イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

昭和元禄落語心中 -助六再び編-:第6話感想

業が呼ぶのか情が誘うか、見えつ隠れつ芸の蝶々、死出の旅路に誘われて、戻り来たれば子は育ち、一幕開けてまた新しく始まり申す、落語心中二期、第6話であります。
反魂香が呼び戻した亡者に誘われ、生死の境目に飛び込んだ八雲に背中を向け、"居残り佐平次"となった助六
一席回し切る見事な落語で男を見せ、師匠の抜けた穴を埋めようと獅子奮迅、周りの人々も必死に支えてくれます。
落ちた八雲と上がる助六、人生の衰亡を背負って流れる師匠と弟子の運命はどこに流れ着くのか。
一つの席が終わっても、まだまだ次がある、どうにも騒がしい人生舞台であります。

衝撃の落語心中で引いた前回、どうなることかと気をもんでいましたが、結局助六は"居残り佐平次"をやりきりました。
思えば二期第3話で親分に啖呵を切った時、前座の与太郎は真打・三代目助六への生まれ変わりを果たしていたわけで、親への情よりも舞台への責任を取り、見事に背負い切るのは必然と言えます。
自分が何もない、ただただ落語が好きってのは、業や煩悩を捨てきってしまった覚者の生き様でして、身内への情という『やりたいこと』よりも舞台を背負って『やるべきこと』を正しく優先できるのは、まさに芸道の生き仏というべき、与太郎らしい行動です。

同時に立つや立たざるかのあの瞬間、助六は圧倒的な業の渦の真ん中で目眩を起こしてまして、震えながら『姐さん、俺行かなくちゃ』と言ったときの、真ん中に座った目には修羅の凄みがありました。
与太ちゃんの八雲大好き人間っぷりはこれまで山ほど描写されたわけで、その八雲に生死がかかったあの場所で、迷わないはずがないのです。
しかし与太郎は『行かなくちゃ』という義務感で、噺家が果たすべき責務を優先し、正しい道を選ぶことが出来る。
小夏を嫁にもらった時と同じ、もしくは八雲に弟子入りした時と同じ、絶対的な正解を迷わず選び取って飛び込んでしまう特質が、顔を出した結果と言えます。

そしてそこには、『落語はおもしれぇ』という、情とは別の業もある。
無論、責任感もあったんでしょう、正しいことを選ぶよう仏が囁いたんでしょう。
しかしそこには、八雲や二代目助六を魅了し地獄の沼に引きずり込んだ、落語という話芸そのモノの面白さが口を開けている。
『面白いからやってみたい』というひどくシンプルな真実があればこそ、助六は病院ではなく高座を選んだ。
それは『自分がいなくて面白くねぇ』と言われていた与太郎の芸が、『話がそのまま、目の前にある』という三代目助六の芸に切り替わる、大事な結節点でもあると思います。
何よりかにより、やっぱり落語が楽しい、好きだ、愛しちまっている。
顔のある人間ではなく、形のない落語を心の底から愛せてしまうという抽象性こそが、三代目助六が背負っている最大のカルマなのかもしれません。


そんなふうに色々なものを背負って立った高座は、汗はだくだく、体はフラフラで始まりますが、枕を蹴っ飛ばして一気に本筋に入ることで、『型』が助六に背骨を入れる。
BGMを消して進む緊迫の前半は、扇子を床に預ける音、羽織を翻す衣擦れ、笑いをこらえて待ち構える客の息遣い、いろんな音が見事に捉えられています。
せっかく長尺で"居残り佐平次"を捉える以上、声を飛び越えて身体そのもの、高座だけでなく客席まで一体になって生み出す落語の総体を、アニメに捕まえてしまおう。
そういう意欲を感じられる、凶暴な演出でした。

あの席は与太郎助六になる非常に大事な噺でして、そういうのはいくら口で説明しても重さがありません。
身体が存在しないアニメーションの中で、与太郎が背負った『凄み』を出すためにはやはり、落語全体を無理くり腹に押し込んじまう豪腕が必要になる。
今回は笑いが生まれる前の沈黙や、それを生み出す声色、調子、間合いの巧さまでじっくりと切り取っていて、なぜ助六が受けるのか、稀代の落語家として落語を背負えるのかが、強く得心出来るシーンとなっていました。

"白浪五人男"から本歌取りした啖呵も立て板に水で、様々な文化を横断し自在に使いこなす落語の強さを感じ取れた。
元ヤクザ、鯉金のモンモンを背負った落語家が、『ゴロツキの演技をして、一杯食わせる素人』の演技をするというメタレイヤーの重ね合わせも、奇妙な響きを産んでいます。
伝統文化から遠い場所に生まれ、横入りで殴り込んできた与太郎が、ハイ・カルチャーの文脈をしっかり抑えてクドキで笑わせ、息を呑ませ、自在に噺を躍らせる。
それが八雲の教育あってのものだ、ということも含めて、まさに助六の人生が宿った席だったと思います。


師匠の死を背負って見事に演じきった"居残り佐平次"は一種の通過儀礼となり、八雲に変わって落語を背負う資格を、助六に与えます。
師匠の穴を埋めるように走り回る助六を、樋口が待ち構えている絵がなかなかに恐ろしい。
これまで偶然の助けで与太郎を捕まえていたようにみえる樋口が、実は冷静な計算を持って助六を待ち構え、状況を作っていたことが見せるシーンです。

樋口はなかなか底が見えないキャラで、おそらく落語を次代に活かしたい気持ちは本物であり、同時に八雲や落語会に対する屈折した感情も持っていて、そして助六に足らないロジックの部分を補ってくれる頼もしい味方でもある。
落語自体や噺家たちの、生病老死が交錯する二期のコクのある色合いは、結構な部分このクセモノが背負っているように思います。
文字通りの『助六再び』であるあの"芝浜"の居所を、別れ際に狙い済ませて告げるところなども、どうにも安心しきれない、しかし彼がかなり大事部な部分を握っている感じをよく出していて、上手いなぁと思います。
手すりの丸腰に三代目助六を捉えて、視聴者の尻が落ち着かない感じを出す対話シーンのレイアウトとか、非常にこのアニメらしい。

サブキャラクターとしては、八雲の命の部分を背負ってくれた萬月兄さんの頼もしさも光っていました。
落語が嫌いで医学部に行ったけど戻ってきて、結局たつきが成り立たずTV芸人になった自分に自虐的な兄さんですが、あそこに居合わせてくれたおかげで助六が舞台を背負い、師匠に背中を向ける支えになってくれた。
『色々あったけど、全部飲み込んじゃうのが落語』と助六は言ってましたが、『応急処置覚えただけでも、医学部行ってた意味あるわ』と呟いた今週の兄さんも、人生のカルマを背負う仲間なのでしょう。
松田さんが言ってたように、高座に復帰しないかなぁ兄さん……僕好きなの。

あと末廣亭っぽい寄席の建て替えのシーンは、八雲と一緒に死んでいくか、助六に背負われて未来につながるか、岐路にさしかかっている落語全体を照射していて、非常に面白い見せ場だった。
建物に中に刻まれ、様々な相を伴って表れる歴史は、噺家によって表情を変える噺と響き合い、お互い支え合いながらここまで来ました。
時代の変化で建て替えることになっても繋がるものがあり、器を入れ替えることで変化してしまうものもある。

そういう複雑さの中で、落語がどこに転がっていくのかは八雲が起きたこの後の話次第なんですが、必ずしも暗い影ばかりがあるわけではない。
そういう気持ちが生まれてくる、前向きな話を大旦那がしてくれて、気分がスッと良くなりました。
男たちが口づけのように煙草を回していた『火鉢』を強力なフェティッシュとして描き続けてきたので、会話の中でひょいとカメラが向くと、色んな感情が想起されるのは強くて面白いですね。
無言の物品に感情と意味を乗せ、作品内部の歴史を積み上げていくのが、このアニメは本当に上手い。


三途の川から生き残って『未練だね……まだ生きてら』ってのも八雲らしいですが、とまれ死に損なった菊さん。
あの時二代目助六が謝っていたのは、まだ苦界で彷徨わなければならない八雲への謝罪だった、ということなんでしょうか。
となれば、ここで目が覚めて楽になりました、たぁ行かず、今回襲いかかった以上の業が、八雲の行く末に立ってくるでしょう。

親の窮地を乗り越え、落語全体を背負うほどの格を見せてきた三代目助六
死に迫りつつも、死の淵に落ちても行けず、疎み苦しみながらさまよっている八雲。
親子二人の道筋は、まだまだ先が長そうです。
その凸凹にまだ突き合わせてくれる幸せを感じつつ、来週を待ちたいと思います。
一天地六の人生賽子、来週はどう出るんですかねぇ。