イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

昭和元禄落語心中:第4話感想

人間の業を見つめ続ける人生高座、時代がまた飛びまして第4話です。
産着に包まれていた信乃助もすっかり大きくなり、誰から受け継いだのかひどく人誑しの美少年に。
そんな子供をかすがいに、助六と小夏が小さな幸せを大きく育てる中で、暗闇をじっと見つめて落語と心中、思い詰めている八雲師匠。
子供たちの寿限無の合唱も、芸事と人生に絡め取られた古株には雑音としか聞こえないのか。
薄皮一つ隔てた光と闇が、じっとりと同居する新章開幕となりました。

今回のお話は全体的に明るめでして、その光源となっているのは間違いなく信乃助。
年相応の生意気なところも匂わせつつ、素直に人の言うことを聞き分け、親を愛し敬える子供に、周りの人はデレデレ。
気難しい八雲も懐を許して、まるで実の親子のような深い情をしっかり見せていました。

とは言うものの、名人・八雲はせがまれた"寿限無"は当然かけず、それどころか廓噺である"明烏"などしゃあしゃあと乗せる。
ここらへんは第2話の助六を思わせる立ち回りで、血は繋がっていなくとも芸で繋がった親子といったところですが、信乃助の光を持ってしても八雲の陰りは晴れない。
OPで濃厚に示唆されているとおり、先に運命を背負って水をくくってしまった二代目助六を追いかけるように、かつて誓った落語再興に呪縛されるように、死ぬに死ねない人生を生き延びてしまっています。

弟子の助六の高座がとにかく広く、明るく、開かれた無邪気なものであるのに対し、今回も八雲のシーンは狭く、暗く、閉ざされた空間で展開します。
疾走する密室である自家用車の中で、樋口の原稿を破り捨てるところは、彼の希死念慮と破滅願望が色濃く出た、ひどく暗いシーンでした。
TVという新しいメディアに順応し、新世代の代表たる子供たちの口に"寿限無"を馴染ませた助六
彼と組んで『落語を生き延びさせる』という大望に向かい合っている樋口の心を、八雲は文字通り切って捨てます。
『他人なんてどうでも良い、自分と芸だけがあればいい』という狭く尖った了見は、菊比古時代から変わることなく、むしろ肉体の衰えとともに更に鋭さを増している感じすらあります。

しかし、本当にそっち側の岸だけを見ているなら、雑音なんぞ気にせず相手にもしなければいい。
信乃助も抱きしめず、未来に繋がる忠言も与えず、生者が差し伸べる手を全て振り払って消えていけばいい。
二代目助六が死んでも残る未練の始末、その名前を継いだ三代目助六が盛り上げ支えようとしているモノの重み。
死の国を睨みつつ、八雲は常に悩み苦しみながら生き延び続けてきたのであり、しかしその弱さを他人には見せないし、預けもしない。
そういうふうには出来ていない。

助六達の明るい姿が今回色濃いからこそ、死と過去に支配された八雲の横顔はよく目立つし、その陰りの中にある煮え切らないモノも強く感じられる。
家族の談笑を隣の部屋で聞きながら、助六と書かれた扇子をピシャンと閉じて、雑音を追い払うと世界が闇に染まる。
それが死を色濃く含んでいるのは、まるで亡霊のように一瞬画面に迷いでる二代目助六を見ても良くわかります。
一回暗転した視界がEDに引き継がれて、羽織の黒がスーッと青い水に落ちていく演出まで引っくるめて、あそこの八雲の孤独と希死は非常に切れ味鋭かった。

助六とみよ吉は、生きることと死ぬことの綱引きの果てに水面に吸い込まれ、色んな物を置き去りに死んでいってしまいました。
しかし死ねば全てがなくなるわけでもなく、忘れ形見の小夏は父にしてもらったように、寝しなの落語を子守唄に継承している。
助六という名前も与太郎が引き継ぎ、思い半ばに散り果てた『落語復興』への思いも、彼なりのやり方で叶えようと必死です。

八雲はとっととおっ死んで、落語を土産に綺麗な身で助六と再開したいのかもしれませんが、このお話においては死ねば全部がオジャン、とはならない。
もう面倒くさくてシンドくて、全部なしにしちまいたいと願った果ての心中でも、繋がり残ってしまうものがあるのに、厭世の仮面を被りつつ未練満載の八雲は、まだまだ己の人生を終わりには出来ないわけです。
パタンと扇子が閉じて幕が下りても、また幕が上がって新しい芝居が始まる。
生者の岸と死者の岸、両岸に彷徨いつつ八雲はどう泳いでいくのか、非常に楽しみです。


死神顔でフラフラしている師匠に比べ、助六は仕事も順調、家庭は円満、嫁さんには孝行。
まさに順風満帆です。
二期一話で見せた人の良さが世間にも認められ、無邪気な子供のアイドルになった助六は、小夏が抱えた落語へのあこがれを"寿限無"で叶えさせ、いっときの夢を見せます。
それは『ロハのボランティア』だからこそ、無邪気な子供という『最高の客』が相手だからこそ生まれた幻ではあるんですが、小夏が落語に抱く愛憎を考えると、とんでもない功徳でもある。
あそこで座り一席演じきったからこそ、『下座のことをちゃんとやりきる』という決意もはっきりしたわけだし、複雑怪奇な親世代への憑き物も、落ち切らないにしても軽くなった気はします。

今週は信乃助と同時に小夏の話でもあって、可愛いやら気風がいいやら、頼もしいやら危ういやら、姐さんの色んな顔を見ることが出来ました。
バスの中では『よっかからないで』と、男に体重を預ける以外生き方を知らなかったみよ吉とは違うところを見せつつ、助六が温め準備してくれた夢の席を終えたあとは、真心を込めて真正面から抱擁できる。
信乃助への愛情含め、父とも母とも違う部分を強く見せ、こちらを安心させてくれる回だった気がします。

とは言うものの、小夏の"寿限無"は二代目助六の"寿限無"であり、信乃助の"寿限無"である。
子の出世を寿ぎ、笑いとともに祝福する話のテーマと、園児たちの頑是ない笑いが巧く響く回のなかで、血だけが繋ぐ愛情と呪いもまた、しっかり切り取られています。
八雲と一緒に落語が心中してしまったら、信乃助とお友達たちのの"寿限無"も奪われてしまうわけですが、それはあまりいいことではない、と告げるような回だったとも思います。
年月を超え、死を超え、もしかしたら宿命すら超えてしまうかもしれない、面々とした血の繋がり。
その象徴とも言える明るい食卓を、光と闇が同居する『トンネル』の先に描く演出の扇子、僕はやっぱ好きだなぁ。

小夏の迷いを受け止め、どら焼きに卵焼きと、信乃助にたっぷりと食べさせてやる助六
血の繋がった家族は獄に繋がれている間に死んじゃったわけですが、抱いてもいない女を嫁にもらい、血の繋がらぬ子供を可愛がり、芸だけで繋がった師匠を親父代わりに、前向きに生きています。
それはとても明るく正しい、眩しい生き方で、世の中の大半を占める真っ当な人たちはそれを評価し、TVの人気ものになった。
しかしそこには欲がなく、業がなく、助六個人がいないというのは、先週八雲が指摘したとおりです。

無邪気でのんきな"寿限無"も落語の一つの形でしょうが、ひどく尖って難しい、笑いも起きなければみんなで一緒にやることも出来ない難しい噺も、落語の一つの頂点です。
八雲が突き詰めたそういう方向を、助六が詰めれるか、どうか。
それは次回の親子回での"居残り佐平次"で見えてくるんでしょうし、もし寝ずに稽古しなきゃモノにならないその噺を演じきったときは、血と水で時間を超えて繋がれてきた『落語』を、真実助六が背負える証明にもなると思います。
広くて開放された岸への適性、真摯さは今回しっかり証明できたと思うので、尖って狭い苦しい道を歩けばこそ見えてくるものへの資格がどうなのか、来週が楽しみです。


四週目にしてお目見えとなったED"ひこばゆる"ですが、『蘖』を動詞化した言葉だと思います。
蘖は命を終えたはずの切り株から生えてくる芽であり、信乃助という新世代が主役を張った今回に相応しいタイトルだと思います。
過去の痛み、落語の重みにザックリと切りつけられ、とっとと倒れちまいたい八雲ですが、与太郎の真剣さにほだされ、ついつい情を繋いでしまった。
不出来な弟子を不機嫌に躾けつつ、それに支えられもしながら有終の美を飾ろうとしている年寄り切り株なんですが、そこから新しい芽が出ているっていう示唆はやっぱ、信乃助の父親についての疑念を僕に思い出させます。

助六は今、まさに伸び切ろうとする若葉の緑であり、切りつけられて倒れる切り株ではない。
新作を世に出し、樋口とともに落語をルネッサンスに導こうという気鋭の新緑から、信乃助は出ていないわけです。
血だけが繋ぐもの、血とは無関係に受け継がれるもの、血の呪いを受けていないからこそ自由に伸びていく芽。
八雲が老境に差し掛かったことで『継承』というテーマが二期は表に出ていますが、それを巧く取り込んだ表題であり、曲想であり、ED映像だったと思います。

開けてから暮れるまで、雨も嵐も晴れもある日々を切り取って、そこに落語の抜け殻が入水し沈んでいくさまは、OPとは別の角度から八雲を照らしていて、不穏でありながら綺麗でした。
いろんな人々の悲喜こもごもを飲み込み、消え行く命と生まれたばかりの笑顔が交錯する人生の巷。
勝負の親子会は、その有様を示す一つの大きな道標になると思います。
鬼が出るか蛇が出るか、さてはて大変楽しみであります。