イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

甘々と稲妻:第7話『五平餅とだいぼうけん』感想

不完全な人間が生きたり死んだりメシくったりする話、今回は病気と空想と衝突。
おとさんがぶっ倒れたのを見て幼い真心を加速させたつむぎが、夢と現実の狭間でおとさんの真心と正面衝突し、人の情けと五平餅で親子の気持ちが戻っていく話でした。
五歳児の見ているファンシーな世界をミュージカル調で見せる序盤、すきっぷ商店街での大衝突の衝撃、いつもの小料理屋を舞台にした修復と食事。
生きてりゃいろんな事が起こる人生の悲喜こもごもを描きつつ、対話と食事を足場に明るい方向に歩き直す話であり、このお話の舵取りがよく見える話だったと思います。

これまではあまり人生の不穏さが顔を見せなかったこのアニメですが、おとさんを襲う病をきっかけに少しつむぎが暴走し、病み上がりで余裕のないおとさんも真っ直ぐぶつかりすぎて、お互い感情を暴走させる形になりました。
しかしまぁ、食事をテーマにしキャラクターも『食う』生き物として描かれている以上、親子の気持ちがすれ違うことも当然あるわけで、その過程を理不尽にならないよう追いかけた今回は、むしろ安心する回だった。
つむぎが一人で出て行ったのも、おとさんが大声で怒鳴ったのも、お互いを慈しむ気持ちがあればこそであるし、気持ちのすれ違いも解決できているし、衝突もそこからの関係完全も、起こるべくして起きている感じが強くありました。

考えてみれば『母/妻の死』を前提に物語が動いている以上、生病老死の宿命はこのアニメの背景にしっかり埋め込まれていて、彼らは一切の失敗をしない天人というわけではない。
小鳥ちゃんだけってお米を焦がしちゃうけど、そこから機転を利かせて五平餅を作って、みんなで美味しく食べることが出来る。
人間である以上発生する問題を否定するのではなく、起こした上でどう対処するのか、対処するためにどれだけ周囲の助力と本人の気持ちが必要なのかを描いていくのが、このアニメの大きなポイントになります。
そういう意味では、おとさんとつむぎの衝突も、焦げたご飯と五平餅も、奥さんの死と小料理屋の集いも、同じ線上に並んでいるのかもしれん。

アニメに勇気をもらって一人で『だいぼうけん』に出掛けてしまうつむぎの愚かさは、病気のおとさんをどうにかしてあげたい優しさから来ているし、おとさんがつむぎを怒鳴ったのも、妻の忘れ形見を誰よりも大事に思えばこそでしょう。
つむぎが見ているおとぎの世界はけして現実のものではなく、自転車のお兄さんのように危ないこともあるし、必ずしも優しくしてはくれないけれど、彼女が夢見る世界に非常に近似したものを与えたいからこそ、おとさんは小料理屋に駆け込んだわけです。
愚かさと賢さは常に背中合わせだし、愛情が必ずしも良い結果を生むとは限らないけど、適切に誰かに支えてもらうことで、人間はより善い場所にたどり着ける。
人間の不完全さ、世界の都合の悪さを取り入れつつも、より暖かで光に満ちた方向を信じて歩いて行くこのアニメの舵取りが、今回よく見えた気がします。


今回は表情の作画が非常に切れ味よく、『だいぼうけん』に心を躍らせるつむぎの笑顔も、つむぎの喪失に我を見失うおとさんの焦りも、強く伝わってきました。
すきっぷ通りで衝突するときの一連の芝居も、自分の真心が報われると信じて疑わない幼い表情、安心と激情が一瞬で駆け巡り怒声に変わる瞬間、それを叩きつけられて全てを拒絶してしまうつむぎの仕草と、まさに渾身。
つむぎを『家』に引き取って個人で解決しようとするおとさんと、感情に押し流されて暴れる紬の取っ組みあいも、気づいたら凄いアクロバティックな姿勢になっちゃうちょっと滑稽な運び方含めて、圧力のある仕上がりでした。
あそこは前半のミュージカルチックな『だいぼうけん』の温かみが一気に冷えて、音楽のギャロップと感情の弾み方がシンクロしているつむぎの完全な世界が破綻するシーンでもあるので、ショックがほしい所。
3つの人体が複雑に絡む面倒くさそうなアクションをしっかり仕上げて、小料理屋に避難した時の安心感にも繋がる、良い見せ場だったと思います。

『家族』の問題を解決するべく設けられた奥座敷は、『他人』であるつむぎを小鳥の視界からきっちり遮りつつ、犬塚先生とつむぎの間に机で線を引きます。
お互いの感情が整理できていない以上、二人はいつもの様に一緒の場所に立つわけには行かないので、気持ちを伝え合うまではこの先はお互い超えない。
つむぎがおとさんの言葉を聞き入れ、素直に謝罪をし(なんと出来た子供だ)、おとさんもつむぎの桃缶とそこに込められた真心を受け取ったところで、空間に引かれた境界線を超えて二人が抱きあい、元……よりも多分少し良くなった関係に戻る。
小料理屋のカウンターが一番わかり易いですが、このアニメはレイアウトによる心理境界線をかなり意識的に演出している(というか、映像作品において立ち位置と境界線で心理・社会的状況を演出しない作品はないけども、特に特徴的につかっている)アニメですね。

前半の『だいぼうけん』パートも、つむぎの内的世界認識に深く入りこんだ演出であり、音楽と仕草がシンクロしたサイレント映画的な見せ方がとても楽しかったです。
純粋無垢な認識がエピソード全体を支配し、お伽話のような主観が客観を乗っ取る描き方、その表現としての音楽と映像の同調という意味では、"イカ娘"第5話『飼わなイカ?』とか、"ゆるゆり なちゅやちゅみ!"を少し思い出しました。
『だいぼうけん』に出るまでの準備シーケンスも、つむぎがつむぎなりに勇気を出しておとさんのために外に出ようと決意した感じがこもっていて良かったです。

灰色の世界がフルカラーに色づいていく"あの子はマジカル"が、つむぎにとってどういう意味を持っているかが解ったのも、非常に良かったな。
マンションの中はすごく意図的に薄暗く描かれていて、つむぎにとっては怪物が暴れまわる『灰色の世界』だったわけで、そこから外に踏み出し総天然色の『だいぼうけん』に移り変わる話の流れを、"あの子はマジカル"は巧く圧縮してんのよね。(つむぎが"マジカル"に夢見た世界と、おとさんが叩きつけた現実が食い違ったのはまた別の問題だし、最終的に総天然色の世界を取り戻せている以上、"マジカル"が与えた夢は十分以上に機能している)
結果引き出された行動に一部問題があっても、ロールモデルとしての女児アニメがしっかり機能している様は、フィクションへのポジティブな希望があって素晴らしい。


今回の問題は片親家庭の閉じた問題であり、最終的には親子の膝の上で解決する衝突なんだけども、もしもしあのまま商店街で言い争っていたり、もしくは暗いマンションに返っていたとしたら、大団円はなかったように思います。
『家族』二人の重たい空気にドギマギしつつ、唯一切れる札である『美味しいご飯』にすがって事態打開を祈っている小鳥の優しさがちゃんと描かれていたのは、僕はとても好きでした。
一時心を落ち着け、激しく波打った気持ちを豊かにして関係を再構築できる場所を差し出す『優しい他人』というのは、片親という状況ゆえに事態がこじれた犬塚親子にとって、凄くありがたいことだったと思います。
そういう意味では、つむぎと一緒にサメの海を超えてくれたお姉さんや、横断歩道を一緒に渡ってくれたおばあさんや、浮かれすぎてぶつかりそうになったつむぎを叱った自転車のお兄さんも、小鳥ちゃんと同じ『優しい他人』だったのかもしれん。
親子の濃厚で優しく温かい関係を描きつつも、そういうところへの目配せはホントゆるがせにしないね、このアニメ。

今回のごちそうは五平餅だったわけですが、心配すぎて失敗してしまったご飯を『指示する人』小鳥ちゃんが機転を利かせてアレンジし、楽しい食事を演出していました。
第4話のピーマンの肉詰めもそうなんだけど、料理技術のステップアップとして『出来るようになった技術を応用し、新しいメニューに挑む』描写がしっかりあるのは、積み重ねを感じられる。
五平餅もハンバーグも餃子も『こねる』料理だけど、幼児にとって身近な楽しみである『こねる』を重視することで、つむぎが料理作成に参加しやすいメニューを選んだ結果かなぁ。
今回もカウンターを乗り越えて、五平餅成形してたしな。

持ち前の包丁恐怖症から『作る』プロセスに参加できなったことりですが、今回は『切る』工程を挟まない五平餅なので、初めて『考える』から『作る』までが一貫した調理になっていました。
今回はいろいろハードな浮き沈みを体験した犬塚親子へのケアって意味合いが強い調理なので、小鳥が一人で仕上げる形になったのか、料理スキルの全体的向上を見せるためか、はたまた偶然の流れか。
いまいち判別がつきかねますが、つむぎを回収するところから衝突の仲裁、交渉場所の用意にごちそうの振る舞いまで、しっかり犬塚親子をケアしきった小鳥ちゃんは偉い。
歴史の教科書に乗るぐらい偉い。


そんなわけで、子供の幼い夢と親の心配が正面衝突しつつ、他人の屋根を借りて膝の上の安らぎに戻っていくお話でした。
怪我の功名、雨降って地固まる、人生楽ありゃ苦もあるさ。
いろんな事がある日々から目を背けず、苦楽の様々な側面にしっかり分け入って描きつつも、希望の方角に顔を向け続ける。
このアニメらしい、ちょっぴりビターでとびきり甘いエピソードとなりました。
しっかし下げ調子も巧く演るなぁ、巧いし好きだわこのアニメ。