだ末に一度握った相方の手を離す選択に跳び込んだり。
最終的に変化したりしなかったり色々ありますが、常務が巻き起こした変化の波紋は否応なくCPにも届いて、島村卯月を除くアイドルたちは、一期のままではいられなかった。
結果としてこれまでと同じ形を選ぶにせよ、別の形に変化するにせよ、新しい人と出会い、話し、刺激を受けて変化、成長するというのが、二期のおおまかな流れです。

そんな中で、卯月だけが変わらない。
「新しいことを考えるのが苦手」と第20話で言っていた彼女は、変化の物語の外に意図的に放置されてきました。
それは安定を愛し変化を嫌う彼女の気質もあるだろうし、そんな彼女がいればこそCPの仲間が冒険に飛び込めるという、チーム内の役割的な部分もあるでしょう。
第21話で話を先読みし、相手の望む言葉を自分から切り出して致命打を避けていた姿を見るだに、島村さんは共感能力が図抜けて高い。
波風が立って誰かが傷つくのを避けるためなら、無意識的巧妙さで冒険を避け続ける目の良さが、彼女にはあったのでしょう。

しかし卯月がどれだけ一期のCPを望んでも、時間は残酷かつ身勝手に先に進む。
望むと望まざると常務はCP白紙を宣言し、それに対応するべくメンバーはプロジェクト外のアイドルと交流し、もしくは既存のユニットの関係性を再考し、己を変えていく。
アイドルという夢も叶った、素敵な仲間もいる、毎日笑顔で仲良くやれている。
ずっと今が続けばいいという卯月の願いとは裏腹に、二期は一期で達成した物語に鋤を入れ、CPの成長物語の影になって見えなかった部分をもう一度掘り返すお話として、どんどん進んでいきました。
アナスタシアと凛のCP引き抜きという介入を乗り越えることで、冒険と変化という二期の物語的潮流はCPメンバー全員を飲み込み終わり、第22話がやってきます。
島村卯月だけを置き去りにして。


無論、未央が離れてみて見えたNGへの愛を今回語ったように、一期で手にいれたものがあってこその二期の変化なのは間違いありません。
しかし帰るべき場所があることと、どれだけ望んでも時が進んでしまうこと、それに対応するためには変化が必要であることは別次元の問題であり、だからこそCPは今回わだかまりなくPKを支え、『勝つ』事ができた。
今回事態を平和裏に収めたロジックが、卯月にとっては逆しまに凶器になるのは、皮肉としか言いようがありません。

島村卯月は素敵な笑顔を持っていて、みんなに優しく、愚痴や悪口を言わない天使のような子です。
それを逆に言えば、どんなに追いつめられてもネガティブな気持ちを表に出せず、溜め込み続ける性質を持っているということです。
カフェを占拠した前川や「全然お客さんいないじゃん!」と叫んで逃げ出した未央、裏切られたという思い込みをプロデューサーにぶつけた凛に、城ヶ崎姉妹の喧嘩。
これまでのお話しを思い返すと、貯めこんだストレスを爆発させ周囲を傷つけるアイドルの姿は、結構な数います。
卯月はそういう形で気持ちを吐き出すことは出来ませんし、おんなじように抱え込む子もまた、智恵理を筆頭にたくさんいる。
しかしそんな智恵理も一度失敗してから立ち上がり、切子職人さんの笑顔という報酬を手に入れているわけで、卯月ほどネガティブな気持ちを抱え込み続けるアイドルは、CPにはいない。

いつも笑顔な島村さんがしかし、傷つきも凹みもしない天使ではないということは、彼女の危うさと一緒に沢山描写されてきました。
美嘉のバックダンサーをやる時には強く緊張していたし、未央が抜けたストレスでぶっ倒れてるし、血も流せば涙も流す普通の女の子なのだというサインは、これまでのエピソードの中にみっしり詰まっている。
しかしそれを表に出すことで場が乱れることを恐れる卯月は、笑顔の仮面の下に傷を隠してしまう。
別に狙って演じているわけではなく、もはや人格の一分を成しているという意味で、島村卯月の笑顔は前川みく猫耳よりも、諸星きらりのにょわにょわ語に近いのでしょう。


卯月が笑顔の下に隠しているのは傷と涙だけではなく、劣等感も押し込められていると思います。
第1話の養成所での描写、第12話で知恵りや蘭子と同じく『負け役』を担当していたことから見ても、卯月はパフォーマーとしての才能がある子ではありません。
何度も繰り返し同じ練習を積み重ねることでしか、『頑張る』ことでしか夢に近づけない子なのでしょう。
地下室で置いて行かれたのは変化と冒険にだけではなく、『頑張る』こと、自分に負荷をかけ続けることでなんとか仲間に追いついていく卯月のスタイル、それ自体の破綻でもあるのでしょう。

それでも僕は、第20話において混迷するCPが現状を肯定する切っ掛けを、第12話で『負け役』だった蘭子と智恵理が造ったように、卯月も『負け役』ばっかりじゃないと証明して欲しい。
だって島村さんが生み出してきたもの、達成してきたことは、とっても立派なのだから。
凛ちゃんをアイドルの道に進ませたのも、崩壊しかけた未央と凛が戻ってくるきっかけを作ったのも、プロジェクトルームがいつも朗らかで明るいのも、このアニメが楽しいのも、みんな島村さんがやってきたことだから。
出来ない自分への評価が低いことも、『頑張る』ことしか自分にないと思っていることも、それが崩れてしまって他の方法が思いつかないことも、それでも立ち止まる事が出来ないことも、良く分かります。
それでも。
それでも僕は、島村卯月が世界と自分に『勝つ』瞬間を、どうしても見たい。
そうじゃなきゃ、あんないい子が報われないなんて、哀しいじゃないですか。

そしてそれは多分、作中のアイドルたちも同じ気持だと思います。
ここまで一緒に物語を走ってきた仲間なのだから。
特にようやく『やりたいこと』を見つけて走り始めた凛は、スタートラインまで手を引いてきてくれた卯月に恩返しをするチャンスです。
一期でさんざん迷走したけど、今回パーフェクトコミュニケーションを連発する所まで来たプロデューサーも同じのはず。
今だ笑顔の仮面の下にある卯月の傷と涙、そしてその下にある本当の笑顔を彼と彼女たちが取り戻してくれるのを、僕はとても楽しみにしています。

 


付記としてとっても気持ち悪いことを描いておきます。
自分は物語の構造やその感性というのに強い興味を持っていて、キャラ個人がひどい目にあっていても、お話の完成に寄与するのであれば『まぁしょうがねぇな』となる質です。
島村さんの爆弾は丁寧に、本当に丁寧に描写されてきたのもあって、当然こうなるべき展開です。
溜め込んで溜め込んで、毎回『こんだけ貯めこんでますよ、今回は導火線に火がつきましたよ!』とサインを出していた展開が結実したのだから、喜ばないまでも納得はするべき出来事でしょう。

そう思いながら一回見て、この文章を書きながらもう一度見直して、しかし全然喜べない。
丁寧に作り上げた物語的構造物が、必然のピースを手に入れたのに全然嬉しくない。
『こんなことになるなら、伏線全部ひっくり返しても良いし、成長もしなくていいから島村さんずっと笑顔で良いよマジ!』とか思っている。
それなりの時間になった物語との付き合いの中でも、なかなか珍しい感情の動きでした。
『俺、こんなにしまむー好きだったんだな……』って感じです。

こういう状態になってなお「しまむーが辛そうだからデレアニはクソアニメ! くたばれ製作者!!」とならないのは、個人的な振る舞いの好みもありますが、この爆発に至るまでの旅路と全く同じように、求められる当然の帰結にこのスタッフならたどり着いてくれるという信頼があるからです。
辛いけど身を委ねようと思える創作物は、僕の狭い経験の中だとあんまりない。
ありがたいことだと思います。
ガッツンと下げるまで下げて、そこからしか飛び上がれない高みに島村さんを押し上げてやって欲しいと、強く願っています

 

 

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd Season:第23話『Glass Slippers』感想

島村卯月を巡る冒険、激浪の第23話。
前半は卯月が現在どれだけヤバイのかを作中のキャラクターと視聴者に見せ、後半はヤバさに気付いた凛と未央が卯月とぶつかる構成でした。
話の作りとしては第7話と同じなのですが、プロデューサーも言っていたように、あの時とは状況が違う。
ただ話しあい、自分の気持に整理がついただけでは状況は改善せず、解決のためにはクリスマスステージを待つことになります。


今回のお話は徹底的に卯月のためのエピソードであり、潤沢な尺が島村卯月を描写するために使用されます。
CPから離れ、NGから離れ、養成所という物語の開始前に戻ってやり直そうとする卯月。
「巧く行かなくなったら、巧く行っていた所まで戻ってやり直す」という堅実な歩き方が、優等生の悲哀を感じさせて痛いシーンです。
彼女の孤独な特訓風景は、プロデューサーが扉を開けて島村さんが「ママ〜!!」と言う前の世界そのものです。
これまで語られず想像に任されていたその風景は、ストイックと言うには荒涼としすぎていて、寂しく辛い情景です。

何故このタイミングで物語開始以前の荒野を見せたのかを考えると、今回のお話の目的と関係しているのだと思います。
本田未央が代表して語っていますが、島村卯月は凄く意図的に、何者にも傷つかずずっと笑顔でいてくれる、一種の避難所のような役割を背負ってきました。
最終的に前に進むとはいえ、過酷な試練と重いストレスを少女たちに用意することで成長を促すこのアニメを見ることは、なかなかヘヴィな体験です。
例えば第6話から第7話前半にかけての辛い体験を共有させたあと、事態を好転させたのは島村さんの笑顔でした。
風を引いた島村さんを見舞うあのシーンから露骨に色使いが明るくなり、画面に有機的なアイテムが増え、物語が良い方向に転がりだしたサインが出始める。
他にも様々なシーンで、島村さんは重たい空気、緊張した雰囲気の抜け出し口として、便利に機能してきたわけです。

しかし、このアニメーションの女の子すべてがそうであるように、島村さんだって涙も見せれば血も流す、一個の人間存在です。
笑顔の天使島村卯月がプロデューサーに見いだされる前、物語に参加される前にはこんなに辛い風景があって、そこを乗り越えて頑張っているのだ。
でももう頑張れなくなってしまって、それでも頑張ることしか知らないから、自分を痛めつけるように闇の中で踊り続けているのだ。
伏せていた札を効果的に見せるマジックのように、島村卯月が天使から人間に変わる今回のお話の中で、養成所時代へのタイムスリップは効果的に機能しています。

『何処にも天使はいない』というのはこのアニメのあらゆる瞬間に共通する哲学でして、序盤からプロジェクト全体に目を配り弱い子達の面倒を見ていたきらりにしても、第10話や第12話で折れ曲がる姿を見せている。
第12話でリーダーとして覚醒した新田さんも第13話では空回りの果てにぶっ倒れているし、頼りになる城ヶ崎先輩も第17話で激高しみりあちゃんにすがる姿を見せている。
大人として少女たちの弱さを引き受けるはずのプロデューサーに至っては、一期前半にさんざん情けない姿を晒しているわけです。
このアニメに単純化された完璧な存在はいないし、傷も負の感情もなくただ前向きなだけの女の子など、存在できるはずもない。
今回ようやく表になった島村さんの傷は、そういう文脈の中にある傷でしょう。


卯月はヤバい。
視聴者には第21話(か第13話か、はたまた第1話か。的確にヤバさを埋めつつここまで表にはしてこなかったアニメの演出プランからすると、視聴者個人の感受性によって、『しまむーがヤベェ』と実感するタイミングは異なる気がします)から感じられていた事実に、今回ようやく作中のキャラクターも接近していきます。
この時の対応は、過去の危機と比べてかなり異なる。
渋谷-本田のラインでは何度も相談がかわされていますし、渋谷-島村、本田-島村はこまめに電話で連絡を取り合う。
事態が地獄に地辷りしていくのをただ見ていた第6-7話とは、根本的に異なります。
自発的に情報を集め、対処のための準備を整え、問題解決のための意思を見せるアイドルの成長を見たからこそ、今回プロデューサーはアイドルではなくその上、美城常務に相対する。
その変化はプロデュサーの変化であると同時に、アイドルの変化でもあるわけです。

とは言うものの、アイドルを支える立場にあるプロデュサーが一番最初に危機に気付き、決定的な手を打つのは当然ともいえます。
暗闇の中一人で踊り続ける卯月の姿を、プロデューサーはじっと見つめる。
ライブという具体的なリミットを切らないと、鍛錬という名前の逃避に首まで浸かっている島村さんは帰ってきません。
手早く会場を抑えて強制力を発揮してしまう手際は、第18話で智絵里とかな子に見せた善意ある強要を思い出させます。
一期では『アイドルを運ぶ車輪』を自認していた彼が、かつて失った『魔法使い』としての輝きを取り戻しつつある描写でしょうか。

独断と言っていいくらい積極的に動きつつも、今回のプロデューサーは情報交換を密に、客員の意向を確かめつつ前に進んでいます。
ここらへんの相手の顔色を見ながら進む姿は、凛と未央の描写と共通するところです。
第6-7話の危機の当事者であり、その時はお互いの心情を確認しなかったからこそ事態が悪化していったのを考えると、成長のわかりやすい描写だといえます。

プロダクションに顔を出すアイドルだけではなく、島村さんにもプロデューサーは積極的にコンタクトを図っています。
第7話で自分を救ってくれた甘いモノを用意し、なんとか事態が改善するよう祈るプロデューサーさんですが、二人の間には埋まらない隙間があり、事態を解決する取っ掛かりは見つけられない。
それを掴むのは渋谷凛の独善的な衝動であり、本田未央の優しい仮面だからでしょう。
プロデューサーはアイドルではなく、つまり自分の力で光り輝く星ではない。
今回星にかかる雲を晴らす(ためのステージに、島村さんが上がる道筋を立てる)のは、アイドルの仕事になるわけです。


連絡は密にしている、相手のやりたいことも確認している、お互いを思いやる気持ちもある。
必要なパーツが揃っているはずなのに好転しない状況を変化させるのは、渋谷凛の衝動です。
思い返せば彼女は常に衝動の人で、第1話で島村卯月とプロデューサーに出会って感じたアイドルへのトキメキには迷わず飛び込むし、第7話で不甲斐ない姿を見せたプロデューサーには迷わず幻滅して会社に来なくなる。
『敵』のはずのPKやTPに可能性を感じて、CPやNGがギクシャクするのもお構い無しで新しい世界を開拓していく彼女に用意されたのが、『Trancing Pulse』という曲なののは、むしろ当然と言えるでしょう。

今回はしまむーが好き過ぎる気持ちが暴走し、TPのレッスンにも気が乗らない描写がありました。
走りだした衝動を世間体や常識で抑えこんで、何となくいい感じに丸め込むことが良くも悪くもできない子なのです。
……第1話のつまんなそうな日常描写を見ると、プロデューサーとアイドルに出会うことで、抑えないことを覚えたというのが正確かな?

衝動の赴くままにプロデューサーの元に押しかけ、養成所のアドレスを入手した凛ちゃんは、おんなじように走り回っていた未央と合流します。
つまらなそうに自分をいじめ抜く島村さんは、これより前に未央が直接会おうとすることを拒絶しています。
例えば第21話、PKとしての活動を凛が切り出すよりも早く、先取りして「いいと思います!」と言った時のように。
凛ちゃんはTP、本田は演劇と新しい衝動を見つける中取り残された時、小日向さんとのユニットを提案されてすぐさま受容したように。
島村さんは致命的な事態を先取りして回避する嗅覚に優れていて、NGとの直接対面をことさら避けていたのも、その延長線上にある対応だと言えます。
無意識のうちに卯月が張り巡らせている、優しさのバリアー。
これを突破できる熱量は、やっぱり凛ちゃんの人格的特性である衝動にしかないという展開です。

この後の問答を見ていると判るのですが、凛ちゃんの衝動主義は時にキツい。
怖くて傷付いて泣いている島村さんにも、自分が感じている正しさを抜身で叩きつけてしまう危うさがあります。
涙と動揺を飲み込んで『いつも笑顔の本田未央』を演じ、島村さんを受け止めた本田の人間力がなければ、どうなってたかわかりゃしません。
本田がそこに到達するために一期があり、今回のエピソードで島村さんのために二期があったとわかったわけですが、凛ちゃんはまだ自分の特性、衝動の赴くままに走り回ってしまう性向の危うさを自覚できていません。
本田が自分のええかっこしいでお調子者な部分を、島村さんが己の空虚さを理解するために、豊かなエピソードの組み立てを必要としたことを考えると、凛ちゃんの物語はまだ始まっていない、ということが出来るのかもしれません。
残された時間は二話で、そのうち一話は島村卯月の復活に使うことを考えると、渋谷凛の物語は映画で始まるのかなぁ。

 

ともあれ、島村さんが必死に守り続けた柔らかい部分に土足で乗り込んだ凛ちゃんは、ガンッガン前に出ます。
単刀直入に本題を切り出すことで事態は加速し、島村さんはどんどん危うい地金をさらけ出していく。
『自信がない』『アイドルやるのに十分じゃない』『早かった』『舞踏会に出る資格が無い』
ぽんぽんと口をつくネガティブな言葉が二人の想定外であり、天使である島村卯月から出てくる台詞だとは信じたくないという気持ちが、本田の素のリアクションからよく分かります。
制作スタッフが意図的に張り巡らしてきた『大丈夫』『頑張ります』のバリアーが壊されていく瞬間なので、ここにはキャラクターへのショックからはみ出した、視聴者への負のカタルシスがありますね。
……あんま感じたくなかったカタルシスだけど、劣等感が島村さんの根本にあるんだから、ここで爆破しなきゃどうしようもねぇわな……。

本田がどうしても踏み越えられない距離を「誤魔化さないでよ!」という絶叫とともに踏み越えたのは、やっぱり衝動の女・渋谷凛でした。
凛ちゃんが持っている感情の昂ぶりと苛烈な正しさがなければこの距離は超えられなかっただろうし、練習場という『物語が始まる前の場所』から公園という『物語が始まる場所』にシーンが映ることもなかった。
同時に島村さんはズルズルと後退して、傷付いた気持ちを抱え込んだまま頑張って、頑張って、頑張って、多分ダメになっていた。
尖りすぎて当たりのキツいところはありますが、渋谷凛の衝動主義は停滞した状況を打ち破る強さを持っているのは、間違いないところです。

同時に心の底から湧き出る「本当」を第一に考える渋谷さんの衝動主義は、もう頑張れない島村さんには劇薬です。
逃げようとする度凛ちゃんは「逃げないでよ!」と叫び、自分がこの公園で感じた衝動の価値を語り、そんな貴重な体験を与えてくれた卯月の意味を取り戻そうとする。
アイドルという夢の中身を考えるのであれば、凛ちゃんの言っていることは正論です。
日常の中では感じられない新しい衝動、それに飛び込む勇気を与えてくれる存在は特別で、アイドルになるのに相応しい資質を持っている。
最高の笑顔を持ったアイドル・島村卯月二人目のファンとして、黙っていられない局面なのでしょう。
『TPに参加する渋谷凛を認めてくれた』『渋谷凛がアイドルになる切っ掛けを作ってくれた』
公園での凛ちゃんの発言をよく聞くと、全ての主語が自分自身であることに気付きます。
迸る猛烈な衝動と自我が状況を変化させているのですが、同時にそれは身勝手て自己中心的でもある。
『何処にも天使はいない』という演出哲学は凛ちゃんにも向いていて、結果として凄く思いやりの言葉の刃を、凛ちゃんは振り回すことになります。


そしてそれは、根拠の無い自身で劣等感を覆い隠し、アイドルの実感が無いままアイドルにたどり着いて頑張れなくなってしまった今の卯月には、鋭すぎる刃です。
それに切開される形で、島村卯月すら気づいていなかった島村卯月の地金が、どんどん曝け出されていく。

凛ちゃんが「嘘の言葉」といった時、島村さんはふるふると弱々しく首を横に振ります。
それは別に演技でも逃げでもなくて、本心から今でも笑顔でいられていると勘違いしていたからでしょう。
ずっと良い子で、ずっと頑張ってきて、ずっと天使だった島村卯月は、自分が抱え込んだ傷や痛み、劣等感というネガティブな感情への対処法を知らないままここまで来てしまった。
知っていて偽るのならば『嘘』ですが、卯月は天使のように純真に、自分のマイナスを認識できていないわけです。
養成所からアイドルとして選ばれるでもなく、同期のように諦めるでもなく、ずっと踊り続ける中で当然溜まったストレスがどんなものであるかすら、島村卯月は分かっていない。
第5話の前川、第6話の本田のように爆発したり、第13話の新田のように倒れたり、第19話の多田のように悩んだり出来なかった島村卯月が、己の影と向かい合い方法は『頑張る』ことしかなかった。
それが限界に達したことを、凛ちゃんの残忍な正しさが切り裂いていくことで、卯月はどんどん自分を知っていきます。
限界に達し、プロデューサーに認められた唯一の武器であるはずの『笑顔』すら作れなくなっている自分を。


親友に「今のアンタを信じられない」という言葉の刃を突きつけられた島村さんの視線の先に、本田がいたのは僥倖だといえます。
愛すべきしまむーがいきなり超ネガティブな台詞を垂れ流し、『私舞踏会やめる!』とかつての自分みたいなことを言い出したショックから、本田はなんとか抜けだし、NGのリーダー、『いつも笑顔の本田未央』の役割を取り戻している。
この社会的役割への強い意識は、『リーダーなんだから頑張らなくちゃ!』という空回りを(第12話のように)持ってくることもありますが、今回のようにキッツい状況を折れずに改善させていく原動力になることもある。
『個性は個性であって、それがプラスに働く局面もあれば、マイナスに動く状況もある』という捉え方は、作品全体を貫通するところです。

「なんでも言ってよ、しまむー!」という本田の言葉(これを『普通』に言うのに必要な自制心を考えると、本田の人間力マジすげぇなって感じですが)に促され、島村さんは凛ちゃんの言葉で切開された自分を吐露していく。
頑張っているはずの自分、笑顔になれていない自分、舞踏会で常務の方針を撤回させNGを再興させるために頑張ってきたはずの自分、『みんな』みたいにキラキラ出来ていない自分、『私の中のキラキラするもの』が何なのか分からない自分。
先読みで致命打を避け、頑張って追いついてきた島村卯月の仮面は告白の中でどんどん剥がれていって、汚くてグチャグチャな自分、天使などではない島村卯月にようやくたどり着きます。
凛ちゃんの苛烈な情熱も、プロデューサーの穏やかな配慮も、本田のギリギリの優しさも、この瞬間のためにある。
島村卯月から天使の羽をもいで、人間にするこの瞬間のために。

卯月は言います。
「このままだったらどうしよう……このまま時間が来ちゃったら……怖いよ。もし、私だけなんにも見つからなかったら……どうしよう……怖いよ。プロデューサーさんは私のいいところは笑顔だって……だけど、だけど、笑顔なんて、笑うなんて誰にもできるもん! なんにもない、私にはなんにも!!」
それは人間だったら誰でも当然持っているはずの不安と恐怖であり、島村さんが天使ではないということの証明です。
CPの女の子はこれまでの物語の中でみんなこれと向き合い、時に飲み込まれながら、仲間の助けと少しの勇気で乗り越えて、一歩先に進んできた。
物語の本流から意図的に外された島村卯月は、この人間的な感情の泥と格闘する時間を与えられなかった結果、これだけの痛みを溜め込んでいたわけです。
それは『頑張って=我慢して』いれば物事は良くなるという、島村さん式の成功経験が呼び込んだものなのかもしれません。
暖かく幸せな家庭に恵まれ、自分のネガティブな側面と対峙する試練(≒エピソード)が与えられなかった結果かもしれません。
どちらにしても、凛ちゃんの追い込みと本田の包容力に助けられて、卯月はようやくここに辿り着いた。
自分が苦しくて、不安で、『みんな』のようにキラキラしていないという事実に、ようやく向かい合えたのです。

人間なら当然持っているはずのマイナスの感情と、卯月は巧く付き合った経験がなかったのかもしれないと、彼女の泣き顔を見ながら思いました。
誰かを妬んだり、憎んだり、羨ましく思う気持ちというのは、島村卯月から一番遠いように思えるし、そう思えるように作中の描写は組み上げられてきた。
しかし感情の泥は確かに卯月の中にもあって、それは切開され表面化されてしまった。
だからある意味、あの泣き声は産声でもあるのでしょう。
ポジティブな感情も、ネガティブな気持ちも両方兼ね備えた、普通で当然の人間・島村卯月の産褥は、奇しくもアイドル・渋谷凛のスタートポイントであり、一度逃げ出した本田未央が再起した場所でもある。
映像と構成が噛み合った、非常に巧く出来たリフレインです。


島村さんが震えながら絞り出した叫びを前に、凛ちゃんはあくまで自分の衝動、自分の正しさ、自分の気持ちを叩きつけます。
その苛烈さを切り取るカメラは情け容赦がなく、渋谷凛という人物の根本をさらけ出しています。
多分ここでの最適解は第17話でみりあが美嘉にしたように、傷付いた子供を抱きしめてあげることなんでしょうが、凛ちゃんは当然として本田もそれはできない。
『信じて笑顔で待つ』という答えから、さらに踏み出した『震えている子供を抱きしめる』という答えを実行するには、二人共色んなモノが足りないわけです。
人生の試練を一気に片付けるのではなく、段階に分けて描写する繊細さが感じ取れて、このシーンの臆病さはとても好きです。
最年少のみりあこそがその答えに辿り着いているっていう逆転も、面白いところですね。(こういうのを『バブみ』というジャーゴンにまとめて押し流してしまうと、色々細かいところを取りこぼす気がするので、新しい言語に飛びつくのは難しいなぁ、などと思います)

凛ちゃんの正しさは卯月の涙を止めず、涙を拭って『いつも笑顔』の仮面をかぶり直した本田の一歩が、この場を収める鍵になる。
ここで本田が言う言葉は、本田自身の気持ちであると同時に、追い込まれ笑顔をなくし、自分をいじめ抜くように踊る島村さんの姿を見た僕達の感情でもある。
島村さんが抱え込み、この映像を作るスタッフたちが非常に巧妙に隠し(そして見せて)きた泥と痛みに気づかなかった気持ちを、本田は僕達に変わって代弁してくれているわけです。
第11話でのアスタリスク結成を「余り物同士で適当に組んだのか!」と激高したみくのように。
もしくは細かく細かく、凛ちゃんが代弁する主人公として色々言ってきたように。
視聴者の気持ちをキャラクターが肩代わりするシーンが上手いこのアニメですが、本田の告白はその最たるものだと思います。
ありがとう、本田未央

自分の感じた衝動にとらわれ、卯月に歩み寄れない凛の手を未央が取り、三人はもう一度友だちになります。
第7話でも、頑なにプロデューサーを拒絶する凛の手をとったのは未央でした。
あの時の決死の表情とは違って、柔らかく優しい口調を今の本田未央は作れている。
リフレインは運命的な繰り返しを強調すると同時に、変化と成長を分かりやすく見せるためのものでもあると、つくづく感じるシーンです。

気づけば日も暮れて、三人は一度別れる。
最後まで笑顔を維持している本田の自制心も凄いですが、最後の最後で自分の衝動ではなく、卯月の顔を見て「待ってるから」と言えた凛ちゃんにも、心を動かされます。
この後の帰り道、本田間違いなく一生真顔だよなぁ……頑張った。
クリスマスライブというリミットに向かい進んでいく時間、信じて待つ仲間、そして運命の土壇場から逃げなかった島村さんを写し、今回のお話は終わります。
第7話と違って、もう彼女たちはアイドルです。
自分を肯定できる瞬間、愛情を実感する場所は誰も見ていない公園ではなく、ステージの上ということなのでしょうか。

島村卯月が23話分(もしかするとそれ以前から)溜め込んだ泥を切開し、吐き出させ、震える彼女を受け止める愛情が凛と未央、プロデューサーをはじめとする仲間たちにちゃんとあるのだと、確認するお話でした。
これで卯月の溜め込んだ泥は全て出た……と思いたい所ですが、もしかしたら未だあるのかなぁ。
未央が自分の地金をさらけ出すのにかけたより、更に時間を使ってここまで来たので、いまいち自信を持って『問題点は全部出たし、それを受け止める土台はあるし、全然オッケーです!』と言えないのが正直な所。
でも、多分大丈夫でしょう。
このお話の女の子たちはみんな、優しくて強くて弱くて、綺麗な女の子たちですから。
クリスマスライブ、楽しみですね。

 

ついでに常務の話をしておくと、今回はすごーくわかりやすい悪役をやってくれました。
あの状況の島村さんを「切り捨てろ」と言われると思わずガタッ(椅子から立ち上がる音)って感じですけども、『敵』ならばむしろ感情の壁役として必要な言葉。
むしろこれまで、なんでこういうたぐいのキッツいセリフを言わせなかったのか、疑問に思う所でもあります。

クローネとの格付けが一応前回終わったのもあって、今常務が明確な『敵』役をやっても、そこまで迷惑がかからないってのが理由なのかなぁ、とか思いました。
前回よりも早い段階で「切り捨てろ」と言われてたら、常務についていくクローネが『そんな薄情な女についていくの? おかしくね?』と思われちゃうからなぁ。
色んな意味で、常務は難しい立場のキャラだなぁと再確認する感じでした。
しかしまぁ、やっぱ『敵』が分かりやすく『味方』を否定する立場に立ってくれると、『味方』の正しさは分かりやすくなって良いのも事実よね。

あと秋ライブの経験が彼女を変えたのか、現場に降りてきてレッスン見ているのは良かった。
そのままジャージに着替えて、一緒に踊れば面白かったのに。(常務アイドル説をまだ支持するガイ)
こういうところも、『敵』と『味方』を行ったり来たりする複雑な(もしくは中途半端な)乱入者、美城常務の魅力だと思います。
なんだかんだ、僕は常務好きなんだなぁ。
舞踏会でどうデレるのか楽しみだ。

 

 

アイドルマスターシンデレラガールズ -2nd Season-:第24話『Barefoot Girl』感想

章立て
0)はじめに
1)『縦』と『横』の物語としてのアニメ・シンデレラガールズ
2)今回のエピソードの特異性
3)本編感想 -レガリア集め-
4)本編感想 -裸足の女の子、と男の子-
5)本編感想 -今週の美城常務-
6)おわりに

 

0)はじめに
時に逆境に逆らって立ちすくみ、時に傷を負って血を流して来たシンデラ達のお話、第24話目は島村卯月のお話、最終章でした。
群像劇として沢山の女の子を同時にカメラに写してきたこのアニメには非常に珍しく、今回のお話はその尺ほぼすべてが、島村卯月のためにあります。
これまでのモバマスアニメ『らしくない』方法論をあえて選択し、島村卯月の傷と痛み、震えと再起のために時間を使う理由が、このエピソードにはあったということでしょう。
今回の感想はシリーズ全体、エピソード全体をまず俯瞰し、その後実際の映像に従って感想を述べていく形式で進めます。

 

1)『縦』と『横』の物語としてのアニメ・シンデレラガールズ
メインだけでもアイドル14人+プロデューサー、話に深く絡んだゲストアイドルもたっぷり存在しているこのアニメは、彼女たちの物語の『数』と『質』を両立させるべく、一つのエピソードに複数人のアクターを用意し、同時並列的に物語を進行させていきます。
これは一話のエピソード内部での物語進行(いわば『横』の物語進行)だけではなく、話数を跨いで展開する総合的なエピソードの進行(『縦』の物語進行)でもそうです。
あるエピソードでは脇役、もしくは助言役として少し印象に残るカットを担当していたキャラクターが、次の次の回では主役となり、彼女の物語において以前描写されていた要素が非常に重要になる。
こういう作り方は、シリーズ全体を貫通する重要な見せ方でした。

例えば第3話は主人公格に当たるNGの三人が、城ヶ崎美嘉に見出されて初めての舞台に上がる物語ですが、同時に前川みくが彼女たちにつっかかり、色々と挑戦を仕掛けてくる物語でもある。
ここで『凡人』『不平を言う役』としての印象を残した前川は、自分のエピソードである第5話において溜め込んだ不満を爆発させ、NG以外のアイドル、デビューできない存在の代弁者としてシリーズを引き締める仕事をします。
もし第3話で前川が登場せず、子供のじゃれあいのようにも見える不満の表出をしていなかったら。
もしくは、第4話までに丁寧に描写されている、キャラをかぶりつつも自分に自身が持てず、シリアスとギャグの中間でふらふらしている前川未来という描写が薄ければ。
第5話で前川が爆発させた不安と不満が、ハッと視聴者の胸を深く突き刺すことはなかったでしょう。

もちろん第3話は基本的にはNGのための、そして第6-7話を睨めば本田未央のための物語であって、尺の殆どは彼女たちの期待と不安、それを飲み込むステージでの開放感に費やされています。
アイドルとしての初ステージをじっくりと描写したこのエピソードでは、緊張に飲み込まれ、『いつも元気な本田未央』という仮面が剥がれていく本田未央(第2話でこの仮面を強烈に印象付けているからこそ、機能する描写)と、それでも前に進んでいく少女たちの歩みが丁寧に描かれていました。
画面の明暗やレイアウトをコントロールし、適切にストレスを与えることに成功していればこそ、「フラ・イド・チキン!」の掛け声と同時に飛び出したステージの開放感とカタルシスが、強く視聴者の胸を打つ。
そしてそれこそが、第6話での本田未央の失望と、そこから這い上がる第7話のカタルシスを用意し、さらに言えば第13話で描かれた「私……アイドルやっていてよかった!」という言葉に帰結するわけです。
そして、主役を貰ったエピソード以外の本田の描写-お調子者で、集団の中での視野が広く、思いの外自己評価が低く、リーダーという社会的地位に強い意識を持っている-が細かく、丁寧に挟まれればこそ、3-6-7-13話という本田未央主役のエピソードの流れは、一つの奔流として力を与えられています。

あくまで前川と本田を例に上げましたが、『複数人数のキャラクターを同時並列的に舞台に上げ、キャラクターが深まる描写を細かくはさみ、『縦』『横』両面の物語進行に活かすことで群像劇を展開させていく』という手法の恩恵は、このアニメに登場する全てのキャラクターが受けるものです。
第10話で莉嘉が傷を負って初めてしゃがみ込むきらりの描写は、それまで常に最後尾でNG全体に目を配り、孤立しそうな子がいれば必ず目線を合わせて話しかける彼女の姿があればこそ、意味のある傷になる。
第21話において蘭子が『普通の言葉』を使って自分の気持ちを喋り、混乱するCPが再起するきっかけを作る描写は、第8話でプロデューサーと心を通わせ、第13話で自分の意志を言葉にした描写、さらに言えば合間合間に挟まれる『熊本弁』の楽しいコメディーシーンがあればこそ機能する。
事ほど左様に、群像劇として『数』を捌きつつ、キャラクターが持っている感情の揺れや痛み、立ち上がる心の強さなどをちゃんと描く『質』の両立を達成するべく、このアニメは常に、たくさんのアイドルのお話を同時並列的に処理してきました。

 

2)今回のエピソードの特異性
その上で、今回のお話はほぼ島村卯月がこれまでどういう気持で、今どういう気持でいるのかという問題に重点し、他者との交流も彼女の一人称で意味を持つよう描かれています。
それはつまり、島村卯月の物語はこれまでと違った方法、違った重さで終わらせなければならない性質を持っている、ということです。
島村卯月が今抱えている問題は、既に第1話の登場シーンから発生していたというのは、前回執拗に描かれた孤独な特訓シーンを見ても分かります。
その孤独をより深めてしまった、彼女のあまりにも魅力的な笑顔と、その奥にある普通の女の子としての柔らかく傷つきやすい気持ちの描写も、既に第1話にある。
『縦』の描写の積み重ねで言えば、NG14人の中で最も重たい蓄積を島村卯月は持っています。
(同じく第1話から描写を積み上げてきた渋谷凛ですが、『衝動』という根源が表面化しつつ、本田や島村のように人格の根本が引き起こした問題がエピソード化していない彼女の物語は、まだ始まってすらいません。映画あるんだろうなぁ……あって欲しい)

それを解決するべく、今回のお話はすべてが島村卯月に捧げられています。
お話全体の勝ち負け-ほぼ全ての視聴者が認める『勝ち』はしまむーの復活でしょう-としては、実は前回のラストシーン、346本社ホールに意を決して立った瞬間に付いてしまっている。
渋谷凛が切開し、本田未央が手当した島村卯月の傷は致命傷ではなく、彼女はもう一度アイドルという戦場に立った。
『なら、この流れで負けるはずがない』というのは、ある程度物語の形式に慣れ親しんだ視聴者にとっては、読み解ける暗号です。
というかむしろ、暗号を読み解かせてNG三人の本気が必ず報われるのだという安心感を与えるべく、あのラストシーンが置かれている、というべきでしょうか。

だから、今回重要なのは『勝つ』ことではなく、『どう勝つ』かになる。
あの公園で頑是ない子供のように怯えを露わにした島村卯月は、『どう』したらもう一度笑顔になって、「アイドルやっててよかった!」という気持ちになれるのか。
今回の24分は、ほぼ全てがその説明に使われているわけです。

 

3)本編感想 -レガリア集め-
ここから、実際の映像にそって見ていきます。
開幕常務のポエムパンチで一発当てられつつも、島村さんは手早くNGと合流し、話が転がり始めます。
真っ先に瞳が潤みつつ歩き出せない渋谷凛と、心を動かされつつも『いつも元気な本田未央』の仮面をかぶり、状況をコントロールする決意を噛み締めた本田との対比が面白い。
この瞬間被った仮面を本田はクライマックスまで外さず、ずーっと周囲に目を配りつつ、島村さんがもう一度歩き出せるよう、状況を整え続けます。
『集団内部での視野の広さ』というずっと描かれていた彼女の特長が、最高に報われている描写で僕は最高に好きです。
第22話と同じく、本田のハグを正面から受け止めることはまだ出来ない島村さんであった。

プロデューサーも顔を出し、お城での面談となるわけですが、このシーンの狙いは『しまむーがステージに上ったら『勝ち』』というエピソードの到達点の確認ですね。
島村さん正面(そしてプロデューサーの隣)の席が開いているのに斜めの位置に座る凛ちゃんが、素直になれない子過ぎて可愛い。
煮え切らない島村さんに「やだっ!!」と叫び、衝動を迸らせる姿は、あまりに渋谷凛らしい。

それを優しく諌める本田もな。
『何しろあれしろ頑張れ本気出せ』という『べき』論の強い言葉ではなく、「来てくれて嬉しい」という気持ちを体温に乗せて伝えるだけにした本田は、ホント人格強度高い。
一度『ステージには沢山人が入る『べき』』『恥ずかしい思いはする『べき』じゃない』というロジックで自分自身を追い詰めた経験があることが、いい方向に働いてるのかなぁ。
『しまむーが好き過ぎて頭がおかしい女』渋谷凛の衝動をどっかでガス抜きしないと危なっかしい訳で、そういう仕事をしっかりしている所が、NGのリーダーだと思います。
未央は凄い。


レッスン室に入って即、前川が噛み付いてくる。
前川はずーっと『言う役』だったので、「どんな理由があっても、仕事をほっぽり出すのはプロ失格だと思う」という、視聴者の感想(の一部)を代弁するのは、コイツしかいません。
『にゃ』語尾がついていないことから考えても、ここの前川はかなり本気なのですが、「ホント心配したんだよ」という気遣いの言葉も、本当のことだというのも判る。

前川にとってネコミミは世界と戦うための武器であり、凡人がアイドルであるために必要な冠でもありました。
自分が取り外すことはあっても、他人に預けることは(*の相方にも、尊敬するウサミン星人にも)無かったそれを、卯月に預けるこの仕草が特別だと感じるのは、前川の物語を見守らせてもらってきた視聴者には、あまり不自然ではない気がします。
目をつむり顎を引いた島村さんと被せられるネコミミはそのまんま、女王の戴冠の光景であり、シンデレラをモチーフにしたこのアニメ、このエピソードがどこに落ち着くのか、暗示的に見せるシーンでもあります。

自分と卯月、卯月と世界との関係をネコミミの戴冠で整理し、『ああ、いつもの卯月チャンだにゃ』と思ったのか、前川は気軽に「いつもの笑顔で」と声をかけ、元気づけようとする。
しかしその「いつもの笑顔」こそが今の卯月には一番見つけられないものであって、逆に言えばそれを取り返しさえすれば『勝つ』事が出来る、魔法のアイテムでもある。
アイドル・島村卯月を支えていた根幹を失った不安を感じ取って、前川を諌めるのはいつもの様にきらりです。
「心配したんだよー」という(つまりは「心配させてしまった」という後悔を生み出しかねない)言葉を無邪気に発している莉嘉も合わせて、キャラクターの持つ人間関の係視力がどう異なっているのか、再確認できる描写だと思います。


体を動かしできることをして不安を紛らわすのは、地下送りになった第15話と同じ、CPの基本姿勢だといえます。
少しリラックスした雰囲気の中で語られるのは、昔の話。
みりあちゃんや莉嘉の述懐は彼女たちが画面に映る前の物語で、切り取っている時間軸としては前回卯月の特訓風景が語っている事柄と、同じものになります。
この後、卯月はこれまで関わった様々な人々の間を歩き、自分と彼女たちが何処をどう歩いて第24話でで辿り着いたのか、再確認の度に出ます。
ここでの昔語りはその端緒といえるものですが、それが示しているものはなんなのでしょうか。

一つには、時間と経験の積み重ねがなかなか大したものだ、という事実です。
これまで島村卯月と仲間たちは、反目したり挫折したり感情を迸らせたり、支えあったり守りあったりしながら、大層なことをしてきた。
『自分にはなんにもない』と告白した島村さんはこの事実を見失っているわけで、仲間と過去を述懐していくことによって、その事実を思い出していくことが、『勝つ』ためにはどうしても必要なのです。

もう一つは、その現実は自分一人で積み上げたのではなく、みんなで頑張ってきた結果だ、ということです。
記憶や経験というのは形に残らないものですが、それを共有した人々の間でこそ意味をなし、実質として意味を持つ。
それは仲間とだからこそ出来た物語であり、その仲間の中には、島村卯月という人物も確実に存在していたのだと、島村さんは思い出さなければいけない。
『立派なことを成し遂げたみんなの中に、自分もいた』ことを思い出さなければいけない島村さんの空疎な自我は、『立派なはずの自分が、なんでこんな惨めなことになっているんだ』という気持ちを暴発させた、本田未央の肥大した自我とは対比的ですね。

自分が成し遂げた事実と、それを一緒に共有した仲間。
それは空から降って湧いたわけではなく、これまで24話分のエピソードと、そこでは語られなかった(語ることが出来なかった)島村卯月の物語が積み上がって到達した、物語的な精髄です。
笑顔でみんなを助けたり、アイドルである自分の自信が持てなかったり、そのことに気付いていなかったり、気づいて前に進めなくなったり。
楽しいことも辛いことも引っ括めて色んな事があって、その結果として今の島村卯月がいるということ。
大好きな仲間との記憶をたどることで、『島村卯月は結構、大したことをしてきたんだ』という単純な事実を否定することは、それを共有する仲間の『大したこと』も否定することなのだと、島村さんは気づかなければいけないのでしょう。
それを辿るのは結構入り組んだ道なので、この後島村さんは色んな所をめぐり、色んな人と会い、これまでの物語を凝縮したレガリアを託されていきます。


過去を振り返る中で、アイドルたちはアイドルになった時の初期衝動を語っていく。
それは様々な色合いと肌触りをしているものの、感動的で優しい気持ちになる、『良い』経験だったということは共通しています。
思っていたのとは違った、色々大変だった、でも楽しかった。
仲間たちがそれぞれの言葉で語るアイドルとの出会いは、これまで島村さんが見せてくれてきた彼女自身の初期衝動と、奇妙に同じ顔をしています。
アイドルになりたいという気持ち、アイドルになれたという喜びは、『良い』ものである。
その事実もまた、島村卯月が思い出さなければいけないものであり、他者との対話の中で思い出していく事実でもあります。
仲間たちの言葉を集める間、島村さんが一言も言葉を発しないのは、混乱した現状をまとめ上げ、そこから抜け出すためのヒントを探すために、必要な沈黙なのでしょう。

ここでの対話の中でアイドルは、誰も『卯月ちゃんの気持ちがわかる』という共感は口にしません。
卯月自身が自分の心理を言葉にしていないし、沈黙に対して身勝手な推測をすることもなく、ただ自分の経験とその時の気持を、素直に伝えている。
その誠実な態度の中にはしかし言外に、『そして、卯月ちゃんも一緒だよね』という期待と願いが込められている。
島村卯月の沈黙を見守るアイドルの視線と態度は、どうにかしてしまむーにもう一度笑って欲しい視聴者(と僕)の態度と、狙い通りにシンクロしています。
卯月の沈黙を守りつつ、期待と願いを熟成させ後半の爆発の準備をする大事なシーンといえますが、それが視聴者の心情と重なり合っているのは、なかなか強い描写だと感じます。

前川のネコミミ、智絵里のクローバー、かな子のプティ・シュー、そして沢山の言葉と想い。
シンデレラとして玉座に帰還するために必要な玉璽-レガリア-をたくさん集めた卯月は、最後にNGと合流して、白紙の星を託されます。
他のアイドルたちにも配られ、共有しているはずの想いと願いを効率的に可視化する劇的装置。
CPのアイドルたちのようにセリフと尺が与えられなくても、卯月を愛し、信じて待っているアイドルたちの気持ちを表現する最高の舞台装置だと思いますが、これを手渡されてなお、卯月は階段最後の一歩が上がれない。
白紙の星は白紙のまま、Bパートに入ります。


Bパートは星に希望を託すアイドルたちのカットから入ります。
これまでの物語で描かれ、触れ合ってきたアイドルたちを手際よく写し、彼女たち全てが(僕達と同じように)島村卯月を信じ、愛し、帰還を願っているという気持ちを束ねるシーンです。
このように手際よく横幅の広い描写を展開できることも、このアニメが群像劇を運営する手腕に長けている、一つの証左でしょう。
『敵』たるべき立場だったプロジェクトクローネの面々も、第21話での格付けとノーサイドを経て、星を送る側になっているのが感慨深い。
そして散々振り回されながらも「また、卯月ちゃんと一緒に全力で仕事がしたいです」と描いてくれう小日向さんはマジで聖人(エル・サント)。

色々動きまわって星を集める本田と渋谷の姿は、どん底に落ちてしまった島村卯月をどう扱うのか、色々悩んであがいた結果の最終形といえます。
あまりに鋭すぎる言葉をぶつけるでもなく、ダメになっていく姿を凝視するでもなく、信じて待ちつつ、それを形にする。
本田未央と渋谷凛にとっての『出来ること』が星集めであり、それが暖かく意味のあるものだと感じられるよう演出できているのは、とても良いことでしょう。

テンポよく決戦前日の風景を移していくカメラは、島村さんを最後に写します。
暗い部屋に一つと持った灯りは、オーディション合格証を照らし、むりくり笑顔を作る卯月の表情を切り取って消える。
レガリアを集める時にたくさん聞いた、仲間たちの初期衝動。
意味深に切り取られるオーディション合格証は、島村卯月のスタートラインが何処にあったのか、彼女が猛烈に考えなおしている最中なのだということを強調しています。
自分からは一切発話しなかったあの旅がしかし、島村卯月の中でとてつもなく重たい意味を持って、今まさにぐるぐると心を回転させている真っ最中なのだと。
そしてそれでもまだ、巧く笑えないのだと、効果的に見せるシーンでした。

 

4)本編感想-裸足の女の子、と男の子-
常に足が語ってきたこのアニメに相応しく、卯月のローファーがアップになって話の潮目が変わります。
これまで他者の言葉を集め、他者の中にいる自分を見つめてきた卯月は、ここから自分の話を語り始める。
自分をアイドルにしてくれたガラスの靴はもう無くなってしまって、今はただの学生が履くローファーしかない。
学校のシーンが示すのは、伽藍堂だと気づいてしまった島村卯月の心象風景そのものです。

そして、第7話と同じようにプロデューサーへの職務質問が挟まり、息が詰まる時間が破れる。
『プロデューサーがポリスに絡まれたら、一息ついて笑っても良い』という物語的ルールを作ってしまったのは、劇作のスイッチを切り替える重要なパーツであって、強い事だなぁと思います。
肩の力が抜けた所で卯月は車に乗り、しかしNGクリスマスライブの会場ではなく、第1話アバンの舞台となったライブ会場に足を向けます。


既に述べたように、島村卯月の物語は非常に例外的に描かれた、時間的にも描写的にも長いお話です。
本田未央前川みくのように感情を爆発させるでもなく、雪のように無音で降り積もった卯月のストレスは、そうそう簡単に拭われるわけではありません。
凛の衝動が切開し未央が受け止めても問題は解決に至らなかったし、共有した時間と思いを仲間と確かめ合っても、すぐさまステージに行けるわけでもない。
24話かけて蓄積させ、第24話全てをその解決に当てる特別待遇が必要なほどに、普通の女の子の普通の悩みは、根深くて重い。

だからこそ、決着の場所が意図的な遠回りだというのは、説得力のある構成です。
回り道をしてでも、自分がアイドルになりたいと願い、後の仲間たちと気づかぬうちに邂逅していた運命の始動点に帰ってくること。
そして、その場所で自分の『言葉』を探し、見つけ、音に変えて口から出し、気持ちを共有してもらうこと。
島村卯月の曲がりくねった物語の終幕には、そういう劇的な場所が絶対に必要なのであり、そこに立ち寄るという『回り道』が可能な余裕を創りだすことが、プロデューサーの役目でもあるのでしょう。

本当の気持を告白するために必要な劇的な空間を探して、二人はどんどん闇の中を降りていきます。
それは物理的な降下運動であると同時に、『天使の』『笑顔の』島村卯月がずっと、隠してきたことにも気づかないほど常態化し重症化した『普通』の仮面を取り去り、物事を根本的に解決させるための本音を引き出すのに必要な、心理的降下でもあります。
劇的効果としては、"少女革命ウテナ"の根室記念館にあるエレベーターと、非常によく似た装置だといえます。

闇の中で迷わないためには光が必要で、それを卯月ではなく、プロデューサーが持っていることは意味深であり、重要でもあります。
自分一人で自分の中の闇と取っ組み合った結果、島村卯月はここまでこじれたわけで、自分以外の他者に光を預けなければ、カラ枚あった気持ちを解きほぐすことは出来ないからです。
卯月が舞台にもう一度上がり『勝つ』ために必要な、最後の一押しをアイドルではなく、プロデューサーが果たすということは、最も視聴者の代理人として期待される立ち位置であるという意味合いからも、物語内部で一番最初に卯月と話したのが彼であるという意味合いからも、重要な描写でしょう。


イベント会場の最深部、これ以上降りるところのない場所で卯月の告白が始まるわけですが、ここのレイアウトは非常にこのアニメらしい作りです。
画面を真ん中にぶった切る非常扉、光を持って左側に立つプロデューサーと、闇に取り巻かれて右側に居座る卯月。
境界線、明暗、左右という要素をこれでもかと強調した、高雄監督の印象主義的演出哲学が最前線に踊りでた、勝負のカットです。

前回は混乱の中で語られた島村卯月の恐怖と当惑ですが、今回は比較的まとめ上げられ、因果関係も整理された語り口になっています。
渋谷の切開によって曝け出された直後よりも、落ち着くだけの時間が経っているというのもありますが、やはりレガリアを収集していた時の沈黙の中で、島村さんがどれだけ自分の状況を考え、恐怖や怯えといった感情の泥とどれだけ向かい合ったのかが、強く伝わってくるといえます。
あまりにも鋭すぎ強烈にすぎる渋谷の衝動を、卯月が「でも、凛ちゃん怒ってくれるんです。何にもなくないって」と正確に受け止めてくれているのも、おそらくは時間と黙考が可能にしたのでしょう。
未央の冷静なコントロールだけではあの状況は変化していないはずなので、危うさと痛みと同時に、隠していた真実を切り開く渋谷の特性を正確に見抜いてくれているのは、卯月の知性の描写という意味でも、凛の真心が無駄になっていないという意味でも、有り難い限りですね。

回想を踏まえて状況を整理した上で、「傍に行きたい、でも怖い」という卯月のジレンマが語られます。
二律背反が『背反』足りえるためには、『でも』の前に当たる欲求を形にしなければいけない。
これまでの卯月は自分が怯えている事自体に気付いていない状態から、自分が何かに怯え、期待している事を自覚する所まで歩みを進めていました。
物語が始まった場所に帰還し、暗い階段を降りて、降りて、ようやく辿り着いた劇的な空間に背中を押されて、卯月はようやく「傍に行きたい」という自分の欲求を語る。
血も涙も流さない『天使』が「怖い」「自分には何もない」というネガティブな人間らしさを曝け出したのが前回のお話だとしたら、今回の長い旅路はここに辿り着いて、「傍に行きたい」というポジティブな欲求を言葉にするために用意されていると言えます。
逆に言えば、ただの女の子が夢に辿り着いてから走り続け、雪のようにストレスを貯めこみ、壊れて自分が人間であることに気付き、そこから何をしたいのか思い出すためには、これだけ大量の物語が必要だった、ということです。
そういう意味でも、島村卯月の物語はやはり、非常に例外的なのです。


『自分のことが怖い。頑張っても空っぽだと確かめるのが怖い』という卯月の言葉を受けて、プロデューサーが言葉を紡ぐ。
第1話の「笑顔、です」という印象的なセリフに込められた、自分の意図と意思を説明する。
第1話と第24話の「笑顔、です」の間にあるのは、そのままプロデューサーが達成した変化と成長でしょう。
過剰な正しさを振り回しアイドルを傷つけた過去に怯え、言葉の奥に込めた自分の願いや意思を押し殺し、アイドルを運ぶ車輪であろうと自分を押さえつけてきた、第1話のプロデューサー。
例えば智絵里とかな子を厳しく導き、例えば卯月が自分の殻にこもろうとした時にクリスマスライブというハードルをあえて用意するようになった、第24話のプロデューサー。
卯月の物語がそうであるように、この2つの「笑顔、です」の間には、沢山の痛みがあり楽しみがあり、変化がある。
視聴者に対してそれをクリアーに見せる意味で、非常にインパクトのあった「笑顔、です」という言葉を再話することは、強烈かつ的確な選択だといえます。

身体的な仕草と心理的な状態がシンクロすることは、このアニメーションにおける演出の基本的な哲学です。
第7話において島村さんの家を訪れたプロデューサーは、下を向いて卯月の目を見ておらず、第24話現在の彼は闇の中で光を握りしめ、まっすぐに卯月を見つめている。
当時満面の笑顔で下がりきった視聴者のテンションを回復させ、『しまむーマジ天使!!』と思わせた島村さんは今、薄暗い足元を見つめ、ガラスの靴の代わりに何処にでもあるようなローファーを履いた自分を凝視している。
ここでも過去の状況に照らした再話が行われ、何が変化し何が変化していないのかは、効果的に見せられています。

闇の中の卯月を拾い上げる決定的な言葉は「今、あなたが信じられなくても、私は信じています。あなたの笑顔がなければ、ニュージェネレーションズは、私達はここまで来られなかったからです」というものです。
たとえ当人が『私』を見失ったとしても、散逸したはずの『私』は『私』が行きて関わりあってきた『他人』の中にあって、むしろそのような『他者の中の私』にこそ『私』らしさが強く刻印されているというのは、例えば第17話のラストシーンで美嘉が莉嘉の中に見たような、もしくは第18話できらりが杏との触れ合いの中に感じ取ったような、幾度もリフレインされたテーマだといえます。
手応えのない中をもがいてもがいて、孤独に『私』を探した結果「何もない、私にはなんにもない」と慟哭した卯月の『私』は、24話一緒に戦ってきた『私達』の中にこそあったわけです。
おそらく卯月は、再びシンデレラとして戴冠するのに必要なレガリアを探すAパートの中で、仲間たちの言葉を集める間に、そのことを薄々(もしくは強く)感じていたはずです。

だからプロデューサーのこの言葉は、ある意味当然のことを言ったのにすぎない。
回想の中で繰り返される卯月の笑顔と、NGとCPが前に進むための決断を既に見知っている側からすれば、当たり前のことを言葉にしているにすぎない。
しかしそれでも、卯月を舞台に送り出すという決定的な『勝ち』をつかむためには、始まりの場所の底にある闇というこの『場所』、クリスマスライブ直前という『時間』、そして卯月を見つけ出し卯月に救われ卯月とともにあったプロデューサーという『人』、全てが必要だったわけです。
長い長い特別な卯月の物語は、同時にプロデューサーの長い長い特別な物語でもあって、今この瞬間、二人の物語は決定的な衝突を果たした。
この第24の長い時間を卯月のためだけに回したのも、全24話に及ぶ島村卯月の長い物語も、この瞬間のためにあります。

「そうだったら嬉しいです」『でも』「春はどうやって笑ってたんでしょう」『でも』『でも』「私、凛ちゃんと未央ちゃんと進みたいから」
事ここに及んでもジレンマ(トリレンマ?)に縛られ、何処に歩みだして良いのかわからない卯月ですが、『進みたい』という願いを言葉にできていることからも、状況が改善していることは見て取れます。
本田未央の問題が問題の表面化から解決まで第6話ラスト-第7話かかっていたのに比べ、島村卯月の問題は第21話から第24話全体を包み込みつつ、じっくりと進んできました。
未だ笑顔は作りものですが、この逡巡も特別あしらえの第24話らしいといえなくもないでしょう。


そして、プロデューサーの手が境界を超える。
真ん中をぶち抜いた扉の結界を抜けて、「このままここに留まるのか、可能性を信じて先に進むのか」という選択を要求してきます。
それは仲間たちの誰も言わなかったことであり、言えなかったことであり、言う資格のないことでもあった。
プロデューサーという存在が持つ職業的立場、主人公として視聴者の自我を強く投影される物語的立場だけが可能にする、身勝手な境界侵犯です。
しかし、そんな強引で身勝手な選択肢の提示ができるのは、アイドルを導き舞台に上げるプロデューサーだけの特権であり、車輪を己に任じていた男はようやく、プロデューサーの本文に立ち返ったのだとも言えます。

仲間がつぎつぎ辞めていく中、孤独に選ばれる時を待っていた島村さんは、第1話で差し出されたプロデューサーの手を取り「笑顔、です」という言葉を信じてアイドルになりました。
隘路に迷って闇の底までやってきてしまったわけですが、そこから引っ張り上げてくれる腕もまた、第1話と同じように、プロデューサーの不器用で誠実な腕であるという再話。
その結論が、階段を登りきり闇から光へと歩みをすすめる島村卯月の決断だというのは、第1話では掘り下げられなかった要素です。
あの時決断をしたのは、あくまで渋谷凛だと描かれていたわけですから。
同じ状況、同じ構図を繰り返しつつもそこには差異と変化があり、それを生み出すものこそ物語であるという根源的な主張が、島村卯月が階段を駆け上がる最後の一歩までの描写には、強く込められていたように思います。
そのような再話の力を確認する意味でも、島村卯月に焦点を定め、例外的なロングスパンで展開した今回のお話は、シリーズ全体にとって必要なお話だったのでしょう。


第21話でも、第23話でも、第24話でも登りきれなかった階段を上がった卯月は、未だ視線を足元に集め迷っている。
それでも言葉を振り絞って、自分の中の空虚さに分け入って、可能性に飛び込んでいく勇気を語る。
「でも、信じたいから。私もキラキラ出来るって信じたいから。このままは嫌だから」と泣きながら言葉にする。
天使が天使ではなく、心に傷を負って赤い血を流すただの女の子だと再確認するために、長い時間がかかりました。
ガラスの靴を奪われた女の子が、裸足のままで駆け出す勇気を手に入れるためにも、長い時間がかかりました。

それだけの特別な時間を、何でもない普通の女の子には使わなければいけなかった。
何でもない普通の女の子の物語は、僕達の物語でもあるから。
今回描写された島村卯月の姿は、幾ばくかの欠片でも僕達の中に、必ずあるものだから。
特定のキャラクターを拾い上げて形成される、選ばれた物語がしかし、あまりにも広範な一般性を獲得して胸に届くということ。
『このお話は、私の物語だ』という感覚を奇跡のようにもぎ取ることが、どれだけ大変で貴重かということ。
色んな事を引っ括めて、島村卯月二度目の告白が渋谷凛と本田未央に届き、制服とローファーのまま『S(mile)ING!』が始まるわけです。

346本社に卯月が顔を見せた時も、階段を上がって卯月が本心を吐露した時も、本田未央は一息嘆息し、足元を見つめてから顔を上げ、卯月を抱擁しています。
それは多分、彼女が仮面をかぶり直すために必要な儀式なのだと思います。
『いつも元気な本田未央』『ニュージェネレーションのリーダー』という、本田未央の資質が一番生きる場所に、自分自身の感動を閉じ込めて制御するために、必要な儀式。
第6-7話の激動を経てそこに辿り着いたのだとしたら、やっぱり本田未央は誇りに値する存在だなぁと、僕は思います。
お前は凄い、歴史の教科書に乗るくらい凄い。


白紙の星を白紙のままで、素裸の足を素足のままで、卯月はステージに上る。
空疎でなんにもない自分を見つめても、もう絶望せずに受け入れることが出来る。
プロデューサーが言ったように、踏み出した先に仲間がちゃんといると、自分の足と目で幾度も確かめたから。
一見遠回りのように見える今回のお話は、卯月がたどり着いた結論に実感と説得力を与えるために、最短ルートで整えられた物語でもあります。
レガリアを探すAパートがなければ、プロデューサーの手を取って、光の側にに踏み出すと決めた卯月にかかる『アナタは一人ではない』という言葉は、その真実性を欠いていたかもしれません。
長くて回りくどい歩みが、結局は最適で最高の答えにたどり着くために必要だったというのは、24話を使って展開された島村卯月の物語にも、言えることなのでしょう。

今回のエピソードはいつにもまして『縦』の展開、印象的な情景の再話が効果的に使われていますが、観客席にいるCPのメンバーは、第3話のNGライブの再話だといえます。
繰り返しは差異を強調するためにも使用されているので、ここに第3話ではステージに上がる側だった小日向さんが存在しているのは、大きな意味を持っているのでしょう。
それは島村卯月がアイドルとして辿り着いた距離の大きさの表現でもあるし、『仲間』として23話一緒に戦ってきたCPの中に、小日向さんを滑りこませなければいけない特別性の表現でもある。
やっぱり何度考えても、卯月の迷走のしわ寄せを一番身近に受けたのは小日向さんであり、そんな彼女が『仲間』の一人として卯月を応援してくれていることのありがたさは、とてつもなく大きいです。
第3話との差異という意味では、あの時サイリウムを握ってすらいなかった杏ちゃんが、やる気満々で二本の足で立ってる所とか最高ですね。

島村卯月の物語がステージで終わるのは、物語的な盛り上がりという意味でも、アイドルという表現者をテーマに据えた作品としても、とても大事だと思います。
島村卯月は第1話のアイドル候補生ではなく、CDデビューも果たし、TVにもラジオにも出たアイドルそれ自体になってしまっている。
だから、ファンの前にドレスもガラスの靴も装備していない状態で立ち、渋谷凛をアイドルの道に引き込んだ最高の笑顔を見せ、唄って踊ってファンを魅了しなければいけない。
表現者は、表現することで存在できるのだから。


島村卯月は迷う。
これまで笑顔の天使として仲間の危機を救ってきた利鞘を取り立てるかのように、最後の最後まで迷っています。
凛の衝動に心理を切開され、仲間たちの言葉を受け取り、闇の底でプロデューサーに手を惹かれてなお、ステージの上に立ってすら迷う。
幾度も幾度も繰り返される逡巡を最後に跳ね飛ばすのは、仲間(小日向美穂含む!)が振るピンクのサイリウムであり、NGに託された白紙の星です。
普通の女の子をアイドルに戻すためには、これまでの物語で触れ合ってきた全てを確認し、目に見える形で提示する必要があったのだと、サイリウムと白紙の星が語ってくれます。
言うなればこの2つは、シンデレラが戴冠するための最後のレガリアだったのでしょう。

卯月が無事『S(mile)ING!』を歌いきった瞬間、凛と未央は涙を流します。
ここ最近衝動に突き動かされ続けた凛はさておき、本田がここで泣いたというのは、仮面を外したということです。
島村卯月をもう一度舞台に上げるために、必要とされることをやる。
身勝手なエゴに流されず、必要なことをしっかり見つける。
そういう覚悟で被った『いつも元気な本田未央』を剥がすシーンがちゃんとあることに、僕は感謝したい。
良いアニメだ、本当に。

 


5)本編感想-今週の美城常務-
卯月軸でお話を見ていくと、どうしても美城常務の描写を掬いきれないので、こっちにまとめて書きます。
前回見せたイヤミな悪役っぷりを今回も発揮し、要所要所でチクチク差してくる今週の常務。
クローネ管理役という、安易に適役にできない立場から開放されたおかげか、良い悪役をしています。
「アナタには、分からないかもしれませんが」と言い切ったプロデューサーの言は第15話のカエデさんとほぼ同じであり、9話遅れでようやく、あの時のカエデさんと同じ精神的立場に登ったと言えるかもしれません。
それにしたって、ポエムパワー強いな、このお姉さん。

冒頭で卯月にかけた言葉は辛辣かつ意味が分かりませんが、彼女の抱えている問題をかなり的確に分析し、シビアに言語化しています。
色々と描写がとっちらかっている彼女ですが、アイドルと真摯に向き合い、その資質を見誤らないということは共通しているように思います。
自分の理想を他人に押し付け、それが破られるとはつゆも考えないところが、目の良さを曇らせてしまっているのも、ずっと共通。

そういう事態を突破するべく、CPサイドで常務を担当してきた部長が決定的な一発を入れます。
「必ず行きなさい」という強い命令を発した時、常務は部長に背中を向けているのに、部長はまっすぐ常務を見ているのが面白い。
これまで父権的な態度を利して強要する女性だった常務が、真実男性でありより父権的な部長によって土壇場に追い込まれる流れは、ちょっとフェミニズム的な描写だと思う。

ふてくされつつも部長の言に素直に従い、初めてアイドルの現場と水平な視線で客席に座る常務。
第22話でプロデューサーに助け舟を出してもらって以来、高い場所にいるのをやめて地面に降りる描写が散見されてましたが、今回はレッスンではなくステージです。
『切り捨てろ』『もう輝いていない』と散々にけなしていた卯月渾身のステージを間近に見て、ドラゴンと対話した後のアクマばりに「少し泣く」となっていたのも、まぁ当然といえば当然。
常務はもともとアイドル大好き(現状に流されまま個々人の個性を保護しようとしていたPCよりも、アイドル業界全体の潮流を一気に変えようとしたPKの方が野望はデカイとまで言える)だし、現場に出てアイドルの熱と涙を感じ取ったら、即座に方向転換しちゃうからこれまで現場に出さなかったんだろうなぁ……。

第22話でPKとの格付けを終わらせ、『本当は『敵』なんて何処にもいなかったんだ』という第7話メソッドの再演をして、二期で導入した対立の構図を弱めたように、今回は卯月にノックアウトされる常務の姿をいれこむことで、更に対立構造を崩壊させてました。
そもそもにおいて常務が『悪すぎず、強すぎず』な敵役だったこともあって、あんまり堅牢な構図だったわけではないですが、あのシーンを入れることでお話が綺麗に終わる地ならしを丁寧にやっている感じです。
第25話は舞踏会本番なので、白旗を上げて終わる準備が万端整ったかな。

 

6)おわりに
というわけで、普通の女の子の普通な悩みを解決するのに、どれだけ手間と時間がかかるかというエピソードでした。
最初は卯月のための物語かと思ったのですが、思いの外プロデューサーの役割が大きく、彼ら二人の物語のエンドマークなのだなという再発見をしました。
これでシリーズ全体の物語がだいたい平らになって、クライマックスとして舞踏会をやっておしまい……と言いたいところなんですが、『渋谷凛の衝動は時に人を傷つけるけど、彼女はその危うさに気付いていない』という伏線は、のこった時間で回収できるものではありません。
本田未央が一期を、その隙間と二期を利用して島村卯月が、己の根源にあるネガティブな要素を表面化させ、周囲を巻き込んで爆発させ、色々あって収めて成長していった物語は、渋谷凛においてはまだ始まってすらいない。
それは多分、意図的に物語の外側にはみ出るよう、周到に用意されていると僕は思っています。
来週の25話最終回と、その後にあるものに、僕は強く期待しています。

 

 

 

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd Season:第25話『Cinderella Girls at the Ball』
魔法をかけられた女の子たちの旅路、その終着点……と、その先に続いていく物語にまつわるシンデレラガールズ最終話。
常務との対決路線としては第22話で、物語的なストレスとカタルシスとしては第24話で、それぞれ決着が付いている関係上、お話を盛り上げるというよりは、これまでの歩みを総括しつつテーマをまとめ上げ、キャラクターたちを未来に向かって開放する最終話でした。
1話まるまるエピローグという作り方は、余韻があってとても好きな終わり方です。


お話の構成としては大まかに分けて、シンデレラの舞踏会の理念を説明しプロデューサーと常務の対立に決着をつける部分、『流れ星キセキ』と『M@GIC』二つのステージで少女たちの到達点を見せる部分、CP一期解散後の姿を見せ物語をまとめ上げる部分と、3つに分割できると思います。
先程も述べたように、アイドルの総体的な物語は第22話で、個人的な感情の物語は第24話で終わっていますので、例えば第3話での緊張感、第13話でのアクシデントの連発、第22話での立場の変化など、これまでのステージでは必ず起こっていた波乱は、今回のステージにはありません。
必要なのは、これまでの長い物語の中で女の子たちがどういう存在になったのかということを、説得力を持ってみせること。
そして、アイドルの話をし続ける中でメインに据えられなかった舞台装置たちに、自分たちの物語を総括させることになります。

シンデレラの舞踏会はCPプロデューサーの持つ個性重視主義が最大限発揮され、複数ステージを縦横無尽に利用し、歌あり踊りあり、仮装コントにゲーム大会にお菓子の試食ありと、圧倒的なヴァラエティを誇るイベントになりました。
あまりにも大量のキャラクターを抱え込むシンデレラガールズを、いかに魅力的に見せるかを考えた時、アイドルの持つ過剰な個性を全肯定し、それが生み出す混沌を肯定するプロデューサーの姿勢以外、主役が持ちえるスタンスはありえません。
『高級感があって、物語性を持っているアイドル』だけを価値と考える常務のスタンスでは、シンデラガールズの女の子たち(アニメーションに登場しなかった、数多のアイドルたちも含む)に線を引き、『価値のあるアイドル』と『価値の無いアイドル』を分けることになる。
プロデュサーが辿り着いた笑顔第一主義は、特定のアイドルを推す(それはつまり、特定のアイドルを推さないということとイコールになる)消費者のスタンスではなく、コンテンツ全体を肯定し称揚したい作り手の立場でもあると言えるでしょう。

同時に、シリーズアニメーションとして物語を展開していく以上、過剰なアイドルの個性を全肯定するプロデューサーのスタンスは、色々と無理があります。
一期が持ち前の個性を発揮できるまでの、そしてその個性が響きあって集団として輝くまでの物語だとすれば、二期になって登場した常務は、一種常識的な視点から一期の物語にカウンターを当て、その反論が否定されることで主役サイドの主張が強化されていくという、査問装置的な役割を担っていました。
常務がお話のテーマを浮き彫りにしていく彫刻刀としての役割を担えるだけの強度があったかどうかは、正直疑問が残るところですが。


一期の物語展開を見ると、プロデューサーはキャラクターの一人としてかなりの時間を与えられ、失敗し、悩み、挫折し、立ち上がって成長する彼個人の物語を、かなりの濃度で展開できていました。
本田未央に不用意で苛烈な言葉を投げかけ、アイドルを傷つけ、傷付いた姿を見て自分自身も傷つく彼は舞台装置の枠を超えて、人格的な血の通ったキャラクターとして描かれていた。
それが彼に対する共感を生み、彼が導くCPへの愛着を生んでいたからこそ、アイドル個人の物語としてだけではなく、CP全体の物語としても展開したこのお話を視聴者が好きになれた部分は、かなり大きいと思います。

そんな彼と、彼が代表する理念に対するカウンターとして登場した常務はしかし、プロデューサーほど物語的な尺を与えられず、彼女がどんな価値観を持ち、何を大事に思い、何に傷つくのはなかなか見えてきませんでした。
キャラクターデザインや魅力的な声など、第一印象で人を引き付ける重力を(プロデューサーと同じように)持ちつつも、物語装置を超えた常務の個人的な部分はあくまで匂わされるだけで、そこに踏み込んでいったのはあくまで脇役の部長だけです。
最終話、アイドルたちの物語がゴールを迎えた後に一気に語られた、理念者達の対論。
それがどこかドラマの熱気を伴わず、理念以上の実感を生み出さないのは何も過剰に詩的な言葉遣いだけが原因ではなく、プロデューサーの反対側に立つ常務の描写が不足していることに、強い原因があるように思います。

常務が物語装置として持っている意見は、最終的にプロデューサーが肯定したようにうなずける部分が多々あるもので、それは作中でもしっかり示されていました。
美城という『アイドルの入れ物』と、アイドルという『会社の中身』どちらを重点するか、それはあくまで立場の違いであって両方に価値がある、意味のある平行線だという常務の言葉にも、ロジックとしてのまとまりの良さがある。
そういう思惑を全て飛び越えて、アイドルたちは輝いてしまうというロジックの外側も、しっかり見据えている。
そういう意味で、最終話塹壕で交わされた会話は、良くまとまっている。

しかし僕はあまりに情熱的な物語として展開してきたこのアニメをまとめ上げるシーンには、やはり相応の熱がほしいと思ってしまうし、あのシーンがロジカルなまとまりの良さを超えて、感情と価値観のぶつかり合いの果てに生まれた和解のシーンとして熱量を持つためには、蓄積が足らないと感じてしまった。
これがないものねだりだというのは、重々承知した上で。
あくまでアイドルを輝かせるための外部装置、脇役であるプロデューサーと常務の物語には重きを置かず、その分の時間を少女たちのぶつかり合いや、一度肯定されたテーマの掘り下げに使った二期の構成は正しいと分かった上で。
どうにかして、プロデューサーと常務にはあと一つ、一期でプロデューサーを描いた時のような熱量と感情量を込め、時間を使って分かり合うシーンが欲しかったと、思ってしまうわけです。


常務のロジックには一定以上の分があり、CPが一期で積み上げたロジックを否定するのではなく、むしろ批判的に受け入れて拡大しうるものだったというプロデューサーの発見は、実は発見ではないと思います。
物語の中にこもっているものを見せる手腕がスマートなこのアニメ、常務の理屈が持っている強さや正しさ、そこから受け取れるものに関しては、その登場段階(第15話での楓さんとの対話)で、それなりに的確に示せていた。
乗務の選抜主義とプロデューサーの個性主義が相補的に補いあい、第15話で見えた『だいたいこういう感じにまとまるんだろうなぁ』という予想着地点を越えていく展開を期待していた側としては、プロデューサーが辿り着いた答えは予想を超えてくれる驚きに満ちているわけではなく、『まぁそうまとまるよね』というポイントに収まっていました。
予想着地点からズレずに落ち着くというのは凄いことなんですが、そこを遥かに超えて脳髄を揺さぶってくるようなエピソードを多数できていたからこそ、物語全体の骨格足りえるプロデューサーと常務の対論にも、同じものを期待してしまう。
優等生が85点とったら起こられるような、理不尽な現象ですね。

結局あのシーンを残念に思うか、はたまた十分と感じるかは、このアニメに何を求めているかによって大きく変わるのでしょう。
あそこに感情のうねりが足らないと感じる僕は、常務が提出したロジックを批判的に吸収し、プロデューサーが代表する主役サイドのロジックがより大きく、より正確にテーマをえぐりだしてくれることを望みながら、このアニメを見ていたわけです。
しかしそれを達成するには例えば『常務が何故、無差別な夢を見なくなったのか』だとか、『余計』なシーンをしっかり作って、アイドルに割くべき時間を略奪しなければいけない。
そうなっていれば、『アイドル論のお話』ではなく『アイドルのお話』を強く求めている、僕ではない誰かにとっては納得出来ない映像になっていたのは、おそらく間違いがない。
そして、一切論理的後ろ盾がないただの直感ですが、この話を『アイドル論のお話』ではなく『アイドルのお話』として見ていた人数は、大多数と行っていいほど多い。
だから、常にギリギリの選択の中でベストに近い場所を選び続けたこのアニメらしく、その選択は正しい。

これまで愚痴を垂れてきましたが、僕はアイドルマスターシンデレラガールズが『アイドル論のお話』をしていなかったとはけして思わないし、『アイドルのお話』に全力で注力する中で、それを補い強化していく『アイドル論のお話』をしっかりと用意し、運営していたと関心しています。
アイドルのお話が終わったタイミングで、裏方が裏側で理念の話をするシーンがある。
最終話の構成自体が、相当に細かい気配りの中で『アイドルのお話』と『アイドル論のお話』のバランスをどうにかして取り、画面の中に何を収め、何を収めないか苦心して考え続けたのだと、無言で語っているように思うわけです。
しかしまぁ、正直なことを言えば僕はキャラクターとしての常務が(もしかすると一目惚れというくらいの速さと強さで)好きになってしまっていたわけで、プロデューサーが一期で見せた挫折と性向の物語と同じくらい、彼女に時間を使ってくれても良かったんじゃないのかな、とか思ってしまったわけです。(結局キャラ萌えマン)

でもすべてが終わった後、シンデレラガールズがもう一度集まる舞台を高い場所ではなく、アイドルの視線に降りて見守っている彼女の姿を見ると、誰かと語り合い影響を受けて変わっていくという、凄くシンプルで基本的で、だからこそ力強いお話を彼女が成し遂げたのがちゃんと分かるので、満足といえば満足してしまうのが困りどころだ。
平行線と言っている割に、プロデューサーの理念に相当吸い寄せられた1クールだったんじゃないかね、美城常務。
嫌われ者をやるには悪すぎず・強すぎず・出すぎずな扱いだったと思うけど、僕はアナタが好きですよ。

 


そんな『アイドル論のお話』はさておき、『アイドルのお話』としてのクライマックスは、やはりステージ。
主役として物語を牽引してきたNew Generationが歌う『流れ星キセキ』と、集団としてのCPの集大成『M@GIC』。
二つのステージは延期を幾度も挟んだだけはある作画カロリーで、過去のエピソードからの引用も的確に決まり、顔も名前もない少女たちが何処に辿り着いたのか、良く分かるクライマックスだったと思います。

『流れ星キセキ』が引用しているのは、主に第3話の初舞台でして、あの時はガッチンガッチンだった本田が率先して冗談を言って空気をなごませている所とか、あの時は憧れの対象でしか無かった美嘉と対等の立場になっている所とか、反復故によく見えてくる差異が、巧く強調される作りになっていました。
第三話では掛け声で緊張をほぐす手助けをしてくれた小日向先生が、島村卯月の地獄巡りを経て対等な立場に立っているのは、個人的に一番グッと来たポイント。
ホントな、あの子人間出来過ぎてる……「頑張ります!」で涙が出るってことは、その裏に隠された無理と強張りをしっかり解っているということであって、自分で聞きに行ったのかPとかが耳に入れたのか、ともあれ卯月を最後まで抱きかかえてくれる子だと思います。
サンキューコッヒ、いやマジで。

第13話の『GOIN'!!!』を出だしで引用しつつ、全体曲として最後に飛び出した『M@GIC』
THE IDOLM@STER』という金看板を象徴する"@"の一文字をようやくタイトル・インしたこの曲が、ステージの最後(つまりはCPの女の子たちの物語の最後)に来るのは、当然といえば当然の構成だと言えます。
凸凹とした個性が集まり、自分の才覚を発揮していく方法を学びつつ、一つの集団として総和以上の力を発揮するまでの物語だった一期。
その終わりであり、クール折り返しでもある『GOIN'!!!』が正しくここまで辿ってきた足跡を思い返しつつ、今いるステージから未来を見据える曲だったように、『M@GIC』は過去形の曲です。

『ここでめぐり逢えた ずっと大好きな君に ここでめぐり逢えた 君と共に』と語る言葉は、一期OP『Star!!』が希望とともに上だけを見て『Say! いっぱい輝く』という決意とともに始まったように、シンデレラプロジェクトの物語が既に過去のものであり、このお話が完成したのだということを的確に伝えています。
二期OP『Shine!!』が、島村卯月の苦難を予言するように『思い通りいかない夜に 星を見上げる』歌、『新たなヒカリに会いに行』く歌だとしたら、『M@GIC』はその旅路を終えて手に入れたものを、懐かしさと寂しさが同居する視点で思い返す歌である。
出会いと努力の日々に感謝しつつも、『明日はもっと輝いてゆく それは 自分励ますエールに変わる』と、苦難の中で学習した『痛み止めの呪文』を呟いてまた走りだす少女たち。
綺麗にお話の形をまとめていて、良い歌だなと思います。
物語の要で登場する命曲の使い方がとにかく上手いのだと、今更ながら教えてくれるステージでした。

 

アイドルマスターという物語の終わりがいつもそうであるように、『M@GIC』の終わりも希望を込めてカメラが空に向かい、エピローグになります。
反復を効果的に使い、『行きて帰りし物語』というお話な基本的な構造を徹底し続けたこのアニメに相応しく、物語が始まった桜の季節に帰ってきて終わるのは、とても収まりが良いです。
エピローグは冬空→桜の空というリレーから始まり、各キャラクターの到達点の先を描写し、次のキャラクターにリレーし続ける演出がされています。
出だしでCP解散を意味するホワイトボードを大写しし無言で状況を説明しつつも、バラバラになっても繋がっている真心を分からせる意味で、このリレー演出は最高の仕事をしていると思います。

アイドルマスターシンデレラガールズというお話は終わって、一旦カメラは彼女たちを映すのを止める。
でも彼女たちの『コマの外側』の物語は続いていくし、CPという制度が終わりになったからといって、そこで手に入れた繋がりや感情、経験が消え去って無駄になることは、けしてない。
二期全体が常に視野に入れ続けた『変化』への肯定、『挑戦』への是認が前面に押し出ているのに、押し付けがましくなく物語を受け入れられるのは、やはり生理的な気持ちよさを突き詰めたカットのつなぎ方に大きな理由があると思います。
繋いだ手を離して、一歩先に踏み出していく彼女たちを笑顔で祝福できる、とても気持ちの良いエピローグでした。

ラストシーン、第1話アバンでは顔も名前もなく、アイドルに憧れるだけだった女の子たちが『お願い!シンデレラ』を歌う。
それは彼女たちが成し遂げたそのステージそれ自体が、彼女たちをアイドルに変えた魔法それ自体であるという意味合いを含むリフレインで、とても綺麗なエンドカットでした。
多分あのステージを見て、第1話のCPメンバーのようにアイドルに夢を見て、自分自身が夢になるべく前に進んでいく子たちが必ず出るし、その子たちの物語もまた、僕達が見てきたCPメンバーの物語のように、山あり谷ありつつも優しくて幸福で温かい、苦難と達成の物語になる。
顔も名前も出なかったCP二期生のお話も、これまで見てきた一期生の物語のように、素晴らしいお話として幸せに展開していく。
そういう想像力を加速してくれるような終わり方になったのは、なかなか豊かなことだと思いました。

キャラ萌え的な話をすると、まるで核地雷のように的確にアーニャとのイチャイチャアイテムを置いてある新田さんとか、第18話で発破をかけてもらった幸子がビビるような高さに飛び込んでいく智絵里とか、ラストのラストでちょっとビターでクールな衣装を着込んで『かっこ良く』なるきらりとか、最後まで美味しいところをくすぐりまくってくれる、良い見せ方だった。
控えめに言って最高だったなぁ……。
CPという場所を大事にしつつも、そこから飛び出していく勇気と風通しの良さを新アイドルとの絡みで見せていたのも良かったし、CP全員が自分の個性を損なわないまま、最初苦手だった分野に果敢に勝利する姿をコンパクトにまとめていたのも素晴らしかった。
あの到達点描写がコンパクトでも機能するのは、やっぱり『アイドルたちのお話』に最重点を起き、徹底して少女たちの気持ちを丁寧にエピソード化した結果であり、デレアニが持ってた強さ最大の証明だと思います。


(一期で『団結』し一つの価値観を共有する仲間に育ったCPが、何故常務というキャラクターを唐突に生やしてまで、二期では『挑戦』と『変化』の価値を追求することになったのか。
これは完全に僕の妄想なのですが、偉大なる先達にして無視できない巨大な影として伸びる無印アイドルマスターの物語を、強く意識した結果なんじゃないかなと、このエピローグを見ながら僕は思いました。
僕は『作品はその文脈ではなく、基本的に作品自体を解体・評価されるべき』と考えて無印との対比はあえて視界の外においていたわけですが、物語が時間的・記憶的な生成物である以上、文脈が投げかける影からは絶対に逃れられません。
ましてや無印アイマスでシリーズ演出をやっていた高尾さんが監督になったこの作品は、その歴史的文脈から考えても、スタッフの個人史から見ても、無印アイマスの影響は切っても切れないでしょう。

あくまでメインとなるキャラクター一本で個別エピソードを積み重ねていく無印のスタイルと、ユニット単位でキャラクターを描写し、相互の影響と関係性を重視したデレアニという、スタイル的な対比ももちろんあります。
無印春香エピとデレアニ卯月エピの形式的・演出的な類似(と差異)だとか、無印第4話とデレアニ第9話の類似(と差異)だとか、エピソード単位での目配せも沢山ある。
しかしその上で、『団結』という魔法の言葉に向かって集約していった無印全体のテーマ性に対し、『挑戦』と『変化』に向かって拡散していったデレアニの物語的運動の対比こそが、もっとも大きな差異点なのではないかと、僕は感じたわけです。

あくまでアニメシリーズでしかアイドルマスターという巨大な、歴史があるコンテンツにコミットしていない門外漢の意見として、無印が見せた『団結』はすごく心を揺さぶる温かいものでありながら、同時に何か危ういものでもあるのではないかと、少し感じています。
自分は劇場版アイドルマスターにおいて、矢吹可奈が代表する衆生の業全てを受け止め、全ての答えになり得る『アイドル菩薩』になってしまった天海春香の姿を、どうしても正面からは見えられなかった。
多分天海春香は幸せになったんだろうけど、そこに寂しさというか、怖さというか、全肯定できない何かを勝手に感じ取ってしまった身としては、彼女たちが物語的結末に到達する魔法の言葉として使っていた『団結』を、無条件には信じ切れない。
デレアニで言えば『笑顔』という言葉に宿っている魔法と呪いを、無印アニメにおける『団結』に僕は感じていて、だからこそ『団結』という結論に第12話の夏合宿を経由し第13話の夏フェスでたどり着きつつも、バラバラに成って別の存在と結びついていく二期の運動性、それを凝縮し完成させた最終話のエピローグは、心が落ち着く終わり方でした。

無論オンボロ事務所からアイドルの頂点にたどり着くまでの、765のサクセス・ストーリーは最高に気持ちがいいし、『団結』の物語それ自体が悪いというわけではない。
というかむしろ、デレアニ一期は露骨に『団結』までの物語だし。
しかし概念はその対比物との照応を経て初めて瑕疵が浮き彫りになり、そこを埋めてより完成度の高い結論に至ることが出来るのならば、『団結』に『挑戦』『変化』を対比させ昇華させたデレアニ二期の回し方は、テーマの弄り方として個人的にはよりしっくり来る。
ここら辺は『んじゃあ無印第23・第24話の展開は『挑戦』の可能性について語っていないのか』とか『お前は765プロへの愛が足りない』とか、かなりナイーブな領域に踏み込んでいくことになるわけですが。
今回はとりあえず、最終回を迎えた感覚を書き残すところまでで終わりにさせていただきます)

 

アイドルマスターシンデレラガールズは、無事終わりました。
分割二期になったり、総集編が挟まったり、色々ありましたけども、終わりました。
良いアニメでした。

このアニメがどういうアニメだったのか考えてみると、一番最初に浮かぶのはやはり『女の子の話』だったな、ということです。
色々と欠点を持っている女の子、血も涙も流さない、けして無敵の天使ではない女の子たちがアイドルとして選ばれ、傷つき、仲間の手を取ってもう一度立ち上がって、その経験に学んで成長して、より大きく広いステージに上がっていく物語。
その過程で起きる柔らかな感情の起伏を丁寧に追いかけ、共感させる力が本当に強いアニメーションだったと思います。

にょわにょわ言うデカ女にニートアイドル、にわかロッカーにネコミミ、ずっと笑顔の天使。
イカニモなキャラ記号に囲まれた少女たちはしかし、記号性の一歩奥に踏み込んで自分のお話を始める。
僕達が嬉しい気持ちになりそうな場面では喜び、傷つきそうな場面では涙を流す、ちゃんと僕らと同じいきものなんだよということを、過剰に掘り下げていく。
その大真面目な仕草は、キャラクターを消費する以上の態度を僕に要求してきたし、時々あまりにも心を揺さぶれて疲れたりもしながら、それでもやっぱり彼女たちの物語を見させてもらうことが嬉しかったし、楽しくもあった。
『二次元の架空の存在だけど、この子らだって泣きもすれば、嫌な気分にもなるし、頑張れない時もあるよ?』という、時々忘れ去られるけど考えて見れば当然の都合の悪さから目を背けず、その上で彼女たちが好きになれる場面をたっぷりと詰め込んでくれたこのアニメは、やっぱり素晴らしい。

記号的キャラクターが隠し持っている、人間として当然の弱さと強さを、視聴者にストレスを与えることをためらわずに振り回す物語が、やっぱりアイドルマスターシンデレラガールズの物語だったのではないでしょうか。
本田が「私アイドル止める!」と叫んだ時のドン曇り感とか、島村さんが「私にはなんにもない!」と慟哭した時の哀しみとか、そういう柔らかくてなーバスな部分に切り込んでいけたのは、やっぱりキャラクターを愛して彼女たちの物語を伝えようと細かく気を配り、映像にまとめてくれたスタッフのおかげでありまして、感謝の極みとしか言いようがねぇ。
やっぱあの子達好きだったなぁ、俺……。


映像から感情を喚起するべく、過剰なまでに徹底された演出の哲学がそれを支えていました。
光、影、花、風、足、靴、階段、信号機、足元の一線、それを踏み越えて進む一歩。
明確な意思を持ったレイアウト、心理的な状況が如実に出る身体表現、現在と未来を暗示するライティング。
高雄監督の苛烈な印象主義を最後まで維持し切り、一つのトーンで作品を包み込んだのは、やはり凄いことだと思います。
それが効果的に少女たちの劇的瞬間を演出していたことに加え、一つの演出哲学を25話維持し続けること自体が、強烈なメッセージ性を作品に与えている、という意味で。

メインで14人、プロデューサーに他のアイドルにととんでもない数のキャラクターを扱うべく、基本的に束でキャラクターを扱い、見せ場を細かく与えていく構成も、群像劇として見事でした。
エピソード内部の『横』の掛け合いだけではなく、とある話では脇役として見せていた仕草が主役のエピソードで生きてくるような『縦』の話作りにも鋭さがあり、圧倒的な人数を巧くさばいていたと思います。
その上で、本田未央と島村卯月という二人の軸に注力するタイミングでは人数を絞り、見せ場を集約させる思い切りもあったのが、捉えるべき軸を間違えていない信頼感に繋がっていた。
もう一人の主役、渋谷凛に関しては、島村さんの危うさのようにじわじわと見せられている『衝動』という個性が未だ真正面からエピソード化されておらず、今後を待ちたいところです。
いや、映画やOVAがなかったとしても、TP関係としまむーエピの中でかなり渋谷凛の物語って完成しているとは思うんだけど、島村さんのお話に至るネタのばらまき方(そしてその回収の仕方)を見てしまうと、凛ちゃんにもおんなじようにやってくれね? とかね、贅沢にも思ってしまう。

キャラクター個人、それが集まったユニット、その集合体以上の存在としてのプロジェクト。
各スケールで丁寧に展開される物語を貫くテーマにしても、それを可視化するべく導入された常務の扱い方に扱い方に瑕疵がないとはけしていえませんが、全体として巧く行っていたように思います。
アイドルとして、ユニットとして、シンデレラプロジェクトとしてまとまるまでの一期と、そこを超えて別の可能性に飛び込み、変化し、もしくは過去見つけた価値を再発見していく二期との対比は、シリーズ全体として緊張感が維持できる、良い作りだったと思います。
あくまで『アイドル論のお話』ではなく『アイドルのお話』に注力していたけど、個別の物語に注力し切ることで、結果的にテーマ全体を貫通させるパワーもあったし。
やっぱり僕は、お話しの筋立てにしても演出の方針にしても、何がやりたいかはっきりしている作品のほうが肌に合うんだなぁ。


というわけで、アイドルマスターシンデレラガールズのアニメーションは終わりました。
良いアニメだったし、巧いアニメだったし、好きになれるアニメでした。
こういうアニメーションを見させてもらえたことには、やっぱり感謝しなければいけない。
製作者の皆さん、どうもありがとうございました。