神撃のバハムート Virgin Soulを見る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月20日
一人の男の死によって骨肉の争いは止まり、少女は結末へと手を伸ばす。生きるもの、死んだもの。残るもの、去るもの。諸相を語り、あるいは語りきれないまま、物語は終わる。
それが是であったか否であったか、未だ結論が出ないまま書き始めよう。
最終回が始まる前から、この物語が捕えてきた全てを書ききることが出来ないのは明白だった。既に退場した漆黒兵とシャリオスの間にあった過去、シャリオスの王国が悪魔を踏みにじらなければ成立できない過程などは、大きく省略され語るチャンスはもうない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月20日
果たして、最終回もそのようになった。
カイザルが死んだことは、自分の中でそこまで問題ではない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月20日
彼の死は彼の生き様が要求した帰結であったし、それが骨肉の争いを止める波紋の大きさを見れば、何かは成し得たのだろう。(生死を成否で語ることの不遜さと無意味さは、今回は見ない)
その死がひっくり返ったのも、まぁありかなと思う。
むしろ僕の眼目は、神バハアニメらしいリッチさとスケールの大きさで動員された無名の人々にある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月20日
アザゼルもジャンヌも、直接に名前を呼ばれたカイザル陛下も、その死によって殺しの無意味さを悟り、矛を収める流れはわかる。だが、それが始動してしまった暴力装置を止める理由に、なるのだろうか。
このアニメは非常に大きなものを描き続けてきた。それは物理的スケールでもあるし、倫理と業の視野の広さでもある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月20日
コロッセウムで快楽のために殺される悪魔、緑の地で快楽を紡ぐ都市。同じ子供を殺すことでしか、己を証明できない子供。無辜の血に猛り狂う人々の眼。復讐と憎悪。
そういう大きなものにアプローチすることは、僕はとても良いと思う。冒頭からそういうものをずっと捉えてきたこのアニメが、最後までそこを離さないことには一貫性がある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月20日
だが、そこに名前のある英雄がアプローチできるロジックを、このアニメが十分積んできたかというと、素直に首を縦には振れない
物語はシャリオスが自己犠牲の英雄としてバハムートに対峙し、その対価をニーナが愛によって肩代わりすることで決着する。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月20日
なるほど『愛と破壊の物語』であるが、それにはその愛が全く届かない層、シャリオスの国家に足蹴にされ尽くして立上がった無名の人たちが、争いの物語を止める強度があるのか。
玉座という巨大な装置(それが必要とする犠牲も、このアニメはじっくり描いたと思う)に座ったシャリオスが、無名の人々にアプローチする資格はよく分かる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月20日
抑圧にしろ、支配にしろ、恩寵にしろ、王は一個人を超えて運命と大衆に接触しうる。巨大化した身体として、アドモスは適切だ。
しかし常に子供であり、あくまで個人として社会にアプローチし続け、全てが終わった後もなお一個人である特権を貫くニーナが、運命の片方を背負う理由を、僕はいまいち飲み込めずにいる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月20日
シャリオス一個人にアプローチできるのがニーナだけで、それが特権の支えになっている、という理は判る。
ファバロとの対話(存在感が強い彼が問題を解決してしまわない理由付けは必要だったし、それをちゃんと描写したのは良いと思う)でも、国や運命という『大きな物語』に背中を向け、一個人の感情と立場だけを走り抜けるニーナの立場は再確認され、肯定される。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月20日
その上で。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月20日
例えば『魔族開放』という大義のために泥を這い回り、無様な負けでプライドを微塵にされ、己とムガロの求めた魔の平穏を英雄に叶えられてしまったアザゼルの退場を肯定できるほど、ニーナの愛、『大きな物語』から離れた個人主義は強靭だったのだろうか。
そこを未だ、飲み込めずにいる。
ファバロは(最終回適切に回想されるように)バハムートと対峙し、アーミラを捧げ世界を救った。自分の足も支払った。大人になった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月20日
GENESISの続編として、対比物としてニーナを真ん中に据えた物語は、ファバロが背負った『大きな物語』とは別の答えを要求し、それがニーナの特権性なのだろう
しかし(皮肉なことに)非常なハイ・クオリティで描かれた、たくさんの悪魔の死体、一個人では止めようのない戦争と災害の描写は、ニーナが請け負う対比の構図を折り曲げるくらいに重たく、僕には感じられる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月20日
そこには、なんの意味もなく殺し、死んでいったエルとアレサンドの死体も含まれる。
結果として、ニーナの愛は世界を救った。愛するものを贄に捧げず、痛みを分かち合う形で決着は付いた。それはアーミラとファバロの恋とは違う結末だし、それを狙ってカイザルとニーナは最初から配置されていたのだろう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月20日
見えない王と語れない龍が、ラストダンスで繋がる収め方は、綺麗で好きだ。
が、しかし。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月20日
それほどの強度がニーナにあるのか、自分が背中を向けた『大きな物語』にどれだけの命が、業が、無念と怨嗟が込められているかを踏まえた上で、ニーナがあそこに手を伸ばしたのかと、やはり疑念に思う。
そんなことを考えないキャラクターとして設定され、描きぬかれたことは承知で、だ
シャリオスが背負う王の身体の巨大さ、非人間性と、それを背負わざるをえないカルマに関しては、個人的にはとても巧く描けていたと思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月20日
それに踏みつけにされ、意識しない身動ぎで子供を殺されたジャンヌとアザゼルの憤激も、彼らの怒りが呼び水となって反逆した人々の憎悪も。
そういう大きなものを包み込めるほどの巨大さ、あるいは貫通力が、ニーナというごくごく普通の恋する少女にあり得たのか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月20日
ニーナ個人の『小さな恋の物語』が、世界人類全てが否応なく背負う『大きな物語』を覆しうるという説得力を、このアニメは巧く積めなかったのではないか。そういう気もしている
VSはリッチさへの自家中毒というか、作画カロリーとゆったりした時間、壮大な美術とBGMを使って何を描くのか、いまいち捕えられなかった感覚がある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月20日
2クールある物語のボリュームバランス含めて、有り余る精力に手綱を付けることに、失敗した…とは言わないが、クリティカルではなかったと思う
しかしそこでバランスを取っても、扱いの難しいテーマであることは間違いない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月20日
巨大な運命を前に、一個人は何が出来るか。
太鼓の英雄物語から、あらゆるフィクションが幾度も挑み、勝ったり負けたり、書き切れたり書き損なったりしてきた、普遍的なテーマ。
VSもそこに挑んだ。
ファバロが世界の巨大さの前に無力さを学び、贄を差し出し、分をわきまえて『大人』になったのとは別の、『子供』が『子供』でいられる物語。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月20日
『子供』でいることの残忍さをエルとアレサンドで贖い、一個人が世界に屈しない物語を追う構図は、非常に良いと思う。生き残る子供もいれば、死ぬ子供もいる
が、しかし。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月20日
人間のエゴを極限まで煮込んだ戦争が止まり、巨大なシステムが是正され、世界のすべてが良い方向に転がっていく起因として、ニーナの小さな恋と喉は、僕としては少し足らなく思えた。王の片目を足しても、まだ足らない。そもそも、身体欠損を贖いにして、死ねばいいって話でもないだろう
凄くちっぽけで、当たり前に恋する乙女で、世界の大きさや残酷さが分からない普通の少女が、世界にアプローチできる用になるまでの24話。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月20日
世界を救ってなお、『自分』を犠牲にしない物語は、アーミラを贄にしてしまったGENESISへの強い反省(反感?)があると思うし、そこには強く同意する。
しかしそれを成り立たせるためには、ニーナは長く無邪気な子供であり過ぎたのではないか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月20日
もう少し小刻みに、己の所有する暴力の意味とか、一個人の無力とか、匿名の人々の死の重さとか、理解していっても良かったんじゃないかと、終わってみると思う。主人公が成長しない、とも少し違うのだが。
無論無理くり大人になる危うさはムガロとアレサンドが体現してくれたし、大人になった所で『大きな物語』にアプローチする難しさ、苦しさはアザゼルやシャリオスが見せてくれた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月20日
それでもなお、彼らが巧く体現してくれたテーマへ、当事者性を持って一歩ずつアプローチする階段を、組んで欲しかった。
ニーナが自分(の半身)を諦めないまま、世界を救済する終わりは、何度もいうが好きだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月20日
ファバロが諦めたことを可能にしているし、恋する乙女最後の一歩として適切でもある。だが、そこに至るまでの階段が、どうにも僕には昇りづらい、見えにくい道だったのだと、終わってみて感じるのだ。
ニーナが嫌いという話ではない。彼女の無責任さ、あくまで一個人であることにしがみつくエゴは、凄く人間臭くて好きだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月20日
ムガロの死骸を前に泣けない、変われない自分の性に当惑するシーンとかは、とても良い。そういう乾いた呆れ果てを、もうちょっと積んで変化してけたらな、という希望…未練がある
主人公という立場からも、あの物語の終わりからも、ニーナが特別な一個人であることは避けられない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月20日
そういう『英雄』が、恋をし飯を食い泣いて笑う一個人であり続けることが、凄く大きな意味があることも理解は出来る。ただ、そこに説得力を持たせる運びが、少し足らなかったのではないか、と思う。
ニーナが声を失い、命と半身を守って手に入れた世界で、名前のない人たちは暴力を捨てた。苛まれた恨み、虐げられた記憶を乗り越えた。業を乗り越え、救済を果たした。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月20日
エルが望まれていた救世主の任務を、神の子ならざる彼女が為す。声を奪われたムガロの立場に、最終的にニーナが収まる暗喩。
ニーナの『恋』は、世界を救済できる『恋』だったのか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月20日
多分、ずっと答えが出ないままアタマの隅っこで、今後考えることだろう。NOという答えが出てこないのは、多分このアニメが好きだからだし、YESと即答できないのは、『世界』と『恋』のアンバランスさを無視できないからだろう。
総じて壮大で、アンバランスで、巧く描けているものは非常に明瞭で、取りこぼしているものも多いアニメだった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月20日
前作が果たしたものに敬意を払い、それとは別のものを描こうと意欲的で、時に暴力的ですらあったと思う。続編は、そのくらいのほうが好みだ。前と同じ快楽を繰り返してもしょうがない。
シャリオスが代表する巨大なシステムとカルマは、情け容赦なく高品質な残虐の中で、巧く描けていたと思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月20日
その解像度が仇となり、それを覆すだけの大局を置ききれなかった(と僕は感じた)のは、残念なことである。なんてことない日常の強さを、後半も思い出すと良かった気がする。
映像の質を信じ、言葉で語らず絵で魅せ想像してもらう語り口は、個人的な好みにもあった。カントローヴィッチとか、意外な脳領域を刺激されたりして楽しかったが、あまりに観客を信じ過ぎ、不親切になっていた部分もあったと思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月20日
しかしその信頼感が、作品に体重を預ける足場にもなっていた。
物語はニーナからファバロへ再び手渡され、彼が風に向かって走った所で終わって/続いている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月20日
そこから始まる物語にも興味はあるが、いまは終わった物語が語り得たもの、語り得なかったものを、もう少し自分の中で反芻しつつ、ありがとう、お疲れ様、と言いたい。良いアニメでした。