イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

甘々と稲妻:第2話『豚汁とみせあかり』感想

幼女と学ぶ! ステップアップ料理教室IN武蔵境、今回は豚汁に挑戦。
教え子の家に入り浸ることにためらいを感じるまともなおとさんを、子供の胃袋と心をがっちり掴んで籠絡するお話でした。
第1話に比べてみんな表情が明るく、行動も元気になっていて、あの食事会は胃袋だけではなく、人生のだいじなものもしっかり満たしたんだなぁと判る回でした。
小鳥ちゃんの寂しさとか色々あるけども、まぁ人生ポジティブにやれることはバンバンやっておいたほうが良いんじゃないのマジで!(あの三人の幸せを、モニタのこっち側から祈るマン)

お話としては、勢いで話に引き込んだ第一話に少しブレーキをかけて、現在の状況を振り返る回でした。
迷う回って色々イライラしがちなんだけど、おとさんの社会人らしい誠実さを描写しつつ、お話がどこに落ち着くのかつむぎを通じてしっかり見せていて、相変わらず視聴者の感情操作びっくりするほど上手いなと思った。
『色々あるけど、三人が出会ったこともメシ食うこともいいことだから。そういう人生の大問題を間違える話じゃないから』ってサインを、結論にたどり着くBパートだけではなく、悩めるAパートの段階でしっかり画面から放出しているのが、安定感あって素晴らしい。

おとさんが冷静になることで小鳥ちゃんが隠していたエゴイズムが表に出たり、小料理屋での三人食事会が単なる楽園ではなく、色んな要素を含む人為だって見せられたのはとても良いと思います。
創作は主人公たちの好意を無条件に特権化出来るわけですが、だからこそ一種の『厳しさ』を確保し、主人公たちの行動を洗いなおすことは、視聴者が物語に没入するためには大事だと思います。
第2話という早い段階で自分たちの行動の足場を確かめたのは、今後話が跳躍しより大きな幸せにたどり着くために、必要な妙手だったんじゃないかな。

これから進む先を明るく照らしつつも、既に起きた変化をしっかり描写してくれたことも凄く良かったです。
第1話より少し明るくなった世界、犬塚家の食事風景に起きた小さな変化、正規が戻ってきた先生の表情、エンジンかかってきたつむぎの子供らしさ。
こういう良い方向への変化は第1話の物語が連れてきた成果であり、『君たちが感じ入った物語は、こういう結果が出たよ』とちゃんと報告してくれることがとにかくありがたい。
僕はもう先生やつむぎちゃんや小鳥ちゃんが好きになっているので、小さな、でも大事な変化をしっかり描写して、彼らの決断や努力が報われた描写をスマートにこなしてくれると、凄くいい気持ちになるのですね。


今回も素敵な描写がたっぷりありましたが、やっぱりメインは食事。
このアニメにおける食事は味気ない栄養補給行為であると同時に、他人と繋がるコミュニケーション手段であり、時間と空間を共有する場そのものでもあります。
腹だけではなく心も満ちたからこそ、母や妻や父を失い心に欠落を抱えた三人は、小料理屋の明かりに引き寄せられ、そこにもう一度立ち返りたいと願う。
彼らが抱えている欠損は第1話で大々的に取り上げられ、お話が上がり調子になってきた今回も隙なく擦り寄ってきているわけで、彼らが集まり食事をともにするのは、一種の精神的防衛行動といえます。
なので、お母さんが作ってくれたレシピは完全に守れなくていいし、ハンバーグは作れなくても問題ない。

とは言うものの『心さえこもっていれば、どんなものが出てきても大丈夫』という精神第一主義には走らず、『食べられるなら、美味しいもののほうがそりゃ嬉しい』というまともさがあるのは、健全で良いと思います。
Bパートじっくり使って作られた豚汁は、その苦労がたっぷり描かれていればこそ美味しそうだし、それは横に置いといて単純な食い物描写としても美味そうでした。
食事は『味覚』を通じて視聴者に共有されやすい描写であり、キャラクターの感覚と視聴者の感覚をシンクロさせ作品への没入度をあげる大事な足場になるので、『美味しそうなご飯を、美味しそうに食べる』描写が機能しているのは、凄く大事なことだ。
白米という『前回終えた課題』は省略し、豚汁という『今回の課題』をじっくり書く筆も、段階を踏んで上手くなっていく充実感があって、凄く良いなと思います。

この話で大事なのは、ただ作る・ただ食べるという物質的な行為ではなく、一緒に作る・一緒に食べるという共有性なのであり、だからこんにゃくはみんなで千切る。
子供であるつむぎも、包丁が使えない小鳥ちゃんも、出来ないからといってはじき出されるのではなく、自分に出来る形で調理という行為に参加し、体験を共有する。
こういう描写が丁寧に積み重なることで、食事というメディアを通じて築かれる関係性、それを構築できる食事の唯一性が、しっかり視聴者に伝わるわけです。
前回は小鳥ちゃんが一方的に作り施し癒やす側だったんだけど、今度はみんな横一列に並んで一緒にやってるという対比も、関係性の変化をレイアウトで表現してて、非常に上手いよね。


父娘二人の緊密な関係に、料理というメディアを使って小鳥ちゃんが滑り込んでいく様子、幸福に怯えがちな先生を小鳥ちゃんがグイグイ引っ張っていく描写が多かったのは、なんだか安心しました。
閉じた場所の暖かさが強く描かれればこそ、それは閉鎖的になりがちなんですが、この話は凄く開いていくことの意味に自覚的で、家庭と料理の暖かさに沈み込まず、社会の中でタフに生きていく方向を見失わない。
先生が悩みを抱え込まず、名も無き先輩先生にしっかり相談している場面、先輩がそれに真摯に答えて前向きなアドバイスを与えているシーンは、後の食卓を下支えする、大事なシーンだと思いました。
『娘が幸せそうか否か』が全ての判断基準になっちゃうくらい、先生にとってつむぎちゃんは特別な存在なんだけど、母娘という関係を大事にしつつも閉じこもらず、外に開いていく石があるのはとっても良いですね。

メディア=媒介性という意味では、つむぎがまず小鳥ちゃんを好きになって、その好意がおとさんを決断させるという流れも、料理と同じラインに乗っかってるのでしょう。
『生徒の家に入り浸るのは、教師としてマズイよなぁ』という先生の判断は大人として誠実なものなんだけど、そこで引いてしまっては人生の大事なものを取り逃してしまうわけで、どうにか小鳥の好意とエゴに乗っかり、『細かいことはさておき、みんなで作ってみんなで食べよう! 色々つらいこともあるけど、幸せになろう!!』という結論に収めなければいけない。(もしくは、見ていれば自然と収めて欲しいと願う)
子供らしい純粋さで幸せを求めるつむぎがおとさんを媒介となり、小鳥ちゃんの側におとさんを引っ張っていくことで、悩んだすえに『正解』辿り着く今回のお話しは、このアニメが『媒介』をどれだけ大事に見ているか、良く表していると思います。

メディアは『本質』になりえずあくまで『媒介』なんですが、人間は本当に大事な『本質』を直感できず、料理や娘や言葉といった『媒介』なしでは他者と繋がりにくい、厄介な動物です。
子供らしさ・教師らしさ・学生らしさという『本質』をそれぞれ持ったキャラクターは同時に、それぞれがそれぞれの『媒介』でもあって、その両義性によって孤独な人間はなんとか寂しさを埋め、より良い生活に向かい合うことが出来ているわけです。
料理(が代表する存在そのもの)が持つ非本質性と孤独をしっかり見据えたうえで、それでも料理がなければつながらなかったであろう三人を幸福に描き、『本質』を介在する『媒介』の唯一性と価値に讃歌を捧げているこのアニメは、僕にとってはちょっと認識論的ですらある。
そういうテーマ性は『料理』『子供と親』といった具体的な物語的現実を徹底的に丁寧に描くことで到達されているわけで、『題目くっちゃべってるだけでも人間は感動しないし、現象だけを追いかける物語は虚しいなぁ』などと、創作全体を視野に入れたデカい感想も浮かんできます。


ただ善人が寄り集まって素敵な空間が生まれているわけではなく、お互い寂しさを抱え利己的だからこそ、他人の温もりを求めるという矛盾に切り込んでいったのも、なかなか誠実な態度でした。
小鳥ちゃんは自分の寂しさを埋めるために宣誓を利用すると言っていたけど、大概の人間は利己的な足場から始まって利他的な行為をなすものだし、完全に他人のためって方が無理がある。
たとえエゴイズムから始まった行為でも、小鳥ちゃんは自分を満たしつつ他人も満たす立派なことを達成しているわけだし、その尊さを教師でもあるおとさんはしっかり理解している。
このアニメのエゴイズムと利他性を見つめる視線は冷静で、優しい楽園を描写しつつそこを絵空事にはしないバランス感覚が、ここでも生きている気がします。

つむぎちゃんが小鳥ちゃんのことを好きになる様子が丁寧にかかれていたのも、非常に良かったです。
気に入ったものの真似をしまくる子供らしいミメーシスとか、『あー、あるわー。子供だけじゃなく大人でも、好意ゆえの模倣はあるわー』としか言いようが無い自然な描写でした。
第1話に比べると子供っぽさが強調され、幼い暴君っぷりが随所で見られたけど、つむぎがかけていた無意識のリミッターがあの白米で外れて、我慢しなくなったって描写なんだろうな。
ご飯の食べ方が野獣っぽいところとか、お絵描きそんなに上手くないところとか、基本『いい子』としてつむぎを描きつつ『都合のいい子』には収めない余裕は、見ていて非常にありがたい。
つーかつむぎちゃんの表情や仕草に漂う『子供っぷり』がマジ活き活きしていて、見てるだけで気持ち悪い笑顔になっちまうんだよ俺はよー!!(気持ち悪いマンの気持ち悪い告白)

小料理屋の明かりに自分もやすらぎを感じつつ、社会的まともさを失わず悩んでしまうおとさんも、つむぎの真っ直ぐな視線に耐え切れず自分のエゴイズムを吐露してしまう小鳥も、自分らしさを隠さずに披露していて、凄く良かったです。
基本的にキャラの善性をたっぷり描きつつ、そこからどうしても飛び出してしまう『それでも』『なんだけど』の部分を絶対いれてくるのが、キャラクターが一面的にならず存在感を出す、大事な手法なんだろうな。
そういう身勝手な部分があると、キャラクターが物語に奉仕する段取り感も薄くなり、より作品に没入できるわけで、凄く大事よね。

小鳥ちゃんはすげーグイグイ来てたけど、その動機は彼女が言うような失った家族を犬塚家で代用したいエゴイズムなのか、それとも意識されていない恋心なのか、どうなんだろうねぇ。
食事会で少しは癒やされたけど、おとさんまだまだ奥さん奪われた悲しみ全然治ってないし、コイバナはちょっと早い感じもするなぁ。
娘を大事にするのも、当然愛情フルマックスだからなんだけど、空疎さに耐え切れず崩れてしまいそうな自分を、娘を愛することで支えるって部分があるだろうしな。
小鳥ちゃんだけではなくおとさんにもエゴはあるし、それは自分勝手さというマイナスだけではなく、自分を強く保って生き続けるポジティブな部分でもあるんだろう……ほんと両面性の扱いと描写上手いなこのアニメ。


というわけで、キャラクターたちが色々悩みつつも、自分たちのやってることは基本間違ってないと確信する回でした。
そーだよ、お前らが幸せになることに間違いなんてどこにもないッ!!(気持ち悪いマンの気持ち悪い応援)
視聴者がそういう気持ちになれるように、非常に慎重かつ繊細にアニメーションを組み上げ、画面に何を映すか徹底的に精査しているこの感じは、マジ感謝しかねぇ。

犬塚父娘と小鳥ちゃんが作る、優しくて少し身勝手な世界を見ているだけでも、とても楽しいこのアニメ。
前回は白米、今回は豚汁と、段階を踏んで料理に親しんでいく修行物語としての楽しみもしっかりあって、見るほどに『もっともっと食べたい! 先が見たい!!』という気持ちが強くなります。
まったりいい話では終わらせない、何かを積み上げていくストーリーとしての楽しさもしっかり狙っていて、この貪欲なサービス精神、マジありがてぇって感じだ。
物語の栄養バランスをしっかり整え、中身も色んな味が楽しめる素敵なアニメに仕上がっていて、来週も非常に楽しみです。
いやー、良いアニメだなぁこれ。