イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

甘々と稲妻:第10話『夏休みとねことアジ』感想

料理で繋がるアナタとワタシのライフタイム・ログ、今週はねこ人間が元気になるまで。
前回ラストでぶっ込んだ『おうちカレー』の衝撃を活かしつつ、ママがいなくても生きていける、生きていくしかないつむぎの優しい世界を描くエピソードでした。

いつもの元気さがなりを潜め、甘えん坊のねこ人間になってしまうつむぎの気持ちも、その柔らかさを大事にしつつ元気を取り戻したい周囲の人々の気持ちも、良く伝わってくる話運びでした。

今回の話は、つむぎがなぜねこ人間になってしまったかを考えると、その解消も判りやすいと思います。
『おうちカレー』を食べることでつむぎが痛感したのは、カレーを食べても帰ってこないママの不在であり、すなわち『死』です。
あまりにも繊細で難しい問題を叩きつけられた彼女は、前回ラストで見せた『食べるよッ!』という気概はありつつも、具体的にどう向い合っていいか強く混乱している。
その混乱を受け止めてもらえるのはやっぱり家族なわけで、唯一残った肉親であるおとさんに顔を埋め、外界を認識しないよう、内側にこもるよう己を位置づけていきます。

その内省は己と向き合う大事な時間なんですが、そればっかり続けていくと、外界の閉鎖と静止という別の形の『死』にとらわれてしまうわけで、どうにか顔を上げさせ、おとさん以外の人とお話して、御飯を食べる状況に持っていく必要がある。
ヤギちゃんやしのぶまで動員して、いつものカウンターではなく広い和室で、みんなで楽しく食べるシーンで今回の話が終わるのは、ママンの『死』を思い『死』にひたる大事な旅路を一旦終えて、つむぎが自分自身の『生』に帰還した、最大の表明になるわけです。


『死』に囚われたつむぎが顔を上げるきっかけになるのが、アジを解体し生々しく『生』を奪う作業だというのは、非常に示唆的です。
赤い血が流れ、首が切り離され、生物が死体に、死体が食材に変わっていく過程は、幼稚園児にはショッキングと思われがちなシーンであり、しのぶはそこを配慮して目を隠す。
しかしそれは強くつむぎの興味を引く、忌避すべき汚れではないわけです。

無論、ボトボト首が落ちる絵面が単純に面白いってのもあるんでしょうが、『死』と不在に悩み、怯え、巧く答えを出せないつむぎにとって、作中初めて『赤い血』が流されるアジの解体は、言葉や思考を超えた『死』の実相を垣間見る、またとないチャンスなわけです。
大人が隠したい、隠して衝撃から守りたい『死』ですが、つむぎは否応なくそれを叩きつけられ、その意味をある程度以上理解していればこそ、『うちの煮物』も『おうちカレー』も口に入れ、飲み込み、昇華してきた。
そういう彼女の世界から『死』を遠ざけ隠すよりも、つむぎが興味を持ち刺激を受ける形で『死』を見つめ、それが生まれる過程を理解し、その味を舌で確認し、消化して血肉に変えていくほうが、食事が持つ物質的な意味の奥に入り込んだこのお話には、相応しい解決法だというわけです。

釣り上げて生きているアジに興味を持ち、死んで解体され料理になるアジをじっと観察し、アジの『死』がつむぎの『生』になる食事の不思議を体感する。
その経験は、母の『死』と己の『生』の理不尽な対比に震えていたつむぎにとって、言葉では達成し得ない納得を与え、それを乗り越え顔を上げさせる、大事な体験になったと思うのです。
どれだけ悲しくても死んだママは帰ってこないし、生きているつむぎは生き続けなければいいけない。
この作品(そして多分、僕らの人生)が内包し、平和な日常の遠景として切り取られ続けてきた『生』と『死』の理不尽を一旦飲み込み、『死』だけを考える日々から、『死』を適切な場所において『生』を続ける毎日へと移り変わる上で、アジは非常に良い仕事をしてくれました。

ねこ人間から幼稚園児に移り変わる今回のお話は、つむぎが外界を拒絶し、父との温かい距離に埋没してしまう心理を納得出来ないと、その起伏に乗っかることは出来ません。
そういう意味では、前回ラストまでの我慢、ラストシーンでの号泣が非常によく効いていて、『あれだけ我慢したんだし、あれだけ辛かったんだから、そりゃあ引きずるわな』という納得が生まれるよう、話が組まれています。
逆に言うと、ちゃんとつむぎが傷を見せてくれることで、『あんだけシンドいのに、つむぎちゃん大丈夫なの?』という視聴者の心配に時間を使って、自分の力と周囲の助けで立ち上がるつむぎの姿を、じっくり描いてくれているということでもあります。
第8話の開放性が第9話の内向性につながっていることを考えると、ここ三話はそれぞれ個別のお話でありながら、『母/妻の死』をどう受け止め、どう付き合っていく(乗り越えていく、ではなく。『死』は克服するべき問題では無いのだから)かを共通のテーマとして持つ、緩やかで堅牢に繋がったエピソードだといえますね。

普段の『自分でできる良い子』のつむぎをやめる言い訳に「ねこだから良いの……」とつぶやくのは、彼女が幼いなりにプライドを持っていて、『良い子』から外れるロジックを探しているからです。
ここら辺は前回、『みんなの楽しい食事会』では感情を堪えていた理由と表裏一体で、日常生活の中に潜む小さなプライドというものに、しっかり気配りをしているアニメだなと思います。
気遣いや優しさというのは、ナイーブで優しい部分だけではなく、意地っ張りで頑なな部分にも及ぶものだと思っているので、一時避難としてねこ人間を選んだ愛娘を否定するのではなく、しっかり抱きとめてくれたおとさんには感謝しかねぇ。
そういう部分マジ大事だから、マジ。


これまでもつむぎの心を受け止め、明日の方角に顔を上げていく足場になってくれた『みんなのお料理会』ですが、今回は特にそういう側面が強かったように思います。
追加メンバーであるしのぶが高い人間力を最高に発揮し、あらゆる局面で最善手を引き続ける頼もしさもあって、つむぎがゆっくり顔を上げて、回りにいる人々の目を見れるようになる時間を作り上げてくれていました。
ねこ人間は人間の言葉は聞いてくれないので、すぐさま同じ仕草を身につけてつむぎの間合いに入るところとか、アジの解体というナイーブな状況になるや台所からカウンターに回って、つむぎを背後からケアできるポジションを取るところとか、ホントあの子人間関係の天才……天才よッ!!!(ありがたさが溢れて思わず絶叫)

犬塚先生もことりちゃんも、真面目故にぎこちない所があって、つむぎのソフトな部分をケアしきれない時があるんですが、フットワークが軽いしのぶは悪い意味での気負いが全然なくて、状況が必要とする最善手を最速で打つからな……。
悪いわけではないけどとても難しい状況につむぎが入りこんだこのタイミングで、しのぶが飯田家に居合わせたってのは、ほんとありがたい偶然だと思います。
同時につむぎを堅牢に確実に育てていく日々の苦労は、犬塚先生や小鳥ちゃんにしか背負えないものなわけで、みんながみんな、自分らしさを活かしながらお互いを支えておる愛おしさが背骨を焼くわけよ見てるとさ。
ほんとそういう表現が上から目線の説教にならず、じわっと感じ取れる描写として埋め込まれているのは、アニメとしてとにかく強え。

固いいうても、小鳥ちゃんは根本的にスーパー食欲魔神でして。
今回は楽しい食いしん坊描写多めにして、小鳥ちゃんのコミカルな側面もよく見れる回だったと思います。
ああやって欲望全開でリアクションしてくれると、味も匂いもない画面上の料理が脳内でグッと肌理を増してきてマジうまそうに見えるもんな……グルメモノとしてみた時、やっぱリアクション役は大事だ。
食事それ自体(にかぎらず『楽しみ』全般)に強い欲望を持たない犬塚先生を補う意味でも、小鳥ちゃんは大事なキャラだなぁやっぱ。

あと久々にヤギちゃんが出てきて、ヤギちゃん好きな僕としては嬉しかったです。
ランチの対応で忙しいだろうに、追加のアジ持ってきて中骨せんべいまで作ってくれるところとか、マジこの人気配りの天才……天才よッ!!(二度目)って気持ちになる。
こういう優しい人たちに囲まれ、色々考えつつ育っているつむぎを色んな角度から映すのが、このアニメ全体の視座であり、ここ三話を繋げて描くことで見えてくる視点かな、と思いました。


『おうちカレー』の涙を引き継いで、ねこ人間になってしまったつむぎを、じっくり時間を使って前向きな場所に引き戻していくエピソードでした。
前回のラストは視聴者にとっても衝撃的だったので、つむぎのダメージをしっかり時間を使って描写することで、それと同じ気持になっている観客も引き込んで復活させる、上手い運び方だったと思います。
日常系の『明確な目標がない分、細やかな日常描写をじっくり描ける』という強みを、最大限に活かしているお話やね。

アレンジされた『うちの煮物』を受け入れ、『おうちカレー』を食べて不在と向き合い、そこで受けた傷を『アジ』の『死』と『生』を消化することで癒していく。
三話のテーマ性が骨太に繋がった、見事なシリーズ構成だったと思います。
大きな凹みを乗り越えて少し強く、賢くなったつむぎですが、まだまだ不器用で不用意な幼稚園児。
来週はご学友と一悶着起こすみたいですが、それもまた彼女の糧となってくれることでしょう。
そろそろ一応の終わりが見えてきたこのお話が、残りの話数をどう運ぶのか、非常に楽しみです。