イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ:第22話『まだ還れない』感想

ようこそ地獄へ!
衝撃的なビスケットの死を鉄華団も視聴者も引きずる中、皆が過去にとらわれ引き返せない道へと突き進んでいく鉄血第22話。
マクギリスがかつて述べたように、皆過去に囚われ失われた人の視線に突き動かされながら、どうしようもなく業の泥の中に自ら進んでいく姿は、痛ましく耐えられないものであり、同時にそうなるしか無いと納得もしてしまうものでもあり、苦しい回でした。
どうにかならんもんかな……どうにもならんか。

今回の主役は悩めるオルガ……ではなく、ステープルトンさんだったように思います。
彼女が見た風景、彼女が感じた気持ちを一人称的に語りつつ、未だ鉄華団の『家族』ではなく、それゆえにオルガの部屋に入れない彼女の失敗を追いかける話。
それはつまり、『家族』という閉じた関係性が持つ危険性が爆発する瞬間であり、サクセス・ストーリーの裏でチリチリと燃やしてきた火種が炸裂した結果でもあります。

誰も自分たちを愛してくれないない世界の中で、どうにか生きるために子供たちに必要だった『家族』の絆は、苦境を乗り越える原動力であり、結束で理不尽に立ち向かうための武器でもあった。
しかしそれは同時に『家族』以外を『殺してもいいやつ』と切り捨てる凶猛と背中合わせであり、三日月が代表する閉鎖した残忍さに食い殺され、あるいは『家族』ではないために世界の残忍さに食い殺される人々の姿を、このアニメはしっかり捉えてきました。
温かいと同時に危うく、凶暴であると同時に優しい『家族』の二面性。
ステープルトンさんがオルガの部屋/内面に踏み込む資格を持った『家族』になれないまま、最終的に『家族』である三日月が無造作に足を踏み入れ、『お前が俺に希望を見せた。そのために生きそのために死ね』という呪いをかける今回は、この話における『家族』の重たさを、部外者であるステープルトンさんに注目することで見せる回だったように思います。
……『綺麗だから憧れた。その責任があるので、人間やめてください』って願いに人生を踏み外していくのは、完全にフミタンとクーデリアの関係と覆い焼きだな。

二話前のお話で迷う子供を受け止めたステープルトンさんと雪之丞は今回、鉄華団の変化を前にしてあるいは異を唱え、あるいは受け入れる。
『家族』だからこそ破滅が先に待っていてもやらせてしまう雪之丞と、『家族』ではないからこそより良い結論に繋がるだろう希望を口にし、拒絶されるステープルトンさん。
二人の『大人』の姿は凄く対照的で、残忍でした。
鉄華団ではないけれども、同じく理屈を蹴っ飛ばした世界をタービンズという『家族』になることで生き延び、暴力の世界に身をおいていたラフタとアジーが、暴走する『家族』のどうしようもなさに共感して見送ってしまうのも含め、各々の背負っているものが見える展開と言えます。

ステープルトンさんが言っていることはとてもマトモでバランスが取れているのですが、そもそもマトモな人生から遠い場所で生き延びてきた子供たちには、縁遠い綺麗事でもあります。
教育やまともな食事、自分を承認してくれる他者やポジティブな人間関係など、人間お当然の権利として認められる『当たり前』が如何に子供たちにとって貴重でかけがえの無いものだったかは、これまでの映像にしっかり焼きつけられています。
光に満ちた人生を最初から諦めるのではなく、そこに憧れつつも、ビスケットの死というあまりに大きな喪失を取り戻すべく、引き返せない道に歩みを進める子供たちの姿は、最初からニヒリズムにすり潰されているよりも、断然哀しい光景でした。


オルガを亡霊のように追い詰める三日月は『次は誰を殺す?』と詰問するわけですが、そんな彼がどれだけ『殺さない自分』を追い求めてきたのかも、これまで丁寧に描かれていました。
文字を学び、書を読み、かつてオルガが約束してくれた『新しい世界』を、『殺す』以外のやり方で手に入れることができるかもしれないという希望はしかし、結局のところ彼の過去に塗りつぶされてしまう。
『家族』の持つポジティブな側面を持ったまま、よりまともでバランスの良い方向へ変化していきそうな兆しをしっかり描写しつつ、オルガノ言うとおり『殺す』ことで変わった世界の衝撃から抜け出せなかった亡霊の姿は、恐ろしいと同時に寂しいものだった。

これまでこのアニメは、『家族』によって救われた過去、『殺す』ことで自分を確立した過去と、『殺さない』可能性、『家族』の外側に出たり新しい可能性を『家族』として向かい入れる可能性の相剋として描かれてきました。
今回ステープルトンさんがオルガを気にしつつ結局『家族』の境界線を踏み越えられなかったこと、それを踏み越えた三日月が『過去』の経験を再演することでしか道を示せなかったことで、その天秤が一気に一つの方向に傾いたように思います。
それはマクギリスが仮面をつけながらうそぶいた言葉と綺麗にシンクロしていて、死者の呪いと過去のしがらみに雁字搦めになりながら、望むと望まざると業に飲み込まれていく下向きの重力です。

鉄華団が『家族』と『過去』から抜け出せる希望が社会革命家クーデリアと、現実的な参謀ビスケットだったわけですが、それは二つとももう機能していない。
クーデリアはフミタンの言葉(過去からの呪い)によって覚悟を決め、ふみたんが望んだ美しい物に己を変化させるために、人間的なクーデリア・藍那・バーンスタインを殺し始めている。
だから此処から先の道のりを非常に冷静に蒔苗に提示できるし、『過去』に縛られ暴走を始めた鉄華団を止めることはしない。
『家族は守る、敵は殺す』という、停滞した死人の考えに自分を放り込んだ三日月(そしてその言葉をやけっぱちで受け入れてしまったオルガ)と、『家族』だったフミタンの遺言を果たすべく冷厳なリアリストに変貌しつつあるクーデリアは、同じ岸にいるからです。
そこは、部外者であるステープルトンさんとは違う。

今回の暴走は、人を殺すことでしか存在を証明できない『私設暴力』という職業を、少年たちが(たとえそれ以外の選択肢がなかったとしても)続けた時点で、ある意味約束されていたことなのかもしれません。
しかしそこの先にある可能性は、例えば綺麗にお勤めを終えて火星に還るとか、タービンズのような仁義の分かった真っ当な暴力装置になるとか、武器を捨てて生き直すとか、いろんな形で示唆されてはいました。
ビスケットがオルガと揉めたのも、幻のように見え隠れする暴力の外側で生きる道を、ビスケットは望みオルガは拒絶した結果でしょう。
しかしビスケットという現実的なブレーキを失い、『殺す』ことでしか自己を証明できない(と思いつめてしまった)三日月だけがオルガに残った結果、鉄華団は『殺すか、殺されるか』という二分法の世界に飛び込んでしまった。
ビスケがその極端な道を一番嫌っていたが、そこに鉄華団を追い込んだのはビスケの死であること、舵取り役であるオルガがその矛盾を一番解っていることが、どうにも皮肉で哀しいことです。
解っちゃいるけどどうにもならないからこそ、カルマなのでしょうしね。

たぶん今一番『正しい』選択肢は、ステープルトンさんが代表するバランスの良い考えを『家族』として受け入れ、武器を置くか、少なくとも武器を剥ける相手を常に考える立場を手に入れることなのでしょう。
しかし、彼らは若い。
武器を握って殺すの殺されるのしか生きる術を知らない彼らは、たとえ血塗られたレールであったとしても、歩き続ければ必ず喪うと分かっていても、そこから降りる勇気を持っていないのです。
それはつまり、彼らを見守ってきた存在が、彼らの生き方を変えるだけの影響を結局及ぼし得なかったということでもあり、喪失感と無力感を覚えます。
しかし彼らが『正しい』選択を選べない理由や業もこれまで濃厚に描かれてきたので、今回の決断は致し方なし、と認めざるをえない部分もある。
道理と感情、理屈と業、他人と身内。
矛盾する色んなモノに引き裂かれた結果、どこへでも行ける船旅から、切り替えようのない列車の旅にどうしようもなく切り替わってしまった今回は、痛みと寂しさが同居する、どうにもやりきれない転換点でした。


生きながらにして死んでいる、亡霊の迫力を見せた三日月と同等、もしくはそれ以上のカルマを見せたのが、マクギリスでした。
『家族』同然の絆を寄せられているカルタには『生き恥をさらすなら、死んでおけばいいのに』と言い放ち、ガエリオの理想主義を言葉巧みに煽り、いけしゃあしゃあと『内通者がいるらしいぞ』とギャラルホルンの腐敗を強調する。
養子としてもらわれたファルド『家』に執着を感じるどころか、義父を陥れ兄弟同然の友人を利用し尽くすことに何の躊躇いもない鉄面皮は、『家族』の死に鉄と血で報いようとする鉄華団とは正反対の姿でした。

悪魔の名前を関する機械の前で、彼がガエリオに語った理想。
それはお人好しの坊っちゃんを地獄に引きずり込む甘言であると同時に、それなりに本音でもあると思うのです。
鉄華団(もしくはブルワーズのヒューマンデブリ、コロニーの労働者、サバラン兄さん、フミタンなどなど、鉄華団の代わりに世界に食い殺されたすべての人達)が身をおく、綺麗事では毛筋一つ変わらない世界の中で、腐敗を排除し革命を断行する。
そのためには『家族』も『家族以外』も例外なく利用し、排除し、殺すという覚悟こそ必要なのだと、彼の冷徹な行動は語っているように、僕には思うのです。
無論義父が代表する『虐げるもの』の世界への濃厚な憎悪もあるのでしょうが、単純なエゴイストにはなって欲しくないなぁという希望も含めて、彼は結構理想家でもあると思います。
……そういう意味では、『家族』に支配された鉄華団だけではなく、クーデリアのシャドウでもあるんだな、チョコの人(と呼べた時代が、もはや懐かしい)。

彼が何故世界を憎み、策謀を駆使し他人を利用し尽くして変化させようとするのか。
そのモチベーションは、彼がかつて述べたとおり『過去』にありそうです。
ファルド家に引き上げられる前の、三日月と似た殺しの目をした少年が何を体験したのか知ることで、彼がどういう思惑で行動しているかも、見える気がします。
次回予告で過去回想が写っていたので、来週はそこに踏み込むのかなぁ……。

しかし敵であるマクギリスがファルド家にアイデンティティを持たないとするなら、火星と地球の間の子であるアインくん含めて、寄る辺のないオルフェンズたちが敵味方に分かれて利用し合い、奪い合い、殺し合うという、どうにもやり切れない修羅のドラマになるなぁ……。
元々そういうアニメではあるんだが、例えばクーデリアがじっくりと鉄華団の『家族』になったように、オルフェンズが己の孤独を上手く飼いならし、より善なる行為にたどり着ける希望も、丁寧に描いていたわけで。
ビスケットの死というのはすべてが終わりに向かうのに十分な説得力があるイベントなんだけど、あんまり逃げどころのない結末にみんながたどり着いてしまうのは、僕個人としてはとても寂しい。
僕は彼らのことが、カルマに飲み込まれつつそれと格闘する必死さ込みで(というか、だからこそ)、とても好きなんだ。
だから、世界の残忍さに妥協は出来ないとしても、なにか救いが欲しくなるなぁ……。


そんなわけで、歩んできた道、歩めなかった道が容赦なく人々の前に立ちふさがり、否応なく道が決まってしまう話でした。
これまで輝いていた希望が全て色を失うような衝撃と速度に満ちたエピソードでしたが、この話がただ悪趣味なだけの話ではないってのは、見ていた視聴者(つうか僕)が知っています。
世界全てを塗りつぶす血塗れの闇に飛び込んでいった孤児たちが、何かを見つけることが出来るのか、はたまた何も見つからないのか。
まだまだ話は続きます。
彼らのことを、見守りたいと思います。