イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

昭和元禄落語心中:第5話感想

頑なな青年話芸者の精神は花開く時を待っているアニメ、今週は菊さんの弁天小僧。
生来のフラを持たないことに悩んでいた菊比古が、みよ吉という女性に触れ、自分自身も弁天小僧を演じることで生まれついた艶に目覚め、客の目を惹きつける舞台をようやく達成するお話でした。
生真面目でレールから外れることが出来ない男、戦争という異常事態の只中ですら平穏な日常を過ごしてしまった男が、噺家として一皮剥ける切っ掛けが落語ではなく歌舞伎(に題材をとった素人芝居?)というズレが、菊比古らしくて面白い。

規定のレールからはみ出せない菊比古のいらだちはこれまでも描写されてましたが、その時はいつでも助六が隣に写っていました。
破天荒で自分のやりたいことだけを見つめ、生来のカリスマで人を惹きつけ道をどんどんと進んでいってしまう助六の勢いに、菊彦は嫉妬し憧れている。
ここら辺は芝居が始まる前、なめくじ長屋でのキャイキャイイチャイチャシーンで堪能出来るわけですが、このコンプレックスの出口をどっかに見つけないと、菊比古の才能も生き場所がありません。

『ここで女に溺れて、一気に男に!』とならないのが、このお話の面倒で面白いところでして、みよ吉は大事な切っ掛けではあるけど、あくまで取っ掛かりでしかない。
噺家・有楽亭菊比古の覚醒はジャンル違いとはいえ板の上で起こるってのは、ごちゃごちゃ悩みつつも彼が噺をする宿命にあることが感じ取れて、気持ちのいい流れでした。
無論みよ吉抜きでは今回の舞台の成功がなかったこと、前回師匠が言っていた『隙』がようやく生まれたからこその覚醒だってのは、ズルズルと家に引っ張られた後の描写からでも感じ取れる。
助六とも師匠とも、男女の関係をなぞるように終わっていた女達ともちがう、みよ吉だけに見せる菊比古の表情がちゃんと描けているのは、一人の青年落語家の変化を追いかけるアニメとして大事なところだと思います。

女から貰った力で、弁天小僧という『女を演じている男』『カタギを演じている筋者』を演じる今回のお話は、境界線上をフラフラする物語だったと思います。
喉仏を切り取り強調する喉のアップを執拗に挟むことで、この軋みを絵でしっかり切り取ってくる目の良さは、やっぱ好きだなぁ。
落語ではなく歌舞伎を題材に取るところも含めて、菊彦は真面目と不真面目、男と女、観客と演者の間をフラフラ彷徨いつつ、助六が天性の才能で掴みとっている『何か』にようやく触ることが出来た。
このマージナルな場所から生まれる力が、『フラ』であり『隙』であるってのはこれまでのお話の中からも感じ取れるところです。
助六はだらしない暮らしをしつつも、落語に関してだけは生一本ってところで巧く境界の力を引き出してる感じだね。


弟子に取られてから10数年、ずっと落語を続けていながら実は観客の顔をまともに見たことが一度もなかった菊比古が、今回ようやく客の表情の変化に気づく。
解れ毛や眦が色っぽい弁天小僧の装束よりも、実は僕には合間合間の観客のリアクションのほうが衝撃的でした。
最初は『落語家が歌舞伎を演じること』『男が女を演じること』への、半分如何物な興味にギラついてた目線が、菊比古が秘めていた『艶』が開花するに従ってだんだん前のめりになってくる様子が丁寧に捉えてられていて、良い見せ方でした。

『自分が板に上がって噺をやって、それで客が浮き沈みする』という双方向性は舞台園芸の基本だと思うわけですが、菊彦はその根本的な部分も分からない、感じられないまま落語を続けてきたわけです。
それは彼いわくの『愛嬌のなさ』故に客に可愛がられない、客の心に入っていけない才能の無さが生み出したものなんですが、しかし同時に今回開花した艶ってのは、助六の『フラ』のように生来のものでもある。
助六がどんだけ望んでも、菊比古の色気を獲得できないってのは、四十八を演じる時の勢いはあるけどどうにも油っこい立ち居でよく見える。
いわば今回、弁天小僧を装うことで『ズルい』『羨ましい』と見上げていた助六の才能にようやく追いつく武器を、菊比古は手に入れる事ができたわけです。
これまでかなり一方的に助六を追いかけるだけだった菊比古のものがたりは、この芝居を気化っけになにか変わるんじゃないか。
そんな予感がある話でした。

助六がただのライバルではなく、最高の親友であり理解者でもあるってのは、これまでのおはなしの中でも、今回の描写からも感じ取れるところです。
戦争に行く前の段階で菊比古の武器は『艶』だということを助六は把握して、そういう噺を練習するように勧めていましたし、今回も怯える菊比古の尻をひっぱたいて舞台にあげていました。
自分も気づいていない本質を既に見定めていた助六の瞳は熱っぽく、実は菊比古の片思いでもないんだなと確認できる展開でした。

みよ吉も同じように、道化けた仕草に隠して菊比古の可能性を信じ、本質を見極めて支えていました。
しかしそれはあくまで楽屋やら自室での影の支えであって、晴れ舞台で菊比古の相方を務めるのは南郷を演じる助六なわけです。
この不均衡が、一見『菊ちゃんが覚醒してよかったね。今後も安心だね』って話に巧く不安感を持ち込み、今後の展開を予感させる仕事をしています。
男と男、噺家噺家にしか作れない間柄と、男と女の間にしか生まれない関係。
今回菊比古を一段高い場所に持ち上げ、男を上げさせた(とは言うものの、演じたのは女を演じる男ですが。捻れてるなぁ)ポジティブな三角関係は、一手ズレればギクシャクしそうな危うさも秘めています。

助六の破天荒な感じもどうにも危ういし、弟分だったはずの菊比古は追いつくための武器に目覚めたし、そもそも小夏の親はいま良い中の菊比古じゃなくて助六だしな。
希望の中に不安を、鬱屈の先に栄達を、光と影を巧く配置し、話芸と青春を切り取る断面を鮮烈に描いてるという意味では、このアニメもまたマージナルな力を活かしている作品なのでしょう。
主人公が何者かになるためのきっかけを掴む、手応えのあるエピソードとして。
そこを飛び越え、人間の不確かな真実、芸事の淡い真相にじわっと迫る話として、とても面白かったです。
いやー、やっぱおもしれぇなこのアニメ。