イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

プリパラ:第140話『み~んなトモダチ! ず~っとトモダチ!』感想

約三年の長きに渡り、笑いと輝きと涙をギュッと詰め込んで進んできたアイドル伝説、ついに最終話!
最後の最後まで楽しく優しい『いつものプリパラ』を貫きつつ、グランプリで忙しい時はかけなかった要素を片っ端から拾い上げ、残念なくシリーズを終えることの出来る、見事なラストエピソードでした。
湿っぽくはなく、でも変化と達成感はたくさんあって、凄くプリパラらしい最終話だなぁと思いました。

今回のお話、GPという縛りがなくなったおかげか、凄く視野の広いエピソードとなっています。
一種のタブーだった『ボーカルドールの実体化』を軸に据えつつ、終盤ほとんどプリパラで進んでいたため拾えなかった『学校』を舞台に、『先生としての黄木あじみ』を描写。
その中で『あじみとひびきの関係変化』とか『ふわりとペッパーの交流』とか、拾いきれなかった要素を回収して、先週駆け足気味だった『ジュリィの新しい生と、それにらぁらが納得する様子』を描写し、最後に全アイドルのメドレーで〆る。
パラ宿を舞台とし、現行メンバーで演じるプリパラの最後に相応しい、『やりきる』最終回でした。

『現実世界に実体化出来ないボーカルドールは、一種の劣等種なのか』という疑問は、ひびきのボーカルドール化を一種の希死念慮として二期で描いて以来、ずっと気になっていた問題でした。
第86話でふわりがファルルを密室で問い詰め、『ナチュラルに考えて?』という生気の迷言を生み出す背景にもなった、『ボーカルドールは基底現実にコネクトできない』という事実。
ファルルがまだ感情の薄いコピードールだった一期第34話"ファルルのトモダチ"でも、この事実は主題として扱われ、ある程度以上の救いを共有しつつ、万全の解決とは行きませんでした。
どれだけ望んでもモニター越しな『現実』をファルルが寂しく受け止めていて、どれだけ強い友情を結んでも、むしろだからこそ『人間』と『ボーカルドール』の間に一つの断絶があることは、結構長く続く作品世界のルールでした。

パラ宿での物語が歩みを止め、物語が終わるこのタイミングだからこそ、プリパラの仮想性を支えてきた(その犠牲になってきた?)ファルルの夢を叶えるお話もやれたのかな、と思います。
ファルルが現実と仮想の間で引き裂かれていることで、作品の地下水脈として流れるSFテイストが確保され、仮想世界ゆえのドラマが各期のクライマックスで展開できた部分があったと思うのですが、それを手放せるタイミングは、おそらくここしかない。
現実にいることが無条件に何かを保証するわけではないけれども、夢はかなった方が良いし、可能性は多いほうが良いと言い続けたこのアニメが、最後に叶えたのがファルルの夢、ということなのでしょう。


長い間暖められ続けたボーカルドールの悲願を叶えさせることで、ジュリィが去っていってしまったことをらぁらと視聴者が、素直に祝福できる展開になってもいました。
神GPでの奮闘の結果、ジュリィは現実世界に干渉できない体となり、らぁらとは別の時間を生きる存在となりました。
それは変則的に描かれた『死』だと思うのですが、女神たるジュリィの『死』は夢も希望もない完全な静止ではなく、またどこかで、いつか、目には見えないけれども何かを為しているという、曖昧な希望に満ちたものです。

先週はその輪郭だけを確認して終わったわけですが、今週彼女が『死』によって得た奇跡がファルルの願いを叶えたこと、『プリチケ配達人』という新しい生き様が描写されたことで、去っていった彼女が無為な存在ではないと、強く思うことが出来ました。
母としてジュルルを見送ったらぁらは、喪失感に強く苛まれつつ、健気に自分の『生』を生き続けています。
そんな彼女が娘の『死』と、その先にある『新しい生』に納得できたのは、一期から続く親友の悲願を、己の揺りかごであったパクトを使ってジュリィが叶えた結末を、しっかり見定めたからではないかと思うのです。

長い主役生活の中で、永久にループする六年生に閉じ込められつつ、らぁらは様々なことを為してきました。
挫折もしたし、奮起もしたし、人を導き、人に導かれ、沢山の友達を作り、母にもなった。
世界も救って、アイドルの頂点にも立った彼女は、ついに『死』を自分なりに理解し、飲み込める心を手に入れました。
そこまで成長してしまっても、まだ物語から降りられない女児アニ事情をシビアと受け取るか、はたまた永遠の偶像性をそこに見るかは人次第だと思いますが、ともあれジュルルと一緒に色んな泣き笑いを経験した三期の〆として、ジュルルとの別れを受け入れる形でお話が収まったのは、凄く良いことだと思います。


別れもあれば出会いもあって、ひびきとあじみの関係は第133話から更に半歩変化しました。
このアニメは『個性』を凄く尊重していて、ドロシーの性格の悪さとか、ひびきのひねくれた根性とか、ガァルルの巧く生きられない描写とか、ともすれば『欠点』として描かれがちな要素を『成長』させることなく、そのまま大事にしてきました。
あじみのぶっ飛んだ性格もそんな『個性』の一つなんですが、それは確実にひびきを傷つけていて、彼女との関係改善を望むあじみとしては、剥き出しのまま振り回すのではなく、どうにか扱いどころを学習しないといけない要素でもある。

二期と三期の長い物語を使い、『トモダチ』を自分なりに受け入れてきたひびきが、『ファルルにマトモな授業を受けさせる』という交換条件の元、あじみとの距離を自発的に進める提案をしたのは、大きな変化だと思います。
第133話では『やっぱ無理は禁物だったね!』という結論でしたが、今回はあじみも無理を通しきり、ひびきを傷つける個性をなんとか抑えて、授業をやりきる。
それはたった一つの『正しさ』を規定して、『個性』を型にはめるのではなく、『個性』を発揮した結果生まれる痛みを認識し、その制御方法を学ぼうとする、自己と他者への挑戦だと思います。

最終的にはプリパラらしく、語尾が(物理的な)雪崩を起こしてドタバタしてしまうわけですが、あじみが自己を制御しようと思いある程度成功したこと、ひびきが『信じられる』と第114話で語ったファルルを足場に、遠ざけていたあじみを自分側に引き寄せ、自分もまた味見に近寄っていく努力は、無為ではない。
それは不格好ですぐさま結論には辿り着けないけど、必要で大切な努力で、そういうものをこのアニメは何度も、繰り返し切り取ってきたと思います。
あんまり先生っぽいところのなかったあじみちゃんが、最後の最後にきっちり仕事しているところを見られたこと含めて、今回はひびきとあじみの回だったかなぁ、と思います。
……ボーカルドールのカルマが乗り越えられたことで、結果として『ナチュラルに考えて?』という言葉の暴力性が削られて、ふわりにも助け舟が出る回でもあるか。


そんなふうにいろいろなものを拾い上げて、最後は各アイドルの笑顔をスケッチし、メドレーで終わります。
先週世界と女神を救ったメドレーに比べると、普段の賑やかさと個性を取り戻した楽曲には普段通りの気楽さがあって、最終回なのに『ず~っと』がサブタイトルに入るアニメらしい、終わりの風景でした。
湿っぽくならず、『いつも』がずっと続く感じなのは、凄くプリパラっぽい。

そのうえで、最後の最後でシオンを旅立たせ、ストイックな武士としての顔に立ち返ったのは、嬉しくも納得のサプライズでした。
あそこでシオンが己を前に進め、あえて離れる洗濯をしたことで、『神アイドル』という作品のゴールが馴れ合いにならず、厳しさを含んだものだと確認できた気がします。
今回のタイトルに『アイドル』は入っていませんが、『トモダチ』である優しさと同時に、『アイドル』として競い合う厳しさを見つめ続けてきたアニメとして、シオンにああいう決断をさせてくれたのは、凄く良かったです。
『離れることで、逆にアイドルタイムでも美味しい出番約束されただろコレ!』という計算も、ないわけではない。

 

こうして、プリパラ三期、そしてパラ宿でのプリパラが終わりました。
アイドルタイムがどういう展開をするかは、預言者ならざる僕にはさっぱり分かりませんが、プリパラが精一杯二年九ヶ月を走りきって、無事終わったことは判る。
良いアニメでした。
とても楽しくて、クレバーで、遊び心に富んでいながら己を律するストイックさに満ちた、良いアニメでした。

三期を振り返ると、とにかく戦略的だったな、と思います。
ジュルル→トライアングル→ノンシュガー→女神と、話の屋台骨を背負うアクターを巧く交換して疲弊を避けつつ、各アクターの物語はしっかり彫り込んでくれました。
ジュルルを育てていく過程で、二期までとはまた違うレギュラーの顔も見れたし、新たな成長もたくさんあった。
のんちゃんは『キャラを増やさず、話をかき回す新しい要素は入れる』という難題を見事に背負い、トライアングルとしてもノンシュガーとしても、立派にチャレンジャーをやってくれました。
ジュリィとジャニスを巡る愛憎と責務の物語も、各話ごとの印象変化が鮮烈で、毎回毎回新しい驚きを感じながら見れた。

既存のキャラクターも、今まで見てきた魅力を変質させるのではなく、別角度から魅力を引き出すエピソードを、見事に踊ってくれました。
各キャラクター、『もう何も残さない』とばかりにキャラクターの燃料を燃やしきり、自分の課題を最高速で突破していってくれました。
特に二期で語りきれなかったひびきとあじみの関係性の変化は、ひびきを支えるふわりとファルルを巻き込んで、見事な語り直しに成功していたと思います。
やっぱひびきが『トモダチは信じられないけど、二人は信じられる』と言えるようになったこと、あじみがひびきに与えた傷を自覚して謝ったことは、『まぁ、あいつらそういうキャラだし』という諦観を乗り越えて、立派にキャラクターを活かす語りでした。


シリーズ全体として見ると、とにかくキチガイで誠実で、好きなアニメです。
アクセルベタ踏みで暴走するネタで全体の温度を高く保ちつつ、夢見る少女の努力と涙は真正面から受け取り、『笑える大真面目』をやり切ってくれたこと。
長いシリーズ、時折歩みが怪しくなりつつも、自分たちが何を描きたいのか、何を描いているかに目を見開き、道を正す描写を適宜挿入しながら、確かな足取りで進んでくれました。

笑いの中に多様性への眼差しを常に入れ込み、ともすれば社会から爪弾きにされてしまう『個性』を、薄っぺらい綺麗事ではなく、実感を伴った描写として幾度も語ってくれたのは、凄く良かった。
ドギツい個性が絡み合ったからこそ、このコメディはいつでも面白かったし、それを笑いのネタにしつつ、同時に無言で尊重しながら進んできたことで、本当に大事なものを足蹴にはしなかった。
笑いが差別から生まれる以上、これはとても難しいことだったと思いますが、凄く巧くやりきってくれました。

『みんなトモダチ、みんなアイドル!』というキャッチーなコピーを、ただの看板で終わらせないために、このアニメは凄くたくさんのものを必死で描いてきました。
反目や対立や『死』も含めて、いろんなことがある世界の中で、どうすれば輝くものたちを描くことが出来るのか。
そのことをずっと考え、実際に描写してきたアニメだと思います。
それがとびきり笑えるコメディであり続けたことが、ど真ん中のメッセージを視聴者に飲み込ませ、血肉にする大きな力になっていたこと含めて、立派なアニメでした。
笑いはあくまで主眼であり、道徳を包むオブラートとしての作用は、副次的なものだと思うけど。(そうでないと本気で笑えないし、本気で笑えないなら機能は果たされない)

アイドルタイムと名前を変えて、物語が、キャラクターが、作品世界が、どういう変化を迎えるかは、僕には分かりません。
ただ、漏れ聞こえてくる情報からは、プリパラで培ったものを大事にしつつ、新たな試みで新しい息吹を吹き込もうという気概を感じることが出来ます。
アイドルタイムは『みんなトモダチ、みんなアイドル!』とはまた違ったモットーを掲げて、新しい物語を作っていくことでしょう。
その中に、プリパラが輝かせた沢山の光が宿ってくれていたら、凄く嬉しいことだと思います。

ありがとう、プリパラ。
本当に良いアニメでした。