イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

バッテリー:第4話『グラウンドに立つ』感想

名前も顔も未だにない怪物を飼いならすか食い殺されるかの真剣勝負、ボールと思春期のアニメ五話目です。
巧は相変わらず己の負けん気を全てに叩きつけ、様々な人を苛立たせ気を使わせ、不和の種を巻いて人を動かす。
巧という天才が存在するだけで世界が乱れていくその予兆が、丁寧に切り取られたお話でした。
展西の爬虫類めいたイヤーな陰険さ、不穏でよかったなぁ。

巧がギザギザハートの野球少年であるのはこれまでの三話でバレバレですが、尖った彼の存在感は展西のようなネガティブな反応だけではなく、ポジティブな人情も引き寄せます。
一年生のトモダチも、おじいちゃんも青波もみな『喧嘩したの? 元気ないけど大丈夫?』と声をかけてくれるのは、巧の尖った態度にめげず、彼を気にかけてくれる優しさの発露です。
しかしありのままの自分をぶつける以外方法を知らない巧は、なまじっかその才能が他人を感動させる分、他者の優しさに対し鈍感な部分があります。

自分が世界に中心で、人生という物語の主人公で、一切折れ曲がらず行きていける特別な存在であるという根拠のない思い上がり。
自我が形成されていく中で盛り上がる高い自意識は、しかし豪が言うように誰にでもあるもので、そこを巧く調整しながら生きていくのが天才ならぬ普通の人間というものです。
ならば、巧は天才的野球競技者だから周囲と一切折り合わず、自分を曲げずに生き続ける特権を持っているのか。
それはおじいさんが『ゾクリとせん』と言っているように、もしくは豪が『お前だけが特別じゃない』と突きつけたように、少なくともこの作品の中では許されない生き方です。
巧は才をたのんで人情をないがしろにする危うい道から戻ってこないといけないのだけれども、人の話をまともに着かないこの状況では帰ってくるきっかけがないわけで、それを突破するための事件の準備が、ゆっくりと積み重なっている状況と言えます。

巧は自分だけではなく他人も特別と思える優しさを持っていて、だからこそ豪を女房役と見込んで体重を預けているのだけれども、その優しさを伝えたり、他人も自分に優しくしてくれるのだと感じ取る器用さに欠けています。
気まずい雰囲気は横においていいタイミングで空気を逃がしてくれる豪や、あらゆる状況の真実を一瞬で見ぬく素直さをもった青波とは、対比的に描かれているところですね。
素直でも器用でもなくて、他人を気にかける余裕もなくただただ純化していく巧の危うさを、おじいさんは人生の先達として強く気にかけているのだけれども、それを素直に巧に伝えられない不器用さも孫譲りで、事態は不穏なままどんどんと突き進んでいく。
思春期特有の優しさと不器用さのダンスは、今回もうまく描かれていたように思います。


子供が優しさを巧く伝えられないのなら、それを制御してあげるのが大人の仕事になるわけですが、自分もまた見捨てられた子供のままの戸村には、巧の危うさは気づけない。
かつて巧の祖父に捨てられたと思い込んだまま大人になってしまった戸村が、過剰な管理と不平等な態度で子ども達を苛つかせ、そのはけ口がより幼い子供に行ってしまっているのは、なかなか哀しい因果です。
『勝手に俺たちを見捨てて』と恨んだ高校時代をいつの間にか忘れて、子どもと向かい合うことも話し合うこともやめ、自分の望む通りの『勝つための道具』を量産している皮肉に、戸村は多分まだ、気づいていない。
その精算もまた、今回ジリジリと積み上げられていった不穏さが炸裂した時に行なわれるのでしょう。

人の優しさを素直に受け取れる、もしくは自分の優しさを素直に表現できるという意味での成熟は、このアニメでは肉体の年齢とはあまり関係なく発露しています。
陰険さだけを積み重ねていく展西は三年生の『先輩』ですし、子ども達をないがしろにし続ける戸村は『先生』ですが、そんな戸村が真実に一歩近づくきっかけを作ってあげるのは、作中一番幼い青波です。
自分の痛みにこだわりすぎて、他人の優しさが見えなくなっているという意味では巧と戸村はおんなじ思春期の子どもであり、その両方に手を差し伸べているのが青波というのは、なかなかに意味深ですね。
青波も身長が伸びてホルモンバランスが変わってきたら、ままならない自分を抱えて他人の当たるようになるのかなぁ……。

豪もどちらかと言えば成熟した人間として描かれていますが、同時に怒りもすれば傷つきもする、都合の悪い一個人としてしっかり描かれています。
巧が思い通りにならない状況、自分が尊重されない現状に腹を立てるように、豪もまた身勝手な巧の振る舞いに腹を立てている。
お前が特別な人間であるように、俺も、俺以外のお前の周囲の人間全ても、無条件に特別で尊重されるべき人間なんだ。
そのことをふてくされた態度ではなく、目を見て相棒に言ってやれる豪の強さと優しさは、オッサンにとっては好ましく見えます。
『一回も怒ったことがない』という同級生の証言からしても、相当な優等生だった豪がそれでも親に逆らって野球を続ける原因になった巧の才能が、優等生で人格者の豪を追いかけることで逆に浮かび上がる構図になってるな、今回。


都合の悪い描写といえば、巧の尖った態度と、展西の不誠実で理不尽な扱いに苛々を貯めまくる展西の表情も、今回口元のクローズアップを多用して描かれました。
この作品は野球小説ではなく、野球という場所に集う様々な人々の肖像画を切り取り、その変化を追いかけていく青春小説なので、巧の才覚に引き寄せられる豪や戸村のような野球人もいれば、野球にも誠実に生きることにも情熱を持たず、ただ薄暗い欲望を陰の中に秘めた展西のような人間もいる。

個人的に面白いのは、一応主人公の位置にいる巧に展西が苛立つ描写に、説得力があるよう描いている点です。
店に愛された少年が野球という特異フィールドで、才能を武器に無双する物語であれば、展西の感情の揺れはあそこまで丁寧に描かれないでしょう。
巧の身勝手さと不器用さは視聴者からしても苛立つものであり、それを我慢できる奴らもいれば、展西のように陰惨な暴力でウサを晴らそうと企む輩も出るだろうというラインで、しっかり演出される。
それはやはり、この話が野球それ自体ではなく、才能とか、青春とか、対立とか、和解とか、感情とか、優しさとか、強さとか、人間が思春期にさしかかれば否応なく格闘する様々なものを描くために、野球という題材を選んだ作品だからでしょう。

世界には色んな存在がいて、どれだけ才能があったとしても主人公に都合のいい態度を取ってくれる奴ばかりじゃない。
そういう中で、道を間違えてしまうことも含めて、どういう選択肢がありどういう尊さがあるのかを、ジックリと据えたカメラで追いかけていくこと。
そういうお話が体温と肌理を確保できるように、少年たちの表情や痛みを忘れずに切り取ること。
作品が目指すべき所をしっかり捉えて演出している証明として、今回展西を捉える陰険な画角は非常によく出来ていたと思います。


色んな奴がいて、色んなやり方で人間が作られ、変わっていく季節。
それは何も中学生だけに独占された特権ではなく、トラウマを乗り越えられず子供を抑圧する先生にも、思い上がった自分を哀しく述懐しつつ、それでも己の不器用さを乗り越えられない老人にも開かれている可能性です。
巧も今の尖りすぎた優しくない青年のままとは限らないし、豪の中にも優等生以外の顔があるし、戸村も今回の対話で何かが変わるかもしれない。
展西に凝る危うい不満も引っくるめて、プラスとマイナス、双方向の可能性がじわっと積み重なるエピソードでした。

そういう季節には独特の空気があり、繊細さがあるもので、僕は原作を読んだ時に特に、そういうナイーブな感覚がよく切り取られているなと思った。
顔だけではなく、手指やクシャクシャになった包み紙にまで演技をさせて、細やかな内面を言葉だけはなく表現してくれるこのアニメは、やっぱ良いアニメ化だなと思います。
巧の臆病なエゴイズムが誰をどう動かし、どこにたどり着くのか。
来週辺り、大きな変化が起きるかなって感じの第5話でした。
いやー、しみじみ面白く、しみじみ好きだなこのアニメ。