アイドルタイムプリパラを見る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月24日
祝祭の日、カミとヒトの境界は曖昧になる。夜の女神が暗躍するハロウィンの中、人は無邪気に夢を追う。夢に向かうそれぞれに姿勢が見えつつ、夜の子供がガァララと接触するエピソード。
ヒト領域のドタバタ楽しい感じと、カミ領域の薄暗い感じの対比が面白い回だった
というわけで、蘭たんのいないパパラ宿のハロウィーン。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月24日
アイドルタイム全体を貫くテーマ『夢と現実』をガァララ視点でスケッチしつつ、宝探しゲームに浮かれる人々の日常を描く…という感じの、土屋さんらしいテクニカルな構成。
触れ合うことのない二つの世界が、実は隣接していることを見せる回。
今回はこれまでセリフのなかったガァララが、黒沢ともよ声でよく喋る回。話すということはミステリアスな仮面を捨てて、個性と人格が表に出てしまう、ということでもある。ガァララは舞台装置から、一キャラクターへと変化しつつあるのだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月24日
その上で、メインキャラにはまだ声は届かない。
ガァララ自身の声で語られる彼女は、夢を目覚めさせたり夢喰いバックを撃退する勇者を『悪い子』と称する、価値観のネジレた女の子だ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月24日
悪い子の国では、良い子は悪い子になる。境界線を乗り越えて現世に溢れ出たハロウィンの亡霊のように、ガァララの『綺麗は汚い』価値観は現実を侵食する。
それは不可視ではあったが不在ではなく、パパラ宿をずっと支配するルールだった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月24日
ゆいが虹色に塗りつぶした夢なしの荒野は、ただそこにあったわけではなく、ガァララの価値観で白く塗りつぶされていたから、荒野だったのだ。
ガァララの反理想主義は、アイドル開拓記前史を支配している。
この歴史的繋がりはキャラクター全体に及んでいて、『夢がない』ことと取っ組み合いしてるにのは、幼少期ガァララに夢を食われたことが理由だし、夢がなく流されるばかりのみちるは、見逃される立場だった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月24日
キャラクターや世界に所与だと思っていた要素が、実は別の原因があったと判るのは衝撃だ。
ガァララは突如現れたニューカマーなわけだが、世界観的にもきゃ楽た~的にも、アイドルタイムの起源を握り込む、重要なキャラクター。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月24日
祝祭に浮かれる人間界を睨みつけつつ、夜の聖母が語る物語は、世界の成り立ちを補強していく。
ニュクスが重要な立場にいる"神統記"みたいだな…。
しかしガァララは巨大な権能に反し(あるいは相応しく)、人間を豊かにする神ではない。妬み、呪う荒ぶる神である。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月24日
昼を支配する姉を眠らせ≒儀式的に殺人し、バックを使って夢を食う。なかなかに神めいて邪悪な存在である。ガァララの荒廃に支配されて、パパラ宿は長らく荒野であった。
しかし、愚かな人間が神の支配する古代を塗り替えていくのも、神話の基本構造である。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月24日
虹色アイと汚い声(今週は冒頭からすンゴイ声だったな…)した主人公は、神の存在に気づかないままパパラ宿に『女の子はアイドルになれる』『夢は叶う』という世界律を根付かせ、荒野を虹色に染めてきた。
バックの夢喰いは、ゆいの夢を食べきれない。第25話で描写され、今回も強調された描写だ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月24日
無限に湧き出る夢は感染し、拡大していく。人間サイドの軸になっている『宝探しゲーム』がはゆい発案。ゆいは常にモチベーターでありインフルエンサーである。虹色の夢こそが、暴虐なる神に立ち向かう武器だ
らぁらがパパラ宿にやってきたこと≒『プリパラ』が終わったことが、ゆいが長年温めていた夢を始動させる。溢れ出した虹色の夢はにのを仲間に引き込み、有象無象に感染し、パパラ宿をアイドルタイムに染めていく。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月24日
神様の決めた白紙のルールに、人間は抵抗しうることを、このアニメはずっと描いてきた
今回にのが不可視のバックに対抗し得たのは、当然ドタバタお笑いコメディ描写なのだが、そこからはみ出した意味も感じた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月24日
かつて無抵抗に夢を食われ、胸に虚空を飼ってきたにのは、武道(師匠であるシオンの影響!)な立ち回りで二度目の襲撃を退ける。ゆいが始動させたにのの夢は、もう無力ではない
パパラ宿の復興にしても、にのと夢と取っ組み合いにしても、あるいはミミ子の遍歴にしても、アイドルタイムは否応なく押し寄せてくる虚しさみたいなものを、どう夢で染めていくかを女児アニ筆致でずっと描いていると思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月24日
現実はいつだって虚しいものだが、それを前提にいかにニヒリズムを克服するか
パパラ宿の『外』からやってきて、『アイドルタイム IS マネー』という別個の価値観を備えたしゅうかも、バックには屈しない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月24日
フワッとした夢を見るなり、堅牢な現実になる/する彼女のスタイルは、バックの権能の外にいる。夢の眷属は、現実には影響を及ぼしえないのだ。
かくして、パパラ宿に集う少女達が手弱女ではないことを叩きつけつつ、不可視の神世と、マテリアルな現実は交錯を続ける。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月24日
祭りというのはそういう境界線を危うくするものだし、『アイドルテーマパーク』として永遠の祝祭の中にあるプリパラは、夢と現実、バーチャルとリアルの境目を常に越境してきた
そんなあやふやな場所でも、境界線は常に引かれている。バックに対抗しつつも、にのやゆいには彼の姿は見えないし、ガァララの権能たる夜の側に足を踏み入れられるのは、ちびっ子神たるガァルルだけだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月24日
『夜はつまんない』と本音を吐露するガァルルは、眠らないし夢を見ない、『あっち側』の存在だ。
夢破れた少女の怨念が凝り固まり生まれたガァルルは、かつて言葉を持っていなかった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月24日
ただ噛みつき、破壊するだけの彼女に、そふぃを始めとする人間たちが接近していったからこそ、ガァルルは声を手に入れ、ステージを踏み、ユニットを結成し、アイドルになることが出来た。
悪意として生まれた存在も、夢を以て人に近づくことが出来る。ボーカロイドの宿命は簡単には消えないけども、それを前提として人と交わることも出来る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月24日
ガァルル(やファルルやジュリィやジャニス)が体現してきた物語は、新しい神であるガァララにも及ぶだろう。『二人はよく似ている』のだから。
何故ガァララは世界を荒廃で覆い、夢を食い尽くすのか。姉を眠らせ、永遠の夜を維持しようとするのか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月24日
そこら辺のロジックは来週補足されるとして、人が独力で切り開いたように見えた世界が、実は神の悪意で漂白されていたことは、今回よく見えた。なかなかいい具合に壮大になってきて、とても面白い
今週を見た限りでは、ガァララは子供っぽい独占欲で夢を食っているように見える。それは是正されるべきワガママなのかもしれないが、単純に押しのけて終わりはヤダな、と思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月24日
それこそガァルルを巡る幾つかの物語のように、夜の側に生まれた生き物と対話することで、手に入るモノがたくさんある。
『夢』を司るオネイロスは、夜の女神たるニュクスの息子であり、『死』と『眠り』の兄弟でもある。光り輝く昼の側だけではなく、黒い感情が渦を巻く夜の側でこそ、夢は育まれる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月24日
『夢の中でも夜更かししましょ。今宵、あなたに幽体離脱』を口上にするみちるの話も、ガァララ本格参戦で加速するかな?
というわけで、幽冥あやふやなるハロゥインを舞台に、夜の女神と人間の関わり(あるいは無関係)を手広く、手際よくスケッチしていく回でした。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月24日
ガァララの設定語りは、『今まで見ていたものが実は!』という驚きに満ちていて、なかなか刺激的だった。昼が目を覚ます次回、ここからどう動くか。楽しみ
追記 夢と読み
しかし今週のアイドルタイム感想を自分で見返してみると、物事を見る目ってのは己の興味領域できれいに染まるもんだな、と思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月24日
僕がガァララにニュクスを見たのは、どこに出しても恥ずかしいオカルトヲタクだからだが、製作者サイドがモチーフとして"神統記"をチョイスしているかは確定できない。
読むという行為は、自分の中にある辞書から読解可能な要素を引っ張り出してきて、勝手に押し付ける側面がある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月24日
相互コミュニケーションのように見えて、一人相撲になるし、ならざるをえない。そういう不完全さが、読みが噛み合ったりズレたりする不自由さ、面白さの源泉でもある。
そして『読む』ときは自分の辞書にあるものでしか、提示されたテキストを読むことは出来ない。『だから、自分の辞書を肥やしていきましょう』という教訓めいた話をしたいわけじゃない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月24日
ごくごく単純に、『そういうもんだなぁ』とボンヤリ思ったという話だ。僕が読むようにしか、僕は読めんのだ。
そうやって読んだ行為を出力すると、他人が僕とは全く違う辞書でそれを翻案して、また新しく読んでいく。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年10月24日
誤読がうず高く積み上がる中で、なんか通じ合ったような気分に慣れるときもあろう。それは愚者の思い込みかもしれないが、それなりに幸せな感応でもあろうと思う。とりとめなく、そんな感じ。